メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話
第141回 新聞拡張員ゲンさんの裏話
発行日 2007.4.20
■地震国日本、その避けられぬ危険
「そうか、それは大変やったな」
「家内やシンは、昔の記憶が強く残っていますし、コウは、その恐怖に伝染されたようです」
4月15日の深夜。ハカセの書斎での会話やった。
その日の昼、午後零時19分頃、三重県北部で震度5強の揺れを観測した。ハカセの住んでる三重県中部でも震度5弱を記録したという。
「地震自体は、あのときと比べれば、大したことはなかったんですがね……」
ハカセは、12年前、阪神淡路大震災を大阪の豊中市で経験しとる。
震源地から離れとるとはいえ、その地震の象徴的でもある阪神高速道路が横倒しになった現場からは近い。
当然、被災者も多く出とるし、市内にある服部緑地公園の敷地内には、長い間、仮設住宅もあったほどやからな。
位置的には、兵庫県の西宮市、尼崎市、宝塚市と被害の大きかった地域に隣接しとる市でもある。
1995年1月17日午前5時46分52秒。
冬。まだ夜明け前で外は暗かった。
ドーンという轟音と共に、身体が宙い、その衝撃で目覚めた。
家の中が上下に激しく波打ち、すぐ大きな横揺れになった。
ガタガタと家具が踊りはじめ、ほとんどの物が一気に倒れた。
家のあちこちから、バキッ、ボキッという柱の折れるような不気味な音が聞こえてきた。
「お父さん、助けてぇー!!」
奥さんの悲鳴が聞こえた。断末魔に近い。
そのとき、ハカセは二階で寝ており、奥さんと4歳になったばかりの長男、シン君は一階で寝ていた。
ハカセは、その声を聞き、必死で部屋を脱出して、大きくぐらつく階段をすべり落ちるように降り、妻子の部屋に飛び込んだ。
そのときは、何をどうすることもできず、親子3人、ただ抱き合っているしかなかった。
実際に揺れていたのは、数十秒間やったが、ハカセには、その時間はとてつもなく長く感じられたという。
「正直、あのときは、もうこれで最後やと思いましたわ」と話す。
揺れが収まっても、しばらくは動けなかった。
何度、蛍光灯のヒモを引っ張っても電気はつかず暗いままや。
停電していた。
手探りで懐中電灯を探そうとしたが、家の中はどこもかしこも家具が倒れ、足の踏み場もない状態や。この暗さで動き廻っても無駄やと悟るしかない。
廊下に出て、電話の受話器をとったが、不通になっていて、どこにもかけられんかった。
仕方なく、しばらく、そのままでいとると、外が明るく白み始めてきた。
その頃には、外でも、人の声が聞こえるようになった。外に出ようと靴を履いたとたん右足に激痛がはしった。
見ると、足の裏が5センチほど切れて血が流れ出ていた。後に7針縫うことになった怪我をしてた。
どこで、その怪我をしたのか記憶にはない。
その場は、シャツを引き裂いて縛り血止めをした。とにかく、そのときは、そんな怪我に構うてる余裕はなかったと話す。
「ああ、足を切っていたのか」という程度やったと笑う。
普段やったら、すぐ病院に駆け込んだやろうがな。
玄関を開けて、飛び込んできた外の光景に、ハカセは我が目を疑い、言葉を失った。
目の前の家が完全に崩壊して、屋根瓦だけしか見えんかったからや。その瓦の散乱で道路も消滅していた。
「家の人は?」
「その倒れた離れには、今は誰も住んでなかったようですよ」
外に出ていた隣人がそう言う。
「そうですか……」
不幸中の幸いやな。そう思うしかない。
「えらい地震でしたな」
「ほんまですなぁ……」
お互い、それしか言葉が出て来んかった。
「お宅、電気は?」
「あきまへん。冷蔵庫も切れとるから、早よ停電を直してくれんことには、中の物が腐ってしまいますがな」
「……」
ハカセは、未だに、この隣人の発した言葉が忘れられんという。
冷静と言えば言えるのかも知らんが、すぐに現実の損得に思いを寄せるというのは、逞しいのか、自己中心的なのか、今もって良う分からんと話す。
少なくとも、ハカセにとっては、今まで経験したこともないような未曾有の大地震やった。
この時点では、それがどれほどのものか分からんかったのやから、そのことの心配を先にするべきやとの思いが強くあった。
古い空き家とは言え、家一軒が完全に崩壊するほどの地震やったのは間違いがないのやからな。
他にも被害が出ていると考えるのが自然や。その心配はないのかと。
ハカセは、家に帰り、二階の書斎兼寝室に入った。
その室内を見て、凍りついた。
ベッドの上に、本棚が覆い被さるように倒れ、その引き戸のガラスが割れていた。
その割れた破片が、ハカセの寝ていたベッドの上に、鋭利な刃物と化し何枚も串刺しになっていた。
ハカセが、妻の悲鳴を聞き、それを助けようとして部屋を脱出してなかったら、今頃は、その串刺しの下にいたことになる。
背筋に疾った悪寒は、今も忘れることはできんという。
ハカセは、電池の入ったラジカセを持って一階の妻と子供の所に行った。
そのラジオ放送で、事の重大さを再確認した。戦後、最大の大地震だと、アナウンサーが興奮気味に連呼していた。
その後、停電が直り、テレビが見られるようになって、その惨劇の全貌が明らかになったが、その状況解説は、ここでは必要ないやろうと思う。
この大震災の爪あとは、かなりの長期間に渡り尾を引くことになる。
特に、精神的な分野でのそれが顕著や。
ハカセの奥さんも、長男のシン君も、それが未だにトラウマのように残っていて、僅かな揺れにも恐怖を見せるようになっていたという。
その当時、住んでいた家は、半壊という役所の判定やったが、とても住める状態には思えんかった。
壁のあちこちに大きなひび割れが何カ所も走り、家もかなり傾いとるというのが目視でもはっきりと分かる。柱も数本、ひびが入って折れかけてた。
いつ、倒れてもおかしくない状態や。
そこに余震が幾度となく襲う。
その都度、奥さんと子供が悲鳴を上げる。
このままでは、精神が確実に病む。ハカセは、それを思い、家を出て避難所に向かった。
その後も、数多くのドラマがあったようやが、ハカセはあまり思い出したくはないようや。
「あんな、経験はこれから二度とすることはないでしょうね」と、ポツリと洩らす。
そのときの話をすれば長くなるから、いつか語るときがくればそうするということや。
そこで、仮住まいを見つけるまで住むことになる。
ハカセの一家が、三重県に来たのは、ハカセが心臓病を発症した翌年やった。
最近は、その苦い記憶も完全に忘れ去られようとしていた。
三重県に来て、一度だけ震度4を計測する地震があった。
しかし、それは、今回ほどの揺れやなかったから、恐怖を呼び覚ますほどでもなかった。
それが、この日の地震で呼び覚まされた。
その日、家族全員で、吉本新喜劇を観て笑いながら昼食をとっていた。
突然、ガタガタと揺れ始めたことで、その笑いが凍りついた。
尋常な揺れやない。すわっ、東南海大地震か、と一瞬、ハカセは思うたほどやったという。
「キャー、いやー!!」
という奥さんの叫びに、阪神淡路大震災の経験のないコウ君まで恐怖心にかられたのか、ハカセに抱きついてきた。
「大丈夫や。落ち着け……、落ち着け……」
ハカセは、それしか言う言葉がなかった。
この日のために、万全の備えもしとる。少々のことは切り抜けられるはずや。
家具はすべて壁に固定している。およそ、倒れるおそれのあるものは、あらゆる固定を施していた。
タンスや食器棚は金具で固定し、テレビ台の上には、木製の囲いを作り、テレビの落下防止をしていた。
本棚を含めたすべての棚には、厚めのゴムでストッパーを取り付けていた。
しかも、それは、自身の書斎に限らず、ビデオやDVDを入れた棚、果ては台所の棚に至るすべてにそれが、施されていた。
むろん、子供部屋も例外やない。
「お父さん、何で、そんな格好の悪いもの付けるん?」
そう訝るコウ君に「地震があっときの準備や」と説明した。
確かに、コウ君でなくても、それは奇異に映る光景やと思う。
正直、ワシも初めてハカセの家に行ったときは「何や、この家は?」と思うたさかいな。そのときは、少しやり過ぎやないかという思いもあった。
そのときには、気づきもせんかったが、室内には、ガラスを使用しているものが一切なかった。
もちろん、掃き出し窓や小窓にはガラスが使われとるが、それらにも、フィルムが貼り付けられ、割れても飛散防止の処置が施されていた。
ライフラインの対処もある程度しているという。
庭の物置には、いつ使うとも知れん発電機とその燃料が保管されとると言うし、米や保存可能な食料は常に3ヶ月分以上はストックしているという。
風呂の水は、その日、家族全員が入った後は、必ず水を張り溜め置きしているという。これも、いざというときの飲み水と火が出た場合の消化のためや。
消化器は、家族全員が扱えるように訓練もしとる。
他にも、いざというときのために、防災グッズを詰め込んだリュックを用意していて、いつでも持ち出せる状態にしている。
準備は、ほぼ完璧や。
しかし、それで安心とはならん。
いくらその準備ができていたと言うても、恐怖心まで払拭することはできんからな。
「おい、コウ。もう大丈夫やから、出て来い」
揺れが収まった後、自分の部屋に駆け込み、机の下にもぐり込んだコウ君に、ハカセがそう促した。
「嫌や。まだ怖い!!」
「コウ、お前はもう、6年生やろ。恥ずかしいないか」
「恥ずかしいない。怖いもんは怖い。お父さんは、怖くないん?」
「別に。お父さん、怖がってたか?」
「……、平気なん?」
「まあ、この程度なら大丈夫やと知っとるからな」
地震で、一番気をつけなあかんのは、恐怖心を抱くことや。阪神淡路大震災で、その恐怖からトラウマに囚われた人は多い。
奥さんや長男のシン君も未だに、そのトラウマから逃れられんと、ハカセは話す。コウ君もその姿を見て恐怖に囚われた。
恐怖は恐怖を呼ぶ。
ここで、ハカセまで怖がったら家族はどうにもならんことになる。
「コウ、お前に頼みがあるんや」
「何?」
「お母さんと、お兄ちゃんが怖がるのは、半分病気なんや」
地震恐怖症というのがある。強迫神経症に分類されとるものや。
奥さんやシン君のように、過去の強烈な体験がトラウマとなって生じたり、テレビで地震のニュースなどを見たりすると、それが引き金になって、恐怖感や不安感を強く感じて発症することが多いという。
新聞や雑誌の記事、本でもそうなる。最近やと、ネットの地震情報を見てそうなることもあるという話や。
これに取り憑かれると、常に、地震が来るのやないかという恐怖にかられる。こういうのを、予期恐怖、予期不安と言う。
地震そのものより、この恐怖症の方が、よほどやっかいや。
未だに、あの大震災で奥さんやシン君のようにトラウマに囚われ恐怖を抱いとる人も多い。
心の病ともなれば、なかなか難しいものがある。理屈や精神論は通用せんからな。
「コウには、そのお母さんとお兄ちゃんを助けたってほしいんや」
「でも、僕には無理や。怖いし……」
「大丈夫や。コウが強いのは、お父さんは良う知ってる。それに、ゲンさんも、いつも、お前のことを褒めとるからな」
「ゲンさんが?」
コウ君には、ワシの名前を出せば効果的やという。
よほど、気に入られとるようや。ほんまに、かわいい子や。
「ああ、強い、賢い子やと言うてる。そんなゲンさんに、格好の悪いところ見せられんやろ」
「うん、分かった。僕、頑張る。お母さんとお兄ちゃんを助けるよ」
コウ君が、きっぱりとそう言う。
「そうか、えらいぞ」
「お父さん、ごめん……」
「何や?」
「僕、お父さんのこと、ちょっとバカにしてたんや。家中、何であんなことするんやと思うて」
「……」
「でも、お父さんのしたこと正しかった。僕の本棚、崩れてへんから」
「まあな……」
今更やけど、日本は世界でも類を見ないほど地震の多い国や。
サイトを開設し、メルマガを始めた2004年7月以降も数多くの地震が起こった。このメルマガでも取り上げたことがある。
その主なもので、名前のついた地震だけを列挙する。
2004年9月5日、紀伊半島南東沖地震。M(マグネチュード)7.4。奈良、和歌山、三重で最大震度、5弱。
2004年10月23日、新潟県中越大震災。M6.8。新潟県中越地方で最大震度7。死者67名。
これについては『第21回 ■年の終わりに』で取り上げている。
2004年11月29日、釧路沖地震。M7.1。北海道の釧路町、弟子屈町で最大震度5強。
2005年3月20日、福岡県西方沖地震。M7.0。福岡県と佐賀県で最大震度6弱。死者1名。
懇意にして頂いている読者の方が、その地域に住まわれておられたので心配したが、すぐ無事とのメールをもらい安堵したことを覚えている。
2005年7月23日、千葉県北西部地震。M6。東京都足立区で震度5強。
2005年8月16日、宮城県南部地震。M7.2。宮城県で最大震度6弱。
2005年11月15日、2005年三陸沖地震。M7.1。北海道から関東にかけて最大震度3。最大50センチの津波を観測。
2006年4月21日、伊豆半島東方沖地震。M5.8。静岡県で最大震度6弱。
2007年3月25日、能登半島地震。M6.9。最大震度6強。死者1名。
これは、つい1ヶ月ほど前のことやから、記憶に新しいと思う。
そして、今回、2007年4月15日の三重県中部地震、M5.3、最大震度5強の地震が起きた。
僅か3年足らずの間でも、これだけの大規模な地震が起きている。
これを見てもらえば分かると思うが、これらの中には、過去、滅多に地震が起きてない地域も多く含まれとる。
つまり、いつどこで大地震が起きてもおかしくないのが、この日本なわけや。
断っておくが、何もワシは、ことさら、それを強調して恐怖心を煽るつもりはない。
むしろ、逆や。
地震国日本に住んどるのやから、地震は覚悟しとかなあかんと言いたい。来るのが当たり前やと。
日本に住む限りは、地震から逃れられる場所はあり得んと思う。台風や大雨、洪水なんかにも同じことが言える。
いくら化学が進歩しようと、地震や台風といった自然災害を防ぐことは、人間の力では無理やと思う。
地震や災害は、起きる時には起きる。それを受け入れることや。
起きたときに、いかに身を守るかを考えるしかない。
そのために、せなあかんことは、その災害に備えることと、それが起きたときの心の準備や。
いたずらに恐怖すれば、その分、身を危うくするだけのことにしかならん。
本来、こういうことは、新聞やマスコミ、あるいは公的機関などで呼びかけてほしいのやが、残念ながら、そういうのは伝わってこない。
特にテレビや新聞などの報道は、事実を伝えるだけで、結果的には恐怖心を煽っとるだけにしかなってないと思う。
もっとも、事実を伝えるのが報道の役目と言うかも知れんが、いつまでも、そういう姿勢だけでは、あかんと思う。
特に新聞は、その報道においてネットやテレビに遅れをとっているのは間違いないし、これからもその差は開く一方や。
今のところ、ネットやテレビに新聞が勝っている点は、それを書く記者の文章力やと考える。人に読ませるためのものを日々書いとるのやから当たり前やがな。
なら、その文章力を生かし、心に響く記事を書くべきやないやろうか。少なくとも、そういう視点を持って書いた方がええと思う。
正しく報道すれば、それでええという時代は、もう過ぎたと考える。
あの新聞の記事を読めば救われる。そう思わせられる記事や。
それがあれば、確実に差別化が図れると思う。新聞は本当に値打ちのあるものやと再認識されるのやないやろか。
そう思える新聞なら、ワシらも売りがいがあるんやけどな。