メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話

第131回 新聞拡張員ゲンさんの裏話     

発行日時 2007.2. 9


■ゲンさんのトラブル解決法 Part 4 受け流しのテクニック

その日、ワシは、いつもより早めに事務所に自家用車で出社していた。

事務所には、事務員のヨーコ以外、まだ誰も来ていない。

「ゲンさん、私、もう辞めようかと思うの……」

ヨーコが、煎れたてのブラックコーヒーを、ワシの机の上に置きながら、疲れた表情でそう洩らした。

ヨーコは、この団で5年ほど事務員を続けとるベテランでもある。

歳は30代半ば過ぎで取り立てて美人というほどではないが、良く気がつく、気のええ女性や。結婚していて小学生の女の子が一人いるという。

拡張団の事務員というのは、あまり世間では知られることはないが、誰にでも務まるというもんやない。 単なる普通の営業会社の事務員というのとは、少し違うさかいな。

意外に思うかも知れんが、拡張団の事務所にも、一般購読客からの電話が結構入る。と言うても、普通の人が団の電話番号を調べてかけてくるというのは、ほとんどない。電話帳で調べても素人さんでは分かりにくいしな。

業界関係者以外で団の電話番号を知ることができるのは、団員が渡す名刺を受 け取った客くらいなもんやと思う。

総じて拡張団の事務員は、その電話対応が上手い。また、そうやなかったら、 やっていけん。

電話がかかってくる。

「はい、こちらは○○企画ですが」 「そちらに、○○という営業の人がおられるでしょうか?」 「失礼ですが、どちら様でしょうか?」 「山下という者ですが……」

事務員のヨーコは、相手の声の調子や様子で判断し、その対応を変えるという。

クレーム客なのか、その他の問い合わせなのかを見極めるということや。

その他の問い合わせというのは、金融屋や興信所、他団、他新聞の販売店関係 者などを指す。 金融屋や興信所からのものは、人捜しが目的や。

ほとんどが、借金を踏み倒し て逃げとる人間を捜すケースが多い。 拡張団には、そういう人間が集まるもんやと昔から思われとる。あえて否定は せんがな。

ただ、拡張団は団員を守ることを最優先する所が多い。

簡単に、そういう連中 の探りに乗り、本人を電話口に出すようなことはまずせん。

「失礼ですが、どちらにお住まいの山下様でしょうか?」 客の場合なら「○○町一丁目の山下」と住所で答えることが多い。その住所が、 団の営業範囲内にある所なら、本当に客やと判断してもええ。

しかし、さらに確認するのは怠らんがな。

「あいにく、西山は外出中ですので、よろしければ、ご用件をお伺いしますが」 「実は、先日、交わした契約の確認のことなんですが……」 それで、客と間違いないと判断すれば、すぐその団員に連絡を入れる。

そうやなく、明らかに客と違うと思えば「当社には、西山という人間は複数、在籍していますので、申し訳ありませんが、下の名前の部分をお知らせ願えませんか」と言う。

その名前が本名の場合は「大変、申し訳ありませんが、そのような名前の者は、当社にはいません」と答える。

これは、うちの団だけに限ったことかも知れんが、わけアリの団員の名刺は、名前の部分を一部変更しとるということがあるからや。

全くの偽名というのも、昔はあったが、今はセールス登録証を作成する関係か ら認められとらん。 そういうことが発覚すると拙いから、うちの団でそれはない。

もちろん、最初から、そういう人間をフルネームで問い合わせしてくる場合は、 即座に「そういう人間はいません」と答える。

わけアリ団員は、名前の一字変更か、もしくは本来の読み方とは違うルビを振 っとる場合が多い。

つまり、その一字違いか、ルビを振った名前やなく、本名を言う人間は、追い 込みをかけとる金融屋の可能性があるということやな。

ただ、そういう事情すら言うてない団員もおるから「身内やけど」という問い合わせがあれば、在籍を伝えることもある。

ただ、いずれにしても、そう簡単には、電話を直接、団員につなぐようなこと はせん。

よほど、良く知っとる販売店の人間というのなら別やがな。 ただ、本当の客からのクレームも同じように直接伝えんというか、実際に伝 られん場合もある。

通常、拡張団の事務所に電話連絡が可能なのは、月曜日から金曜日までの午前 9時から午後5時くらいまでというのが、一般的や。普通の会社の営業時間やと思えばええ。

その時間帯の中で団員が事務所にいとるのは、午前10時30分から午前11時過ぎくらいの間に限られとる。

しかも、その中であっても朝礼が始まる時間帯は、よほどのことでもない限り取り次ぐことはまずない。 たまたまその時間帯にかかってきた電話を当人に伝えるのは、朝礼が終わって からになる。

それ以外は、それぞれの携帯電話に伝える。

クレーム客の場合は、文句が言いたくてその電話をしとるわけやから、相手がおらんというのは不満に思いがちや。 どうしても、事務員にその不満をぶつける場合がある。

「まだ、商品券、届いてないで」 「まだ約束のチケット(野球、演劇、コンサートなどの無料招待券)を持って 来られないけど、どうなってるの?」 「いつでも、解約できるからということで契約したのに、販売店に電話したら、 あかんちゅうやないか。どないなっとんねん」 という具合や。

これが、その通りやとしたら、その団員に責任のあることやと言える。それもあり、怒っとる客は、謝罪を強要することが多い。

しかし、安易な謝罪は、事をややこしくする畏れがあるから、その苦情をゆっ くり聞いた上で、やんわりとかわす。 「分かりました。そのように担当の営業員にはお伝えしますので……」 と、暗に事務員に苦情言うてもどうにもならんというニュアンスを伝える。

ヨーコは、安易な謝罪の代わりに、本当に申し訳ないという声の調子を意識して出すのやという。か弱い事務員を装うわけやな。

同じ台詞でも、それこそ事務的に言うてるだけやったら、しつこい人間は、とことん噛みついてくるからな。収拾がつかんようになる。

苦情を聞く場合は、その当人の言うことだけを鵜呑みにしたらあかん。 立場が違えば、同じ結果であっても、そうする理由や事情が、客の言うてることとは、まったく逆ということもあるし、勘違いということもある。

例えば「まだ、商品券、届いてないで」ということにしても、本当は届けに行 ったのやが、たまたまその客が留守やったということもある。

あるいは、すぐ届けるというのが、貰う方は翌日と受け取ることもあれば、持 って行く方が1週間後でもすぐやと考えるということもある。

確実な日を決めて、その日に来ないというのなら別やが、そういうケースは、 お互いの思い違いということになる。

ただ、そうは思うても、その通りストレートに伝えるとヤブ蛇になる畏れもあるから、演技でも、済まないという雰囲気を演出するわけや。

もちろん、言い訳もせん方がええ。クレームを聞くことに慣れてないと、つい言い訳をしたくなるもんやけどな。

これは、苦情処理対応のテクニックの一つでもある。

「昨日の契約、クーリング・オフしたいんですけど」 「引っ越しが決まったんですけど、どうしたらいいですか?」 というようなことなら、契約を交わした団員に確認を取りたいという気持ちは分かる。

これは、クレームやなく相談事やから、その本人に連絡させると言えば、たいていは納得する。

しかし、中には無茶なことを言う客もおる。

「朝、販売店の人に新聞が入ってないと何度も言っているのに、一体いつになったら持ってくるの?これ以上、待たされるのでしたら新聞止めますからね」 「今日の、この記事の内容は何や。あんた所の新聞は何を考えとんのや」という具合や。

ワシらからしたら、とんでもない言いがかりなんやが、客にしてみれば、新聞社、販売店、拡張員(営業員)は、一体という考えが強いから、そうなりやす いわけや。

特に、団員が渡す名刺には、○○新聞というロゴが目を引くようになっとるから、新聞社の営業社員やと思う人もおるわけや。

せやから、本人は、新聞社の支店にでもかけとるつもりになっとる。 新聞社の社員に個人宅を訪問する営業マンなんかおらんというのを知っとる人間の方が圧倒的に少ないからな。

ヨーコは、最初のうちは、それらの対応が上手くできんと悩んどったが、ワシ がちょっとしたコツを教えたら、比較的上手くあしらえるようになったという。

コツと言うても、それほど難しいことやない。

基本は、話を良く聞くことや。相手の苦情に、それぞれ反論するのやなく、取 り敢えず、無茶な言い分も含めて聞くことに徹する。

その上で、逃げられる部分はそう説明する。

「そういうことでしたら、担当の○○に伝えておきますので」 「当社は、宅配についての苦情を申されても、管轄が違いますので、やはり、 その販売店に言って頂くしかありせん」 「当社は営業部門のみの担当ですので、新聞記事を作成しているわけではあり ませんので、それは、新聞本社の方に言って頂く方がよろしいかと思います」 という具合やな。

このときも、同じように、か弱い事務員を演出することで対 応するわけや。

こういうケースでの断りの文句は、新聞社の苦情センターあたりを参考にしたらええと思う。

苦情を聞き慣れとる分、返答が早い。ただ、客受けがええかどうかは、あくまでも担当者次第やがな。

客が「契約のことで販売店と揉めている」と言えば「申し訳ありませんが、契約のことに関しては、新聞社はタッチできませんので、お客様のご意向を販売 店にお伝えしておきますから」と逃げを打つことが多い。

「クーリング・オフをしたい」と言えば「書面にて、指定の期日内にして頂ければ結構かと思います」と坦々と答える。それに対して、考え直してほしいというような言動はほとんどない。

もっとも、そんなことを一々客に頼み込んでいたら、収拾がつかんようになるのかも知れんけどな。

それに、それは販売店の仕事やと割り切っとるということもある。

たいていの苦情に備えて、横にそのマニュアルを置いて対応しとるということや。

まあ、そういうのは、新聞社に限らず、どこでもしとることではあるがな。

業者にとって、この苦情を聞く、あるいは処理するということが、客対応の中では一番やっかいなことやと思う。

実際、揉め事があって顧客から名指しの電話がかかってきても、その電話に出ようとせん担当者が圧倒的に多いさかいな。

居留守を使うというのは、ある意味、常識ですらある。苦情やクレームからは誰しも逃げたいわけや。団員も、それは同じで、客からクレームやと分かると、なかなか電話に出たがらんし、そこに連絡を取ろうともせん。

残念ながら、それが現実や。

ワシのように、クレームはチャンスやと捉える人間の方が少ないということやと思う。

勿体ない話やと思うのやが、そういう人間は、所詮それだけの器の者やから、仕方ないんやけどな。

ただ、そういう団員がおれば、そのクレーム客は、さらにヒートアップした文句を事務員であるヨーコに投げかけてくる。

「いつになったら連絡とれるんや。ええ加減なことばかり言うな」と。

そのことを、当事者である団員に言うても「そのうち連絡する」と逃げるだけに終始する。埒があかん。

仕方なく、団長に伝えても、その団員を怒るどころか、ヨーコに「上手くあし らっておいてくれ」で終わるという。

拡張団としての性質上、少々のクレームは仕方ないという雰囲気が昔からあるにはある。営業において行き過ぎたトークというのも確かにあるからな。

まあ、これは、拡張団に限らず、営業に携わる多くの業者にも同じようなこと が言えるがな。

ただ、因果なことに、そういうクレームのある団員ほど成績がええという傾向にあるから、よけい団長もきつくは言えんという背景があるわけや。

しかし、それでは、そういう文句を聞かされ攻撃される側はたまったもんやない。

「こんな場合、どうしたらいいんですか?」

ヨーコは業を煮やしてそう聞いてくる。

「しゃあないな。そんなガキ、入院させるか、殺せ」と教える。

何を物騒なと思うかも知れんが、本当にそうするわけやない。客にそう言う わけや。

「誠に申し訳ありませんが、担当の○○は、ただいま病気で入院していまして ……」 あるいは「○○は、先日、交通事故で死亡しまして……」という具合や。

こう言えば、どんなに怒っとる客も、その矛先が鈍るからな。それでも尚、文句を言い続ける人間というのは少ない。

もちろん、褒められたやり方やないのは百も承知やが、こういうのも、あると いうことや。

「○○さん、あなたは希望ヶ丘では死人ですから、そのつもりで」とヨーコ。

「分かった。しばらく寄り付かんようにする。悪かったな」となる。

それで、その団員は助かったと思うわけや。姑息やけど、それで収まるのなら良しということになる。そんな風潮がある。 もちろん、他の拡張団ではどうかは知らんがな。

ヨーコが辞めたいというのは、そういう対応に疲れたからというのとは違う。 むしろ、その程度は日常茶飯事でもあるから、そんなことを苦にするくらい なら、とうの昔に辞めとる。

「また、急に……何かあったんか……」

「班長のキノシタさんが……」 班長のキノシタというのは、とにかく文句の多いことでは団内でも有名な男や。

特に下の者からの受けが悪く、毛嫌いされとるという話を良く聞く。

団長や部長、それにワシらのような古株には比較的愛想もええし、そう う態度も取らんのやがな。

上にへつらい、下に横柄という典型的な奴や。

そのキノシタが最近、ヨーコにきつく当たるようになり、何かにつけ、揚げ足を取るのやという。

現在の事務員の仕事は大半がパソコンに依存しとる。

あるとき、キノシタから、ある地域の顧客データを大急ぎで揃えるよう言われたことがあった。

そのとき、たまたま、パソコンがフリーズして手間取った。

「何やて、機械が動かんやと。何のためのパソコンや。普段から、ちゃん と調整しとらんから、そうなるんや」と毒づいた。

「そんなことを言われても、いつフリーズするかまでは分かりません」と 言うが、それに理解を示す風はまるでない。

むしろ、鬼の首を取ったよう に嵩にかかるという。

フリーズしたら、再起動したらええだけのことや。時間的なロスも5,6 分程度で済む。その僅かな時間さえ、攻撃の理由にする。

こういうキノシタのようなタイプにとっては、その攻撃の材料は何でもええわけや。

そのことに文句が言いたくて言うというより、攻撃できる相手であれば、誰でもええということになる。 その理由も、こういう奴にかかったら無尽蔵に見つけられる。

狙われた人間にすれば、これほどタチの悪い相手はおらんということになる。

ただ、こういう相手にも対処法というのはある。

それは、その攻撃したきたことを真剣に捉えず、受け流すことや。

「何やっとんねん。何やらしても遅いな」

「済みません。不器用なもので」 という具合に、相手が指摘してきたことを反発するのやなく、なるべく調 子を合わせるようにすることや。

こういうタイプは、何かの拍子に「逆らった」と感じたら、それだけで根に持つことが多い。

せやから、自分の正当性を主張しようと考えたら、どうしてもぶつかってしまう。

そういう人間の思考回路にあるのは、正しいか間違いかやなく、逆らうたか、逆らわんかという判断基準だけや。

こういうタイプの人間とは、相手をすればするだけバカを見ると考える とや。アホを相手にしとると考えれば、逆に精神的に優位に立てるやろうから苦にすることも少なくなるはずや。

言うて来たことに逆らわんという対応だけでも、かなり違うてくると思う。

荒波にさらされた岸壁は、ごつごつして浸食が激しいが、川の流れに身を任す小石は角が取れて自然に丸くなるもんや。

その丸い石は、どんな急流に巻き込まれようと、傷つくことが少ないというのと似た理屈やと思えばええ。

ただ、そういう境地になれと言うても、難しいことではあるがな。どれだけ、相手を精神的に高みから見られるかということに尽きるからな。

こういうタイプの弱点は、たいていの場合、おだてに弱いということがある。

せやから、受け流すと同時に、よいしょの言葉でもかけたら、たいていは、その矛先も変わるはずや。

そう言うてヨーコを励ました。

「あんたは、あんなキノシタよりも、人間的には数段上の人やから、ワシの言うくらいのことは分かるはずやけどな」

因みに、これはお世辞やない。本心から、そう思う。

このヨーコは、仕事ができる、頭の回転が速いというだけやなく、気遣い という面でも群を抜いとる。 コーヒー一杯を入れるにしても、それが表れとるさかいな。

50数人もおる団員それぞれの好みを熟知しとる。普通にそれができる。

さらに、優しさも並やない。

拡張の仕事というのは、全員が稼げるわけやない。坊主(契約ゼロ)の日 が続けば、収入がまったくないということもある。

それでも、独身の男ならまだしも、家族持ちで稼げんというのは悲惨や。 それこそ、子供がめしを満足に食えんという状態も、大袈裟やなしに、こ の世界では現実としてあるからな。

そういうのは、幾度となく見てきた。

過去にも、このメルマガ『第28回 ■一枚のお助けカード』でも、それに類似したことを話したことがある。

そんなとき、ヨーコは他の団員には気づかれずに「これ、うちで採れた、お米と野菜。ご家族で食べてね」とそっと渡していたという。

ヨーコの実家は確かに農家やが、それでも、誰もがそういうことができるわけやない。

後日、それで急場を凌げた団員から、その話を聞いたことがある。

感謝してもしたりないと泣く者すらおる。

そのヨーコが、他に自分でやりたいことでもあって辞めたいというのなら、 反対も引き止めもせんが、キノシタごときのために辞めるというのは、我慢ならん。

「分かったわ、ゲンさん。もうちょっと、頑張ってみます」 ヨーコが明るくそう笑う。

「それがええ。何かあったら、ワシが力になるから」

「ありがとう」

いつの間にか、出社時間が迫っていた。

二階の事務所を目指して、階段を団員たちが気忙しく話ながら、ぞろぞろと上がって来るのが分かる。

その一団の中に、キノシタの姿があった。

ワシが、そのとき、どういう目つきをして見ていたのかは自分では分からんが、少なくともキノシタにとっては歓迎できるものやなかったとは思う。

ただ、見方によれば、こういうキノシタのような男は、知らず知らずのうちに敵を作っていく可哀相な人間かも知れんという気はするがな。


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