メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話
第159回 新聞拡張員ゲンさんの裏話
発行日 2007.8.24
■拡張員列伝 その8 逃亡者アキラ
いつかはこんな日がくる。
アキラはそう覚悟して今日まで生きてきた。
せやから、ここで捕まったのは、ある意味、仕方ないとあきらめもつく。
ただ、罪悪感のようなものは微塵もなかった。
「単に運がなかっただけのことや」と考えていたにすぎん。
アキラの人生は逃亡の連続やった。
逃亡こそ我が人生。
開き直りでもなんでもなく、本当に逃げるためだけに生まれたのやないかと真剣に考えたこともあるくらいやさかいな。
アキラは20数年前、工業高校を卒業すると、ある大手化粧品会社の下請け工場で働き始めた。
そこで魚鱗箔(ぎょりんぱく)というのを作っていた。
スキンケアや口紅、ネイルアートなんかに使うパール状の光沢のある物質のことをそう呼ぶ。
魚鱗というのは、文字どおり魚の鱗(うろこ)のことで、そこでは主にタチウオからそれを抽出していた。
タチウオのきらきら光っとる鱗を化粧品に使うとるわけや。タチウオから抽出されるものが最高級品とされていた。
ここまでの説明やと、「ああ、そうか」という程度で終わるが、ついでやから、その製造方法を簡単に教える。
但し、それにより気分を害されたとか化粧品を使うのが嫌になった、あるいは化粧をしている女性への見る目が変わったと言われても困るがな。
世の中、なんでもそうやが、きれいなものの裏側はえてしてそういうものが多いのが普通やさかいな。
しかし、そんなものを読みたくないという人もおられるやろうから、読み飛ばしやすいように区切りはつけとく。
タチウオの鱗の光沢部分を使うと言うても、簡単に抽出できるもんやない。
まず、材料であるタチウオを赤土の中に埋める。当然、タチウオは腐る。腐るとその鱗の成分が赤土の中に融け込む。
数ヶ月もすると、タチウオの原型はほとんどなくなり、その赤土の表面がパール状の鱗で白っぽくなる。
それを石灰などと混ぜ合わせエタノール、アルコール、水などで洗い、幾度も遠心分離器にかけて徐々に魚鱗箔だけを集める。
高濃度の魚鱗箔が抽出されれば、その作業は終わる。
それを、スキンケアや口紅に混ぜ化粧品に使われるということや。
アキラは、その仕事をするようになって、ごてごてと化粧をした女性には嫌悪感を抱くようになったという。
特に、真っ赤な光沢の口紅をしているのを見ると、タチウオが腐って融け込んだ原料の赤土を、どうしても思い出す。
その原料は、見た目のおぞましさだけやなく、異様な臭いのするものや。
せやから、どんな美人だろうと、そういう口紅をつけとる女性を見ると嫌悪感を抱いてしまうわけや。
もとは、魚の腐ったものを塗っとるやないかと。
その魚鱗箔の製造者、及び化粧品会社の名誉のために言うておく。
製品になるまでは、数多くの工程を経ており、殺菌なんかも完璧やし安全度も高く何の心配もないものになっとると。
その魚鱗箔を使った化粧品で人体に悪影響を及ぼしたという事例もないはずや。
あくまでも、その嫌悪感は、アキラが感じとることにすぎんことや。
もっとも、その嫌悪感がこうじて女性嫌い、恐怖症のようになってしもうたさかい、アキラにとっては罪な仕事に就いたことになるわけやがな。
アキラは、そこで3年ほど真面目に仕事をしていた。
しかし、あるときを境に、競馬に興じるようになった。
そういうのは別に珍しいことやない。誰にでもあることや。
ただ、アキラはそれをノミ屋で買うようになった。
ノミ行為についてはたいていの人が知っとるやろうが、中にはそういう世界とは縁遠い人もおられると思うので簡単に説明しとく。
ノミ屋というのは、私設ギャンブル投票券売所のことをいう。主にヤクザが経営しとる場合が多い。奴さんらの昔からの資金源や。
競馬、競輪、競艇、オートレースなどの公営ギャンブルがその主な対象になる。また、ボクシングや野球なんかもその対象にしとる所もある。
競馬の場合、基本的に配当は競馬場発表の配当に準じるが、中には、配当金が1万円までという所もある。
もっとも、これは、単勝、複勝、連勝複式しかなかった頃の話で、今のように三連勝単式などで高額の配当金が出るようになってからは、基本的に配当どおりらしいがな。
但し、客により払戻金の上限を50万円とか100万円に設定しとるノミ屋もあるとのことや。
これも、ワシら拡張員の世界と同じで、やってるノミ屋の規模や考え方次第でそれぞれ違うということのようや。
普通、競馬場や場外馬券売り場で買うと1口100円の馬券が、ノミ屋は90円で買える。1割安い。
ヤクザのノミ屋というと胡散臭い印象が強いと思うが、意外に金銭面に関しては綺麗やし、客に対しては総じて紳士的や。ヘタな営業員より腰も低い。
奇異に感じるかも知れんが、信用第一にこれほど神経を遣う仕事? も珍しいのやないかな。
バレたら警察に捕まるというリスクもあるから、客を集めるにもそれなりに厳選しとると聞く。
それが、信用につながると信じてな。ただ、大っぴらに客を募集するわけにもいかんから、その客集めには苦労しとるようやがな。
システム的には、客に利益が出た場合は、開催終了日の翌日に、勝ち金を届ける。負けた場合は、一週間遅れの集金となる。
客の中には、金もないのに熱くなって買う奴もおる。そんな人間の支払いのための猶予期間というわけや。
買うのはすべて電話1本で済む。しかも、ゲートが開く直前まで受け付ける。
仕事で競馬場や場外売り場まで行けんようなサラリーマンとか商店主などは便利がええし、安く買えるから喜ぶ。
つまり、ノミ屋は、公営でせんようなサービスを徹底してやっとるわけや。
せやから、人気も表には出にくいがそれなりに高い。
市場は正に闇の中やが、一説には公営競馬場の数倍にも及ぶ売り上げがあるということや。
もちろん、これは日本では違法行為ということになる。捕まれば5年以下の懲役又は500万円以下の罰金に処せられるとある。軽い罪やない。
多くの外国ではブックメーカーと言うて、この私設公営ギャンブル投票券売所というのは合法的な場合が多いのやがな。
現金を持って競馬場に行くのなら、それがなくなっただけで済むが、ノミ屋は後払いやから、その場に金がなくてもつぎ込む者がおる。
アキラもそうやった。
ギャンブルは負けが込むと誰でも熱くなる。
最初のうちは、1レース1000円、2000円という程度の掛け金で遊んでいても、負け続けると、すぐ1万円ほどになる。
すると、その頃から、その1万円を払うのが惜しくなり、それを取り戻そうとする意識が働き始める。
しかし、1万円を取り戻すには、それなりに賭けなあかん。
例えば、配当が300円で堅いと思われる馬券を買うのなら、チャラにするためには5000円が必要になる。
それが外れるとさらに賭け金が増えていくという寸法や。
気がつくと予定していた小遣い程度では払えんようになってしまう。
持ち金以上の払いになったら、借金するしかない。
いくら良心的やというても相手はヤクザや。支払いができんとなって堪忍してくれるとは誰も考えんからな。
結局、アキラはあちこちに借金を作ってしまい、どうにもならんようになった。
普通の人間は、そこで止める。あるいは、しばらくその借金の返済が終わるまで大人しくする。
しかし、アキラは、行き着くところまで止めることはなかった。
そこでの最後の負けは10万円ほどやった。
給料日まで半月以上もある。
消費者金融、親兄弟、親戚、知人と借金できるところからはすべて借りた。
総額で200万円程度になる。これ以上、借りられるあてはない。
一週間の期限以内にその10万円を都合できんかったら、相手がヤクザだけにどんなめに遭うか分からん。
そのヤクザが、包丁とまな板をアキラの前に置いて「金が払えんのやったら、指を詰めて貰おうか」と不気味に迫る夢を見て跳ね起きた。
「逃げよう」
アキラは恐怖にかられ、それしか考えられんかった。
しかし、逃げると決めたら、不思議と気が楽になった。
借金の返済に追われることもなくなる。誰も知らん土地に行って一からやり直したらええ。それだけのことや。
その頃は、まだ日本はバブルの真っ最中で仕事に困るということもなかった。
アキラはそう決めると、住み込みの仕事先を探した。
ちょうど、ある大手の自動車メーカーが期間工を募集していたのを見つけた。
そこに応募して簡単に採用になった。
人間は一度、そうやって逃げることを覚えると、次からは何の抵抗もなくそうするようになる。
その後、ちょっとしたこと、嫌なことがあっても簡単に逃避する道を選ぶようになる。
しかし、いくら仕事先に困ることはないというても、住民票を動かすことができんから限度もある。
必然的に職種も限定されてくる。
そして、最終的に、この業界へ流れてきたというわけや。
拡張団に提出する履歴書には、偽名や嘘の経歴を書いとってもバレる心配はまずなかった。
身元調査をするような拡張団は皆無やったからな。
もっとも、今は住民票の提出まで求める所はあるが、それもすべてでそうやない。
ただ、初めて拡張団に入団したときは、さすがのアキラも参った。
拡張員の中には、確かに儲けとる者もおったが、その日、メシ代も稼げんような人間の方が圧倒的に多かった。
アキラもそうやった。
当然の流れとして、アキラは逃げることを考えたが、いかんせん逃げるにしてもまとまった金どころか、電車賃もままならんような状態やったから、どうにもならんかった。
いつものように、仲間に金を借りてトンズラしようにも、その仲間も大半がピーピー言うとるからどうしようもない。
普通では信じられんことかも知れんが、大の男が、たった100円の貸し借りで揉めて殴り合いをするような世界やったさかいな。
たいていの拡張団では、拡張員を使い捨ての兵隊やと考えとる。
並の兵隊は生かさず殺さずの飼い殺しが基本やとまで言う団長すらおる。
しかし、できる人間やと団の上層部に認められると、比較的、借金が自由にできるということをアキラは知った。
どんな団も戦力になる人間は貴重やから大事に扱う。
その人間を引き止めとくためにも借金を積極的にさせるように持って行く団は多い。
この世界で人を縛る一番有効的な方法が、それやと考えとるわけや。
アキラはそれに狙いを絞った。
そのためには、成績を上げるしかない。
そして、それには、まともなやり方だけではあかんということも学んだ。
喝勧、てんぷら(架空契約)、ヒッカケ、置き勧、泣き勧、騙しとおよそこの世界で考えられることにはすべて手を染めた。
アキラは、今まで逃げた先で心機一転、一生懸命頑張って仕事しようと考えてもなぜかそれが長続きせんかった。
しかし、不思議なことに一旦逃げると決めたら、それを頑張ることができた。
そのためには、正規の方法? で叩く(訪問)ことに徹するのも有効な手や。
いくらアキラでも、すべてのカードが不法行為によるものやない。
この仕事はまじめに廻るだけで誰でも、契約をいくらか上げることができるさかいな。
ただ、上層部にすぐ認められて借金できるようになるためには、それだけではあかん。
短期間で目立つほどの成績を上げるには、プラスアルファがかなり必要になる。
そのために必要なアイデアも、いとも簡単に思いつくことができた。
例えば、てんぷらを上げるには、実在の人間で、連絡の取れそうもない者を選び、数ヶ月後の契約にしとけば、すぐにはバレにくいやろうということも考えた。
連絡が取りにくいのは、夜遅く休みが一定しとらんか、あまり部屋にいとらん者や。そういうのを探せばええ。
一般的に、そういうのは、ワンルームマンションの独身者に多い。
そういう連中を捜すには、まず暗くなる午後7時頃に、そういうマンションを外から見て電灯が点いとるか消えとるかを確かめる。
部屋に明かりが点いとれば、住人がいとるわけやからそれは除外する。
今度はそれを、引き継ぎというて販売店とのその日のカード(契約)監査が終わる夜9時過ぎ頃に再度確かめる。
単独行動をしとる場合は、それは比較的簡単やが、団体で同じ車に乗っとるときは、「カードにするあてがあるんやけど、帰りにちょっと寄ってくれんか」とその車の運転手に頼む。
それで、その目星をつけたワンルーム・マンションに行く。
そのときに明かりの点いとる部屋、消えとる部屋を素早く確かめる。
「まだ、帰っとらんな」と明かりの消えとる適当な部屋を指さしてその場はごまかしとく。
こういう、てんぷらをする場合は、なるべく仲間にもそれと知られん方がええ。
昔は、独り者の場合、電話番号がなくても住所さえ確かなら、それでカード(契約)として認められていた。
但し、その場合は従業員が確かめに行くから、実在の人間で尚かつ留守でなかったらあかんわけや。
たいていの販売店の従業員は、一、二度行って留守やったらそれ以上調べるような者は少ないから、不良カードと発覚することはない。
不良カードになるのは、そこに新聞を配り始めた頃やけど、その頃にはアキラは消えとるという寸法や。
それに類似したことはいくつも考えることができた。
急激にカードを上げ始めると、アキラの思惑どおり団の態度も変わってきた。
「親が急病になって病院代に困っている」などと、もっともらしい嘘をついて借金することにも成功した。
その最初の団でした借金が30万円ほどやった。
当初の計画どおり、それを持って逃げた。
その後、幾つかの拡張団を渡り歩いて、同じ事を繰り返した。
ポイントは、なるべく早いうちに団にその実力を認めさせることやった。
人間は、最初に「できる」と思われるとそのイメージが固定されやすい。
実際、その頃には、変なてんぷらを上げんでも、普通に拡張していても最初からそこそこカードを上げられるようになっていた。
今、考えれば、どこか居心地のええ拡張団を見つけて長居するべきやったと後悔せんでもないが、そうなると、やはり成績も平凡になり元の木阿弥になるのやないかとも思う。
実際、そうなる確率が高いはずや。アキラの力の根源は、あくまでも「逃げるため」やさかいな。
しかし、この業界はそういうことを簡単に許すほど甘い世界やない。
どの団でも、借金を作ってトンズラする拡張員はかなりな数いとる。
そのために、それぞれの地域、組織が集まって、業界情報というのを加盟団に流す。その情報の中には、そういう手配書がある。
おそらく、日本の企業で写真付きのおたずね者の手配をしとるのは、この業界くらいなものやないかと思う。
定かな情報やないが、最近では、それ専門のGメンまでおるという噂がある。
彼らは、携帯電話の中に逃げた人間の手配写真を入れとる。
逃げた者で、実名を使うとるケースはほとんどない。同じ地域、同じ系列の新聞拡張団に潜り込むこともあまりせん。
つまり、普通に探してたんでは見つかることはほとんどないということになる。
それを専門に探し出すプロがおる。
アキラはその存在を知らなんだということと、長年それで成功してきたことに
より油断もしていた。
アキラが逃げた拡張団の中には、警察に業務上横領で金を持ち逃げしたとして被害届けを出しとる所があった。
その額、100万円ということやった。
実際にアキラがその団で持ち逃げした現金は50万円そこそこやったが、逃げた者に弁明の余地はない。
あるとすれば、裁判になったときくらいやが、それが認められることも限りなく少ない。
もっとも、アキラはそんな言い訳をするつもりはなかったがな。
捕まれば、50万が100万でも大差ない。正に五十歩百歩や。
アキラは、その団に雇われたプロに捕まった。
その拡張団に「警察に差し出すか、ここで働いて返すかどちらか選べ」と凄まれ、働いて返す方を選んだ。
刑法252条の単純横領罪なら5年以下の懲役に処するとあり、それが被害届どおりの刑法253条の業務上横領罪が適用されたら10年以下の懲役になる。
警察で調べられれば、過去のことも分かる可能性が高く、それで常習性ありとされたら、実刑判決は免れそうにない。
選択の余地はなかった。
いくらアキラが逃げのスペシャリストやと言うても、刑務所から逃げることはできんさかいな。
しかし、拡張団なら、まだ逃げるチャンスはある。それに賭けた。
被害を受けた拡張団としても、警察に突き出しても一銭にもならん。損害を取り戻すには、働かせるしかないわけや。
アキラは取りあえず、従順な姿勢を示すことにした。
もちろん、いつかは逃げてやるという思いを胸に秘めてな。
「ゲンさん、こういう人間をどう思う?」
ハカセやった。
サイトに、そういう体験話というか経験談がたまに送られてくることがあるが、そのアキラのケースもそうやった。
「どうと言われてもな……、個人的にはついていけんが」と断った上で続けた。
「そこまで、自分のしたことに覚悟を決めとるのなら、ええ悪いは別にして、それはそれで生き方の一つやないかな」
確かに、アキラのしたことは犯罪かも知れんが、被害を与えとるのは大半が拡張団ということのようや。
拡張団も、昔からそういうことには慣れとるし、そのリスクも織り込み済みの所が多い。
そのために破格のピンハネもしとるわけや。
また、メシも満足に食えんほどの過酷な労働環境を放置しとるという拡張団にもその責任の一端はあると思う。
人を使い捨てやと考えとるようでは、そういう人間が現れても不思議やないさかいな。
アキラに同情するつもりもないが、そんな拡張団に賛同する気もない。
どっちもどっちや。
不法行為を犯した拡張員は責められてしかるべきやが、その下地のある業界も責任を感じなあかんやろうと思う。
いつまでもこんなことばかりしてたんでは、本当に未来はないと気づくべきや。
もっとも、それも聞く耳を持ってなかったらどうにもならんことやがな。
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