メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話
第115回 新聞拡張員ゲンさんの裏話
発行日 2006.10.20
■死後の世界、あるやなしや
「ゲンさん、丹波哲郎先生が亡くなられたそうですよ」
先月、9月25日、ハカセからそう聞かされた。インターネットのニュース速報に流れたという。
俳優の丹波哲郎(たんば・てつろう、本名・正三郎=しょうざぶろう)さんが、24日午後11時27分、肺炎のため亡くなった。84歳だった。
それが、第一報やった。
「先生が……」
ワシは絶句した。
最近、体調が思わしくないというのは聞いて知っていた。入退院を繰り返されとったからな。
もっとも、氏に言わせれば、来るべき時が来たということにしか過ぎず、むしろ、死というものは悲しむべきことやなく喜ばしいことなのやろうがな。
氏は、ワシの人生でも、大きな影響を与えた人物の一人やった。何度か、直接、話をしたこともある。
その考えには、いささかついていけん部分もあったが、人間としては間違いなく本物やったと確信しとる。学ぶべきことの本当に多い人やった。
ワシが氏と初めて会ったのは、もう20年ほども昔になる。
その頃、ワシは、まだ建築屋に勤めとった。
顧客の一人に浅野(仮名)という男がいてた。
「ゲンさん、今度の日曜日、豊中市民会館で丹波哲郎先生の講演があるんやけど、一緒に行きませんか」
豊中市民会館というのは、大阪府豊中市にある。その大ホールには1600人ほど収容でき、大阪北部の公共施設としては有名な所や。
「講演?」
ワシは、その頃、丹波哲郎と言えば、ワシの好きな映画の一つ「ひとごろし」やテレビの三匹の侍、キィハンター、Gメン75に出演してた俳優という程度のことくらいしか知らなんだ。
好きな俳優の一人やったが、その頃は別段、ファンというほどでもなかった。
「ええ、死後の世界の話についての講演なんです」
「死後の世界……ですか」
ワシは、昔から幽霊やらUFOやらというオカルトじみた話を信用する気にはなれなんだ。
そういう話を持ち出すのは、ペテン師(詐欺師)が多いと相場が決まっとる。そう思うてたからな。
いかがわしい壺なんかを売りつける宗教家や霊能者と称する輩の持ち出す話にありがちなことやという先入観もあった。
もっとも、そういうのが現実にあれば、面白いやろが、それは、映画やテレビ、マンガの世界だけで十分や。フィクションとして夢やロマンを与える分には構わんがな。
ワシは、どちらか言えば現実主義者や。理屈に合わんことは信じられんたちでもある。
また、孔丘仲尼(こうきゅうちゅうじ)、つまり孔子の教えに傾倒してたから、尚更、その観が強い。
子、怪力乱神を語らず。という孔子についての論評が論語にある。
怪力乱神というのは、あり得ない力を誇示したり、みだりに神の存在をほのめかし、世情を混乱させる愚行という意味に使われる表現や。
つまり、幽霊や宇宙人、あるいは怪物といった未確認情報を事実のごとく吹聴する輩のことを言うてるわけや。
もっとも、2500年ほど前の昔、どちらかと言えば、その怪力乱神的な風潮が色濃くあったと推察される時代にそう考えてたわけやから、当時としては、孔子の考えの方が異端やったやろうと思う。
ただ、それ以上に超合理主義者やったのと、人間中心主義という信念があったというのも確かなことのようや。
ワシも、そういうオカルトじみたものは、人間が生み出す妄想やと考えとる。そもそも神の存在自体が人間の心から生まれたものと思うとるさかいな。
せやから、丹波哲郎の講演と言われても、それほど気乗りすることもなかった。ただ、ワシは根っからの営業員やから、顧客の誘いを断ることはできん。
「分かりました、ご一緒しましょう」と、ほぼ条件反射のようにそう言うてた。
当日、その大ホールは超満員やった。
その講演を聴くまでは、ワシはこういうのに集まってくるのは、単なる芸能人見たさのミーハー的な人間ばかりやろと思うてた。
しかし、その考えが一変した。
「人間は、死んでも終わりじゃないんだな、これが。魂は永遠に生き続けるんだ。人間界は修行の場でもある。だから、その修行のできてない人間は、何度でも生まれ変わるわけだ」
普通の人間が、こんな話をしていたら、間違いなく、ちょっとどこかおかしいのやないかと敬遠される。まともに話を聞いて貰えることは、まずないやろうと思う。
ところが、この大ホールの千数百人の聴衆は、壇上に視線を向けたまま酔いしれたように、その言葉に聞き入っている。
言うてることの一言、一言の内容は反論しようと思えばいくらもできる。およそ、一般の社会の常識で合理的と言えるようなものやないからな。
しかし、その説得力は相当なものや。また、圧倒的な迫力がある。そして、何より堂々としていて、自信に満ち溢れとる。
営業の基本の一つに、相手を説得するには、売り込む商品を信じ切り自信を持つことというのがある。自分が信じられん物で相手を納得させることはできんという理屈や。
「これは、相当なもんやな」と、正直にそう思うた。
単に、役者やから話が上手いというようなレベルやない。営業をやらせても、おそらく超一流になれる人や。
この説得力さえあれば、たいていのものは売れると思う。
例えば、氏が新聞勧誘をしたとする。そうすれば、おそらくこの聴衆の大半がその勧誘する新聞を購読することになるはずや。
それも、常人では思いもつかんような独特の論法を展開してな。
「人は、ある役目を背負って生まれてくる場合がある。新聞記者もその一人だ。役目を持った彼らは、天界から送られてくるメーセージを記事として世に知らしめるんだな。だから、新聞には、時折、天界からの貴重なメッセージが含まれていることがある。その天界の声に触れるためにも大いに新聞を読みなさい」
さしずめ、こんなところやないやろか。
もっとも、何度も言うが、余人がこんなことを言うても、誰も取り合わんやろと思う。丹波哲郎が言うから、説得力が生まれるわけや。
その重厚な声質、話し方のテクニックの素晴らしさもさることながら、まるで、その聴衆全員に集団催眠でもかけとるのやないのかとさえ感じたほどやからな。
後に、氏がその催眠術にも造詣が深かったということを知ったが、まさか、そのテクニックを使うてたわけやないとは思う。
その程度の小手先で、あそこまでの説得力は生まることはない。
ワシが思うに、人を魅了する最大の要因は、揺るぎない自信からくるものやと考える。それが、カリスマ性につながっとるはずや。
その自信は、自分の話すことが真実やと信じ切っとるからに他ならん。氏の執筆された数々の書籍を読めば、それが良く理解できる。興味のある人は一度、読んでみるとええ。
ワシは、少なからず、この講演で学ぶべき事が多いと知った。というても、氏の唱える「死後の世界」というものを信じたわけやない。
何度も言うが、そういう不確かなものは、そうたやすく信じられるたちやないさかいな。もっとも、心が揺さぶられたのは確かやがな。
氏のいかにも自信ありげな喋り方の技術を学べば、営業にとって絶対プラスになる。そう信じた。
その頃のワシは、営業がすべてというところがあった。それしか頭にないと言うても良かったくらいや。
そのために学べることは何でも吸収するつもりにしていた。学ぶべき事が多いと言うたのはその意味でや。
お手本となる人間がおって、その人間から何かを学ぶには、それを真似るのが一番てっ取り早い。
真似るためには、その人間の一挙手一投足を注視せなあかんから、人を観察する注意力も飛躍的に伸びる。
昨今は、物真似流行りやが、これは悪いことやない。
歌が上手くなろうと思えば、好きな歌手の真似を徹底的にすれば、たいていは上手くなれるもんや。
好きなタレントの真似ができれば、そのタレントになりきり自信が湧くという。
政治家の真似をすれば、嘘が上手く……。やめとこ。皆が皆、そうやないやろからな。
余談やが、ハカセなんかは、その昔、文章の技術を習得するために、好きな作家の小説を一字一句書き写すということをしたらしい。
それも、若い頃はその小説本を買う金もないから、図書館で本を借りて書き写すということをしたという。これなら、一石二鳥や。
そうするうちに、自然に好きな作家の文体というのが会得されてくるということや。
しかし、ただ真似るだけでは、形態模写、声帯模写にしかすぎん。
見せ物的に披露するか、宴会の余興にする程度ならそれで十分やが、それを会得し自分のものにしようとするのなら、もう一歩、先を考えることが必要になる。
どういうことかというと、真似ることで自分なりのスタイルを確立することを目指すわけや。
具体的に言うと、表面的な所作のええ所を取り入れて、それを自分の中で昇華し一体化させる。
つまり、今回で言えば、丹波哲朗とワシという人間を合体させて、新たな人間を登場させるというような具合やな。
もちろん、基本はワシやが、それを取り入れることによって違う存在になれるのは確かやと思う。
ただの物真似だけ秀でていても、ワシが丹波哲郎になることは絶対にできん。物真似はどこまでいっても物真似でしかすぎんからな。人の評価もそれで終わる。
ところが、その人物のええ所だけを取り込めば、それは、取り込んだ人間のオリジナルになる。真似るというのは、そういうことやないと意味がないと思う。
後援会の一員やという顧客の浅野の紹介で、その後援会終了後、少しやが氏と話すことができた。
「先生の素晴らしいお話しを拝聴できて感激です」
ワシは、根っからの営業員の習性で、相手を立てた言葉が自然と口をついて出る。早い話がお世辞や。
「君は……」
僅かやが、氏はなぜか、ワシの顔を見ながら驚いたような素振りを見せた。
「浅野さんの紹介で寄せて頂きました、ゲンと申します」
「ゲンさんか……。あなたには、とんでもなく徳の高い守護霊がついておられるようだ」
氏は、いきなり、こう切り出した。
ワシも、氏の講演の後やったから、守護霊がどういうものかは、おぼろげながら理解していた。
人には、すべて、その人の誕生から死までを見守る役目の守護霊というのがついているという。たいていは、その人の先祖がそうだということらしい。
「守護霊……ですか」
「うむ。私は霊能者ではないが、そういうことはなぜか分かるんだ」
えらいことを言い出すなとは思うたが、ここは、合わせておくしかない。
「そうですか」
「ゲンさんも、人からオーラというものを感じることがあるだろう。それだよ」
他の人間から、こう言われたら、間違いなく「こら、良くある詐欺商法の勧誘の手口やな」と思うたはずや。
もし、このとき、氏か、もしくはその後援会なりが、ワシに入会を勧めたり多額の寄付金でも募るようなことがあれば、本気でそう思うたかも知れん。
しかし、その誘いは一切なかった。
そして、後日、こういった講演自体が、氏にとっては営利行為やなかったというのも知った。
もちろん、一切、金が必要やないということやない。講演会の入場料もタダやないし、書籍を売る目的もあるようや。本人はともかく、取り巻きは、それがなくては動けんやろしな。
ただ、氏個人に入る講演料はいくらでもええというスタイルを取り続けとったのは確かなようや。
主たる目的は、あくまでも「死後の世界」を一人でも多くの人に知らしめるということのようやったからな。
ワシの哲学の一つに、その人物が本物かどうかを見極めるのは、その行為に金を欲しとるかどうかを判断基準にするというのがある。
それが、どんなに立派なことを言うてても、金儲けのためなら、所詮それまでの人間やということになる。
もちろん、金儲けが悪いと言うてるわけやない。ただ、主義主張をその具に使う人間は、ワシとしては信用ならんというだけのことや。底が知れるいうのもある。
本物の人物は、己の信念に執着しても金に執着することはない。歴史がそれを物語っとる。
それだけを見ても、丹波哲郎という人物が本物やと分かる。
「ゲンさん、あなたはこれから多くの有意義な人物と出会うはずだ。それは、あなたの魂に惹かれてのことだから、その出会いを大切にするんだね」
正直、ワシは戸惑った。氏ほどの人物がワシによいしょしても何の得もないのは明らかや。おそらく、氏は本気で言うたのやろと思う。
そのことを、ハカセに言うたことがある。
それは、丹波哲郎氏のことで、ひょんなことから話すことがあったからや。
「ゲンさん、それは、当たっていると私は思いますよ。私も、初めて会ったときに、ゲンさんからは、すごいオーラを感じましたからね」
という返事が返ってきた。
もっとも、ハカセも、丹波哲郎氏の信望者なようやから、言うてることがそれなりに理解できるのやろうがな。
ハカセは、7年ほど前、上の子供の運動会で父兄リレーというのに出場して、走り終わった後、いきなり意識を失い倒れ、搬送された病院で、急性心筋梗塞と診断された。
その際、集中治療室で、一時、心臓が停止していたと後で担当医師から聞かされた。
その時、ハカセは奇妙な体験をした。
人に話すと変に思われそうやから、誰にも話してないという。このメルマガにも、今までそういうことには言及していない。
肉体は死んだように感じたけれど、心は生きてる。そんな妙な感覚があった。
しかも、信じられないことに、そのとき、ハカセは治療を受けていた自分自身の姿をはっきり見たという。
それまで、ハカセは死とは、夢を見ないで寝ている状態が永遠に続くものだと思っていた。
どうもそうではないらしい。その時の状態は今でもはっきり覚えている。
何かの明るい光に導かれて体が、ものすごい勢いで引っ張られた。気がつくと、そこは、のどかで落ち着いた草原のような所やったという。
それは、夢うつつというようなものではなく、現実感の強いものやった。
そして、そのとき、体が嘘のように軽く、気分が異常に爽快やったことを覚えている。
それが、次の瞬間、いきなり、奈落の底に引き込まれるように落ちて行き、気がつけば、病院のベッドやったということや。
ハカセは、そのときの体験が忘れられず、いろいろ書物を当たっている間に、丹波哲郎の書籍と出会った。
その書籍にある、近似死体験者の話と、ハカセのそれが酷似するものやったという事実に少なからず驚いた。
自分だけやなかった。その思いで氏の書籍を読み耽るうちに、いつのまにか信望者になったということや。
もっとも、その直後は、それはええ方に向かわず、命知らずな男になってしもうたのやがな。
「死んでも、どうてことはない」と本気で思うてたようやからな。
医者からは、心臓病は完治することはないと聞かされ、先が短いということを自覚したというのもあるが、やはり、あの体験が大きかった。
死後の世界を体験したという気持ちがある。死んでも生きていられるから怖くないということのようや。
無謀にも、元ヤクザという拡張員に喧嘩まで吹っかけとったからな。ワシがハカセと知り合うたのは、そんなときやった。
ただ、ハカセは、思い込んだら一直線というところがあって、その関連のことを徹底して調べ始めたということや。
その際、ある疑問も生まれたという。
それは、あのとき、本当に死んでいたのかという疑問やった。
確かに、心肺停止にはなっていた。しかし、脳波は動いていた。現在の医学では、脳波の停止を持って死と認定するというのがある。その意味では、死んではなかったことになる。
ハカセの調べたところによると、近似死体験と言われるものの中には、心肺停止時に、そういう夢を見ることがあると書かれた文献があった。
しかも、その夢が非常に酷似している理由も説明できるという。
近似死体験者のほとんどは、死後の世界と思われる場所が、花畑であったり、美しい自然に囲まれた場所であったりするケースが多い。
そして、何より一応に気分が爽快やったと証言している体験者が大多数というデータがあった。
脳内麻薬様物質(オピオイド) というのがある。
人体が精神的、肉体的な危機状態に陥ったときに、精神活動に重要な働きをするGABA神経系から分泌されるエンケファリン、エンドルフィンなどがそれやという。
これの大量分泌により、精神活動の麻痺や感情鈍麻といった状態に入る。そして、快感を感じるようになるという。
マラソンをしているときに、ランナーズ・ハイになるというのは、広く知られたことやが、そのときに脳内にオピオイドが分泌されると言われている。
この症状の特徴として、離人症的な症状をもたらし、爽快感、現実感の喪失、自己と外界を隔てる透明な壁のある感じ、自分のことを遠くで自分が観察している感じ、自分の手足の消失する感じなどがあるという。
つまり、近似死体験者が見たという情景や気分が爽快やったというのは、そのオピオイドが分泌された結果やないかというものや。
あれから、日も経ち、その記憶が薄れるにつれ、ハカセも自分の体験が怪しく思えるようになったという。
その書籍の解説通りなのかもしれないと考えるようにもなったということや。
もちろん、そのすべてが解明されとるということでもない。説明のつかんことも多い。
例えば、前世の記憶というものがそうや。2,3歳児くらいまでの幼児に時折、そうとしか思えんことが起きるという。
遠く離れた行ったこともない土地のことを知っていたり、会ったこともない人の名前を言い当てたりする。
そして、何より、前世の人物しか知り得んことを知っている。そういう、事案の報告例があまりにも多い。テレビなどでも、良く取り上げられている。
そんなものは、嘘や。と一蹴する向きもあるやろうが、すべてがそうやとは思えん。
2,3歳児に、例え大人が吹き込んだにしても、それを、何度問い正しても同じ答えをするというのは、いかにも考え辛い。
もし、そういうデマをでっち上げるのなら、何も子供でなくてもええわけや。大人なら何とでも取り繕えるからな。
しかし、それが現れるのは、たいていが幼児期で7,8歳になるとその記憶も薄れるという。ワシは、この事実の方が信憑性が高いと思う。
未発達の幼児の脳やからこそ、前世の記憶が入りやすいのやないかと考えるからや。だからといって、すべての幼児がそうなるわけやない。
本来、それはあってはならんことやと思う。しかし、すべての事象に例外というものがある限り、極、希にそれが起こるということやないのやろうか。
そして、前世の記憶があるということは、生まれ変わりがあったという証拠にもなるわけや。そうなると、死後の世界がないと理屈が合わんことになる。
もっとも、本当のところは、やはり死んだ後でないと分からんことやけどな。
ただ、ワシもハカセも心情的には氏の説を採りたいと思う。世の中、その方が救われそうや。
例えば、凶悪犯罪にしても、それをする人間は、死んだら終いやという考えがあるから、そうするのやろと思う。一度きりの人生やということでな。
これが、未来永劫、輪廻転生が続き、その罪状が今度生まれ変わっても業(カルマ)として引き継がれ、それによって苦しむことになると知れば、短絡的に罪を犯す人間は少なくなるはずや。
昨今、自殺者が急激に増加しとるというデータがある。理由は人それぞれあり、同情の余地のあるものも多い。
しかし、氏の論法で言えば、自殺者は死んでから、最悪の刑罰を受けることになるのやという。
氏の説で言えば、人生というのは修行の場所であり、それぞれが某かの悩みや苦労を強いられるようになっとるということや。
それを業(カルマ)として克服することが課せられとる。自殺するというのは、その業(カルマ)を自ら放棄することになる。言わば、脱走者や。
霊界の法則で言えば、それは大罪ということになる。自殺の森という所で、身動きできない木として未来永劫苦しむことになるという。
その真意はともかく、そう信じとる人間は、この世で悪行も犯さんやろうし、自殺する愚行も減るやろうと思う。
氏曰く、現世とあの世は密接につながっていて、人は常にそこを行き来している。この世の死があの世の生であり、あの世の死がこの生であるという。
つまり、人の生死については、悲しむべきことやないということらしい。
本来なら、冥福をお祈りしたいと結ぶところやが、氏のお気持ちを尊重して、新たな旅立ちということで笑って送ることにする。