メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話
第123回 新聞拡張員ゲンさんの裏話
発行日 2006.12.15
■拡張員泣かせの人々 Part
6 引っ越し成金の男
今回は、ワシの完全な失敗談や。
数年前の関西。
その日は、今と同じ年末の忙しい時期やった。
ワシら拡張員や新聞販売店など、一般から「新聞屋」と呼ばれとる仕事は、一年で最も忙しいのがこの時期や。
年度末で、成績を上げるために各拡張団、拡販売店、あるいは各新聞社主催によるコンテストと呼ばれる勧誘競争のイベントが必ずと言うてええほど、この時期には集中して行われる。
この業界には、終わり良ければ、すべて良しという風潮が根強くある。この時期にがんばれば、他の月以上に評価は上がる。目立つわけや。
加えて、たいていの所では、プレミヤと言うて他の時期より1本のカード(契約)にプラスアルファが多めに付く。成績次第ではかなりの高収入も期待できる。
コンテストの上位者には、それなりに高額の賞金が出るというのもあるが、この時期は、ワシらのボーナス時期でもある。
ボーナスというのは、その人間のかんばりや実績次第で違うというのは、世間一般と同じやが、ワシらのはもっとシビア(過酷)や。
その団では、1年に4度のボーナス月というのがあった。3ヶ月に1度のペースで出る。一見、すごく待遇がええと思うかも知れんが、その仕組みは、かなりえげつないないものがある。
その3ヶ月間のトータルが最低でも150本を超えてなかったら、一銭のボーナスも出んというのがそれや。
月平均で50本。その当時は、今よりはカード(契約)の上がりやすい環境ではあったが、それでも、そのラインに達せん人間は、全体の3分の1強はいてた。
その連中にとっては、辛いシステムと言えた。
ただ、営業というのは契約を取って何ぼの世界で「がんばりました」というだけでは評価はされんから、ある意味、仕方のないことやけどな。
しかし、それ以上、契約を上げる者には、その本数と比例して、1本あたり200円、300円、500円と多くプレミヤが付く仕組みになっとる。
儲けられる者はより多く儲けられるということになっとるわけや。
この時期は、そのアメを目指して目の色が変わる。また、そうなるように仕向ける。実際、毎年、この時期だけ異様にがんばる人間も珍しいことやないからな。
そんな折り、ワシは、かなり老朽化したアパートの前に停めてあったトラックを目にした。
一見して、引っ越しのそれやというのが分かる。
当然のように、ラッキーと思いつつ、その主に面会に行った。
その引っ越しをして来た男は、秋田(仮名)と名乗った。
痩せて小柄で気弱そうな感じの男やった。40歳ということやったが、歳よりは老けて見える。
不動産関係の会社に勤務していて単身赴任やという。
契約は、ちょうど新聞がほしかったところだった、ということで、手間をかけることもなくあっさりと決まった。
この時期ということもあり、少しでも率のええ契約をということで、ワシとしては珍しく、かなり強引に1年契約を勧めたが、それも難なく認めた。
その秋田は、人なつっこい性格なのか、何かと良く話しかけてくる。
「そうですか。ゲンさんは、あの○○建設にお勤めだったんですか」
秋田が、不動産関係の会社に勤務しているということもあり、雑談のつもりで過去の建築屋でのことを少し話した。
相手に親近感を持たせるには、その相手に関連した話題をするのも、一応、営業の基本、心得でもあるしな。
「ここだけの話しですけど、私らの業界は、ややこしい人が絡むことが多いですやろ?」
「まあ、そうですね。極道が関係してくるというのも、希にありますからね」
「ゲンさんも、そういう人とは?」
「ええ、工事部の責任者もしてましたので、そういう人間との交渉事も良くしましたね」
このとき、何げなく言うた、この一言が、後々、大きな災いを招くことになるかも知れんとは、このときは知るよしもなかった。
「そうなんですか。私など気が弱いですし、そういう人は苦手ですね。もし、ゲンさんさえ良かったら、これから、お付き合いして頂けませんか。いろいろ教えてほしいと思いますので」
「ええ、ワシみたいな者で良ければ喜んで」
これも、いつもの流れの中で自然に口からついて出る返事やった。まさか、せっかく契約の取れた相手に「それは困りますよ」とも言えんしな。
それに、ワシは常日頃から、人間関係の構築が営業の根幹やと強く信じて疑わんということもあって、その客に気に入られようとしていたというのもある。
しかし、それは時として、相手を選ばんと、えらい目に遭う畏れがあるというのも、この秋田の存在で知ることができた。
結論から言うと、この秋田というのは、とんだ食わせ者やったわけや。
不動産関係者というのも、そう言えば言えんこともないが、世間一般で認知されとるようなものとはまったく違う。
この秋田の仕事は「引っ越し」そのものをすることやった。もちろん、引っ越
し屋というのとも違う。
引っ越し屋というのは、引っ越し荷物を運搬する業者のことや。
そんなことは誰でも知っとるやろが、その客になって、それが商売になるというのを知ってる者は、さすがに少ないはずや。
もし、ここで知ってると言う者がおるとすれば、その人間もまともやない。少なくとも、ワシ以上に裏に精通した人間やということになる。
たいていの人は、ワシも含め「何や、それ!!」というのが正直な反応やろと思う。
普通、世間では「引っ越し貧乏」と言うて、引っ越しする毎に金がかかるし、蓄えが減るというのが常識や。得になることは少ない。
それを、商売にするというのは俄には信じ難いはずや。それも、上手くやれば、かなりの大金を手にすることができる。
そのからくりを知れば、なるほどと納得はする人は多いやろうと思う。もっとも、納得しても誰でもできるというものでもないがな。
また、せん方が身のためや。それも素人では危険すぎる。
せやけど、そういうのを引っ越し成金とでも呼べばええのか、単なる詐欺師と見るべきなのか、そのあたりが微妙なところやと思う。
それから、2ヶ月ほど過ぎた頃やった。
その秋田から連絡が入った。
「ゲンさん、助けて貰えませんか」
電話では詳しいことは言うてなかったが、どうやら、立ち退きを迫られとるようやった。
ワシとしても、契約してから2ヶ月ほどにしかならんから、場合によったら、そのときの分が不良カードになる畏れもある。
その頃は、例え引っ越しでも、販売店によれば、不良カードとして、カードの買い戻しを要求してくる所もあったからな。要するに、拡張料を返せということや。
ワシは、取り敢えず、今から行くと伝えた。
秋田は、何度かしつこいくらいに電話で、ワシが到着する時間を聞いてきた。いつ、その賃貸業者の人間が来るか分からんから怖いと言う。
ワシは、午後二時くらいやと伝えた。実際には、その10分ほど前に着いたがな。
余談やが、ワシは人と待ち合わせの約束をするときは、常に、そこへ行ける時間より、30分くらい後の設定をする。
人によれば、相手に誠意を示すつもりなのか、ぎりぎりの時間か、それよりも早い約束をする者がおるが、それは、止めておいた方がええ。特に、営業マンはな。
ぎりぎりとか無理な約束での時間は、当然やが遅れるということがつきまとう。
本人は、精一杯のつもりで駆けつけたのやろうが、例えそれが僅か数分のことであったとしても、待たされる方は、その誠意というのは微塵も感じんもんや。
むしろ、時間にルーズな人間というレッテルを貼られるだけのことになる。
それよりも、約束の時間に余裕を持たせておけば、遅れることも少ない。
また、実際に予定通り30分早めに着いたとしても、その近所で時間を調整する間、その約束の人間との話や交渉の心構えもできやすい。
そして、10分前に、そこに行くことで、相手は、こちらの約束をきちんと守る人間やと思い込む。少なくとも、ええ加減な人間とは考えん。
こちらは、有利な状況を作りやすいから得することが多い。
つまり、ただそれだけのことで、その相手との人間関係が良好になるということや。
何でもそうやが、余裕を持たなあかん。焦って一生懸命やったというのは、失敗につながることも多いさかいな。
急いては事をし損じる。昔から、多くの人に語り継がれとる教訓や。
ワシが着くと、秋田は、辺りを警戒する素振りを見せながら、素早く部屋に招き入れた。
「先月の中頃、このアパートを管理している業者が急に来て、ここを取り壊すことになったから、出て行ってくれと言うんですよ」
まあ、そういうことなら、普通は仕方ないということになる。
「条件は?」
当然やが、こういう立ち退きの引っ越しを要求するには、それなりの条件提示があるはずや。
一般的には、権利金などは全額返還の上、家賃の6ヶ月分プラス引っ越し費用というのが、こういう場合の立ち退きの相場ということになる。
「そのときは、何もなくて……。ただ、私は、この近所でいい物件が借りられるだけのものと、その上に、ちょっとだけ色をつけて貰えるものだとばかり思い、考えておきます、とだけ返事をしたんです」
秋田も、不動産関係の仕事をしているから、それが常識やというのは良く承知しとるという。
「それが、今月の始めに提示してきた額がとんでもないものだったのですよ」
秋田は、入居の条件として、権利金50万円、家賃5万で契約して借りた。
間取りは、風呂なしの6畳、4.5畳と2畳ほどの台所がついているだけの小汚いアパートや。名称こそ「○○文化住宅」となっとるがな。
この辺りは、大阪のベッドタウンで交通の便もええから、老朽化したアパートでも、これが相場やった。
「その立ち退き代が、たったの50万円ですよ。私は、ゲンさんもご承知のように、去年の年末に引っ越しして来て、やっと、落ち着いたと思ったら、これですからね。あまりにも、バカにしていると思ったんで、何も返事しなかったんです」
秋田は、かなり興奮しとるのか一気にまくし立てた。ワシの、秋田に抱いていた温厚なイメージというのが、若干やが揺らいだ。
もっとも、どんなにおとなしい人間でも、怒れば違うて見えるというのも確かやがな。
「それで、放っておいたら、昨日、その業者に脅されたんです。他の人間は皆、立ち退きの契約書に判を押しているから、これ以上、ねばるのはいい加減にしろ、と言うんです」
秋田は、今度は怯えるようにそう言うた。
「それで、ワシにどうしろと?」
正直、こういう揉め事というか、交渉事にまで首を突っ込むつもりはない。言えば、どちらも金の絡んだ欲得づくの話やさかいな。
秋田が単に意味もなく脅されとるというのなら「脅すのは止めとけ」というくらいは言うかも知れんが、今回の場合は、その立ち退き料が少ないと言うてるだけのことや。
聞けば、その業者も、一応、相場の額は提示しとるようや。
それが、納得できんというのなら、満足のいく線になるように交渉したらええだけのことや。満足さえすれば、文句はないはずやからな。
しかし、それは個人でやってほしい。ワシを巻き込まんといてほしいと思う。少なくとも、一介の拡張員が首を突っ込むような話やない。
「実は、今日、もう少ししたら、その業者が来るんです。そのとき、脅すような真似を相手側がしたら、そのときは証人になってほしいんです」
それが、ワシをここに呼んだ理由ということか。
「まあ、その程度でしたら構いませんけど、ワシはその交渉事には関わることはできまへんで」
一応、そう念を押した。
「もちろん、ゲンさんに、そんなことをお願いするつもりもありません。ただ、立ち会って頂けるだけで十分ですので」
こういうのは分からんでもない。ワシも、サイトのQ&Aの回答では、ややこしい販売店の人間なんかと対峙するときは、第三者に立ち会うて貰えとアドバイスしとることでもあるしな。
しばらくして、激しくドアを叩く音が聞こえてきた。
「秋田さん!!いてはんねやろ。さっさと、ここを、開けや!!」
その賃貸業者のようや。なるほど、程度の悪そうな人間やというのが良う伝わってくる。
秋田が、ワシの方をすがるように見た。
ワシは、目でドアを開けるように促した。
その後、意図して奥の部屋に入って、その玄関から姿を見られんような所に隠れた。
これは、ワシの常套手段やが、相手の出方を確かめるには、これが一番ええ。ワシが側におったんでは、相手も用心するやろし、突っ込みどころも減る。
秋田がドアを開けると、いかにも柄の悪そうな風貌の男が、勢い込んでまくし立てた。まだ、二十歳代くらいに見える若い男や。
「ワレ、何考えとんねん。出て行くことで話がついてたはずやないか」
「変なことを言わないでくださいよ。私は、考えときます、て言うただけですよ」
「何を眠たいこと言うてんねん。オノレは吐いた唾を呑もうちゃうのんか!!」
どうでもええけど、程度の悪いガキの台詞は、いつも似たようなものしか出て来んもんやとつくづく思う。
「もうちょっと、ボキャブラリーを増やせよ」と、つい突っ込みたくなる。
「おい、こら、坊主。こういう交渉事で、そんな脅すような真似をしたらあかんやないけ」
ワシは、つい、そう言いながら、奥の部屋から姿を現した。
「何や、お前は?」
その賃貸業者の男は、一瞬、ギョッとした仕草を見せた。
「何でもええがな。ワシは、その秋田さんの知り合いや。もうちょっと、穏やかにものが言えんのか」
「……お宅は、どちらの方で?」
「お前」から「どちらの方」になった。おそらく、ワシを、極道か何かと勘違いしたのやろうと思う。声の震えでそれが分かる。
この心優しいゲンさんをつかまえて失礼なと言いたいところやが、勝手にそう思わせておくのもええ。この手の人間には、それも効果があるしな。
「そんなことを、ワレに、一々言わなあかんのか。秋田さんの知り合いやて、言うてるやろ」
「わ、分かりました。今日のところは、出直して来ますんで……」
その賃貸業者の男は、そう言うと、そそくさと逃げるように帰って行った。
「ゲンさん、どうもすみません。助かりました。でも、さすがですね」
「恥ずかしいところをお見せましたが、あういうチンピラ相手には、つい柄の悪い言葉が出てしまうんですわ。何しか、河内の生まれなものでして」
ここで、河内の名誉のために言うとくが、その物言いは、単なる方言の一つで、そこに住む住民の程度がそうやというのは違うからな。誤解はせんといてほしい。
もっとも、ワシから言わせて貰えれば、その方言を柄が悪いと捉える方が、おかしいということになるんやけどな。
「よう、ワレ、久しぶりやんけ。まだ生きとったんけ」というのは、極親しい友人同士では普通の挨拶言葉なんや。これで喧嘩になることはまずない。
「よう、久しぶりやな。元気やったか」というのが、その真意で、言うてる人間も聞く側の思いにも、それがある。
わざわざ、普通の関西弁に直して解説するのも変な話やがな。
結局、その後、立ち退きの話はまとまったと秋田から連絡が入った。
「ゲンさんには申し訳ありませんけど、途中解約ということになりますが、どうしましょう?」
「今回のケースは、急な引っ越しということになるから、それは仕方ありません。ですが、ワシが最初にお渡しした景品は販売店に返してやってください。ワシの方から取りに行くように連絡を入れておきますから」
「分かりました。これから、この近くで部屋を探しますので、決まり次第、また連絡します」
近所で部屋を探すのなら、そのままの継続でも良さそうなもんやが、その転居先が、その販売店のバンク(営業範囲)内とは限らんから、一応はけじめをつけておいた方がええ。
それに、客がそう言うたからというても、必ずその通り連絡してくるという保証もない。実際、秋田からはその後、何の連絡もなかったからな。
ワシも、この仕事は長いし、いろんなタイプの客とも出会しとるから、そういうのは珍しいことでも何でもないというのは百も承知や。
むしろ、そういう客の言葉を信じて、それをあてにして待つほど、おめでたい話はないというのが、この業界の常識でもある。
あればあったで良かったと思うとくことや。何でもそうやが、あてにしてそれがはずれたら、その分、落胆も大きい。
下手したら、それで人間不信に陥ったり、人を恨んだりするだけにしかならん。そういうのも損やし、精神衛生上も良うないさかいな。
それから、さらに1ヶ月が経過した、ある日の午後のことやった。
ワシは、もう秋田のことなんか、すっかり忘れて、そのバンク内のマンションで、いつものように叩いて(訪問営業)いた。
すると、ふいに後ろから、誰かが声をかけてきた。その声に振り返ると、そこには、例の賃貸業者の男が立っていた。
「何や、あんた、拡張員やったんか」
「拡張員で悪かったな」
どうも、こいつは、人の神経を逆撫でするような物言いを平気でする男のようや。
どこにでも、人を怒らせることにかけては天才のような人間はいとるもんやが、ええ加減にしとかな長生きはできんで、ほんま。
確かに、ワシらの一般的な呼称は拡張員やが、それは職業の正式名称やない。
現在、新聞社からの通達で公には、ワシらのことは「セールス・スタッフ」と呼ぶ決まりになっとる。ワシの記憶では、3年ほど前からそれが始まったはずやと認識しとる。
それに伴い、拡張員という言葉そのものが、テレビや新聞などのマスコミ報道で自主規制しとる放送禁止用語に指定されとるということがある。
せやから、テレビや新聞では「拡張員」とは言うたり報道したりしたらあかんことになっとるわけや。
それが何でかという確かな理由は分からんが「拡張員」という響きと風聞が良うないということやろうと思う。
新聞社は、その解消のために、その呼称を変えたと考えられる。安易と言えば安易な発想や。
つまり、裏を返せば新聞社は、拡張員の評判が悪いというのを承知しとったということになる。口には出さんし、認めようともせんがな。
もっとも、その努力の甲斐もなく、まだ一般にまでは、その「セールス・スタッフ」という呼び名は広まってないようやがな。
未だに「拡張員」という方が通りがええようや。それが根強い。
ワシら、業界関係者が「拡張員」と言うのなら、それほどカドが立つこともない。しかし、他業者や一般人が、その相手に面と向かって言う言葉やない。
受け取る方は、間違いなく侮蔑を含んだ物言いやと解する。早い話が、そう言われることで「喧嘩を売っとんのか」となるわけや。
「あんたも、あの秋田とグルか?」
「グル?何、わけの分からんことを言うてんねん」
「とぼけんなや。あの占有屋とグルかと、聞いとんや」
「占有屋?」
「ほんまに、とぼけ方の上手い、おっさんやで……」
ワシは、それを聞いた瞬間、プツンと頭の中で何かが切れた。拡張員と知って、完全にバカにした態度がありありと見える。
ワシはその男の右腕を素早く掴むと、間接を極め後ろ向きにしてマンションの廊下の壁に押しつけた。
「こら、ワシを怒らせてどうしようちゅう気や。ええ加減にせいや。わけの分からんことをぬかさんと、ちゃんと、聞いたことに答えんかい!!」
「い、痛い、痛い……わ、分かった……。わ、分かりましたから……放して……」
ワシは、不意の反撃に備え慎重に手を放した。
もっとも、その男の目からは完全に戦意が喪失しとるのが見てとれたから、その心配も、ほとんどなかったがな。
「あんた、見かけによらず、恐ろしい力、してはるな。腕を折られるかと思うたわ……。本当に、あんた、何も知りまへんのか?」
「せやから、さっきからそう言うとるやろ」
その若い賃貸業者の男は、宮下(仮名)と名乗った。
その宮下が、右腕をさすりながら、ゆっくりと話し出した。
宮下の賃貸会社が、管理している、そのアパートを買い取ることになった。
理由は、遺産相続やという。去年の11月に、そこのアパート経営者が死んだ。
奥さんはすでに死んでおらんから、相続人はその子供、三人や。いずれも所帯持ちやという。残された遺産は、そのアパートと土地が主やった。
アパートの経営は、その子供らは断念した。
老朽化しとるし、続けるのならリフォームせなあかんから、かなりの出費が必要となる。
それでも、入居者が多いというのなら、まだ採算が取れんこともない。
しかし、老朽化して風呂もないということもあり、全16戸のうち、秋田を入れて半分の8戸ほどしか入居がなかったから、それは無理や。この先の展望もない。
加えて、この辺りの土地の評価価格から割り出した相続税がかなりなものになる。
それを払える金が、その子供らにはなかった。
また、兄弟同士、日頃から不仲であったというのもあり、それらを売り払って、分配しようとなったわけや。
その話を、今年の1月なって持ちかけられ、その賃貸業者が買い取ることになったという。
そこで、問題になるのが、入居者の退去ということになる。
その賃貸業者は、他の物件を扱っているという強みを生かし、そこを斡旋するという条件を出した。
加えて、引っ越し代の負担、権利金の全額返還と他よりも多めの立ち退き料として50万円を支払うということで、比較的スムーズに住民たちは同意していった。
秋田にも、当然、同じように話を持って行った。
「そうですか。私は、引っ越してまだ、1ヶ月も経ってないのに、また引っ越しですか。ここと同じ物件を探して貰えるのなら、それでいいですけどね」
と、秋田からその返事を貰っていたのが、この宮下やった。正直、この段階では、宮下は、秋田については安心してたという。
しかし、その後、宮下はこまめに秋田に物件を提示したが、なかなかええ返事をしようとはせんかった。
その1月の末には、秋田を除く7軒すべての同意が取れたが、その秋田だけが最後に残った。
2月に入って、秋田が、立ち退き料が少なすぎるとごね出した。
結局、すったもんだした挙げ句、立ち退き料だけで150万円で話はついた。
そのはずやった。
宮下が、その金を持って行って承諾書にサインを貰うという日、つまり、ワシが秋田に呼び出された日のことやった。
ワシが到着する前に、秋田から連絡が入った。
「やはり、良く考えたら、割に合わないから止めます。立ち退き料は、もっと出して貰わないと応じられません」
「そんな、アホな。あんたは、それで納得したやないか。オレは、その額でも、会社に無理言うてやっと認めて貰えたんや。オレの立場がないやないか」
実際、そこの社長からは、かなり叱責されていたらしい。「何やっとんねん」と。
「そんなことは、知りませんね。それは、そちらの問題でしょう?とにかく、私に出て行ってほしかったら、それなりの額を出してください」
「何を、寝ぼけたこと言うとんねん。ちょっと、待っとれや。今から、そっちに行くから」
それで、血相を変えて怒鳴り込んだということらしい。
そして、その場に、ワシが居合わせてた。宮下は、ワシを見て、極道が出て来
たと思い、逃げ帰ったというのが、その顛末ということになる。
「嵌められたわけか……」
そう言えば、しきりに、ワシが到着する時間を気にしていたな。
この宮下の性格を利用して挑発することで、怒鳴り込ませるように仕向けたのも計算の内のはずや。
その翌日、秋田から連絡が入った。
立ち退き料として、500万円を払えということやった。
「そのくらいの額は簡単に出せるはずですよ」
秋田は、その根拠も示した。
土地をメインに売る場合、賃貸物件があったら、その状況にもよるが、一般的には平地の相場より2割から3割の減額になる。
平地にするには、そこの住人を退去させなあかんし、その物件の解体費用も必要になる。素人では、それができんから、勢い業者に頼む場合が多い。
そのアパートのある土地は、時価相場で1億5000万円程度と見込まれていた。もっとも、実際の売買は需要と供給の具合で多少は上下するがな。
その賃貸業者は、9500万円での買い上げ額を提示した。但し、諸々の経費を差し引いて手取りで9000万円。実質、一人当たり3000万円の分配金になると説明して買い上げに成功した。
あまり、安い提示額やと、いくら素人でも他にも声をかけるやろうから、この辺りがぎりぎり微妙な線やという。
秋田を除いた他の住民への立ち退きにかかる費用がおよそ600万円。解体費用に200万円前後。
1億5000万円とその土地を見積もると、およそ4500万円程度の利益が出るはずやと、秋田は指摘した。
「それを考えたら、500万円くらい安いものでしょう」
この要求自体は、業界としてはべらぼうな額や。とても呑めるもんやない。しかし、長引かせるのは拙いというのもあった。
実は、このとき、すでにその賃貸業者は、転売先を決めていたからや。その契約の日が間近に迫ってもいた。
買い主は、そこに10階建ての賃貸マンションの建設計画を立てていたという。もちろん、管理はその賃貸業者やから、二度おいしい物件となる。
時間さえかければ、その賃貸業者もプロやから、その秋田との交渉も、もう少し減額させることはできるとは思うたが、その時間がない。
それに、そこまでの内情を調べ上げ、しかも、その立ち退きがあると知って1ヶ月前に占有に乗り込むというのは、素人にできる芸当やない。
それなりの組織があってのことに間違いない。現に、極道らしき人間も出てきた。これは、ワシのことや。
「失礼なこと、言わんとけ」と思うたが、話の腰を折るのも大人げないと思い我慢した。
結局、これ以上、揉めるのはつまらんということで、秋田の条件を呑んだということや。
「それで、ワシをその占有屋の仲間やと言うたわけか……」
占有屋というのは、通常、競売物件などに、短期賃借権、つまり、3年以内の賃貸契約をその持ち主と交わして強引に住む連中のことや。
これを結んでおけば、債権者が建物を第三者に売ったときでも、その期間内は住むことができる。短期賃貸借保護制度というのが、それや。
これをされたら、何も知らんとその競売物件を買うた人間はたまらんわな。結局、出て行ってほしかったら、高額の立ち退き料を弾めとなる。それが手口や。
もっとも、この短期賃貸借保護制度は2003年4月の法改正により廃止になったから、その手は、もう今は使えんがな。
もちろん、その法改正の背景には、こういう悪質な占有屋の存在があったからやけどな。
こんなことを野放しにしといたら、その競売物件そのものが売れんようになるさかいな。国としても拙いということや。
しかし、秋田のような連中は、その法の網にはかからん。そのアパートは、競売物件でも何でもないし、賃貸も、正規のルートで行われとるものや。
ただ、その情報をいち早く入手して住み込んだだけということになる。ある意味、スマートな手口と言える。何ら違法性もないはずやしな。
もっとも、表の法律で違法やなくても、裏でそれが知れたら無事では済まんやろうから、秋田もそれなりに体を張っとることになる。
宮下や賃貸業者は、秋田を組織立った連中の仕業やと考えとるようやが、ワシには、そうは思えん。
限りなく、秋田の単独計画のような気がする。
もっとも、情報の入手先とは、何らかのつながりがあるかも知れんがな。
ワシも、建築屋での仕事が長かったから、その占有屋とか地上げ屋のような連中の手口はそれなりに知っとるつもりや。
今回、もし、秋田にそういう組織があったとしたら、もっと、大人数を繰り出して、そのアパートに乗り込んどったはずやと思う。
まだ空き部屋もあったことやし、その方が、より稼げたやろうからな。
加えて、そういう組織立った連中なら、当然、素人やないやろから、わざわざ、ワシみたいな男を嵌めるような真似をして極道に仕立てんでも、役割分担でメンバーの誰かに、その極道を演じさせることもできたはずや。
これを、占有屋と決めつけるから、そうなるんで、単なる詐欺働きの専門家やと考えれば、秋田がそうしたのも納得できる気もする。
もっとも、本当のところは、その秋田しか知らんことやろうがな。
しかし、このやり方は、誰が困るでもない。
まあ、敢えて、困ると言えば、その賃貸業者やが、彼らにしても損な商売をしとるわけでもない。十分に儲けとるはずや。それが、僅かに減るだけのことにすぎん。
本来なら、秋田は、ワシを利用したわけやから、怒るべきところやとは思うのやが、こう見事に嵌められるとその気にもなれん。
「お宅の、お名前は?」
「ゲンや」
「どうやら、ゲンさんも秋田に騙された口のようですね」
「面目ない……、済まなんだな」
ワシは、素直に宮下に向かって頭を下げた。
今回の件で、一番振り回され、えらいめに遭うたのは、この宮下やろうからな。
知らんかったとは言え、結果的には、その被害者である宮下を脅し上げることになってしもうた。その悔いがある。
「いえ、もういいんですよ。終わったことですしね。それに、オレもええ勉強をさせて貰いましたから。それにしても、あんな男もいてるんですね」
宮下は、にこりと笑った。
この男は、気が短く思慮の足らんところもあるが、根はええ奴なのかも知れん。そう思わせる笑顔やった。
「そうやな。世の中には、いろんな人間がおるさかいな。外見に騙されるな、というええ見本ということや……」
ワシも、自嘲気味に、そう言いながら笑って見せた。