メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話

第176回 新聞拡張員ゲンさんの裏話     

発行日 2007.12.21


■天国からのクリスマスプレゼント


また、今年もクリスマスの日がやってくる。

このメルマガには不似合いな話題と知りつつ、今年もそのクリスマスにまつわる話をしようと思う。

最近、読み始められた読者の方にとっては、拡張の話とあまり関係ないと思われるかも知れんが、定例のことなんで理解して頂きたい。

4度目になる今回は、子供の頃、ワシ自身に起きた小さな奇跡についてや。

もっとも、そのときには、強烈な印象として残ってたはずなんやが、あれから40数年が経過しとるということもあり、その記憶もどこまで確かやったか怪しく薄れかけとるがな。

また、子供の頃に味わった感激と、ブルースウィルスばりに頭が寂しくなり、完璧なおっさんと成り果てた今とは、かなりズレがあるかも知れんが、その辺はがまんして聞いて頂きたい。

本来なら、疾(と)うの昔に記憶の彼方に追いやられていたはずで、思い出すことすらなかったことかも知れん。

しかし、このメルマガでするためのクリスマスの話題を考えていたことで、それを思い出すことができた。

それには、毎年、このクリスマスにまつわる話を楽しみにしてくれているというメッセージを送って頂く多く読者の方々のおかげもあると思う。

今回の話が、その方々の期待を裏切らないものであってほしいと願うが、こればかりは、読者の感じ方次第やから、ワシがいくら頑張って話すと言うても仕方のないことではあるがな。

前置きは、この辺にしといて、そろそろ始めさせて頂く。

クリスマスを喜ぶのは何と言うても子供たちや。ブレゼントを貰えるさかいな。

「クリスマスは、親にとってはクルシミマス(苦しみます)や」と、昔から揶揄(やゆ)されとるが、もちろん誰も本気で、そんなことを思うてるわけやな
い。

プレゼントを買う親は、それがクリスマスやから仕方なしにということではなく、子供の喜ぶ顔が見たいからというのが最大の理由やと思う。

3年前の当メルマガ『第20回 ■サンタクロースは実在する?』の中で、


親が、寝た子の枕元にそのプレゼントを置く瞬間は、誰でも間違いなく、心はサンタクロースに変身してると思う。親の子を思う心がサンタクロースを生んだ。 ワシはそう信じとる。

つまり、真のサンクロースは、子供を愛する親の数だけ存在している。実在のそういう親たち、総てがサンクロースやと思う。

その心が失われん限り、サンタクロースは滅ぶことはない。未来永劫、不老不死の老人として存在し続ける。愛の心が生んだものが、サンタクロースの姿になった。

これが、ワシのサンクロースは実在するという理由や。


と言うてた。

そんな、幸せな家庭がなくなってほしくはないもんやと切に願う。

しかし、近年の世情には冷え込んだものがあると言わざるを得ん。そんなことを感じさせる事件が多すぎる。

親が子供を殺し、子が親を殺す。身内が身内を殺す。

本来あってはならん事件が、日常茶飯事と言うてええくらいに続いて後を絶たんようになった。

哀しいことや。

ワシらが子供の頃には、そんな事件はまったくなかったとまでは言い切れんのかも知れんが、耳にすることが少なかったのは事実や。

人情に厚いとされていた日本人が、その人情をなくしたのか。忘れたのか。そう思われてならん。

ただ、それでも人は畜生やないのやから、その事件を起こした当事者たちは、底知れぬ地獄に堕ち、救いのない苦しみにもがいていると信じたい。

よく経済発展と比例して、日本人の心が荒(すさ)んできたと言うが、あながち、それは誤った見方やないと思う。

便利さと豊かさを手にしたことで、生活レベルは上がったのかも知れんが、その分、他人へのいたわり、人との交わりが希薄になって、日本人の美徳とする人情も廃れてきたような気がしてならん。

そうかと言うて、今更、昔に逆戻りはできんやろうけどな。

貧乏のままであれば、何もないことがさほど苦にもならんが、一旦、何でも手にすることができるようになると、それを失うことに耐えられる人間は極端に少ないと思う。

テレビや車、携帯電話のない生活は、最早考えられんという人間が大半なはずや。

現在が、いくら不況の時代やと言われていても、40年も前に比べたら、まだ雲泥の差で経済水準は高い。

しかし、15年ほど前のバブルの絶頂期を思い描く人間にとっては、今は最悪やとなるわけや。

経済発展せなあかんという意識が強すぎるのやないかという気がしてならん。社会全体が、マイナスになるということが許せん風潮になってしもうとるさかいな。

ほどほどに満足するということが難しいわけや。

その結果、人情が廃れるのやとしたら、哀しいことやと言うしかない。

便利さと豊かさが、人情に勝るとは考えたくはないのやが、残念ながら時代は、その方向に流れてしもうとる。

ワシらの子供の頃は、テレビもなく、漫画も簡単には買うて貰えんかった。それが、取り立てて貧乏やからということではなく普通やった。

せやからと言うて、その時代、特別に不便を感じていた者は少なかったと思う。

遊び道具にしても、小遣いなど貰うとる子供も皆無に近いから、自らで工夫して作るしかなかった。物を買う、買うて貰うという発想がないわけや。

しかし、その頃の子供らは、それなりに楽しんでいたと確信しとる。

その頃は、どこにでもあった竹藪の竹がその材料として重宝していた。

釣り竿はそのまま使えるし、竹とんぼ、水鉄砲、竹馬なんかは、その当時の子供なら誰でも作っていた。

今の子供たちには、あまり勧められんが、竹で作った弓や小石を発射する手製のライフルなんかで、よく蛇やカエル、スズメなんかを撃っていたもんや。

変わったところでは、ベーゴマ作りというのもしてた。

ベーゴマとは、普通の木製のコマと違い、そのすべてが鉄製でできている。軸と呼べるものがなく円錐形をしていて、直径が2センチ前後の小さなコマや。

今は、ベーゴマと言うのが一般的なようやが、ワシらの子供の頃は、「バイゴマ」または「バイ」と言うてた。

どうやら、この呼び名の方が、本来は正しいようや。

バイゴマの歴史は古く、平安時代にまで遡(さかのぼり)り、京都周辺ではじまったと言われている。

その当時は、「バイ貝」という巻き貝の貝ガラに砂や粘土をつめて、それをヒモで廻して子供たちが遊んでいたのが、始まりとされとる。

バイ貝を回すことから、バイゴマと言うてたわけや。

それが、関東方面に伝わり、バイゴマがなまって、ベーゴマと呼ばれるようになったという。

今は、全国的にも、この名の方が通りがええようやから、ここからはそう呼ぶことにする。

現在のような鉄製のベーゴマは、明治末期から大正初期にかけて作られはじめ、それが子供たちの間で少しずつ流行っていった。

その流行のピークは、戦後、昭和20年代〜30年代後半、つまり、ワシらの子供時分ということになる。

遊び方は、至ってシンプルで、それぞれの特製の台の上で、そのベーゴマを回してぶつけ合い、はじかれて外に出た方の負けになる。

勝った者は、その負けた者のベーゴマを取ることができる。言えば、子供同士の賭け試合ということやな。

その当時の遊びには、そういうのが主流やった。メンコにしろ、ビー玉にしろ、勝ったら相手の物を取るという共通のルールがあったさかいな。

その当時のたいていの子供は、そういう遊びをしていた。

日本の国、全体が貧乏な状態の中にあって、ワシの家は、さらにワンランク上の貧乏やったから、その当時、1個、10円程度のベーゴマすら買うては貰えなんだ。

そこで、その仲間に加わりたいために、自家製のベーゴマを作ってたわけや。

というても、それほど難しいことでもなかったがな。

親父がどこかで拾うてきたという鋳物の型が、ベーゴマを作るのに、ちょうどええ大きさと形をしていた。

そこで、ワシは、戦争で焼け落ちた工場跡に行って、そこに落ちてあった鉛をかき集めて、それを溶かし、その鋳物の型に流し込んで、ベーゴマを作ってたわけや。

ヤスリで削って仕上げれば何とか形にはなったが、本当のベーゴマの鋳型やないから、コマとしての完成度にはほど遠いものやった。

バランスも崩れて回りにくいということもあり、なかなか勝てんかった。

本当は、皆と同じようなベーゴマがほしかったのやが、買うてくれとは言えなんだ。

ヘタに言えば、親父に、げんこつの一つも喰らいかねんと思うてたさかいな。

ワシの親父については、このメルマガの『第45回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■親父よ、永久に……』でも話したが、読んでおられない人のために、その中から抜粋しながら簡単に紹介しとく。

ワシの覚えとる親父は、お世辞にも立派な人間というには、ほど遠い男やった。いつも喧嘩ばかりしとったというイメージしかない。

喧嘩と言うても、子供のそれとは違うから時には命がけやったと思う。特に、その相手はヤクザ者が多かったから余計や。

親父自身はヤクザ者でも何でもない。言えば、喧嘩っ早い河内のあぶない兄ちゃんというところや。

親父はヤクザ者が嫌いなようやった。せやから、ヤクザ者と喧嘩ばっかりしてたんやろうがな。

まだ子供やったワシの目の前で、刃物を持ったヤクザ者と立ち回りしてたのを何度も見た覚えがある。

親父はワシに対しては厳しかった。勉強の出来、不出来には何も言わん。もっとも、勉強に関しては面倒見きれんかったのかも知れんけどな。

ただ、喧嘩に負けることは、小さい頃から許されんかった。負けて泣かされて帰って来ると外に叩き出され「勝つまで帰って来んでええ」という具合や。

せやから、ワシも仕方なく、その喧嘩相手の所に何度でも向かって行っとった。家に入れて貰えんのやからしゃあない。

勝つまでそうするわけやから、結果的に喧嘩での負けはなかった。喧嘩の実力でワシ以上の者は何人もおったけど、ワシと喧嘩になるのは皆、嫌がっとったな。

変な話やけど、ワシは子供の頃に、あきらめんへんかったら最後には必ず勝てるということを知った。負けるのは、それを認めてあきらめた時やということもな。

親父が意図してそう教えるためにワシに言うてたのやないとは思うが、結果的に、ワシにその考えが培(つちか)われたのは事実や。

そして、その考え方は、大人になってからも何度も役に立ったと思うてる。

仕事は定職にはついとらんかった。転々としとったと、後に祖母から聞いた。今で言うたら、フリーターというところやと思う。

親父のやってたことを全部は思い出せんが、最後の仕事だけは、はっきりと覚えとる。その仕事の最中に死んだのやからな。

当時、相撲懸賞というのがあった。今でもあるということやが、当時のそれとはかなり違うようや。

ワシが覚えとった相撲懸賞は、毎日の取り組み表の対戦別勝者を当てるというものや。幕内力士の対戦相手毎にハンデをつけて勝ち点を決める。

ハンデの付け方はいろいろある。番付によるものや対戦相手同士の直接の勝敗なんかがそうや。それを判定するハンデ師みたいな者がおったと聞いていた。

例えば、横綱と平幕の対戦の場合、横綱の勝ちは1点やが、平幕の勝ちを予想して的中させれば10点という具合や。それを15日間合計した獲得点数の上位者が、商品を受け取れるという仕組みになってた。

ただ、相撲の取り組みは前日でないと決まらん。今のようにインターネットもないし、FAXすらなかった時代や。その予想投票の集計は手作業でしか出来んかった。

取り組み表が発表されると、その対戦投票用紙が印刷される。それを、各地域毎の配達人がその投票者に即日配る。投票人はその投票用紙に予想を記入する。

翌日の午前中、投票人はそれを集めて回る配達人に渡す。配達人はそれを各地域の支部に持って行く。それを15日間続ける。

その集配の仕事を親父はしとった。オートバイでの集配や。今でこそ、バイクでの集配というのは普通のことやが、その当時は少なく珍しかった。

新聞配達でさえ、自転車か歩きの時代やったからな。

親父は何故かいつも赤いマフラーをして、そのオートバイに乗ってた。

子供のワシは、そのちょっと前に流行ってた『少年ジェット』というヒーロー物にあこがれとったから、それと親父の姿がだぶって格好良かったと思うてた。

知る人ぞ知るというヒーローや。今で言うたら、仮面ライダーみたいなもんかな。仮面は被ってなかったけど。

もっとも、今の子供やったら、自分の父親がそんな真似してたら、格好ええとは思わんやろけどな。

事故はそんな時に起こった。

後ろから走って来た軽トラックに追突された。それで、転倒して後頭部を打った。ヘルメットは被ってなかった。その当時はまだ、その着用義務もなかったということもあったがな。

軽トラックの運転手はうろたえとったらしいが、親父は自分で起きあがり、オートバイを押しながら病院に行ったと言う。そして、その病院の玄関前で力尽きて倒れた。

その知らせを学校で聞いて、祖母と一緒に急いで病院に行った。その時は、親父にまだ意識はあった。

「ゲン……、ちょっと、来い……」

荒い息で親父がワシを呼んだ。

「ゲン、ええか……、これは事故や。誰も悪気で起こそう思う者はおらん。運ちゃんを……恨んだらあかんで……」

「うん、分かってる。分かってるから早う治しいや」

「そうやな、こんなもん、赤チンぬってたらすぐ治るわな。治ったら相撲見に連れてったるからな……。ちょっと、眠たぁなったから寝るわ……」

それが、親父の最後の言葉やった。それから、3日間、昏睡状態が続いて親父はあっけなく死んだ。

ワシはどうしてもそのことが信じられんかった。

ヤクザと喧嘩して体中、傷だらけになっとっても何ともないような顔をしてた人間や。それが、車にぶつけられて倒れたくらいで死ぬはずがない。そう、思うてた。

その親父の命日が、11月17日やった。

その日から、祖母と二人きりの生活が続くことになる。

祖母というのも、親父の親だけあって、男勝りの剛毅な性格の人間やった。細い身体をしてたのに仕事は、土方なんかをやってたくらいやさかいな。

ただ、それだけでは、生活できんかったから、それを助けるため、ワシはまだ11歳やったが、新聞配達のアルバイトを始めたわけや。

言えば、その頃から、この業界とは縁があったことになる。結局、そのアルバイトは中学卒業まで続けることになった。

その頃の家々は、今のような引き戸の玄関は少なく、ガラス戸の開き戸というのが多かった。

引き戸の家には、たいていポストがあるから、それに合うように折りたたんで入れる。今は、ほとんどがこれやと思う。

ガラスの開き戸の場合は、新聞を折りたたまず、その隙間から差し込んで入れる。口で言うのは簡単やが、慣れんとなかなかスムーズにはいかん。

開き戸の立て付けの悪いのになると、上部にしかその隙間はなく、子供のワシは、そこまで手が届かず苦労したことを覚えとる。

まあ、それでも慣れてくると、その開き戸を軽く叩くことで下にもその隙間ができるということを知ったがな。

親父が死んで1ヶ月後の12月24日。クリスマス・イブの日のことやった。

普段、おもちゃなんかを滅多に買って貰えない子供らにとっては、一年で一番の楽しみな日でもあった。

どんな家の子供も、この日だけはプレゼントが貰えるさかいな。

親父も、この日だけは、必ず何かを買ってくれていた。生きていれば、その年もそのはずやった。

「ゲン、これしか買うてやれず、かんにんやで」

そう言うて、祖母が、小さなショートケーキを一つ、ちゃぶ台の上に置いた。

「何言うてんねん。ワイはこれで十分や。うわーっ、旨そうやな」

その当時でも、クリスマスケーキというのはあったが、かなり高価な物やったから、子供心にも、そんなぜいたくが言える身分やないとわきまえていた。

60歳を超えた女の身で、男でもきつい、土方仕事しながら、それしかできんというのやから、ワシにすれば当然の反応でもあった。

「せめて、シゲが生きていたらな……」

「おばぁはん、それは言わん約束やろ」

親父の49日の法要が終わった先週、たった二人だけの身内になったワシらは、これから二人で頑張ろうと誓い合ったばかりやった。

「そうやったな……」

ラジオもテレビもなく、クリスマス・ツリーもない、傘のない裸電球の灯った、がらんとした部屋で、ワシと祖母は、静かにそのショートケーキの箱を開けた。

そのとき、玄関の開き戸を叩く音が聞こえてきた。

「誰やろ?」

祖母は、少し訝(いぶか)りながら、その玄関に向かった。

しばらくの間、訪れた客と話していた祖母が急に大声を出してワシを呼んだ。

「ゲン、ちょっとおいで!!」

「何や? うちは狭いねんから、そんな大声出さんでも聞こえるで……」

そう言いながら、玄関先まで行くと、そこに見覚えのあるおっちゃんが、赤いリボンのついた箱を持って立っていた。

親父の友人やった。近所の板金屋のおっちゃんで、親父に連れられて何度か、その工場に遊びに行ったことがあった。

名前は、エジリと言った。

「これ、お前にやて……、誰からやと思う?」

そう言いながら、すでに祖母は、声を震わせ半泣きになっていた。

「……」

いきなり、そんなことを言われても、ワシに分かるはずがない。

「これは、シゲさんから、ゲンちゃんに、今日、渡すように頼まれてたんや」

エジリはそう言いながら、その赤いリボンのついた箱をワシに差し出した。

受け取るとずっしりと重い。

「お父はんから?」

「そうや」

「開けてもええ?」

エジリは、小さく頷く。

ワシは、ゆっくり、きれいに包んであった包装紙をはがし、箱のふたを開けた。

「これは……」

ワシは、しばらく絶句して、何も言葉が出て来んかった。

その箱の中には、無数のベーゴマが入っていた。

「実はな……」

親父は、事故に遭う1週間前、友人のエジリに、ワシへのクリスマスプレゼントやということで、そのベーゴマ作りを依頼したということや。

親父も、ワシがそのベーゴマを作っていたのは知っていたからな。いきなり、それを渡すことで驚かせたかったのやろうと思う。

エジリも快く引き受けたが、その1週間後、親父が事故で死んだというのを聞かされた。

エジリは、それを知らされてショックを受けたが、親友の最後の頼みやということで、それを作り、今日、その約束を果たすために来たのやと言う。

「これは、全部、ペチャや!!」

ベーゴマには、幾つかの種類がある。

丸六(まるろく)……もっとも貝の原型に近いベーゴマ。

角六(かくろく)……表面に東京六大学のイニシャル(T、W、K、H、M、R)が刻まれているもの。

中高(ちゅうだか)……角六よりも少し小さい8角形で、厚みがある。

赤中(あかちゅう)……角六に厚みを持たせた8角形のタイプ。

高王様(たかおうさま)……もっとも大きなベーゴマで、円形をしている。

そして、ペチャ。もっとも薄いことでそう呼ばれとる。始めは少し回しにくいが、一番最強のベーゴマとされとるものや。

基本的にベーゴマは、厚みが薄いほど相手のコマの下に潜り込んで、はじき飛ばすことができる。

そのペチャが、箱の中に詰まっていた。

ペチャの仲間に、ペチャより一回り大きいペ王様(ぺおうさま)、ペ王より厚く、高王より薄い大型の中王様(ちゅうおうさま)というのもある。

「これは?」

そのベーゴマの刻印を見て驚いた。

「それは、ゲンちゃんの名前を刻印したものや」

それも、親父のリクエストやという。

ベーゴマは、その型を作る際、オリジナルな刻印にすることも可能なのやという。

ワシは、その日、うれしさのあまり一睡もせず、枕元にそのベーゴマを置き、ずっとさわり続けていた。

後日、知ったのやが、どうやら、親父は、そのベーゴマの代金を、そのエジリには払ってなかったようや。

というか、その金を稼ぐために、いつもより無理をして、相撲懸賞の取り組み表を多く回収していたらしい。その回収の多さで、手間賃が違うてたというさかいな。

その無理が事故につながったのやないとは思うが、やはり、そういう事実を知るのは辛い。

エジリは、金は貰うてなかったが、ついにワシらには、そのことは一言も話さず終いやった。

エジリは、親父とワシのため、あえて代金の貰えることのないベーゴマを作って、約束のクリスマスの日に持って来たということになる。

ワシが、その事実を知ったのは、それから二十年近くも経った、そのエジリ本人の葬式の日やった。

そのときに、親父とエジリの共通の友人から、初めてそのことを聞かされた。

正に、墓場まで持って行った真実ということになる。

エジリがそこまでしたというのが、友情のためやったのか、それとも、そうせなあかん他の理由があったのかは、もう伺い知ることはできん。

ただ、そういう人情に厚い男たちがおったというのだけは間違いなかったと思う。


参考資料

ベーゴマの世界/株式会社日三鋳造所 HPより
http://www.beigoma.com/


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