メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話
第174回 新聞拡張員ゲンさんの裏話
発行日 2007.12. 7
■店長はつらいよ Part
3 内覧(ないらん)の戦い
「店長、○○マンションの内覧の情報が分かりました」
主任のカトウがそう報告してきた。
「聞こうか」
店長のタケシタが応じた。
この業界で言う内覧とは、主に新築の分譲マンションへの入居者が、それぞれの部屋の確認のために集まるイベントのことをそう呼ぶ。
正しくは「内覧会」という。
言うまでもなく、その内覧会に集まる入居者のすべては引っ越し客ということになる。
普通、引っ越し客というのは、電気、ガス、水道、電話、子供の学校の手続きなどは、用意周到にするもんやが、新聞の手配というのは忘れられとる場合が多い。
そうかといって、新聞が、必要ないということでもない。
たいていの引っ越し客というのは、その引っ越し先での情報というのを欲しがる。
特に、主婦は近くのスーパーなどの情報は不可欠やと考える。
新聞を購読すれば、その折り込みチラシが入るさかい、たいていは取るつもりにしとる。
しかし、新聞の手配というのは、特に何もしなくても、向こうから勝手に勧誘にやって来る。そう思い込んでいる引っ越し客は多い。
そして、事実、そのとおりに来る。
来たときに取ればええ。そう考える。それも、引っ越し客が比較的簡単に勧誘できる要因なわけや。
その内覧会の情報は、新聞販売店にとっては、是非とも入手しとく必要があるから、あらゆる方法を使って集める。
不動産会社に直接アタックしたり、新聞本社のコネから情報を得たりするのもそうやし、近所への聞き込み、あるいは工事中の物件の現場監督らと親密になってその情報を聞き出すというのもそうや。
販売店によれば、その新聞ファンやというモニター客というのを数多く抱えとる所もある。
たいていは、他紙勧誘員の情勢や一般の引っ越し客などの情報入手が主な目的や。
当然のように、そのモニター客には相応のサービスをしとるわけやけどな。
それ次第では、他紙の購読者を販売店の代わりに勧誘してくれたり、紹介してくれたりする人もおる。
ある新聞社では、各販売店にそういうモニター客を100軒に1軒は獲得するようにと厳命しとる地域すらあるという。
そのモニター客から内覧の情報を得ることがある。
その中に、該当物件の購入者か、その入居者を知っているという読者がいとれば、その情報が一番、信頼性が高いということになる。
内覧会から入居開始日までのスケジュールの一切を知ることが容易にできるさかいな。
その他、ありとあらゆる手段を講じて、その内覧会の情報を探る。ある意味、探偵に似た仕事も新聞販売店はするわけや。
そうした地道な調査と情報収集の努力の甲斐があって、タケシタの所は、今まで一度たりとも、その内覧の情報を逃したことはなかった。
「これも、あの頃の経験のおかげやな……」
こういう内覧のあるとき、タケシタは、あの頃……、つまり、この業界で働くことになった当時の販売店でのことを良く思い出す。
タケシタが、初めてこの業界に勤めることになったのは、まだ二十歳(はたち)前の頃や。
Y新聞のワダ販売店という所やった。
それには大した理由はない。単に求人情報誌に載っていた店の写真が、その中で一番立派な建物に見えたからや。
入社して最初に教わったのは、A紙のタツミ販売店とは最大の敵対関係にあって、営業においても配達においても、すべての面で相手に勝利しなければならないということであった。
こういう関係にある新聞販売店同士というのは全国的にも珍しくはないが、ここでのそれは異常なほどやったと、今になってそう思う。
A紙のタツミ販売店の店主のタツミという男は、この業界では有名な男やった。
店舗も当時10店舗ほど持っていて、やり手で通っていた。
気の荒い男との評判も高い。
営業成績の悪い従業員をドツい(殴る)たり、ホースで水をぶっかけたりすることは日常茶飯事やったという話や。
そのせいか、タツミ販売店の連中は総じて気が荒いという定評があった。
バイクの運転にもそれが表れていた。
新聞販売店毎にバイクのメーカーというのが違う。
この業界に慣れた者は、その配達時、お互いの姿は見えなくとも、そのバイク音で、どこの販売店の配達員が配っているのかが分かるという。
タツミ販売店の連中は、他紙の配達員をバイクで威嚇(いかく)することが多かった。そうするのを楽しんでいるようなところが見受けられた。
もっとも、そうせな所長のタツミに怒られるということもあったのかも知れんがな。
タケシタも新人の頃、良く後ろに張り付かれて煽(あお)られた経験があり、何度か怖い思いをしたことがあった。
ただ、タケシタのいたワダ販売店も負けてはいなかった。同じようなことをしていたさかいな。
タツミ店の配達員に言わせたら、ワダ販売店の配達員ほど最悪な連中はおらんということになる。
正に、どっちもどっちというやつや。
また、ワダ販売店の所長のワダにしても、その評判はお世辞にもええとは言え
なんだ。
常に黒塗りのベンツに乗っていて、五分刈りでサングラスをかけたその姿は、いかにもヤクザそのものに見えるような男やった。
とにかく恐ろしく柄が悪い。また、意図してそう演出しているようでもあった。
所長のワダは、酔うと決まって同じ自慢話を店員たちに聞かせていた。
その昔、某居酒屋でチンピラ数人にからまれたことがあったという。
まだ若かった所長は、そのチンピラどもがどうしても許せずその喧嘩を一人で買った。
そのとき、かたわらにあったビール瓶をおもむろに叩き割って、その切り口をチンピラどもにかざし、追っ払ったということや。
ワダは、その状況を手振り身振り付きの武勇伝として語る。
しかし、その事実は違う。
後年、タケシタは業界の古株である他店の某所長から、その事実を知らされたことがある。たまたま、その某所長もその場に同席してそれを見ていた。
ビール瓶を割ったまでは良かったが、実際には握っていた先っぽだけしか残っていなくて、あとは粉々になったという。
とてもやないが、相手を威嚇するような状況やなかった。
そのチンピラたちにはバカにされ大笑いされた。恥ずかしさのあまり逃げ出したのはワダの方やったというのが事の真相らしい。
まるで、コントのようなオチやったという。
この業界には、昔からそういう格好をつけたがる人間が多い。
拡張団にも、そういう団長はいくらでもおるさかい、タケシタの言うのも良う分かる。
ヤクザにあこがれ、その真似をすることでハクをつけたいのやろうが、そのヤクザにしても実際には小心者の方が圧倒的に多いんやけどな。
配下の組員が数百名もいとるようなヤクザの大親分が、たった一人のヒットマン(殺し屋)に狙われたと知るや、一歩も外に出られんくらい怯えるという話は、良う聞いた。
そのヤクザの大親分も、日頃は「ワシの若い頃は……」と言うて吹きまくっとったさかい、蔭ではええ笑い者にされてた。
所詮、ヤクザの実像とはそんな程度のものや。まあ、中には例外もおるが少ない。もっとも、その例外にあこがれるのかも知れんがな。
ワシは、ヤクザは嫌いなんやが、なぜか昔からそんな連中と絡(から)むことが多かったから、その手の話もいやというほど聞かされた。
ただ、そういう連中でも、外見の体裁を整えることにかけては秀逸やというのは認める。
所長のワダも、その容貌や仕草は、ヤクザの大親分を彷彿(ほうふつ)させるものがある。迫力だけは満点や。
それが功を奏したのかどうかは分からんが、このときには、数店を抱え、A紙のタツミ販売店と張り合うくらいの勢力を誇ってたさかいな。
従業員も優に百名は超えてた。
そして、そういうトップには、ワンマン経営者が多く、従業員は絶対服従を強いられる。また、店全体にも逆らうことは許されないという雰囲気に包まれる。
当然のように、2、3ヶ月もすると完全にタケシタもワダ販売店のその雰囲気に毒されていった。
気がつけば、「タツミ販売店憎し」という気持ちが植え付けられていたさかいな。
朝刊配達時でもタツミ販売店の従業員と会っても口を利くことはない。
例え、マンションなどのエレベーターに同乗することがあっても、お互いシカ
トである。睨み会うことさえない。
今、考えるとまったく大人げないことをしてたと思う。
営業合戦が厳しい地域では、販売店の従業員の入れ替わりもかなり激しいのは、この業界の常やが、ここでは、それが異常なほど多かった。
もっとも、それは、他の店で働くようになって初めて分かったことやったがな。
いろんな面において仕事がキツイさかい、よほどの根性を持っとらんと続かんし、勤まらん。
せやから、入社して、その日のうちに姿を消す者も、さして珍しくはなかった。
もちろん、それに対して誰も驚くこともない。「やっぱりな」とか「またか」と思うだけや。
そんな中で残っていく連中が競い合うわけやから、争いが熾烈(しれつ)を極めるのは当然の成り行きでもあった。
その典型的な争いの舞台が、新築マンションの「入居者獲得合戦」やった。
この地域では、小さいもので4世帯ほどのアパートから、大きいものになると200世帯以上の高層マンションまでいろいろあった。
それらの入居者を獲得するのを、別名「張り付け拡張」と呼ぶ。その名のとおり、そこに、ほぼ1日中張り付く。
従業員の少ない販売店やと、拡張員の応援ということが多いが、ワダ販売店やタツミ販売店のように大規模販売店で従業員の多い所には、そのための拡張員が入るケースの方が少ない。
引っ越し客への入居勧誘というのは、この業界では誰でもできるとされとる勧誘やさかい、金のかかる拡張員をわざわざ使う必要がないわけや。
これには期間が限られとる。たいていは、1、2日。大規模マンションでも長くて1週間程度のものや。
普通、新築のマンションは建設中から入居者が決まっとることが多いから、それで入居決定者の8割方は入る。
新人も一度この拡張に参加すると、いやでも積極性が身につく。遠慮してたり尻込みしてたら仕事にならんからな。
早い者勝ちかと言うと必ずしもそうやない。拡張の掟は上げた者勝ちや。その客に何番手で勧誘しようが、カードを上げた者の物になる。
ただ、暗黙のルールとして、客と勧誘しとる者に割り込んで勧誘したらあかんということがある。一人の客には一人の勧誘員が行儀良く順番にというやつや。
しかし、ここのように敵対しとる販売店同士やとルール無用という事態になることも多い。
お互いの優劣がはっきりしとれば、ヤクザの世界と一緒で優先権は自然に決まるが、拮抗している場合は一触即発の危険な状況になる。
はっきり言うて、こういう地域の客は悲惨や。
意気揚々と新居に夢を膨らませて引っ越して来たと思うたら、その瞬間にあっという間にそういう勧誘員に取り囲まれるんやからな。
順番に行儀良く来るような所は、熱心な新聞屋が多いなで済むが、目の前で喧嘩を始められたら堪ったもんやない。
その挙げ句の果てには、取りたくもない新聞を半強制的に取らなあかんような雰囲気に持って行かれることもある。
新聞恐怖症になる人も実際にいてる。まったく罪な仕事やと思う。
その第一のステージが、マンションの「内覧会」ということになる。
その情報を得るために、冒頭で話したようなことをいろいろするわけや。
もっとも、タケシタのその知識も、ほぼこのときに会得したものやったがな。
その情報合戦においても、ワダ販売店とタツミ販売店は常に互角やったと記憶しとる。
タケシタには、その「内覧の戦い」において、今でも強烈な印象として残っとる出来事が幾つかあった。
駅から徒歩で5分ほどに建設されたRマンションでの内覧会というのも、その一つやった。
その内覧会には50世帯ほどが来るという情報が入っていた。総戸数の約8割に当たる。
午前9時30分。
タケシタのいたワダ販売店と、ライバルのタツミ販売店の従業員たちが揃い、対峙していた。
双方、合わせて総勢、20名ほどはいとる。
傍目にも、お互いの敵対意識はそれと分かり、一触即発の雰囲気が漂っていた。
当人たちは、これから食うか食われるかの死闘も辞さずという気構えになっとるから、その殺気を押し殺すことができんわけや。
言えば古(いにしえ)の戦国時代の戦(いくさ)で対峙しとる両陣営を彷彿(ほうふつ)とさせるものがある。
少し、大袈裟(おおげさ)すぎる表現やという意見も聞こえてきそうやが、この「内覧の戦い」というのは、新聞販売店にとっては、それに近いくらい重要な意味を持つ争いでもある。
ワダ販売店とタツミ販売店との間では、特にそれが言えた。
文字どおり戦場なわけや。
お互い、客受けを考えてのことやと思うが、普段着ることもない不慣れなスーツに身をやつしている。
それが、彼らなりの軍装ということになる。
「とにかく早いもの勝ちだから、それらしき人には全部声がけしろよ!! 絶対にタツミの連中には負けるな!!」と、陣頭指揮を執る店長が鼻息荒く、そう激を飛ばした。
「オーッ!!」
当然のように、敵陣でも同じく「オーッ!!」と、気勢が上がる。
今から、野球かラグビーの試合でも始めるのなら、それなりに絵になるが、当事者以外からこの光景を見れば、とてもやないがまともやとは思えんものがある。
たいていの者は、引くで、ほんま。
とにかく、それで戦闘の火ぶたが切って落とされた。
当時、入店間もないタケシタの役目はと言えば、ただの荷物持ちやった。
荷物とは、客へ手渡しする手提げ紙袋のことを指す。
その中には、使い捨てスリッパ、雑巾、タオル、鉄道路線図、地域情報マップなどが入っている。
特に「使い捨てスリッパ」は必需品で、結構、重宝される一品や。
内覧会で入室する際に、スリッパを履いていれば自分の靴下を汚さずに済む。
内覧時というのは、引き渡しとは少し違うから、それほど清掃はされてない現場の方が多い。
言えば、入居前の検査的な意味合いを含むものやからや。
不動産屋には、これで、入居者からのクレームを受け、それに答えて直すという建前がある。
あまり大きな声では言えんが、わざとその清掃の手抜きをしとる業者も多い。
一般には、客に見せるためにその内覧会をするわけやから、徹底した清掃をしてるものやと思われがちやがな。
もちろん、そうするにはするなりの理由がある。
ワシも昔、その建築屋で長くそれに携わっていたから、その内幕はいやというほど知り尽くしとる。
清掃を手抜きしとる大きな理由は、そこに注意を向けさせるためや。
どこか汚れている箇所があれば、入居者は必ずそれを指摘する。そして、多くの場合、そうしたことで満足する。
不動産屋は、待ってましたとばかり「さすが○○様はきびしい目をお持ちですね」と言ってよいしょするわけや。
言うとくけど、この場におる不動産屋の人間は、すべてが営業員やから、その程度のことはお手のものということになる。
入居者は、それで悦(えつ)に入る。そして、肝心な部分を見逃す。そういうのが多い。
当たり前やが、汚れた所なんかは掃除したら終いや。
実際、その内覧が終わると、専門業者に清掃を徹底させるさかい、入居時には見違えるようにきれいになっているケースが大半や。
入居者は、そのギャップに大喜びするという構図になる。
言えば、業者に嵌(は)められとることになるのやが、これが結構、効果的なわけや。それと見破る客は、まずおらんさかいな。
読者の方で、これから、マンションを購入して、そういう内覧会のような現場に行かれる人もおられるかも知れんから、簡単に、そこでの見所というのを言うとく。
1.視点を変えて見る。これが最も重要やと思う。
室内を歩き回って見るという人が大半やが、それやと、どうしても気づきにくく、見落とすということになりやすい。
座って見るということも重要や。実際、その部屋で生活するとなると、座っている時間がほとんどやさかいな。
多くの欠陥や不具合が入居後に発覚するのは、そのためというのが多い。
フローリングの傾斜や壁の歪み(ひずみ)も座って見ると、素人でも簡単に気づきやすい。
また、小さな子供がいれば、その子供の視線で見ることができるから、危険な部分も発見しやすいということがある。
さらに、寝転がって見るというのも方法や。これは、天井を見るのにええ。
2.扉、窓などの開閉部はすべて全開するまで開け閉めを繰り返す。
扉というのは、よほどでないと、半分くらいまでならたいていはスムーズに開くもんや。
しかし、建具の取り付けが悪いと全開しづらいということがままある。これは、窓についても同じことが言える。
3.なるべく大人数で見る。一人の目で見るのは限られるさかいな。できたら、事前に見る箇所を分担するというのもええかも知れん。
4.他には、ビー玉を持っていって床の転がりを見たり、懐中電灯などを持っていって明かりの届きにくい、押入れの天袋やクローゼット、キッチンの内部を確認するのもええ。
大体、こんなもんやな。
いずれにしても、汚れや埃(ほこり)は目につきやすいが、そんなものに囚われすぎんようにすることが肝心や。
話を元に戻す。
例え、不動産屋がそのスリッパを当日用意していたとしても、その後入居までに何度か足を運ぶわけやから役に立つことには変わりない。
要するに、紙袋の中身に入っている物は「お客様のために、当店は、ここまで考えているのですよ」ということをアピールするための物やなかったらあかんということや。
戦いのゴングが鳴ると同時に、双方の店員たちは、手当たり次第にマンション付近を通る人たちすべてに声をかけまくる。
当たり前やが、譲り合いの精神などカケラもなく、あるのは早いもの勝ちという論理だけや。
ただ、それだけしていても実際の結果はというとかなり厳しいものがあった。
無視されたり、まったく検討はずれの人に声をかけていたり、入居予定の人でさえなかなか相手にしてもらえないことすらある。
ここでは、内覧会の時点で購読を決めてくれる客は全体の2割もいれば御の字やった。
内覧会も終盤になってくると、双方に倦怠感と焦燥感が漂いはじめる。
そんな中、タケシタらの視界に見覚えのある車が近づいてきた。黒塗りのベンツやった。
「おいっ、所長が来たぞ」
店長が小声で叫んだ。
当然のように、場に緊張が走る。
見れば、店長の顔がこわばっている。
まだ4本しか契約が上がっていない。
もっとも、それは相手のタツミ販売店にしても似たようなもんやが、これだけの人数を繰り出してそれやという言い訳は、ワダには通用しない。
当然のように、現場責任者である店長が、その責めを負うことになる。
ヘタをしたら、皆の前でビンタの一つも食らう。その程度のことは平気でする男や。
店長の顔がこわばっとるのは、それがあるからやった。
それを見ていたタケシタは、「大変やなぁ」と心の中でつぶやき、その店長に漠然とした同情を寄せた。
もちろん、後年、その新聞販売店の店長になろうとは、このときは考えもせんかったことや。
もし、このとき、このワダ販売店で、将来は「店長」という話があったとしたら、早々にこの業界に見切りをつけていたのは間違いなかったやろうとは思う。
所長のワダが乗った車はマンションのすぐそばで止まった。
次の瞬間、店員の誰もが目を疑った。
タツミ新聞店の新人店員が所長のもとへ足早に駆け寄り、「こちらへご入居ですか?」と声をかけ始めたからやった。
勧誘するつもりのようや。
タツミ新聞店にとっては大恥となるアクシデントや。すぐさま他の店員たちが彼の動きを止めた。
まさか敵側の所長を、入居予定の客と間違えるとは、誰もが想像の埒外(らちがい)やった。
ワダ所長も、開口一番「誰だ? あいつは」と店長に聞く。
「タツミ店の新人のようで……」と、店長が答える。
ワダは、それを聞くと苦笑を浮かべ、「あれぐらいの気合を入れていけ!!」と、店員たちにハッパをかけた。
どうやらタツミ店の新人の失敗も、熱心さからくるものやと感心したらしい。
後日談やが、ちなみにそのタツミ店の新人はその後出世し、店長を何年も務めることになったという話や。
タツミ店では「敵側の所長にまで営業する男」として名を馳せたという。
このときの内覧会は、ワダが現れたことで、タツミ店の店員たちの気勢が削(そ)がれ、何とか辛勝することができた。
もちろん、その逆のことも幾度もあった。
内覧会での勧誘には、暗黙の決まり事がある。
それは、声がけするのは路上のみに限られ、建物内に入ることは許されないということや。
その掟破りとも言える手段にタツミ販売店が出たことがあった。
それは、駅前Fプラザマンションの内覧会でのことやった。
午前10時からの日程に合わせタケシタらワダ販売店も、いつものように準備万端ぬかりなく整え、それに臨んだ。
しかし、10時ちょっと前からFプラザ前では異変が起きていた。
なんと建物のまん前にタツミ販売店の連中が長机と椅子を並べはじめ、まるで「新聞購読受付所」のようにセッティングしていたからや。
ワダ販売店の店員たちは、それに完全に度肝を抜かれた。
特に店長は、血の気が引いてしまっていて失神寸前やった。
前代未聞のことである。
タツミ店の従業員たちは椅子にどっかと腰を落とし、まるでFプラザが仕込んだ専用の「新聞購読受付所」のごとくに見せかけていたわけや。
そのタツミ店の連中は、薄ら笑いを浮かべて、タケシタらワダ販売店の店員たちを見やっていた。
完全にやられた。
おそらく、その不動産会社を凋落(ちょうらく)したものと考えられる。
コネがあったのか、モノで釣ったのかは分からんがな。
時間がすぎると次々と客たちがやってきた。
ワダ販売店陣営は路上で勧誘するしかチャンスがない。
焦って、急遽、プラカードを作り、駅前に立ち、さも不動産会社の社員のように振る舞って客を捕らえる作戦に出たが、これはほぼ空振りに終わった。
「新聞購読受付所」で親しげに話す客たちとタツミ店の店員たちの姿がいやでも目に入る。
中には契約書にサインしている客もいた。
タケシタらは憤懣(ふんまん)やるかたない思いでそれを横目に見るしかなかった。
敗北濃厚やった。
それが一変する事件が起きた。
タツミ販売店の「受付所」から立ち去ろうとしていた30代の夫婦にタツミ店の店員が声をかけようとした。
そのとき、しびれを切らしたワダ販売店のホンダという男が突進していた。
ホンダはタツミの店員よりも早くその夫婦に駆け寄り、声がけ(セールス)を始めた。
夫婦はあいまいな態度で、答えを濁していた。
そこへ追いかけてきたタツミ店の店員が割って入った。
「○○さん、Y新聞は良くないですよ」と、その店員は思わず、そう口走って
しもうた。
それを聞いたホンダがキレた。
「おんどりゃぁー!! なんじゃー、その言いぐさは!! ざけんなよ!!」
その剣幕に、タツミ店の店員は完全にびびってしまった。
ホンダは、風貌、雰囲気もヤクザを彷彿(ほうふつ)とさせるものがあった。なにせ前歴がそれやという話やったさかいな。
もちろん、この場は、そのホンダの迫力以上に、その店員の絶対に言うてはいかん一言があったというのが大きかったわけやがな。
いくら、お互いルール無用やとは言うても、交渉中に割り込んで、しかも相手のことを客に悪し様に言うというのは許されん行為や。
他のタツミ店の店員たちも、その場は謝るしかなかった。
ただ、びびったのは、客であるその夫婦も一緒やった。そそくさと足早に駅へ逃げるように走り去って行ったからな。
それから、ホンダが睨みを利かせはじめ、タツミ店の店員たちも落ち着かない様子になっていった。
現場はまさに一触即発の状態になった。
その緊張感に包まれた土日の内覧での戦いは、それ以上の騒ぎもなく終わった。
結果的に、戦果は五分五分やった。
不動産業者を丸め込んで特設机を作り、圧倒的有利やったタツミ店も、店員の一言からホンダにびびる羽目になったことで、十分な営業活動ができんかったのがすべてやったという気がする。
ただ、その特設受付机の設置というのは、ええアイデアや。
実際、タツミ店の店員のよけいな一言がなかったら、ワダ店の惨敗は必至やったさかいな。
ワダ店でも、早速、そのアイデアを取り入れるため、次回以降の内覧会で特設受付机を設置することに奔走するようになった。
その後、すぐにKシティマンションというところで内覧の情報を得て、不動産会社にその工作をすべく計ったが、あえなく失敗した。
後で、知ったが、そこは1戸、1億円以上もするいわゆる「億ション」で極めてセキュリティーにうるさいマンションやった。
情報では某アイドル歌手や著名人も多く入居する予定とのことで、そのためガードが異常に強かったということが原因やと分かった。
もちろん、そこではライバルのタツミ販売店も同じように弾かれたようや。
そんな失敗を繰り返しながら、タツミ販売店との競り合いに勝って、ある内覧会で、その特設受付机を設置することができた。
それは、入居数200戸以上というかつてないほどの大規模な物件やった。当然のごとく、そこでは大勝利を得た。
タケシタにとっては、毎日が戦争の日々というくらいきびしい状態が続いていたが、そのおかげで数多くのノウハウを会得できたと、今にして思う。
多くの人は、その日のその辛さに閉口して逃げ出したい気持ちになることが多いようやが、その当人にとってのそれは、かけがえのない経験として残る場合が往々にしてあるわけや。
あの厳しさ、きつさがあるから、今日の自分があると思えるようになることも多い。
また、そう思える者だけが、その世界で成功するのやないかとも思う。
「さあ、行こうか!!」
店長のタケシタは、今は、その戦いの中心に身をおいているということもあり、自らを鼓舞(こぶ)するようにそう言い放った。
また、新たな戦いが始まる……のやと。
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