メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話

第134回 新聞拡張員ゲンさんの裏話     

発行日 2007.3. 2


■拡張員泣かせの人々 Part7 認知症老人のプライド


「何やこれ?」

朝、というても午前10時30分頃やが、出社するとワシの机の上に『不良』と付箋のついたカード(契約書)のコピーが置かれてあった。

不良カードというのは、監査を通った契約が結局は成立せず、販売店が買い取ることができんというものや。

そういうのは、一般的には、嘘や騙しの契約や、てんぷら(架空契約)などの不法行為が発覚したケースによるものが多い。

あるいは、解約の責任が、拡張員にあるとしたものが、その不良カードとして団に送り返される。

拡張員の方で、そうやないという証明ができんかったら、それが確定して、その契約時に貰うた拡張料を返還せなあかんことになる。

ワシらの方では、団が自動的にその拡張料を販売店に返還し、団員はその月の給与からその分を差し引かれる。

当然、そういうのが返ってきたら成績もやが、体面も傷つく。信用を落とす場合もある。ワシら、拡張員にとっては歓迎されるものやない。

その契約者の名は、ヨシオカとなっていた。ワシの取った契約やから、もちろん覚えている。

契約したのは、5ヶ月前。

ヨシオカは、典型的な交代読者や。ワシの勧誘するY紙と他紙のA紙を6ヶ月おきに交代で購読しとる。

ワシら拡張員には、現読禁止という原則がある。

ワシらが、ヨシオカのような交代読者から契約を貰おうと思えば、一度、他紙を購読していることが条件になる。

この場合はA紙やが、そのA紙を購読していれば、過去読ということになり、その契約は「お越し」と呼ばれ認められる。

ワシの場合、ヨシオカのような懇意な客とは、その他紙の購読開始後、1ヶ月以内に契約をしてもらうのが、ほぼ慣例になっとる。

そのヨシオカとの付き合いは、もう、かれこれ5年くらいになる。知り合うたときは、77歳と言うてたから、今年で82歳になるのかな。

年齢から言えば、老人ということになるが、ヨシオカは、あまり、その年齢を感じさせん男や。

ダンディで物腰の柔らかい紳士的な雰囲気が漂う、話し好きの気のええ客や。ワシと違うて髪の毛も豊富で黒い。まあ、染めとるのやろうけどな。

人が老いていくのは、年齢より、その気持ちの部分の方が強い。

老いたと思えば、そうなるし、まだまだ若いと考えれば若くもなれる。

例え、他から若作りしているという批判があっても、そうすることは、何の恥でもないと思う。むしろ、気持ちを若く保つ上ではええことや。

そういうこともあり、ヨシオカは60歳代で十分通用するほど若く見える。

ワシも、話好きやから、そのヨシオカとは自然に気が合うた。ただ、その話には、やはり、年代を感じさせるものがあったのは事実やがな。

人は、歳を食ってくると、どうしても昔の話が多くなる。

もっとも、ヨシオカのそれは、良くありがちな「昔は良かった」というのとは少し違うがな。

ヨシオカは20歳で、終戦を迎えた。

特攻隊の生き残りやったという。戦争終結が、もう数日、後やったら、確実に死んでいたと良く言っていた。

特攻とは、爆弾を積載した戦闘機に搭乗員が乗り込んで敵艦船等に体当たりさせ撃滅を狙う作戦のことや。

神風特別攻撃隊というのが、その正式名称ということになっとる。

因みに、この神風とは正しくは「しんぷう」と言うが、いつしかそれが「かみかぜ」と呼ばれるようになった。

現在は、こちらの方が有名で「かみかぜ特攻隊」が正式名称やと思うとる人も多い。

当然のことながら、攻撃が成功しても生還する可能性は皆無に等しい作戦や。出撃は、即、死を意味する。

「お国のために散る」それが、崇高なものやと教え込まれ、ヨシオカ自身もそう信じていた。多くの戦友が、それで散った。

それが、突然の終戦で、できんようになった。

そのときは、死なずに済んだということより、出撃できんかった悔しさの方が、はるかに大きかったという。

壮絶な体験や。

ワシは、戦後生まれやから、そういうのは実感としては分からんが、それでも、子供の頃には、そこいらに、その戦争の爪痕が残っていたのは覚えとる。

爆弾が投下された工場跡というのが、そのままの状態で残っている所もあって、その中に無断で入り込んで良う遊んだもんや。

不発弾というのも、普通にそこらへんから出てきており、珍しくも何ともなかった。

当然やが、戦争を体験した大人も多く、そういう話を数多く聞かされて育ってもきたから、実際に体験せんでも、戦争というのは、身近なことという認識があった。

それでも、元特攻隊員というのは珍しいから、ヨシオカの話は興味深かった。

ヨシオカの人生においても、その記憶は、やはり特別なものやったようや。その状況を克明に覚えていた。60年以上経った今でもな。

そのヨシオカの不良カードやという。

正直、ワシには信じられんかった。

過去にも、数度となく同じようなケースで契約をしていた。それで、問題になったり、揉めたりしたことは一度もない。

「でっち上げか……」

真っ先に、頭に浮かんだのがそれやった。

販売店の中には、客への対応の悪い従業員がたまにおる。

本人は、それほど、悪気はなくても、ついぞんざいな口の利き方をすることで、客ともめて喧嘩になり、契約がつぶれるということがある。

年配の人間に、そういうことのうるさいケースが多いから、特に注意せなあかんのやが、それができんわけや。

それで、契約がつぶれた場合、その責任を拡張員に平気で転嫁する人間がおる。そのケースやと思うたわけや。

当然やが、それが判明すれば、濡れ衣となるから、ワシらへの不良カードとはならん。当たり前や。責任は、販売店にあるのやからな。

その日、たまたま、その販売店に入店予定やったから、着いてすぐ、そこの店長に確かめた。

すると「ゲンさん、そのヨシオカという客、少しボケてるらしいですよ」という返事が返ってきた。

「ボケとる?認知症のことか……」

5ヶ月前までは、そういう素振りを感じさせるようなことは、まったくなかった。

しかし、年齢が年齢だけに、それが進行していたというのも考えられる話ではある。

購読者の高齢化に伴い認知症の発症が原因でのトラブルというのが増えている。

業界でも問題になりつつあることや。サイトへも、そういう話が、たまに届くからな。

たいていは、その身内から、認知症ということで契約解除をしてくれというのが、パターンとして多い。

そして、このヨシオカの場合も、それやった。

その販売店の通例として、購読1ヶ月前に、先付け契約の客には、その確認のため電話で購読開始日の連絡を入れることになっとる。

その日、当然のようにそうしたという。

すると、そこの娘さんが「父は、お医者さんから認知症と診断されています。介護のため、近々、同居しないといけないので、申し訳ありませんが、その契約はなかったことにしてもらえませんか」と申し入れてきた。

そう言われると受け入れるしかなかったという。

契約を盾に購読を強要することはできる。しかし、それをすると、店の評判は確実に落ちる。

「あの販売店は、認知症の人間に無理矢理、新聞を読ませとる」と噂されてな。

この販売店のバンク(営業エリア)は、田舎で地元の人間が多いから、そういう噂は、なるべくなら避けたいということになる。

それに、どのみち、そういう客とは切れてしまうわけやから、そんな汚名を被ってまで契約に固執するのは、これから先のことを考えたら損やという計算も働く。

分かってもらうしかないと店長は話す。この埋め合わせは何かでするからと。

本当に店長の話通りやとしたら、あきらめるしかない。

ワシら拡張員が、いくら異議を唱えても、販売店が客との契約を解除してしもうたら、事実としてその契約はなくなってしまうのやからな。

それでも、あのヨシオカが、本当に認知症になったのかという思いが頭から離れんかったのも確かや。あまりにも、急すぎる。

念のため、それを確かめたくて、とりあえず、ワシは、そのヨシオカの家に向かった。

「ヨシオカさん、お久しぶりです」

「ああ、ゲンさんか。ちょうど、ええところに来てくれた」

庭で盆栽いじりをしていたヨシオカが、顔を上げながらそう言うた。

その姿を見たとき、少なからず驚いた。髪はほとんど白く、染めてない。ダンディとも縁遠い普通の老人にしか見えんかった。

もっとも、それが自然な姿なのやが、違和感はどうしても否めんかった。

「何です?」

「あんたの所の新聞販売店、もう配達できんて言うたらしいけど、どういうことや?」

ヨシオカの顔には怒気が含まれていた。

そんなヨシオカの表情を見るのは初めてやった。いつもは、温厚で気のええところしか見せん人間や。

元特攻隊の生き残りということを知っとるせいもあるのかも知れんが、気圧されたからな。ワシが、そうなるというのは珍しいことや。

どうやら、今回の件は、ヨシオカには、販売店が勝手に配達を断ったという風に伝わっとるようや。

おそらく、その娘さんは、ヨシオカには、「認知症やから新聞を断りたい」と販売店に言うたというのは内緒にしとるのやろうと思う。

ひょっとすると、その認知症というのも、本人には内緒にしとるのかも知れんという気がする。

認知症は、脳血管性認知症とアルツハイマー型認知症に大別される。

脳血管性認知症というのは、脳出血、脳梗塞、くも膜下出血などによって起こるとされとる。体に障害が残り、車いすなどを使用している場合が多いと聞く。

アルツハイマー型認知症は、未だに確かな原因が解明されとらんという。外見からは分かりにくく、早期の発見というのが困難ということらしい。

年齢を重ねれば、誰でも多少はボケるというのが当たり前やという風潮が世間一般にはある。

それが病気と結びつくには、相当のことがなければ、普通は考えん。

その多くは、意味不明の言動に始まり、徘徊、奇行というのがあって初めて家族がそれと気づくという。

ヨシオカの場合は、外見はどうもなさそうやから、アルツハイマー型認知症ということになるのやろうと思う。

しかし、目の前のヨシオカには、そういうところは見受けられん。話しぶりもしっかりしとる。

ただ、認知症の特徴の一つに人格が変わるというのがある。

5年の付き合いで初めて見せるその怒りの表情は、それが原因やと言われれば、そうかも知れんとも思う。

「ヨシオカさんは、お嬢さんと一緒に住まわれるのでしょう?それだったら、お嬢さんのお宅でも、新聞を取っておられるから、一つになさった方がいいということで、販売店がそう言ったのではないでしょうか」

これは、実際に、店長がその娘さんから聞いて、結論づけた話やった。

但し、その娘さんはC紙を購読しとるということやから、Y紙の販売店には何のメリットもないことや。

せやから「販売店がそう言ったのではないでしょうか」というのは、ワシのとっさの創作や。

「娘が?ワシら夫婦は、まだまだ、娘夫婦の世話になるつもりはない」

「……」

ワシは、ここで初めて、ヨシオカの言動のおかしさに気がついた。

ヨシオカの奥さんは、かなり昔に他界していると本人から言うてたのを聞いた覚えがある。少なくとも、ヨシオカと知り合った5年前には、奥さんはすでに亡くなられていた。

さらに、ヨシオカの手元を見て驚いた。

ヨシオカは、盆栽が唯一の趣味で、その手入れは常に行き届いていた。

その盆栽の枯れた枝に、無造作にハサミを入れとる。ワシは、盆栽のことには詳しくはない。

しかし、愛好家が、そんなことはせんということくらいは分かる。良く見れば、鉢植えの土も干からびて水をやっている様子もない。

「まあ、そう仰らずに、老いては子に従えと言うではありませんか。娘さんもそれを望まれておられるようですし」

「そうやな」

ヨシオカは納得した素振りを見せたが、次の瞬間、また同じことを繰り返し出した。

「何で、新聞、配達できんのや?」

「……」

「お父さん、病院へ行きましょうか」

そう言いながら、娘さんらしき、ワシと同年配くらいのご婦人が、庭先に現れた。ワシとは初対面や。

ワシは、正直、助かったと思い、軽く、そのご婦人に頭を下げ「ヨシオカさん、どうも、おじゃましました」とだけ言うて、その場を後にした。

認知症か……。

顧客に、老人を含む割合は多い。高齢化が進めば、ますますそういう傾向になるやろう。それも、そう遠い未来の話というわけでもない。

すでに昭和22〜24年頃の第一次ベビーブーム時代に生まれた団塊世代と呼ばれる連中が、今年あたりから大量に定年退職となることが決まっとる。

彼らの多くは、隠居生活ということになり、家にいる機会も増える。当然のことながら、ワシらの客になり得ることが多いということや。

老人と認知症というのが避けて通れんとなれば、自然と今回のようなことも増えていく。

そういう認知症の顧客を抱えるにしても、断るにしても、それぞれで難しい対応が、この業界にも要求されると思う。

抱えれば、その言動に悩まされるかも知れんし、断るのも、その客のプライドを傷つけるおそれがある。

今回のことで、今更ながらに、考えさせられることやと実感せずには、おられんかった。

そして、その認知症についても、いずれは、ワシら自身にも降りかかる問題や。他人事やないからな。


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