メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話
第16回 新聞拡張員ゲンさんの裏話
発行日 2004.12.3
■ここで遭ったが何年め?
早いもんやもう12月になった。一年が経つのが早く感じる。 そう感じ初めたたらそろそろ歳やて誰かが言うてたけど、そうなんかな。ワシの歳が何ぼやてか?それは内緒や。勝手に想像しといて。
ワシは拡張員になってから、この12月にはあんまりええ思い出がない。と言
うより、拡張員としてのええ記憶の方を探す方が難しいけどな。
もっとも、そういう話を聞く側が面白くてええと言うことなら、結構多い。ワ
シにしたら、ろくでもないことばかりやがな。
昨日のことやが、そのろくでもない記憶の一つと出会した。 ワシは、ある古いマンションというかアパートで叩いとった。ワシらが言う所
のガサ回りというやつや。
ガサというのは、このマンションのように古くて家賃も比較的安そうな賃貸を指してそう呼ぶ。業界での低所得者層への蔑称のようになっとる。言われる方
は失礼な話やけどな。
拡張員の中には、こういう場所を好む者が多い。物を渡せばええやろと安易に考える。拡張員の訪問の多い所は、どうしても、苦情も多くなる。実際、こう
いう所からのクレームは多い。
ワシは、こういう所には好んでは来ん。どちらかというと、普通の住宅地の方がええ。他の拡張員とはあんまり出会さんから、のんびりと仕事が出来る。
この日は、ある顧客の紹介で、このマンションに来た。そこで、カードを一 つ上げたついでに回ってたというわけや。
ワシが、偶然、チャイムを押そうとした部屋から男が出て来た。 どこかで見覚えのある顔やった。相手も同じような印象でワシを見た。
「あっ」
「あっ」
同時に叫んでいた。
「あんた、アキヤマ……さんか」
「ゲンさん?」
ワシは、かつて、このアキヤマという男に煮え湯を飲まされたことがある。 本来、ここで怒鳴り散らしても、しかりなんやけど、人間というのはおかしなもんで、年月が経ってしまうと、その怒りの感情より、懐かし
さのようなものを覚える。
懐かしいからと言うて、煮え湯を飲まされたちゅうのは、当然やけどええ思い出やない。もっとも、拡張員を長く続けとると、今から話すようなことは、それほど珍し
いことやないけどな。
このアキヤマとのことも、その一つにすぎん。
それは、今から6年ほど前の奈良県での話やった。
その当時、そこでは、今からは ちょっと考えられんほどの激しい拡張競争があった。
新聞勧誘の契約は長くて1年というのが普通なんやが、そこでは4年契約いう
のが多かった。
拡材も他の地域に比べたら格段にええ。4年契約で、5万円分の百貨店や大手スーパーの商品券。1年分の購読料無料。テレビ、冷蔵庫、洗濯機等の家電製
品。まだ、他にもあるが、客はこの中から好きなサービスを選べる。
しかも、これが上限というわけやない。あくまで基本ベースや。他社と競い合
えば、販売店の裁量で拡材は増える。
この拡材が始まった頃は、ワシら拡張員には天国のような場所やった。面白い
ように契約が取れた。
今、新聞を購読して頂けたら5万円分の商品券をお渡しします、と言えば、勧
誘を断ろうと思うてた客かて、皆一様に「何、それ?」と必ず聞き返す。 聞き返して来た客はその場で、5万円分の商品券を握らせたら成約、一丁上が
りてなもんや。
せやから、この界隈は一時、拡張員だらけやった。拡張銀座と呼ばれとった。
道一本違えば必ずどこかの拡張員がおったもんや。
こんなやから、一足遅れの客に出会すことも多い。「つい、今しがた他の新聞と
契約しました」という客や。しかし、このときはこんな客でも仕事になった。
その後の4年先、8年先の契約でもOKという状態やったからな。
場合によれば、 12年先の契約まで認めとった。 しかも、拡材は契約したその時に渡すことまでしとった。1,2日で4社ほど
の拡張員から契約した客で、20万円分もの商品券を手にしていたという話まである。
それに味をしめた客の中に、えぐいのが出て来とった。そのえぐい客の一人が
このアキヤマやった。 さすがのワシも、このアキヤマには簡単に騙された。
それには、このワシでさ え舞い上がるほどの現場やったということがある。 ワシはここで、平均、1日に10本ほどカードを上げてたから、客に対して麻痺しとった。
5万円分もの商品券を渡すんやから、まさか騙すはずはないやろとタカをくく ってたんや。その5万円分もの商品券が貰えるからこそ、騙すんやとは考えが及ばなんだからな。
それに、このアキヤマという男の家は、一戸建てで、そこそこの構えやったと
いうこともある。他と同じやと考えた。そんな家の客が騙すはずがないと。
アキヤマは、5万円の商品券の話をすると喜びすぐ契約となった。その契約が終わって、近所の身内にこの話をしたら喜ぶと思うから、明日、もう一度来て
くれと言う。
ワシは何の疑いもなく次の日、アキヤマの家に行くと身内やという3人の男が
待っていた。そこで、カードを上げ、商品券を渡して別れた。
その一ヶ月後、販売所から団へ、ワシ宛の不良カードが4枚届いていた。それ
が、アキヤマとその身内3人分の計4枚や。
現場に行くと、アキヤマの家はもぬけの空やった。やられたと思うた。 ワシら拡張員を嵌めるこういう客も多い。その一番多い手口がこれや。引っ越 しするのが分かっとって契約をして拡材だけ貰うてドロンというやつや。
しかし、この時は、ワシはアキヤマに4件分の20万円分の商品券を渡しとる。
こんな場合、これはワシが穴埋めをせなあかん。拡張料はしゃあないとしても、
20万円の負担は痛い。 そして、何よりも騙されたという事実が情けない。
当然、仲間内でも話題にされる。表面上は同情やが、こんな場合、拡張員で本当に同情する奴は皆無に近
い。ワシのおらん所では酒の肴にされて笑い話になるのが関の山や。
後で分かったことやが、他の新聞店でもこのアキヤマに騙された店があった。
これは取り込み詐欺になる。
それやったら、警察に訴えたらええと思うやろけど、 ワシらにはそれは出来ん。
販売店や団からも止められる。この6年前というのが、1998年で新聞業界の景品規制が通達された年やった。
3.8ルールと言うやつや。3ヶ月分の購読料の8%が客に渡す景品の上限と
いうやつや。実際にこういうのは守っとらんかったが、せやからと言うて公にするのは拙いというわけや。
それに、業界のルールでは、泣くのはワシ一人で、販売店も団も腹が痛まんからな。まあ、ワシもこれ以上、騒いで恥の上塗りをするわけにもいかんかったからしゃあない。あきらめた。
それが、6年前の12月のことやった。 インターネットの世界では、拡張員の悪行だけがクローズアッフされるが、実
際には客の中にもこういうことを平気でする輩も結構多い。
ただ、拡張員はそういうことを訴え出んだけのことや。悪どい人間は、何をしていようとどこにいてようと存在する。それが人間の世界やと思う。世間に知
られるか知られへんかの違いだけや。
「ゲンさん、堪忍や」
アキヤマはワシを目の前にして観念したようや。
「実は……」 と、アキヤマは、あの後のことを話始めた。
アキヤマは、奈良で飲食店を経営していた。不況で客足がなくなり、借金が嵩み
倒産した。家も競売にかけられることが決まり、金もなく途方に暮れていた。
そこへ、ワシが現れ、例の商品券の話に飛びついたということや。そして、3人
の知り合いに頼んで絵を描いたと言う。
しかし、騙したことはずっと気になっとったと言う。せやから、ワシの名前も顔
も忘れへんかったんやと話す。どこまで本当かは分からんがな。
「オレは今、金があらへんけど、あの時の分は必ず返すから。あっ、そうや、新聞取ろか?」
「もう、ええ。それに、あんたに新聞取って貰うたら、危のうてしゃあない。これ以上、いらん心配したないしな」
「ほな、堪忍してくれるんか」
「ああ……」
「おおきに、おおきに……」
アキヤマはそう言いながら、今から仕事があるからと出かけて行った。近くの工場の期間工で夜勤の仕事やと言う。
ワシは、このアキヤマが、ワシと似たような境遇やったから許したのとは違う。このアキヤマの行為は許されることやない。
どんな事情があれ、人に犠牲を強いて自分だけ助かろうとする奴は屑や。ワシは同じ境遇で、八方塞がりになった時、野垂れ死にを覚悟した。
どんなに窮しようが、人間として男としてやったらあかんことがある。それを簡単に踏み越える奴は、屑としか言えん。
それに、このアキヤマのような男は本当に悪いとか懺悔の気持ちなんかないはずや。おそらく、今頃、舌でも出して嗤うとるやろ。
ちょっと、泣き落としの話をしたらイチコロやとでも言うてな。
しかし、こういう性根 の男はこれからも救われることはない。 拡張員の中にも、この手の人間がおるから良う分かるけど、奈落の底に落ち込んだ人間が這い上がるには、その性根を変えるしかない。
せやから、ワシがアキヤマに今更、わざわざ追い打ちをかけんでも、アキヤマ自身が己の性質によって勝手に堕ちるだけのことや。
人間が奈落の底に堕ちるのは、人によってやない。自分の性情によって堕ちるのやとワシは思う。