メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話

第116回 新聞拡張員ゲンさんの裏話     

発行日 2006.10.27


■殺人をしない、ひとごろしの話


「クーリング・オフはしたいのですが、ヤクザのような拡張員の仕返しが怖いのでできません。どうしたらいいのでしょうか」

という類の相談がサイトの『新聞勧誘・拡張問題なんでもQ&A』に時折、寄せられてくる。

それに対するワシの回答は、たいてい「そんなもの怖がる必要はない」と言うてるのやが、どうしても、その恐怖から逃がれられん人が多いようや。

気持ちで逃げるようやと、それ以上のアドバイスは難しい。

こういう場合、勇気を振り絞って立ち向かうしかない。というても、何もドツキ(殴り)合いの喧嘩しろと言うてるわけやない。

嫌なものは嫌と言う姿勢を示すためにクーリング・オフという制度を使えばええことや。それで大半が解決するはずやからな。

それが、どうしてもできんと言うのならあきらめて購読するしかない。アドバイスにも、それは選択肢の一つに上げとることやしな。

しかし、当然やが、ワシらの真意はそこにはない。勇気を持って立ち向かってほしいという気持ちがやはり強い。

それが、結果的に、悪辣やと言われる勧誘を減少、駆逐することにつながると思うとるからな。大多数の勧誘に携わる人間にとっても有り難いことになる。

ただ、強制はできん。ワシにそんな権利も資格もない。

また、無責任なようやが、そうすることによって引き起こされる結果に責任も持てんしな。あくまでも相談者が判断して決めるしかないことや。

その結果、送付した回答をサイトで公開しないでほしいという依頼が時折ある。

彼らの心配は、ここに、相談したことがバレると、その拡張員に何をされるか分からんということらしい。

内情を良う知っとるワシらは、そんなアホなことをする奴はおらんやろと思うとるが、今の世の中、どこにでもいかれた人間はおるようやから皆無とも言い切れんのは確かや。

せやから、そういった相談内容には十分配慮して、相談者が特定されんようにしとるつもりやが、そう言われるとワシらとすれば、非公開にするしかない。

サイトに公開するというのは、その相談者のみやなく、同じような悩みを抱えとる人たちの参考になればという思いもある。

当然、そのための具体的なアドバイスも多いわけやから、それがボツになるというのは、いかにも辛い。仕方のないことではあるがな。

そういうのが、最近、特に増えた。

恐怖心に打ち勝つのは、あくまでもその相談者自身やないとあかん。それが、簡単なことやないというは百も承知やが、今回は、そのための勇気になればとの思いを込めて、ある話をしたいと思う。

ワシの好きな映画の一つに「ひとごろし」というのがある。

これについては、前回のメルマガ『第115回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■死後の世界、あるやなしや』の中で、故丹波哲郎氏が出演した映画ということで少し触れた。

因みに、この映画の主人公を演じている役者も、ワシの好きやった故松田優作氏や。

映画は、今から30年前の1976年に公開された。

松田優作と言えば、格好いいアクション・スターというイメージが根強いが、この映画では、その片鱗もなく、実に気弱で格好悪い臆病者を演じとる。

この頃、すでにテレビドラマ「太陽にほえろ」のジーパン刑事役の壮絶な殉職シーンで名を馳せとったから、正直、そのギャップにも驚いたもんや。

題名の「ひとごろし」ということもあり、松田優作が主演するのやから、さぞやアクション豊富な映画やろと期待して行ったが、見事にその期待は裏切られた。

時代劇でありながら、実際に斬り合いがあったのは冒頭の数分間だけで、後は血を見るシーンというのが一切ない。

しかし、この映画で、ワシは松田優作の熱烈なファンになると同時に、映画そのものにも強烈な感動を覚えることになった。

ワシにとっては、生涯、忘れることのない作品の一つと言える。

尚、原作は山本周五郎氏で、この映画の12年前、1964年10月に短編小説として発表されたものや。

因みに、この話は、江戸時代の記録本の一つ「偏耳録(へんじろく)」の中にあるという。山本周五郎が、その実話をもとに脚色を加え短編小説にしたということらしい。

これから、映画のあらすじと小説、及び偏耳録からの引用、そして、ワシなりの解説を加えて語ることにしたいと思う。

映画の冒頭。土砂降りの雨の中で、数人の侍が、一人の武芸者を待ち伏せして襲う場面から始まる。

その中の何人かが、その武芸者に斬られ、残った者は逃げ出す。

その武芸者の名前は、仁藤昂軒という剣と槍の達人や。これを、丹波哲郎が演じとる。

襲うたのは、越前福井藩の者たちだった。

その日、藩の主催する狩り場で口論となり、仁藤昂軒が、御側小姓、加納平兵衛を斬死させるという事件があった。その縁者、友人らが仇を討とうとして闇討ちに及んだということや。

結果は返り討ちになったというのが、冒頭のシーンになる。

仁藤昂軒は、そのとき、生き残った藩士に「これから、北国街道を通って江戸に行く。逃げも隠れもしないから追っ手をかけるならかけるがよい」と言い残した。

偏耳録には「兎狩りにて争論あり、御抱え武芸者、仁藤昂軒儀、御側小姓、加納平兵衛を斬死、退散。藩侯、帰城後、討手のこと仰せ出さる」とある。

狩り場で斬られた加納平兵衛は、お側去らずと言われるくらい藩主に目をかけられとったから、当然のように、その怒りを買った。

「すぐに追っ手をかけろ。これは、加納の家族とは関係ない。昂軒はおれに刃を向けたのだ。上意討ちだ」との君命が下された。

さっそく、藩内で誰を追っ手に向けるかを評議することになったが、相手が相手だけに適任者も見当たらず、名乗り出る者もなかった。

仁藤昂軒というのは、藩主が、3年前、江戸でその剣術と槍術の腕を見込み、当時としては破格とも言える300石の禄高で、指南役に召し抱えた超一流の武芸者やった。

家中の者に剣術と槍の稽古をつけていたから、その実力は藩内の誰もが知るところだった。しかも、数人がかりの闇討ちにも失敗して犠牲者も出とる。

せやからと言うて、公の上意討ちで、一人を相手に大人数で繰り出すわけにもいかん。越前家の面目に関わる。

少人数、できれば藩としても追っ手は一人が理想的や。そういう条件があるから、よけい名乗り出る者がおらん。いつの時代であれ命は誰もが惜しいさかいな。

どうすればいいのかと、果てしもない評議をしているところへ、松田優作扮する双子六兵衛という若侍が名乗り出た。

「そ、それがしが……や、や、やります」

六兵衛は顔面蒼白になり、全身がたがた震えながら必死の思いで、そう願い出た。

「……」

しかし、評議していた上役の一人が、ちらりと視線を向けただけで、六兵衛のその必死な訴えに耳を貸そうとせず無視した。その場の人間も、それを、からかい半分と受け取ったようや。

双子六兵衛は藩内では、希代の臆病者として有名な存在やった。それが、家中一般の定評であり、本人すらそう信じ込んでいた。

子供の頃から、喧嘩や口論をしたこともなく、危険な遊びも知らない。犬が怖く、犬が見えると必ず道をよけて通る。

26歳になるというのに未だに夜の暗がりが恐ろしい。ネズミを見ると飛び上がり、蛇を見ると睨まれたカエルのように足が竦む。

現代であれば、大人しく気の弱い青年という評価になるくらいや。せいぜい、頼りないと思われる程度で済むと思う。

そして、程度の差こそあれ、この手の人間は世の中には結構いとるもんや。

しかし、江戸幕府、九代将軍徳川家重の時代、いくら世の中、戦(いくさ)もなく平和やと言うても、武家社会で臆病者のレッテルを貼られるというのは武士としては致命的な汚点になる。

両親はすでに亡くなり、当時としては婚期を逸した観のある21歳の妹のかねと二人暮らしをしていた。六兵衛は当然としても、その妹ということだけで、縁談すら一度もなかったという。

妹のかねは、それが不満で六兵衛に良く愚痴をこぼしていた。

「お兄さま、どうにかならないのでしょうか。私はつくづく嫌になりましたわ」

この後、何を言うか、いつも決まり切っていた。

「お兄さまにも嫁に来てがなく、私にも一度として縁談がございません。なぜだかご存じですか」

「そう、言うがね、世間にはそういうことが……」

「みんな、お兄さまのせいです」

かねはきっぱりとそう言った。

「それというのも、お兄さまが、臆病者と言われているためなんです。侍でいて臆病者と言われているような所へは、嫁の来てもないでしょうし、嫁に貰い手もないのは当然です。そうお思いになりませんか」

「そうだね。そう言われれば」

「言われなければ分からなかったと仰るんですか」

「いやそんなことはない。私だって、うすうすは感づいてはいたんだ」

「それなら、何かなさったらどうです。臆病者などという汚名をすすぐために、もう何かをなさってもいい頃ではありませんか。そうお思いになったことはないんですか」

「自分でもときどきそう思うんだが、道に落ちている財布を拾う、というわけにはいかないからね」

「お拾いなさい。気をつけて歩けば、道には良く財布が落ちているものですわ」

六兵衛にとって、その落ちている財布が今回の事件というわけやった。

六兵衛は、この機会を逃したら生涯、二度とこんなチャンスは巡って来ないだろうと思った。

そう考え、必死の思いで名乗り出たわけや。しかし、その名乗り出たという事実だけで六兵衛は途方もない恐怖にかられていた。

「そ、それがしが……や、や、やります」

そう言うて進み出ようにも手足が激しく震えて歩くのさえおぼつかない。屠殺場に引き出される牛でさえ、もう少しましなはずやと思える。

その様子を察した一人が「よした方がいい。返り討ちにでもなったら恥の上塗りだ」と六兵衛を半ば叱るように諭した。

しかし、六兵衛の他には誰も申し出る者がなかった。追っ手は速やかに放つ必要がある。一時の躊躇は下手をすると越前福井藩の評判そのものを下げかねんからな。

「待てよ。それも方法だな」

その場の他の一人が、急に膝を打った。その男の進言で評議員全員が協議に入った。

六兵衛が家中に隠れもない臆病者だというのは、仁藤昂軒の耳にも入っている可能性がある。

その臆病者が討手に来たと知ったら、はたして昂軒はどう思い、どういう行動に出るか。それを考えたら面白いとなった。

何の武芸も持たん臆病者の六兵衛が、剣と槍の達人である仁藤昂軒に万に一つも勝ち目はない。

返り討ちになる公算は大きいやろが、少なくとも即座に追っ手をかけられるから一応の面目も立つし、時間稼ぎにもなる。

六兵衛が失敗すれば、その後に2番手、3番手を募ればええことやという計算も働いた。

それに、六兵衛を先発させることで昂軒は越前福井藩を侮り、2番手、3番手にも同じように侮っておくれを取るということも考えられる。

そのための捨て石としてなら、十分、役に立つのやないか。先ほど、膝を打った評議員の一人がそう主張した。

結局、協議の上、六兵衛が正式な討手と認められ「上意討之趣意」という認可証を渡された。

これがあれば、道中どこへ行っても公認の討手としての待遇を受けることができる。それが当時の決まりとされていた。

六兵衛は帰宅するなり「急いで旅支度をしてくれ」と妹のかねに言った。

妹のかねは、いよいよ来るときが来たのかと思った。

「そう急がなくともいいでしょう。片づけなければならない荷物だってあるし……」

妹のかねは、六兵衛がついに世間の嘲笑に耐えかねて他国へ逃げ出すつもりになったのだと思うたわけや。

「荷物なんぞいらない。肌着と下帯が2,3あればいいんだ。急いでくれ」

落ち着かない手つきで着替えを済まそうとする六兵衛に、かねもようやく異変を察した。

「何かあったのですか」

「あったとも、長い間の汚名をすすぐ時が来た。御上意の討手を仰せつけられたんだ」

六兵衛はそう言いながら「上意討之趣意」を、かねに見せた。それには、藩公の墨印と花押があった。紛れもない本物や。

かねは顔色を変え「仁藤とは?」と尋ねた。そして、すぐ思いついたように「あのお抱え武芸者の仁藤五郎太夫という人のことですか」と聞き直した。

「そうだ、それに書いてある通り、あの仁藤昂軒だ。着物を出してくれ」

「とんでもない。やめてくださいそんなバカなこと。あの人は剣術と槍の名人だと言うではありませんか」

その後、かねは何度も「やめてください」と懇願した。

「相手は名人と言われる武芸者。あなたは剣術の稽古もろくにしたことがない。返り討ちになるのは分かり切っているし、そうなれば双子の家名も断絶します。私がいつも不平や泣き言を言うので、ついその気になられたのでしょうが、あなたに死なれるより、まだ臆病者と言われる方がいい」

かねは泣きじゃくりながら、そう口説いた。

「すぐにお城に行って辞退してください。これからは私も決して泣き言や愚痴はこぼしませんから」

「だめだ。これは私のためだ。お前の泣き言でやけになったのではない。私も一生に一度くらいは役に立つ人間だということを証明して見せたいんだ」

「お兄さまには無理です」

「そうかも知れない。しかし、うまくいくかも知れない」

ふうっと、一息をついて六兵衛は続けた。

「道場での試合なら万に一つも私には勝ち目はないが、こういう勝負には運不運がある。仁藤昂軒は自分の腕を過信しているが、私は臆病者と自分を認めている。この差は大きいんだぞ、かね。私はこの違いに賭けて討手の役を願い出たんだ」

「お兄さまは殺されます。きっと返り討ちになってしまいますわ」

「例え、そうなったとしても」六兵衛は声を震わせながらも続けた。「この役は、御上意だから家が断絶することはないと思う。おまえに婿を取って、必ず家名を立てて貰えると私は信じている」

結局、六兵衛は妹のかねの説得には耳を貸さず出発した。

偏耳録には、双子六兵衛は仁藤昂軒の後を追って三日めに、松任という町の手前の街道で追いついたとある。

すぐ前を、背丈が高く逞しい体つきの仁藤昂軒が悠々と歩いていた。

それを見たとたん、六兵衛は思わず逃げ腰になり口を開けて喘いだ。そうしないと喉が詰まり呼吸ができそうになかった。心臓は高鳴り、立っているのがやっとであった。

「待て、落ち着くんだ。向こうはまだこちらに気づいていない。今のところ、それだけが、こっちの強味だからな」

六兵衛は自分自身にそう言い聞かせた。

「それにしも、武芸者もあのくらいになると、歩き方まで違うんだな」としきりに感心していた。

大きな編み笠を被っているが、その笠は少しも揺れないし、歩幅も計ったように等間隔を保ち、乾ききった道なのに、足もとから埃(ほこり)の立つ様子もない。

六兵衛は首を振り、今さらながら自身の無謀さにあきれた。

理屈では、例えどんな武芸者と言えども人間である以上、油断もするはずやし、必ず隙も見せる。そこを突けば何とかなる。そう思うてた。

しかし、目の前の仁藤昂軒を見て、その考えは捨てた。とてもやないが、そんな隙を見せる男には見えんかった。

六兵衛は、埃を巻き上げながらその後をついて行くうちに、うんざりしてバカらしくなった。

上意討ちという名目のそろぞらしさ、それで日頃の汚名をすすごうと考えた自分の愚かさをしきりに反省した。

「昂軒が狩り場で加納を斬ったのは、昂軒の個人的な理由があったのだろうし、この俺には関係のないことだ」

そんなことをあれこれ考えながら歩いていると、不意に後ろから呼び止める声がした。

「おい、ちょっと待て。お前は福井から来た討手じゃあないのか」

六兵衛が、ぞっとして総毛立って振り返ると、仁藤昂軒が後ろに立っていた。あまりの驚きに六兵衛は失神しそうなほどやった。

「ひ、ひとごろし。誰か来てください。ひとごろしです。ひとごろし」

六兵衛は恥も外聞もなく、悲鳴に似た叫びでそう喚きながら一目散に逃げ出した。

六兵衛は、子供のころから逃げ慣れとったから、逃げ足の早さだけは自信がある。それが唯一の取り柄とも言えた。

「危なかった……」

六兵衛は、安全と思える松林の中に逃げ込み、全身を投げ出しぶっ倒れ、一息つくと、そう洩らした。

「それにしても、臆病な上にとんまと来ては救いようがないな。追いかけている人間を追い越したのも知らず、逆に後ろから声をかけられるとは、へ、いいざまだ」

六兵衛は、自分自身をあざ笑い、その惨めさに涙ぐんだ。

これからどうするか。今さら福井へは帰れないし、討手の手当として貰った路銀にも限りがある。

「どこか知らない土地にでも行って、人足にでもなってやろうか……」

そんなことを考えていると、近くで男たちの話し声が聞こえて来た。土地の百姓のようだった。

「人殺しだって?本当か。それで誰か殺されたのか」

「お侍だったが上手く逃げた。逃げた方が勝ちよ。相手はおめえ、鬼のような浪人者で十人や二十人は殺したような面構えをしていた。嘘じゃねえ。往来の衆もみんな震え上がって、てんでんばらばらに逃げ出したもんだ」

「ふーん、おら、これから御城下まで行くつもりだが、その浪人者はまだいるだべか」

「御城下へ行くのは一本道だ、危ねえからよした方がいいぞ」

先ほどの、六兵衛と昂軒のことを言うてるのは歴然としてた。

百姓たちの「十人や二十人は殺したような面構え」という部分を聞いて、六兵衛は改めて身震いがした。

「だが、待てよ。何かありそうだぞ、良く考えてみよう」

昂軒の隙を狙うという策はだめだ。先ほども、気づかれてないと思い、後ろからついて行ったが見事に失敗した。こちらの顔を見られているし、不意をつくのもさらに無理になった。

「ひとごろし」という六兵衛の悲鳴に通行人も恐れ逃げ惑ったという。

「そうか」とつぶやいて六兵衛は上半身を起こした。

「俺は臆病者だ。世間には、肝の据わった人間より、俺やあの百姓たちのような、肝の小さい人間の方が多いだろう。とすれば……」

「この手だ」六兵衛は、ある作戦を思いつき、思わず笑みがこぼれた。

「俺の臆病は隠れもない事実だから、今さら人の評判を気にすることもない。よし、この手でいこう」

六兵衛はそう思いつくと、急に元気が湧き、街道に戻って昂軒を探した。

昂軒は、一軒の茶店に入ったところだった。

六兵衛は、慎重に近寄り、約十間(約18メートル)の距離で立ち止まり、いきなり大声で叫び立てた。

「ひとごろし!!その男はひとごろしだぞ。越前福井で人を殺して逃げて来たんだ。いつまた人を殺すか分からない。危ないぞ!!」

その叫びを聞いて昂軒が立ち上がるのと同時に、茶店の奥から茶と団子を乗せた盆を持っていた老婆が、それをひっくり返し、急いでその場から逃げ出した。

「黙れ!!」と昂軒が喚き返した。

「俺には俺の意趣があって加納を斬った。俺は逃げも隠れもしない。北国街道を通って江戸へ行くと言い残した。討手のかかるのは承知の上だ。きさまが討手ならかかって来い。勝負だ」

「そうは行かない。斬り合いをすればそっちが勝つに決まっているさ。私は私のやり方でやる。この、ひとごろし!!」

六兵衛は、後退りしながらそう怒鳴った。

「卑怯者。それでも、きさまは討手か。勝負しろ」

昂軒が迫れば、その分、六兵衛が逃げる。逃げながらさらに「ひとごろし!!」と叫び喚いた。

昂軒も先ほどのことで、六兵衛の逃げ足の早さは分かった。真剣に追いかけたところで逃げられる。

道には往来の旅人や、土地の者らしい男女が六兵衛の叫びを聞き、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

「卑怯者。きさまは、それでも侍か。福井藩の討手か」

「私はこれでも侍だ。上意討ちの証書を持って、お前を追って来た討手だ。だが、卑怯者ではない。家中では臆病者と言われている。私は自分でもそう思っているが、卑怯と臆病はまったく違う。俺は討手を買って出たし、必ずその役目は果たす覚悟でいるんだ」

「では、どうして勝負をしない。俺が勝負をしようと言うのになぜ逃げるんだ」

「勝負はするさ。但し、私のやり方でだ」

「必ず役目を果たすだと?おかしな奴だ。いいだろう。俺は逃げも隠れもしない。油断をみすまして寝首をかくつもりかも知れんが、そんなことでこの俺を討てると思ったら大間違いだぞ」

「さあ、どうかな。それは分からないぞ。仁藤昂軒、それだけは分からないぞ」

昂軒は、眉をしかめ片手を「もういい」という感じで振って茶店の方に戻った。

「茶を持って来い」

昂軒は、そう怒鳴ったが、茶店の老婆はとっくに逃げ出して誰もいない。結局、昂軒は一杯の渋茶もすすれなかった。

「それみろ、誰も来やしない。お前は人殺しだからな。これからずっと、それがついて廻るんだ。くたびれるぞ」

その夕方、仁藤昂軒は、宿場で宿をとることにした。

六兵衛は、つかず離れずついていた。昂軒が宿に入るとすぐ、表の道から「ひとごろし」と叫び立てた。

「その侍は人殺しだぞ。気にいらないことがあるとすぐ人を殺す。剣術と槍の名人だから誰にも止めることができない。危ないぞ!!」

洗足(すすぎ)のたらいを持ってきた小女がそのたらいをひっくり返して逃げ出し、他の雇い人たちも皆、奥の方へ姿を消した。

「この、卑怯者!!」と罵りながら、昂軒が表に飛び出して来た。

「そんな汚い手で俺を困らせようというのか、女の腐ったような卑怯みれんな手を使って、きさまそれでも恥ずかしくないのか」

「ちっとも。あなたには剣術と槍という武器がある。私には武芸の才能はない。だから、私は私なりにやるしかない。武芸の強さだけが、この世で幅を利かすと思っておられるのなら、大間違いですよ」

「ちょっと待て。すると、きさま、これからもずっとこんなことをするつもりか」

六兵衛は大きく頷いた。

昂軒は、これ以上、何を言っても無駄だと思ったのか、宿へ引き返そうとすると、その宿はすでに戸締まりがされていた。その他の宿もすべて同じだった。

結局、昂軒はその日、野宿するしかなかった。

そして、その後もこれと同じことがしばらく続いた。

昂軒が茶屋に入れば、六兵衛が近くで「ひとごろし」と叫ぶ。「その男は、福井で人を殺してきた。近寄ると危ないぞ用心しろ」と喚き立てると、まず、茶店にいた客たちが逃げ出し、店の者もいなくなる。

宿屋でも同様で、昂軒が入ろうとすると同じことを叫ぶ。すると、たいていの宿は宿泊を断って来る。

昂軒は、一時の休憩も食事も取れなくなってしまった。もちろん、六兵衛にいつ寝首をかかれるか知れたものやないから、落ち着いて眠るわけにもいかん。

昂軒も、そんな状態をただ手をこまねいていたわけやなかった。

物陰や藪、あるいは雑木林に潜んで、六兵衛の不意を襲おうと幾度か試みてはみた。しかし、一度も成功しなかった。

六兵衛は筋金入りの臆病者だけあって、いかにも慎重で用心深い。あるとき、掴まえたと思ったときでさえ、昂軒の手を巧みにすりぬけて逃げた。

高岡という宿場まで来たときのことやった。

その日も同じことが繰り返されたが、昂軒は嫌がる宿屋の番頭を強引に説得して泊まった。昂軒もある意味、必死であった。

六兵衛もそれを見定めて同じ宿屋に泊まった。泊まる部屋は、帳場の隣の行燈(あんどん)部屋に入れて貰った。

ここなら、万が一の場合でも出口に近いからすぐ逃げ出せるし、昂軒の動静も探りやすい。

夕食を運んで来た女中に昂軒のことを聞くと、二階の「梅の間」にいることや、今、風呂から上がって酒を飲んでいること、向こうでも六兵衛のことを気にしていることなどを詳しく話した。

そこで、六兵衛はその女中に心付けをはずみ、その侍は大悪人であり、自分は討手として追っている者だ。もしかすると、隙を見て逃げ出すかも知れないからよく見張ってくれと頼んだ。

女中は承知し、絶対見逃がさないと、力んで頷いた。

六兵衛は、簡単に湯に入り、いつでも起き出せるように旅装束のまま半刻(約1時間)ばかり横になって眠った。

長くは眠っていられない。昂軒を休ませるだけになる。六兵衛の勝ちみは、昂軒をへとへとに疲れさせるだけだと自分に言い聞かせていたからや。

いきなり、誰かに呼び起こされた。女中かと思ったが、そこには、十七、八歳頃と見える美しい娘が立っていた。

「あたしは、女中のさくらから事情を聞きました。あなたは、うちの二階にいるお客を闇討ちにしようとしているそうですね」

六兵衛には、いかにも怒っている風の、その娘と妹のかねが重なって見えた。それもあり、少し気後れ気味に反問した。

「それはどういうことですか」

「聞いているのは、あたしの方ですよ」

「私は闇討ちをしようなんて考えたこともありませんよ」

「そんな格好で寝ていてですか。女中に金を握らせて二階にいる客を見張らせるなんて、それが正しいお侍のすることでしょうか」

「これには仔細があるんです」

「伺いましょう。あたしは、おようと言って十七歳ですが、両親が亡くなった後、三年もこの宿の女主としてやってきました。その間に、いろいろなお客を見てきています。でたらめな作り話かどうかくらいは分かるつもりですから」

いよいよ、かねとそっくりだと六兵衛は思った。

「よろしい。これから話すことが、あなたにとってどう判断されるか分からない。だが、そんなことを抜きに正直に話します」

そして、六兵衛は語った。

たぶん、こんな十七の小娘には理解して貰えないだろう思いながらやったが、意外にも、おようは理解を示した。

六兵衛が討手を願い出たところでは、目頭を押さえ、ついには涙さえこぼした。

「さあ、言ってください。これで話は全部です。あなたはこの話を信じますか」

「あたしが、悪うございました。疑ったりして申し訳ありません。その代わり、あたしもお手伝いさせていただきますわ」

六兵衛には、その娘の言うてる意味が良く分からなかった。

翌日、おようは、番頭に後を一切任せ、旅支度を整え六兵衛と一緒に高岡を立った。

この日を境に、六兵衛は加速度的に昂軒を追い詰めることができるようになった。

おようの言う「お手伝い」というのが、いかにも現実的で効果があったからや。

つまり、今までは六兵衛一人が追い詰めてたわけやが、六兵衛が休んだり眠ったりしているときに、おようが代わって「ひとごろし」と叫び立てるのである。

そして、十分休息した六兵衛と交代するわけや。

これは、昂軒にとって大打撃であった。昂軒は、今までにも増して、茶屋にも寄れず、宿屋でゆっくり眠ることもできなくなった。

仁藤昂軒は、精根が尽き果てた。六兵衛一人にも手を焼いていたのに、今や女も加わり二人になった。

片方がのびのび寝ているときに、片方が起きて「ひとごろし」と叫び続ける。たまったものではない。

「もうたくさんだ。もう終わりにしたい……」

昂軒は、頬がこけ、不眠と神経緊張のため眼が充血し、唇は乾き白くなっていた。

それに反し、六兵衛ら二人はみずみずしいほど精気に溢れていた。近くに昂軒がいるのに、それに気づかないようで、まるで恋人気分のように寄り添っていた。

「おい、俺はここにいるぞ」

いきなり、声をかけられて二人は驚いた。すぐさま「ひとごろし」と叫び出した。

「やめろ、それはもうたくさんだ。そこの双子なにがしとかいう男。きさま俺を上意討ちに来たと言ったな」

六兵衛は黙って頷いた。

「きさまも男ならどうして勝負しないんだ。こんな茶番、うんざりだ。勝負しろ」

「それは、だめだ。私とお前では勝負にならない。それは初めから言ってあるはずだ。私は私のやり方でやるしかないとな」

「きさま、それでも武士か」

「それは前にも聞いたよ」

「しかも、恥ずかしくはないんだな」

「ちっとも」

「そうか、俺はもううんざりして生きているのさえ嫌になった」

と言いながら、昂軒はその場に座り込んだ。

「腹はへりっぱなしだし、ろくに眠れない。寝ても覚めても人殺し人殺し、こんな茶番狂言には飽き飽きした。俺はここで腹を切る」

昂軒は、着物の襟を左右に広げ、脇差しを抜いた。

「それは、ちょっと待ってください」

「何だと?」

「そちらのお手盛りで片づけられては困ります」

「お手盛りとは何だ」

「おまえさんの勝手に事を片づけられては困るということです。ここに私という討手がいるんですからな」

「だが、刀を抜いて勝負する気はない。そうだろう」

それが、罪ですかと言う風に六兵衛は肩をすくめた。

「俺は誤った。俺もだが、世間の考え方も誤っている」

昂軒は、天を仰いだ。

「俺は、都に出て人にも知られ、あっぱれ古今に希なる人物と世間に認められるような人間になりたかった。名を挙げるには武芸に限ると考え、数多くの名人達人のもとで、長年に渡り血のにじむような修行をして、その道を極めたと思った」

昂軒は、肩で大きく息をついて続けた。

「それらは、皆、間違いだと知った。どんな、剣の名人達人でも、おまえのようなやり方にかなう法、それを打ち砕く術はないだろう。俺はあきらめた。俺の負けだ。俺は、潔くここで腹を切る。だから、きさまは俺の首を持って越前に帰れ」

「ちょっと、待ってください。あなたは本当に、そこで自害なさるのですか」

「そうだ。それとも、お前が俺と勝負するかだ」

六兵衛は、大きく首と手を振った。

「そうだろう。そうとすれば、俺はもう割腹するしか他に手はない。その方がよっぽど、楽だ」

六兵衛は、いかにも困ったという風で考え、静かにある提案をした。

「では、こうしましょう。ここからでは、越前まで首を持って帰っても腐ってしまう。とすれば、首を持って行ってもしょうがないし、と言って何も持って帰らないわけにもいきません。そこで相談なんですが……」

「生きたまま連れ帰ろうというのか」

六兵衛は首を振った。

「申し訳ないが、おまえさんの髷(まげ)を切って貰いたいんだ。侍にとって髷を切られるというのは大きな屈辱だとされている。特に我が藩では昔からそう言い伝えられている。だから、あんたの髷を首の代わりに持って帰る」

「髷が首の代わりになるのか」

「そうだ。生首は腐るから嫌だし、何より私は、人を殺したり自害するのを見たりするのが好きではないんだ」

偏耳録には、双子六兵衛は上意討ちを首尾良く果たし、おまけに嫁まで伴(つ)れて来た。また、その高い評判によって妹のかねも、中野中老の息子、大八郎と、めでたく婚姻のはこびになったとある。

ワシが、この話で何を言いたいのかは分かって貰えると思う。

例え、相手がどんなに怖く強い人間であろうと、倒す方法はいくらでもあるということや。しかも、こちらがどんなに弱い存在でも、考えることで、それが補える。

ただ、そうするには、六兵衛と同じく、勇気を振り絞ることが必要やけどな。


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