メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話
第128回 新聞拡張員ゲンさんの裏話
発行日 2007.1.19
■許されぬ仁義なき拡張
ある販売店から、団に特拡(特別拡張)の要請があった。
特拡というのは、イベント的なものか応援的な意味合いのものが多い。その規模や形態は、まちまちで、たいていは不定期に行われる。
事前に判明しとるものは日程に組み込まれることもあるし、突発的に行われることもある。
大人数で繰り出すこともあれば、2,3人程度でお茶を濁すということもある。近場もあれば、泊まりがけの遠距離もある。
決まった形というものがない。特拡と言われる所以や。
このケースは、突発的なものやった。
しかも、報復的な意味合いが含まれていたから、大勢が動員された。
「あんな仁義を弁えんような所(販売店)は潰したる!!」
所長の堂本は(仮名)拳を握りしめ、そう吠えた。
もちろん、それには、それなりの理由があった。
この業界は、典型的な競争社会や。
特に、新聞販売店やワシら拡張員は、初めからその営業エリアを決められとるから、その中でしか客を確保することはできん仕組みになっとる。
新聞宅配制度というのがそれや。
新聞社は、新聞販売店の経営希望者を様々な形で募る。
新聞社が主催する専門の講習会を卒業した者、長く業界に勤めていた者、あるいは有力販売店が推薦した者の中から、経営者にふさわしいと認めた人間と業務取引契約書というのを交わす。
それには「新聞の新規開拓およびPR、宅配を主たる業務とすること」と記されている。新聞社により、その文言は多少変わるが、内容的には同じや。
販売店は宅配に力を入れとると思われがちやが、客を増すことの方に、よりウェートをかけとるというのが実状や。
新聞社の販売店への評価の基準が、購読部数の増減にあるからな。それによって、販売店の命運が決まると言うてもええ。
部数を増やせば優良店と評価され、部数を減らせば経営能力がないと見られる。
その程度により、業務取引契約を打ち切られ、実質、廃業に追い込まれることもある。業界で改廃と言われとるものが、それや。
一方、宅配業務は、100%不配や誤配がないのが当たり前で、それが守られとるからと言うて、新聞社から特に評価されることはない。
実際、不配なんかがあったとしても、新聞本社に「まだ、新聞が入ってないで」と文句を言う客も少ないから、評価しようにも分かりにくいということもあるのやがな。
もっとも、販売店内では、不配、誤配は配達員に対しての評価の対象にはなるが、それよりも増紙に貢献した人間の方が、より優遇されるという構図があるのは確かなようや。
因みに、たいていの販売店では不配、誤配にペナルティというのはつきもので、これは、そうすることで客が怒って「解約や」と言われることを防ぎたいという思いが、そこにあるからや。
その根底にあるのは、部数を減らしたくない、減らすわけにはいかんということに尽きると思う。
そのエリア内に1万人の読者がおるとすれば、その1万人の取り合いを、各新聞販売店がすることになる。
一方が客を増やせば、他方は減る。すべてが増えるということは考え辛い世界や。
その結果が、即、お互いの命運を左右するわけやから、その勧誘も甘い考えではやっていけんわけや。
嫌でも、その競争に勝ち残るしか生き残る道はない。
それは、ワシら拡張員も同じや。
拡張団もカード(契約)数の上がりが少なければ、販売店と同じように、新聞社から業務取引契約を打ち切られ潰されることになる。
将来的な展望より、短期的な結果を要求される構図がそこにある。
極端な話、結果を出さんと即、潰されるかも知れんわけや。常に、そういう差し迫った状況に置かれとると言うても過言やない。
しかし、例えそうやとしても、この業界にはやったらあかんことがある。暗黙の了解事項、俗に言う仁義というものがあるわけや。
業界では、そんな仁義に外れた勧誘をする者を「外道」と呼び忌み嫌う。
その仁義に外れた勧誘をすれば、それなりのしっぺ返しを食らうことを覚悟せなあかん。
たいていの販売店は、そういう真似をされれば、それ相応の反撃する。
また、それを許すようやと、逆に改廃の憂き目に遭うことすらあるから「放っとけ」では済まされんわけや。
お互いの販売店、拡張団は、それを熟知しとるから、滅多なことで仁義に外れるような真似をすることはない。
この仁義に外れた勧誘というのは、一般の人が思い描くものとは、かなり違う。
喝勧や置き勧、てんぷら、ヒッカケなどという、多くの購読者が迷惑に思う不法行為を指して言うことは少ない。
確かに、それらは褒められたことやないけど、販売店同士の仁義に外れた勧誘とまでは言わん。ただの、えげつない行為で終わる。
そういうことをすれば、結果的には、その販売店自身の評判、信用を失墜させるだけのことやから、むきになることもない。
放っておいたとしても、いずれ墓穴を掘るからな。自分で自分の首を絞めることになるのが関の山や。
せやから、たいていの販売店は「えぐいことをするもんやな」と言うて放っておく。
この業界で仁義にもとる拡張というのは、客がすでに契約をしとるものを、何らかの方法を用いて解約させ、横取りするような行為のことや。
客が「もう他と契約してますんで」と言えば「それなら、その後の契約で結構なのでお願いできますか」と持ちかけるのが普通で、それが業界の仁義や。
しかし、その仁義を平然と破る販売店があった。
ライバル紙の上野販売店(仮名)というのがそれや。そこの所長は、上野という、30代の若い男やった。
まだ店を始めて数ヶ月ということやから、この道、20年の堂本にとっては、駆け出しのヒヨッ子というところや。
この地域では、堂本の店の方が圧倒的なシェアを誇っていたから、正直、歯牙にもかけてなかった相手や。
ある日、堂本の店に配達証明付きハガキでクーリング・オフの通知書が1通届いた。
「まあ、そういうこともあるやろ」と、そのときは軽く考え、そのままにした。
もっとも、客に「なぜですか」とヘタに詰め寄ると、違法行為にも問われかねんから放っとくしかないんやがな。
それに、クーリング・オフの通知を出すような人間を翻意させるのも難しいということもある。
ところが、その日を境に、やたらとクーリング・オフの通知が舞い込むようになった。
一週間で5件。これは、公売1万部を越す比較的大型店と言われる堂本の所でも、異常なことやった。過去にも、そういう経験はない。
加えて、クーリング・オフ期間を過ぎた先付け契約(予約)の相次ぐ解約申し込みがあった。それは一週間で10件になる。これも、異常な数字や。
その処理に当たった、店長やエリア責任者たちの報告が、すべて同じような内容のものやった。
「商品券や、S(無料購読期間サービスの略)での契約は、無効にできるはずや。違反だから、商品券返せば、解約は可能やろ」と客たちが異口同音に言うたという。
これは、おそらくライバル紙の勧誘員の入れ知恵によるものや。
客自ら違法やと思うとったとしたら、それを承知で契約して、それを理由に解約をしようとしとるということになる。
それは、どう考えてもおかしなことやし、普通の人間では考えつかんやろと思う。
また、そうする必然性が何もない。嫌なら、その場で、そう言うて断れば良かっただけの話や。
同じ時期に10人も口を揃えて、そう言うのもあり得んことや。
これが、違法と言う根拠は、景品表示法にある。この法律により、新聞購読契約の場合は、客に渡せる景品が制限されとる。
客に渡せる景品最高額を取引価格の8%又は6ヶ月分の購読料金の8%のいずれか低い金額の範囲内とするというのが、それや。
これを、業界では、俗に「6.8ルール」と呼んどる。
この法律は、その超過分の景品を渡すことで、実際に渡した勧誘員やそれを貰うた契約者個人が処罰されるという性質のものやない。
処罰対象は、新聞の場合、販売店のみとなる。それも、刑事罰のようなものは何もない。最高でも、排除命令というのがあるくらいや。
この排除命令というのを分かりやすく説明すれば、今までの罪を認めてこれからは違反しないということを公示(公に約束)しなさいということや。
そんな程度のものでしかない。
もっとも、それでも当事者は信用もなくすし商売に大きく影響する可能性があるから甘いもんやないやろうけどな。
販売店の場合は、それで新聞社から業務取引契約を打ち切られるということもあるかも知れん。そんな例は、ワシは知らんがな。
この違反は、警察に言うても管轄外やから取り合うことはまずない。管轄は、公正取引委員会ということになっとる。
公正取引委員会というのは、国の行政機関で内閣府の外局という位置づけになる。主に独占禁止法の取り締まりをしとる機関や。
因みに、景品表示法というのは、その独占禁止法の補完法ということになっとる。おまけやの法律やな。
その景品表示法に違反しとるということを暴くのやったら、ここの捜査官に通報するしかない。
しかし、例えそうしても摘発頻度となると、ほとんどないというのが実状のようや。そうしたという記録としては残るやろうがな。
それには、公正取引委員会の正職員が300名足らずしかおらんということも影響しとると思う。
しかも、そのほとんどが、本元の独占禁止法の調査や摘発に忙殺されとる。
景品表示法の調査や摘発にしても、新聞業界だけが相手やない。
対象業種、業者も膨大な数や。それらを書き連ねる気もせんほど多い。
しかも、調査対象が、商品の容器や包装、チラシ、パンフレット、ポスター、インターネットなど、ほとんどすべてを網羅せなあかんという。
こんな状態で、なかなか手が回るわけがない。
この法律が有名無実とまでは言わんが、少なくとも、一般が通報したところで、警察ほど対応はせんやろうということや。
もっとも、そうやからと言うて、これを見とる販売店の人は安心せん方がええ。数は少ないが、実際に摘発されとる販売店もあるのやからな。
違反というのは、それを摘発されん限りは、そうはならんものやというのがある。
例えて言えば、駐車違反区域に駐車するのは確かに違反行為には違いないが、それは、取り締まりにより摘発されて初めて、違反行為に問われ処罰の対象になる。
車を運転する者で、そういう駐車違反区域に停めたことがないと言える人間は、極端に少ないのやないやろうか。
もちろん、ワシもある。そして、それを違法行為やと認識したとしても、そうすることでの罪の意識は希薄なはずや。
また、そういう所に停めとるからと言うて「あいつは違反行為をしとるえげつない奴や」とまで非難されることも少ないやろうしな。
少なくとも、それで犯罪者扱いされることもないと思う。
それと同じことが、この勧誘の景品の渡し過ぎについても言えるということや。
堂本の店では、1年契約で5000円分の商品券を渡すか、3ヶ月の無料購読サービスをするか、いずれか好きな方を契約者に選ばせていた。
そして、これは、この地域一般の標準的なサービスでもある。全国的に見ても、行き過ぎた方とは言えん。
それでも、この景品表示法に照らせば違反ということになる。ただ、違反ではあるが、悪質性ということにかけては限りなく低いと個人的には思う。
むしろ、駐車違反の方が、人に迷惑をかけ、事故にもつながりかねん行為やから、より悪質やと言える。
それに対して、景品のやり過ぎに関して言えば、渡す方も貰う方も、どちらも納得づくやから、困ることはないと思う。むしろ、喜ばれることの方が多いくらいやないやろか。
手前勝手な論理、あるいはすり替えやと言われれば、そうかも知れんがな。
しかし、世間ではなぜか、新聞勧誘というだけで、それをとんでもない違法行為やと決めつけるという風潮があるのは確かや。えげつないとまで言う者もおる。
それが、あるから、契約を断るのなら「商品券や、S(無料購読期間サービスの略)での契約は、無効にできる。違反だから、商品券返せば、解約は可能や」と吹き込まれて、簡単に、それを信じて応じてしまうわけや。
ただ、どうしても、新聞が取りたくない、あるいは特定の販売店が気に入らないという理由からなら、それでもまだ分かる気はする。
そういうことも、往々にしてあるからな。客にそう思われ逃げられる側にも、それなりの落ち度はある。
しかし、このケースはそれとは違うた。
客も勧誘に来た人間に「もう、堂本さん所と契約してますから」と言うてる。
しかし、それを承知で、仁義を外れた勧誘をする奴は、その契約を断るトークを教えた上で「そうして頂ければ、こちらは同じ条件で1万円の商品券をお渡しします」と持ちかけとるわけや。
それを間に受けた人間がいてた。
そうやって勧誘する人間も人間やが、一度、正式に交わした契約をそれで簡単に反古にする客もおるわけや。節操がないと言うしかない。
調べた結果、その手引きをしたのが、上野販売店の勧誘員やったというのが分かった。
クーリング・オフ客を含む15人のほぼ全員がそうやった。
堂本は、上野に電話した。
こういうケースは、出入りの拡張員が独断でしたということもあり得るから、弁明の余地くらいは与えるつもりやった。
「上野君よ。おたくの行儀の悪い者が、こういうことをしとるわけや。困るなぁ。何かの間違いやと思うから、その人間を連れて詫び入れに来なさい。それで、今回は許すから」
「上野君やと、偉そうに。眠たいこと言うてたらあかんで。この世界、食うか食われるかと違うんかい。客を盗られたからというて一々、泣き言を言うなや」
「何やと!!ワレ、喧嘩売ろうちゅうのんか」
「何度も、同じことを言わせな。オレは、競争相手と仲良うする気なんかないわい。客の取り合いは、この世界、当たり前のことやんけ」
「そうか、分かった。お前がその気なら、こっちもそのつもりでやるからな」
堂本は、受話器を叩きつけるように降ろした。
これで、上野が店ぐるみで仕掛けとることやというのが、はっきりした。
堂本は、争い事が好きな男やない。どちらかと言えば、温厚な部類の人間と言える。ただ、筋の通らんことは我慢できんタイプでもある。
やられたらやり返す。この世界では当然とも言えることや。相手に舐められたら、この業界では飯を食うてはいけん。
そのあたりの考え方は、縄張りを死守しようとするヤクザのそれに似とる。それが、ええことか悪いことかに関係なく、生き残るにはそうするしかない。
堂本が「あんな仁義を弁えんような所(販売店)は潰したる!!」と吠えて、団に特拡を依頼してきたのは、そういう経緯があったわけや。
ただ、いくら、やられたらやり返すというても、同じような報復をするわけにはいかん。
相手が1万円の商品券を出すのなら、こちらは2万円分やというやり方は下策中の下策や。
そんなことをすれば、泥沼化して、ヘタをすると共倒れになるだけやさかいな。
こちらは、あくまでも正攻法でいく。
もちろん、通常では、大した成果は期待できんから、勧誘員の大幅増強を考える。この手の報復の常套手段でもある。
うちの団長と堂本は特に親しかったから、素早く特拡の編成が組まれた。
団員の8割、40名にも及ぶ人間が、その3日後、投入されることになった。店の従業員10名も投入されるから、総勢50名体制ということになる。
こういう特拡の場合、ワシら拡張員への条件は、格段に良うなることが多い。
堂本の狙いは、上野の客ということで、その客からの鞍替え契約を取れば、通常の1.5倍の拡張料が貰える。
加えて、その日、1日のワンディ・コンテストというのもある。上位10名まで、賞金が出るというものや。
さらに、班毎に競わすために、対抗戦のようなこともする。勝った班には、それなりの褒美、報酬が約束される。
そして、普段は、あまり長時間働くことのない拡張員を仕事に集中させる意味で、案内拡張や連勧で拡張することになった。
案内拡張というのは、店の従業員が、拡張する地域や家を指定して、文字通り付きっきりで案内するという拡張方法や。因みに、店の従業員のほとんどは、これに駆り出される。
ただ、案内というのは、一人の従業員で多くても拡張員は3名までが限度やから、それ以外は、連勧となる。
連勧というのは、たいてい4,5人のグループ毎にまとまって移動しながらするやり方や。移動は、車でする。
これらの方法は、店がデータを提供して、上野の客を攻めやすくするためやった。
他店の客のデータなど簡単に分かるのかという質問が、たまにサイトのQ&Aにくる。
これは、同じ地域で営業しとる販売店同士やと、個人情報の探り合いという大袈裟なことやなくても、その気になれば簡単に分かる方法がいくらもある。
まず、配達員は、他店の配達員のことも良う知っとる者が多いから、上野の配達員が投函しとる家も、見当くらいはつく。
また、この地域は、どこの販売店でも、日を決め、新聞の回収をしとるから、その回収日にチェックして廻ることでも分かる。
たいていは、玄関口にその新聞を出しとるから、それを調べるのは簡単なことや。
他には、交代読者のリストからでも分かるし、個人的にどこの家がどの新聞を取っとるかというのを記録しとる者もおる。
ワシも、叩いた(訪問した)家のデータは手帳に記録しとるしな。
それらで、たいていは、どこの誰がどの新聞を取っとるかというのが分かる。
それでも分からんかったら、直接、その家に聞けばええ。「○○新聞ですけど、現在、どちらの新聞をご購読でしょうか」という具合やな。
勧誘に応じてもええなという者も、断ろうとする者も、それくらいの情報は言う場合が多いからな。
それが、上野の客やと分かったら、重点的に攻めればええということや。
その攻め方は、拡張員により、千差万別いろいろある。
ただ、堂本は、いくら報復のためとはいえ、バンク(営業エリア)内を荒らすようなことはしたくはなかった。
拡材(商品券、景品類)を奮発すれば、より効果的かも知れんが、それやと、後々、収拾がつかんようになる。
「うちは5000円の商品券しか貰うてないのに、何で隣は1万円の商品券なんや」という苦情が必ず出るからな。
そういう苦情は、後々の商売に必ず支障をきたす。
因みに、上野が1万円の商品券で転ばせた客は無視することに決めた。
そういう客を取り合いするのは、渡す拡材の高騰につながるということもあるが、それ以上に、そういうもので簡単に転ぶ客は必要ないということや。
購読者に販売店を選ぶ権利があるように、販売店も客を選ぶ権利がある。
おそらく、上野も、こちらに対抗するために、その方法を踏襲するはずや。
これが経済的にも余裕のある大型販売店が相手なら、安閑とはしてられんかも知れんが、まだ、この商売を初めて数ヶ月という上野の経済力では、タカが知れてる。
そういう経済力のない販売店が、拡材を出費することだけで客を増やしても、自分の首を絞めるだけのことにしかならん。
せやから、客に渡す拡材は、いつもと変わらないものにする方が、結果的には賢い選択ということになる。
その分、拡張員に、いつも以上の報酬を渡すことにしたわけや。
それに加えて、今回は特別に、例えパンクや坊主で契約を上げられんかった者へも足代として一律に3000円を出すことも考えた。
エサをバラ撒いて獲物を集めるのやなく、それを狩るハンターにおいしいエサをちらつかせるということや。
この方法なら、一過性のことやから、出費は一事的なもので済む。
どこの新聞販売店の客にも、長期購読者というのはおる。
たいていの拡張員は、普段はそういう客をターゲットには選ばんことの方が多い。
読み慣れた新聞を替える人間は少ないからな。徒労に終わることの方が多いわけや。
しかし、中には、新聞を替えたいと考えとる者や、その販売店を快く思うてない者も結構な数おる。
過去に不配や誤配、遅配があったとか、長期読者故に何の景品も貰うてないという不満を持っとるケースがそれや。
そういう人間と出会せば驚くほど簡単にカード(契約)になることがある。
ただ、普段、そういう長期購読者を敬遠するということが多いから、ものにできんだけのことやと思う。
それが、今回のように、総勢50名もの大人数で、案内、連勧というほぼローラー作戦的に廻れば、そういう客も、かなりな数、拾えることになる。
加えて、この特拡は、ワシら拡張員にすれば、お祭り的な側面もあるから、普段より意気込みも違うてくる。それは単に報酬がええからだけやない。
「おい、A班は2時までに10本上げたらしいで」
「B班は15本やて」
「山本班長が5本で、今、トップらしい」
こんな情報が飛び交う。今は、ほとんどの拡張員が携帯電話を持っとるから、瞬時に情報が拡がる。
こういうお祭り状態というのは、拡張員の勧誘意欲を増大させる。
もともと、この世界は競争社会やから、人に負けたないという気持ちが強いさかいな。また、その気持ちがなかったら、この仕事は続けられん。
「あいつだけには負けられん」という意識が働くわけや。
営業の仕事はメンタルな部分に支えられとるから、この効果には絶大なものがある。
効果は予想通りやった。1日のカード総数、180本。うち上野の客からは実に155本もの切り替え契約に成功した。
これは、公部数3000ほどの上野の販売店にしたら、相当な数の痛手や。
もちろん、上野の方にも、堂本が拡張員を動員したという情報が入っとるから、手をこまねいていたわけやない。
それなりの対抗手段として、出入りの団から、同じように応援を要請していた。
ちょっとした、拡張戦争が勃発したわけや。
しかし、勝負はあっけなくついた。
堂本は、ワシらの団だけやなく、出入りの他団にも同じような特拡を要請して集中攻撃に出た。同じようなことを週に三度。徹底していた。
こうなれば、経済力、組織力のある方が断然有利になる。
こういう事態は、上野の新聞本社にも、すぐ知れる。
そして、契約横取りという暴挙が原因やと知れば、当然のように上野に警告する。詫びを入れて手打ちをしろと。
新聞本社にしても、これ以上、購読客を減らすわけにはいかん。この事態をほっとけば、被害はまだまだ増大するやろうからな。
上野は、新聞社の経営者募集に応募して所長になった男や。古くからある業界の仁義というものを知らんかった。
新聞社の講習でも、営業力で購読者を増やせとしか教わってない。部数を伸ばすことしか頭になかった。そのためには、何でもアリやと考えた。
せやから「客の取り合いは、この世界、当たり前のことやんけ」という言葉を平気で吐けたわけや。
仁義、筋道を外したら、こういう報復が待っているとは知らんかったということになる。
この道で長年叩き上げた堂本のような人間なら、そういうことは熟知しとるから、迂闊にこんな真似はできんと知っとるのやがな。
結局、詫びを入れて事態は沈静化されたが、この世界、一度引いたら引いた方が負けになるというのも確かなことや。
普通の世界なら、詫びを入れれば、たいていはそれで済む。それが例え、ヤクザであろうともな。
しかし、この業界は、一度そうすると、勧誘の志気が極端に減退する。事実、上野も、勧誘に力を入れられんようになった。
それに加えて、このことを境に、この地域では協定が結ばれて、拡材の上限が制限されることになったことも、上野にとってはマイナスに作用した。
そうなれば、1万円の商品券で取った客にも「決まりで5000円分の商品券しかお渡しできないんですよ」とふれて廻らなあかんようになる。
当然、客は「約束と違う。そんなもの詐欺やないか」と言うて怒って「解約や」となる。
そうなれば、必然的に部数も伸びんようになるし、信用も失墜する。
結局、その後、半年足らずで改廃の憂き目に遭うたということや。
これに似た事案は、この業界には結構ある。
これに心当たりのある販売店に警告するが、悪いことは言わん。他店の契約潰しのような仁義に外れた行為は即刻止めとくことや。
部数を伸ばすのなら、正攻法で堂々とした方がええ。結果、それが一番、実になることやと思うからな。