新聞勧誘・拡張問題なんでもQ&A

NO.690 報道の煽情性について


投稿者 ノルマルノルマンさん  投稿日時 2009..2. 7 PM 10:07


4.報道の煽情性について(NO.687からの続き)

新聞社に限らず、多くのマス・メディアが扇情的な報道を行っております。

事件が起こった直後には大騒ぎしても、それを、継続的に追及することはしないで、またスグに別の話題に移ってしまう。

もちろん、その程度の報道を、読者なり視聴者が許容し、それ以上を求めていないという現実もあります。

それらが合わさって、報道から、ますます問題意識が欠損してしまっている状態。

新聞が読者を育て、読者が新聞を育てて、双方が成長していくのではなく、いわば供給側も、需要側も「悪貨は良貨を駆逐する」のスパイラル状態。

しかし、事件というものは、過程があってこそ発生するわけで、三島由紀夫もその小説「金閣寺」の中で「鈍感な人たちは、血が流れなければ狼狽しない。が、血が流れたときは、悲劇は終わってしまったあとなのである。」と記述しております。

せめて、事件後にも、詳細に分析すれば、別の領域で発生している「事件前」の案件についても、ある種の示唆が得られるのではと考えておりますが、現実の報道では期待できないように感じております。

その点についてはどのようにお考えでしょうか?


回答者 ハカセ


『新聞社に限らず、多くのマス・メディアが扇情的な報道を行っております』というのは、新聞やテレビ報道に対して否定的な方のご意見としてよく耳にすることではあります。

それが、その人たちの意見というのでしたら、それはそれなりに理解できるのですが、『扇情的な報道を行っております』と断定されるのはどうかなと考えます。

物の見方、受け取り方というのは、人それぞれで違います。

具体的な事例がないと何とも言えない部分もありますが、それを扇情的と見るか、正論と捉えるかは、まさに人それぞれだと思うのです。

例えば、最近、多くのマス・メディアでは、我が国の首相の言動が盛んに取り沙汰されています。

その多くが漢字の読み間違いをするとか、発言がブレるといったものですが、その報道を首相を貶(おとし)める扇情的な報道だという見方をする方もおられれば、そんな報道をされる情けない首相と受け取られる人もいます。

私は、そのどちらも間違った捉え方ではないと考えます。それは、その報道を見て、その人がそう結論づけたことだからです。

その報道事態が「事実」でさえあれば、マス・メディアの判断で報道されることに関しては何の問題もないと個人的には思います。

重要なのは、それが真実かどうかの一点で、それがウソの情報、誤報の類のものでしたら、意図的で扇情的な報道をしたと断定されても致し方ないとは思いますが、そうでない限りは、単に事実の報道をしたということになるのではないかと考えます。

もっとも、ことさら誇張した報道は、私も如何(いかが)なものかとは思いますけどね。やはり、何でもそうですが節度はあった方がいいですからね。

そういった節度を促すという意味では、『扇情的な報道を行っております』というアピールや意見は必要かも知れないとは思います。

もっとも、その記事を書く記者の方、紙面を作成する編集者も人間ですから、まったくのイデオロギー(思想傾向)抜きというわけにはいかないでしょうし、また、文章にはそれぞれ、その人特有の書き方の癖のようなものが出ますので、それらが見方によっては、その意図がなくとも扇情的と捉えられることがあるかも知れません。

『事件が起こった直後には大騒ぎしても、それを、継続的に追及することはしないで、またスグに別の話題に移ってしまう』

お言葉を返すようですが、その報道が追跡取材を必要と判断されるようなものであれば、新聞もテレビもそれは報道していると思いますよ。

新聞記事ならシリーズ化されたもの、テレビ放送であれば、特に昼間のニュース番組などで、追跡取材と銘打ったものは良く見かけますからね。

ただ、小さいと言えば語弊があるかも知れませんが、その必要性のない事件と判断すればそのままおざなりにされるケースはあるでしょうね。

事件事故というのは、日々相当数起こっています。新聞には紙面の都合があるように、テレビ放送では放送時間枠というのがあります。

その条件下では、追跡取材するような大きな事件事故の方が少ないのは確かだと思います。

新しい事件事故が起きれば過去のものが取捨選択されるというのは、残念ですが仕方のないことだと私は考えますけどね。

限られた媒体の中で報道されるわけですから、そのすべてを取材して継続報道するというのはどうしても無理ですし、限界が生じます。

ここでも、言えることですが、なるべく多くの事件事故を伝えることが新聞を始めとする報道機関の大事な役割、使命の一つだと私は思っています。

ノルマルノルマンさんの言われる、『報道から、ますます問題意識が欠損してしまっている状態』というのは、報道機関への批判だと思われますが、何度も申し上げますように、報道機関は真実をそのまま報道すればいいのであって、それに対して問題意識を持つ必要などないと思うのですが。

問題意識を持った報道は偏(かたよ)ったものになりやすく、そうすることこそ、まさしく扇情的になるではないかと考えます。良きにつけ悪しきにつけ。

逆に言えば、その『報道から、ますます問題意識が欠損してしまっている状態』こそが健全な姿と言えるのではないでしょうか。

むしろ、問題意識を持つべきはその報道を知る読者、視聴者側にあると思います。報道機関は、そのための事実が提供できればよろしいのではないかと。

『新聞が読者を育て、読者が新聞を育てて、双方が成長していくのではなく、いわば供給側も、需要側も「悪貨は良貨を駆逐する」のスパイラル状態』

これについては、私には良く理解できない部分があります。

『新聞が読者を育て、読者が新聞を育てて、双方が成長していく』というのはどういうことでしょうか。

確かに、過去の歴史において、新聞は国民の識字能力を高めるために寄与したという事実があります。

私の子供の頃は、成人で字の読めない人というのは、それほど珍しい存在ではありませんでした。

それが、新聞の普及率の上昇と歩調を合わすかのように、識字率も上昇し続け、ついには現在99.8%という世界トップレベルにまでなっています。字を読めない人を探す方が困難なほどです。もっとも、読み間違いをする人はいますが。

もちろん、そのすべてが新聞のおかげということはないとは思いますが、少なくともそれに貢献してきたのは紛れもない事実だと思います。

新聞を購読する理由の一つに見栄というのがありました。

実際には字の読めない人が、その新聞を購読することで、それをカモフラージュしていたわけです。新聞が読めるのだから字くらい分かるだろうと思われたいがために。

また、その頃の風潮として「新聞を読むと勉強になる」というのも良く言われていることではありました。

例え見せかけだけにしても、近くに新聞があれば読むために字を学ぼうとする人もおられますし、それで勉強できると言われれば、そうしようと考える人もいます。

結果として、国民の識字能力の向上につながったことで、『新聞が読者を育てた』と言えなくもありません。

ただ、『読者が新聞を育てて』というのはないと思います。

その発想は、読者が購読の選択をするがために紙面を読者の望むものに迎合するという考えからだと思いますが、それは、『NO.688 マーケティング的な発想について』でも申し上げましたように、新聞社自体、販売にはあまり関心ないというのが大勢を占めている状態ですので、それは考えにくいことだと思います。

『双方が成長していく』という関係に至っては、よけい考えられないことだと思います。

報道機関は、ほぼ一方的に情報を発信するだけですし、読者や視聴者は、それを受け取るだけの関係にしかすぎません。

唯一、接点らしきものがあるとすれば、新聞投稿などによる「読者の声」というものくらいですが、それに寄せられた意見で新聞社の姿勢が変わったという話はあまり聞きませんしね。

もっとも、誤報や不適切な発言というクレームに対しては真摯に反省しているという姿勢を見せることはありますがね。

しかし、その程度では、報道機関を成長させていくとまでは言えないでしょう。

さらに言えば、不特定多数の読者が成長するかどうかについては誰にも分からない事ですしね。

それに関して、そんなに難しく考える必要はなく、報道機関は単に間違いのない事実を報道して、それを受け取る側の読者や視聴者がその情報をどのように判断するかということでいいのではないかと思います。

『いわば供給側も、需要側も「悪貨は良貨を駆逐する」のスパイラル状態』

まことに申し訳ありませんが、これについては、私の理解のおよぶところではありません。

何か具体的な事例で示して頂かなければ、何を指してそう言われているのか、私ごときでは到底理解できませんので、コメントは差し控えさせて頂きます。

『しかし、事件というものは、過程があってこそ発生するわけで、三島由紀夫もその小説「金閣寺」の中で「鈍感な人たちは、血が流れなければ狼狽しない。が、血が流れたときは、悲劇は終わってしまったあとなのである。」と記述しております』

それについては、まったくそのとおりだと私は思います。

『せめて、事件後にも、詳細に分析すれば、別の領域で発生している「事件前」の案件についても、ある種の示唆が得られるのではと考えておりますが、現実の報道では期待できないように感じております』

それもそのとおりだと思いますが、反面、それでいいのではないかとも考えます。

先にも申し上げましたとおり、報道機関は限られた媒体の中で報道されるわけですから、そのすべてを取材して分析報道するには限界というものがあると思うのです。

その手の『事件後にも、詳細に分析すれば、別の領域で発生している「事件前」の案件について』は、そこそこの事件ならば、たいていは著名な作家諸氏によって、それなりの追跡取材に基づき、その背景などについて詳細に書かれた書籍が発行されているはずです。

また、新聞社によれば、そういった特集記事を収録した書籍も数多く出版されています。

それが必要な方は、そちらをご覧になればよろしいのではないでしょうか。

あまり、報道機関に対して過大評価したり多大な期待をかけたりするのはどうかと考えますし、誤報などの不適切な報道以外で責任を問う必要もないかと思います。

単に報道機関という情報媒体から情報を入手するだけで良しとすべきではないかと。

そのために新聞が必要であれば購読すればいいことですし、その新聞の情報が信じられなければ購読を控えられれば済む話だと思うのですが。

それは新聞のみならず、マスメディア全般についても言えることではないでしょうか。

ただ、それらの報道機関を批判されたいというのであれば、それは別に構わないとは思いますけどね。どなたがどのようなご意見、ご感想を持たれようと、そのすべてを私は尊重しますので。

以上が、私のつたない意見、見解ということになります。


書籍販売コーナー 『新聞拡張員ゲンさんの新聞勧誘問題なんでも選集』好評販売中


ご感想・ご意見・質問・相談・知りたい事等はこちら から


Q&A 目次へ                                 ホーム