メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話
第124回 新聞拡張員ゲンさんの裏話
発行日 2006.12.22
■真っ赤なお鼻のトナカイさんの話
クリスマスと新聞拡張員。
一見、何のつながりもないようやが、ある面では、関わり合いが深いとも言える。多分に、手前勝手な見解かも知れんがな。
この時期になると、毎年、恒例のように、ワシらは、サンタ人形やクリスマス・ツリーのようなグッズを持って各家々を勧誘して廻る。
1年中、イベントというのは数多くあるが、ワシらが、そのための拡材(拡張のための景品や金券)として、あからさまに、そういうグッズを持たされるのは、このクリスマスくらいなものや。
他のイベントには、そういうのはない。特にワシらの所ではな。
正月に御神酒(おみき)や門松を持って廻るわけでもないし、2月の節分に豆を配ることもない。
もっとも、鬼と見間違うような面相で「新聞いりまへんか」とドアを叩く者はおるがな。
女性で比較的美人の拡張員なら、バレンタインデーのチョコレートを拡材代わり持っていくというのは、それなりに効果はあるとは思う。
但し、未だに、そういうことをしとるという話は聞かんがな。
3月のホワイトデーに若い女性客にチョコレートを渡そうとすれば、ストーカーと思われ通報されかねん。
4月の入学シーズンはというと、それに伴う、単身入居の学生さんへの勧誘合戦の熾烈な時期でもあるが、その新入生のための「ご入学おめでとう」グッズという物もない。
その獲得数の多い拡張員への「おめでとう報賞金」というのはあるがな。
5月の子供の日でさえ、鯉のぼりやカブトのレプリカすら持たされん。
6月のジューンブライドも、ワシら拡張員には、イベント的にはさして関係はない。雨が続いて世間は濡れとっても、ワシらは仕事にならんから干上がったままや。
7月の七夕に、笹を持った拡張員が徘徊することはない。その願かけに「1枚でも多くカードが上がりますように」と札を書いて吊す者はおるかも知れんがな。
8月も、子供が夏休みやからと言うて、特別におもちゃを持って廻るでもない。
もっとも、今日びの子供は、そんなおもちゃより、ゲームのソフトでも持ってこいと言うがな。そんなものは、高すぎて拡材にはならん。
9月の老人の日は、ワシとこの団では、逆に祝うて貰わなあかん方や。
10月は、これといった商業用のイベントはない。
11月の文化の日なんか、一体何を祝えばええんや。誰か教えてくれ。さっぱり、分からんし、意味ないやろ、あんなもの。
単に祝日やから喜ぶだけのことや。祝日に休みのないワシらには関係あらへんがな。ワシらが祝日の日に休めるのは、元日くらいしかない。
そう考えてみると、行き着くところ、唯一とも言えるほど、ワシらと関わり合いのあるイベントが、このクリスマスの12月ということになるわけや。
もちろん、せやからと言うて、そんなサンタ人形を持たされて喜ぶ拡張員もおらんがな。
たいていは、仕事と割り切っとるが、それでも、辛いものがあるのは確かや。
単に、ええ歳をしたおっさんが、そんなものを片手に街を徘徊しとる格好悪さというのもあるが、それ以上に、幸せそうな家族を見るのが耐えられんほど辛いというのも一方にはある。
特にクリスマスの日がそうや。ワシは、この日は、毎年、仕事した格好はつけるが、実際には勧誘で廻ることはない。
ワシが、この拡張員の仕事を始めた頃は、まだ、嫁さんと子供と別れたばかりの頃で、そのクリスマスの夜が、ひときわ辛かった。
特に、当時、まだ小学校3年生やった息子と、そのクリスマスの夜も離ればなれになるというのが、耐えられんかった。
そんなとき、そのサンタ人形を片手に、幸せそうな子供らの笑い声が聞こえる家庭のドアを叩くのは……、思い出しても泣けてくる。
ワシは、その次の年から、クリスマスの夜は仕事(勧誘)をせんとこうと決めた。というても、あからさまにサボるというのも拙い。
実は、その日のために、早めに隠しカードを用意して持っておくんや。それをクリスマスの当日に出す。
隠しカードというのは、事前に契約を取っていたものを、さも、その日に契約を貰うたかのように装うて提出する契約書のことや。
もちろん、これは、普段から心やすい客に頼むか、その客に了解を取った上で、そうするわけや。誰でもええというわけにはいかん。
始めての客にそんなことをして、万が一、クーリング・オフやと言われた日には目も当てられんからな。
販売店にしたら「契約もしてないはずやなのに、何でクーリング・オフなんや」てなもんや。信用も何もあったもんやないさかいな。
今年も、そのクリスマスの日が近づいてきた。
ただ、今のワシは、昔ほど、この日が辛いとは思わんようになった。
それには、息子がすでに成人しとるというのもあるし、何より、ワシを家族の一員として暖かく迎えてくれる所があるからな。
ハカセの家がそうや。
特に、ハカセの下の子、コウ君を見ていると、昔の小さかった頃の息子、ユウキのことを思い出す。
また、コウ君も、なぜかワシを慕うてくれとるから、その外見以上に可愛くも思える。
そのコウ君と話せるのが、ワシの楽しみの一つでもある。
「お父さん、ゲンさんが来たよ」
そのコウ君が家にいるときは、ワシが行くと真っ先に出迎えてくれる。
「ゲンさん、ポケモン集まった?」
「ああ、ずかんには489体、揃うたから、後、1体、ミカルゲで完成や」
「そのミカルゲなら、今、お兄ちゃんと一緒に作ってるところやから、できたら、その卵をあげるね」
「そうか、楽しみにしとくよ」
「でもね、まだ他にも1体、アルセウスっていう幻のポケモンがいてるらしいんや」
「そうなんか、それは知らなんだな。どんなポケモンや」
「まだ、正体不明やねんて。お兄ちゃんがそう言うてた。インターネットで調べても、名前だけしか分からんて……」
「そうか」
そこへ、書斎からハカセが現れた。
「ゲンさん、それでは、早速ですが、次回のメルマガの打ち合わせをしましょうか」
「分かった」
「コウは、ゲームでもして待っといてくれ」
「えーっ、僕も一緒にいたいな。ええやろ?なあ、お父さん。邪魔はせえへんから」
「そうやな……まあ、ええやろ。今日は、クリスマスの話やから」
もう、このメルマガでは、それが恒例になりつつある。
HPを開設した年、2004年も、去年の2005年も、そのクリスマスに因んだ話題を取り上げた。
そして、今年も、その予定やと、ハカセから連絡が入った。ワシが、今日、ここに来たのも、そのための話をするためやった。
「今年も、また、クリスマスに関連したメールが届いていますよ」
これも勘違いというか、間違いメールの一つやろうな。
例によって、メルマガで、そのクリスマスに関して話した内容が、検索サイトでヒットして、それを見た人が、まさか「新聞拡張員」の関係したサイトとは知らずにメールしてるのやと思う。
まあ、こういう、間違いなら、むしろ、歓迎できるがな。
メールは2通、届いていた。
りおちゃん 小学6年生
私は親がサンタクロースって知ってるけど、学校の委員会で何歳か、しりた
いの!!実際作り話では、何歳となってるの?
この質問は、去年のメルマガ『第72回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■サンタクロースは何歳ですか?』と同じやから、その話を抜粋して知らせておいたという。
2件めは、小学生のお子さんを持つ、お父さんからやった。
真っ赤なお鼻のトナカイさんの名前は何だっけ?
すべてのトナカイに名前がついてたはずなんだけど・・・息子に聞かれて困っています。
これについて、ハカセは、すぐに、次のように返信したという。
メルマガを読まれた上でのご質問だと思われますので、お答えします。メルマガを書くために調べたことがありますので。
真っ赤なお鼻のトナカイさんの名前は ルドルフです。これが一番先頭です。
以下、左列前から順番に、ダッシャー(突進者)、ダンサー(踊り手)、プランサー(踊り跳ねる者)、ヴィクセン(口やかましい)と列び、右列前から後ろに、コメット(彗星)、キューピッド(恋愛の神)、ドンダー(雷)、ブリッツェン(稲光)となります。
因みに、ダンサー、プランサー、ヴィクセンはメスのトナカイで、他はオスです。全部で9頭ですね。
まあ、普通の親は、トナカイの名前なんか知らんわな。知っていても、せいぜい、赤鼻のルドルフくらいやろうと思う。
「コウ君は、赤鼻のトナカイという歌、知ってるね」
「うん」
「歌えるかな」
「ちょっと、だけなら」
「歌ってごらん」
「恥ずかしいな……」
「大丈夫や、コウ。お父さんも一緒に、歌うてやるから」
「分かった……」
J.マークス作詞・作曲 新田宣夫 訳
真っ赤なお鼻の トナカイさんは
いつもみんなの 笑い者
でもその年の クリスマスの日
サンタのおじさん 言いました
暗い夜道は ピカピカの
おまえの鼻が 役に立つのさ
いつも泣いてた トナカイさんは
今宵こそはと 喜びました
パチ、パチ、パチ……。
ワシは、ヘタやから一緒には歌えんけど、親子で歌うとるのを聞くのも、なかなかええもんや。
ハカセは、顔に似合わず、歌も上手いし、声もええから、よけいにそう感じる。このメルマガで、それを知らされへんのは、本当に残念やと思う。
もっとも、可愛い子供の声は別にして、おっさんの歌なんか聴きたいとは誰も考えんやろけどな。
「どう?この歌から何か感じるかな?」
「どうて、言われても……分からへん……」
「そうか、学校なんかで、この歌の意味を教えたら、いじめなんかはなくなると思うんやがな」
歌詞の意味は、それで分かりそうなもんやが、念のため言うとく。
「真っ赤なお鼻のルドルフ」というのは、今から42年前の1964年、アメリカNBCテレビで制作されたアニメの題名で、歴史的なヒットとなったものが最も有名や。
今でもアメリカの子供たちは、クリスマスになるとこのアニメを楽しんでいるという。
生まれつき真っ赤な鼻をしていたルドルフは、他と違うその鼻のせいでいつもみんなに、いじめられて馬鹿にされ、悲しくて泣いてばかりいた。
あるクリスマス・イブのこと、8頭のトナカイがサンタクロースを乗せて出発しようとしたところ、突然、深い霧が辺り一面に立ち込めてきた。
「こんなに暗くては煙突を探すこともできない……」
サンタクロースは暗闇の中では出発することもできず、困り果てていた。
その頃、毎年世界中を駆け巡ってすでに英雄になっていた8頭のトナカイたちを一目見ようと多くのギャラリーが集まっていた。
その彼らが、何やら騒いでいた。
注目されてたのはルドルフやった。なんと、その赤い鼻がピカピカと光っていて目立ったからや。
「これだ!」とサンタクロースは思った。
サンタクロースがルドルフに近づいていくと、その赤鼻をいつものように、みんなに笑われていると思ったルドルフは悲しくて泣いていた。
サンタはルドルフに優しく言った。
「君は他のみんなとは違う。でも、だからこそ、すごいんだよ。君のそのピカピカの赤い鼻は、暗い夜道を照らすことができるんだ。どうか、それでわたしを助けてくれないか」
その夜、先頭を走るルドルフの活躍によって無事に多くの子供たちにプレゼントが届けられることになった。
そして、ルドルフは、一躍みんなの憧れるもっとも有名なトナカイになったということや。
あんなに嫌で、コンプレックスでしかなかった赤い鼻のお陰で、世界中の人気者になった。
この年から、9頭でソリを引くようになり、ルドルフは、クリスマス・イブの夜、常にその先頭で世界中の子供たちの夢を運ぶために走っているという。
そんなストーリーがあった。
これが、なんでいじめの教材になるのかは、もう説明せんでも、分かるわな。
これも、ワシが普段から言うてることと重なるが、欠点は必ずしも欠点にはならんということや。
マイナスも捉え方によればプラスになるという、ええ教訓が含まれとるわけや。
どんな人間でも、その長所は必ずある。
子供らに、それを教えれば、人を尊敬する心も芽生え、バカにしたり、いじめたりすることはなくなるのやないかと思う。
実は、この話が生まれた背景には、次のようなことがあったという。
今から、183年も前、1823年にサンタクロースと8頭のトナカイの話は、すでに出版されいた。
その話が、一般にも定着した1939年の12月。シカゴ在住のロバート・メイにより「真っ赤なお鼻のルドルフ」の話が発表された。
ロバートは、妻のエバリン、娘のバーバラと3人で幸せに暮らしていた。
娘のバーバラが2歳になったころ、最愛の妻、エバリンが病に倒れた。
ある会社のコピーライターをしていたロバートの収入はその治療費と薬代に消え、生活は苦しくなるばかりだった。
やがて、4歳になったバーバラがロバートに言った。
「どうして私のママは、みんなと違うの?」
この質問に、ロバートはショックを受けた。
ロバートは、幼い頃から体が小さくて良くいじめられていた。また、家も貧しいため進学することもできず、良い仕事にもつけなかった。
やっと得た仕事も薄給で、治療費のために借金だらけや。ロバートは、娘の質問にどう答えたらええのかと窮する。
そのとき、娘を喜ばせたいという一心で閃いたのが「真っ赤なお鼻のルドルフ」の話やったというわけや。
それは、ロバートの即興やった。
自分の思いとコンプレックスを赤鼻のルドルフという存在を創作することで、神様に創られた生き物はいつかきっと幸せになれるということを、幼い娘、病と闘う妻、そして自分自身に言い聞かせたかったからやという。
その後、娘にせがまれて毎晩この話をするようになったロバートは、クリスマスプレゼントとして、それを手製の本にまとめ始めた。
プレゼントを買う余裕のないロバートにとって、それは娘や妻への心のこもった贈り物やった。しかし、完成を目前にして最愛の妻、エバリンがこの世を去ってしまう。
失意に打ちのめされたロバートは、それでも、本を完成させ、愛する娘を喜ばせた。
数日後、所属する会社のパーティーでロバートが「真っ赤なお鼻のルドルフ」の話を朗読すると、会場から割れんばかりの拍手が湧き起こった。
それがきっかけで1939年、その会社でもある大手デパートのモンゴメリー・ウォードから実に240万冊もの本が宣伝用として無料で配られることになり、この物語が一躍世界中に広がっていった。
やがて、その10年後の1949年にロバートの義兄弟、ジョニー・マークスによってお馴染みの歌が作られ、クリスマスの定番として愛され続けているというわけや。
「コウ君、この話を聞いてどう思う?」
「そんなことがあるとは知らんかった。すごいね」
「そうやな。ワシもええ話やと思う」
聞き慣れた、クリスマス・ソングに、そういう事情があったと知れば、子供たちの考え方も変わってくるやろうと思う。
少なくとも、この話を知った子供らからは、いじめというのはなくなるはずや。その意味でも、学校でも家でも、子供にこういう話を多く聞かせるべきやと思う。
ワシらの子供の頃には、その手の話が数多くあった。確か、教科書にも載っていたと記憶しとる。
レ・ミゼラブルの『ああ無情』、エクトーリ・アンロ・マロ『家なき子』、ウィーダの『フランダースの犬』というのを、小学校の低学年の頃に読んで涙したのを、今でも覚えとる。
もちろん、今もそういう本が読みたければ、学校の図書館や街の図書館に行けば、たいていの所にあるはずや。
ただ、今の子は、その同じ本を読んでも、感動というか共感することが少なくなっとるようや。
もっとも、それ以前に、そういう本すら手にすることが少ないというのを、ワシがよく行く図書館の関係者に聞いたことがある。
その当時、ワシらが子供の頃やった40年ほど前は、日本もまだ貧しい国やった。貧乏というのが、取り立てて珍しいことでもなかったからな。
車やテレビのない家庭は普通やし、1冊、30円の漫画週刊誌も買えん子供の方が圧倒的に多かった。
ワシらが、感動して同情した主人公たちは、いずれも、それよりもさらに貧しさの極致におるような人物ばかりや。よけいに、涙を誘うということになる。
それは、アメリカでも同じで、その「真っ赤なお鼻のルドルフ」の流行った1939年頃も、やはり多くの一般市民は貧しかったという。
せやから、この作者のロバートがおかれた状況というのは、極端ではなかったのやないかと思われる。
ただ、やはり、一般のそれよりも、少し過酷やったから、その話が爆発的にヒットしたのやと思う。
貧しさがあった故に、人々の心は却って思いやりに溢れていた。そんな古き良き時代やったわけや。
それが、今は失われつつある。
日本の社会から感動が減って、悲惨な凶悪事件やいじめ、自殺という問題ばかりがクローズアップしてきとるのと、世の中が便利になり裕福になったというのが、それと正比例しとるような気がしてならん。
どちらが、ええかくらいは誰にも分かることやけど、人は一度、極上のステーキの味を知り、それがいつでも食べられる状況になると、安い肉で我慢しようとは思わんものや。
今の日本人に、車やテレビのない生活が考えられんのと同じ理屈やと思う。いくら、その頃が人情に溢れた素晴らしい時代やったと力説してもな。
我欲、物欲は、人の心の荒廃を招く。簡単な真理やが、それを元に戻すことは、おそらく今の日本では無理やろうと思う。
それでも、その荒廃の徴候として現れとる凶悪犯罪やいじめに対しては「真っ赤なお鼻のルドルフ」のような話を学校で、あるいは家庭ですることで減るはずやと信じとる。
まだ、コウ君のようにそれで感動する子は多いはずやから、今なら、それで救われる。そんな気がするんやけどな。