メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話
第15回 新聞拡張員ゲンさんの裏話
発行日 2004.11.26
■ゲンさんの拡張実践Part3 趣味の活用
新聞の勧誘、拡張にはいろんな方法がある。勧誘する立場から言えば、同じことなら、楽して自分も楽しめ、客も喜ぶ方法がええ。
そんな都合のええやり方を考え出せれば言うことはないんやが、ワシの経験から、そういうのは、ほとんど偶然から生まれることが多い。
その偶然は客との無駄とも思える会話の中にある。雑談やな。
この雑談というのは営業員にとっては重要や。 前回は、芸は身を助けるというやつやったが、今回は趣味をテーマにしよう。
営業はどんなことでも生かせるもんやが、特に、この趣味というのは結構、有効な手段や。
それには、共通の趣味の客を捜すことや。それも、出来たら1対1で出来る趣
味がええ。
ワシの場合それが将棋やった。 と言うても、今日び、この将棋をするという人間は少なくなった。ワシの子供
の頃は対戦相手なんかに不自由はせんかった。銭湯にでも行けば大抵は誰かや
ってたからな。
今は少ない。街の将棋クラブとかに行けばと思うが、その将棋クラブ自体があまりない。せやから、ワシも最近はめったにしてへんかった。
それが、ある時、ひょんなことから、その将棋をすることになった。しかも相
手は学生さんやった。
「ピンポーン」
「はい、どちら?」
と言いながら若い男が出てきた。
「Y新聞の新聞屋ですけど」
ワシはいつものように明るく言う。
「新聞は入りませんよ」
若い男は言葉ほど嫌そうやなかったが、そう断りを入れて来た。
拡張員やと知って、すぐ新聞取りますちゅうのは1000人に1人もおらんから、これが普通の反応や。
「あれ、それ将棋のゲーム?」
若い男の手元から音楽がなるので、ふと視線を向けると、手にゲーム機を持っていた。ゲームアドバンスというゲーム機や。良う見ると、小さな画面に将棋
盤が確認出来た。
「ええ、そうですけど」
「将棋のゲームがあるのは知ってたけど、面白い?」
「ええ、まあ……」
「私も昔は良く将棋したもんやけど、そうか、今はゲームがあるんやね。人間相手にはしないの?」
「大学のサークルではしてますよ」
学生やと言うこの若者は、ワシが将棋の趣味があると知って僅かに興味を示し
たようや。
「へえ、大学で将棋やってんはんの?強いんやろね」
「自信はありますね。大会にも何度か出てますし」
こういうことを自慢する人間は優勝経験か常に上位入賞しとる者が多い。
「実は、おじさんも自信があるんや。というても、段があるとか、言うんじゃ
ないけどね。でも、アマチュアの5、6段クラスの人間に勝ったこともあるしね」
「……」
この大学生は何を言い出すのかという感じてワシを見た。はったりか、ホラやとでも思うたんやろ。せやけど、この後のワシの言葉で興味をそそられたよう
や。
「大阪のテンノウジのジャンジャン横町知ってはるやろ。そこに昔は将棋クラ
ブが仰山あったんや。賭け将棋専門やけどな」
「賭け将棋ですか?」
「せや、そこで良うやってたもんや」
賭け将棋は、ただ強いだけではあかん。勝ち続ける奴は、賭け将棋のプロには
なれん。相手を楽しませ、ぎりぎりの所で勝負をつける。基本的には3勝2敗
を心がけなあかん。
こういう所へ出入りする人間は、当たり前やが、皆、それぞれ自信のある人間が多い。中には、下手の横好きちゅうのがおるが、大抵は一癖も二癖もある奴
らばかりや。
そういう連中を遊ばせ金にするというのは、相当の実力差がないとあかん。それと、闇のテクニックもや。
将棋というのは、昔から広く世間に知られとる競技やから、定跡本なども多い。
ほとんどの人間がそこから入る。もちろん、ワシも子供の頃はそれを一生懸命
覚えた。
定跡を知らんと馬鹿にされてたくらいや。しかし、ここでは、その定跡を頼りに指してくる人間は素人扱いされる。
もちろん、面と向かってそう言われるわけやない。表面上は、なかなかお強い
ですねと持ち上げられる。こういうところで、こんなことを言われたら、あん
たはお客さんですよと言われとるのと同じや。
闇のテクニックちゅうのは、一言で言えば、嵌め手、罠の類や。トラップやな。
相手を騙すことばかりを考え、そういう技を磨く。
ワシは若い頃、仕事の休みの時には、そういう所ばかり出入りしてた。 もちろん、最初はただのお客さんや。しかし、その世界が分かりかけると面白
くなって嵌った。
「面白そうですね。一手教えて頂けませんか」
大学生は、かなり興味をそそられたようや。それと、自信もあるのか、試してやろうと意気込んどるのも分かる。それに、言うほど大したこともないやろと多寡をくくってるとも思う。ワシが
拡張員やということで程度が低いという先入観もあるはずやからな。
「もし、私に勝てたら、新聞取ってもいいですよ」
せやから、こういう言葉が平気で出る。興味がある反面、ワシを多少、甘く見
とるのや。
「自信満々やね。私の方は自信ないな。何しろ、最近、全然してないので上手
く指せるかどうかも怪しいしね」
ワシの方は、すでに昔の当時の精神状態に戻っていた。自分をなるべく強く見
せないのも大事なテクニックや。もっとも、素人同然です言うのも拙いがな。
対局が始まった。ワシの睨んだ通り、この大学生は定跡を熟知しとる。自信が
あるのも頷ける。アマチュアの3、4段クラスの実力は十分や。
しかし、いくら強くてもアマチュアはアマチュア、闇のテクニックを身につけとるワシには、やはりお客さんでしかない。
結果は、ワシの辛勝や。一手違いの勝ち。客はこの負けに納得せん。もう一番となる。これが、賭け師の技や。普通は、この後、負ける。それも、一手違い
で。すると、客は完全に賭け師のペースに嵌められカモられることになる。
ワシは、今はそんなことはしてへんから、負けるつもりもない。せやから、結果は、またしても辛勝や。
「負けました。しかし、不思議ですね。負けたという感覚がありません。次、やれば勝てそうに思うんですけど……」
「そうやね。次やったら負けるやろな」
本当はここで、何で負けるのか解説した方が、親切なんやろうけど、それは止めた。
指していて分かったんやが、この大学生は純粋に将棋が好きなようや。
ワシの ような世界の技を教えるべきやないと思うた。 ワシらの世界の将棋は単に勝負ということだけを考えたら強いかも知れん。
あまり表には現れんけど、現役の高名な棋士と勝負して勝つ者もいとる。 しかし、それはあくまでも隙をつくとか、罠や嵌め手にかけてということや。
その技を研究されたら勝負にならん。 それに、そういう技を覚えるには、そういう資質の人間やないと難しい。一般的に分かり易く言うとアウトロー的な考え方の持ち主やな。
物事には裏がある ことを知って、その裏と上手く付き合えんとあかん。 卑怯とかきたない、そんなことまでしてと考える人間は、裏の世界では通用せ
ん。裏技を覚えても無駄ということや。
「約束ですから」
ということで、その大学生は購読を持ち掛けた。
「ええよ、いらんものやったら、無理して取ることない。それに、今日は楽し
ませて貰ったしな。将棋の相手なんか居てへんかったから、それで十分や」
「いえ、それでは困ります。新聞は取ります。その代わり、次、この近くに寄
られたら必ず来て下さい。それまでに、今日の勝負を研究しときますので」
「分かった」
今度、やったら負けるかも知れんなと思うた。 ワシは、この学生のおかげで、将棋の趣味が営業にも使えるということが分かった。
雑談の中でその話になったら、一局と言えば、大抵、話が盛り上がってそうなる。それに、そこまで行けば、ほぼ成約や。
そして、ワシは誰とでも互角に思わせて勝負出来るという強みがあるから、まんざら悪い方法やない。
確かに裏の世界の技やけど、使い方によれば、立派な営業手段になる。
最初に言うた、楽して自分も楽しめ、客も喜ぶ方法ということになる。 これも、応用範囲は結構ある。自分の得意な趣味の話で、客と盛り上がるよう
にすればええ。何度も言うが、営業には、いろいろあるということや。