メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話
第183回 新聞拡張員ゲンさんの裏話
発行日 2008.2. 8
■あぶない、あぶない、その誘い
「ショージ、ほどほどにしとけよ」
団長のタクは、配下の若い拡張員にそう諭(さと)した。
自身の昔の姿と、そのショージという若い拡張員の姿とが重なったからや。
拡張の仕事をしていると、実にいろいろな危険に遭遇することがある。
それも、明らかに危険やと思えるものなら用心も対処もできるが、それが一見するだけでは分からず、むしろ、そのことがラッキーのように感じることすらあるから、事はやっかいや。
ラッキー(幸運)とアンラッキー(不運)とは紙一重で、幸運の蔭には不運が潜んどるのが世の常なんやけど、それと気づいて日々の行動を心がけとる者は少ない。
たいていは、絶体絶命のピンチに見舞われ進退窮まったときに、それと知ることになる。
団長のタクは、そのことを思い知らされた苦い経験がある。
その出来事は、タクが、この仕事を始めたばかりの20年ほど前に遡(さかのぼ)る。
「タク、この拡張はおいしい仕事なんやで」
その日、新人やったタクの指導員をすることになったイワイという中年の拡張員がそう言った。
「そんなに儲かりますか」
もちろん、タクもそう信じたからこそ、この世界に飛び込んできたわけやがな。
タクのツレ(友人)にゴロウという男がいてた。
そのゴロウが、拡張員になってすぐ月給50万円稼いだと聞かされた。
そのゴロウとタクは暴走族仲間やった。
タクは、同じ営業でも住宅リフォームを選んだ。大阪では、そこそこ名の知られた会社やった。
そこで2年勤めていて成績も、会社の中ではええ方やった。しかし、それでも給料は手取りで平均すると30万円ほどやった。
それで、ある程度、満足はしていた。同じ世代の者よりかは稼ぎが良かったからな。
しかし、ゴロウの話を聞いて心が揺らいだ。「契約なんか、面白いほど上がるで」と、豪語する。
ゴロウとは、昔からの仲やが、そんな営業の才能のある奴にはとても思えんかった。
暴走族のリーダーは、タクや。タクは腕っ節の強さよりもその頭の回転の良さで、仲間の信頼を勝ち取りトップを張っていた。
ゴロウは、いつもその蔭に隠れて立ち回っていただけの男や。
もっとも、社会に出れば、そのうまく立ち回ることのできる人間が頭角を現すというのは良くある話やけどな。
ただ、ゴロウ程度の男に稼げる拡張の世界というのには魅力を感じた。
オレやったら、もっと稼げるはずやとそう信じたさかいな。
「ああ、儲かるのもそうやが、それより、女に不自由せんというのが最高やで」
どうやら、イワイの言う「おいしい」というのは、そういうこともあるらしい。
基本的に拡張の仕事は、その販売店のバンク(営業区域)内やったら、どこで営業しようと自由というのが多い。
例外的に販売店から従業員の「案内」がついて、指定された区域しか拡張できん場合や連勧と言うて、グルーブでする拡張もあるが、それ以外は自由や。
そして、この団で入店する販売店の大半が自由拡張やという。
一般的な拡張員の出勤は、事務所に午前10時から11時。そこで約1時間程度の朝礼とミーティングがあり、それから日程に従い、各自決められた入店先の販売店に行く。
それが、たいてい、昼の12時前後から1時頃になる。
それには、受け入れ先の販売店の都合というのもある。
販売店の従業員の多くは、早朝の新聞配達をする。終わるのが午前6時前後。その後、午前中は仮眠を取るケースが多い。
販売店によれば、所長、店長もその配達をする。配達をすれば、同じように仮眠をとる。
事務員は、ほとんど場合、遅くとも午前10時には出勤しとるが、拡張員との折衝をすることはまずない。
拡張員が、海千山千の一筋縄では扱えん者が多いということもあり、たいていは、そこの所長や店長が出迎え対応する。もしくは、古株の主任クラスの人間が相手をする。
必然的に、販売店側の受け入れも昼過ぎからとなるわけや。
拡張員は多くの場合、在宅率のええ夕方5時以降から仕事を始めるという者が多い。
たいていの独身者、学生、パートの主婦などは、それ以降でないと在宅してない。
人が少ないのに叩いて(訪問)も効率が悪いというのがその理由や。
「せやからと言うて、昼間、遊んでたら大して儲からんで」
午後1時から5時頃までというのは、確かに在宅率は悪い。場所によれば、6割から7割程度が留守宅というのも珍しいことやないさかいな。
しかし、それは闇雲に叩く(訪問)からで、ちゃんとしたリサーチをしとれば、そんなことはない。
人間というのは、皆が皆、同じ時間帯に仕事をするわけやない。夜、仕事をする者もいとる。それをリサーチしとくのやと、イワイは力説する。
イワイの場合、今日入店する販売店のエリア内には、水商売関係の「お姉ちゃん」が多く住んでいるアパート、マンションを調べ上げて熟知しているのやと言う。
夜の水商売関係の「お姉ちゃん」が起きるのは、たいてい昼すぎというのが多い。それを狙う。
それらの「お姉ちゃん」たちとええ仲になれてセックスも、し放題、カードも上がって言うことはないということらしい。
「へえー、そうなんですか」と、一応、タクは感心した素振りを見せたが、俄(にわか)にはその言葉を信じられんかった。
そのイワイの風貌がいかにも胡散臭そうで、女にモテそうには見えんかったというのもあるが、まがりなりにも、タクも住宅リフォームの営業を2年やっていたが、一度もそういう経験がなかったから、よけい疑りたくなる。
タクはモテるタイプの男やった。今で言うたら「イケメン」という部類になる。
名前が似とるということでもないが、木村拓哉の若い頃に酷似した雰囲気を持っていた。
もっとも、タクの若い頃には、その木村拓哉というのは、まだ有名になってなかったから、それに似てるということで評判になるほどのことはなかったがな。
しかし、住宅リフォームの営業では当然のように主婦層や女性客に気に入られることも多かったから、それなりに成績も良かった。
ワシのような者にとっては、その見てくれだけで営業が上手くいくはずがないと信じたいのやが、現実にはそういうこともあるというのは知っとる。
まあ、女性客からしたら、胡散臭そうなおっさんより、若くてイケメンの方がええと思うのも無理はないさかいな。
男にしてもそれは同じで、いくら新聞の勧誘嫌いな者でも、篠原涼子似の美人が勧誘に来たら無条件で契約するやろうと思う。そんなものや。
しかし、それにしても、イワイの言うように、客とええ仲になれたということは一度もなかった。
また、そういう風に女性客を見たことも考えたこともなかった。
もっとも、システム的に、そういうのは不可能な状況でもあったからわけやけどな。
住宅リフォームの営業というのは、たいていは、その地域に数人のグループで入る。
若い兵隊はアポを取ることに専念する。
要するに「お話だけでも聞いてください」と頼み込み、その日、そこの旦那が帰って来る時間に再訪の約束を取り付けてくるわけや。
これは、住宅リフォーム営業の鉄則の一つに、その家の夫婦揃った状態で契約を結ぶようにせなあかんということがあるからや。
ベテランの営業員なら、その家の主婦が決定権者、つまり発言権が強いと見抜いて、そのまま契約を結んでもキャンセルされることはほとんどないが、その逆やと、間違いなくアウトになる。
住宅リフォームはする工事にもよるが、数十万円から数百万円の契約になることが普通や。
それを決定権者である、そこの旦那を除外して契約を強引に結べば、かなりの高確率でキャンセルされることになる。
そのため、住宅リフォーム営業にはクローザー制というのが確立されていて、若い連中が取ってきたアポにベテランのクローザーが、その家の夫婦が揃った頃に営業をかけて成約にこぎつけるわけや。
もちろん、タクも住宅リフォーム営業を2年していたから、そのクローザーとしての経験もある。
その相手方は、たいてい夫婦が揃うとるわけやから、当然のことに男と女の関係にはなることはなかった。
また、そういうのは御法度にしとる会社も多い。
良く他の訪問販売のセールスマンとええ仲になる主婦がおるというのは、噂として聞くことはあるが、こと住宅リフォーム営業に関して言えば、それはないと思う。
少なくとも、タクのようなイケメンでさえ、そういう機会に恵まれたこともなかったさかいな。
せやから、イワイの言葉をそのまま鵜呑みにはできんかったということや。
それには、このイワイとは、この日、1日だけの付き合いやが、ええ加減な男という印象が強かったから、よけいそう思うた。
ある古びた5階建てのマンションの前で、イワイは車を停めた。
「タク、今から、このマンションを一人で叩いとけ」
「一人で……、ですか?」
「ああ、そうや。一通りは、教えたから、やれるやろ?」
教えたと言われても、聞いたのはカード(契約書)の書き方と拡材のビール券の上限くらいなものや。
後は、嘘か本当か分からん女性客への言い寄り方だけやった。もっとも、それは教えるというよりも、自慢話のようやったけどな。
「ええ……」
タクも多少、心細かったが、住宅リフォームで飛び込み営業には慣れとるから、なんとかなるやろうと思うて、そう答えた。
イワイは「1時間ほどしたら迎えに来る」とだけ言い残して車で走り去った。
タクは「拡張の指導員というのはあんなものか」と思った。
その点、住宅リフォームの営業は、例え、アポを取るだけにしても、そう簡単にさせることはない。
一般の住宅リフォーム会社の営業員として採用されると、まず電話でのアポ業務に回される。
マニュアルがあり、それを見ながらする。そうすることで、トークの練習にもなる。
何度も同じことを繰り返すから、自然とそのトークと喋り方が身につくというわけや。
それに加えて、新人のうちは、社内で営業の特訓というのをする。
たいていの住宅リフォーム会社には営業マニュアルというのがあるから、それを徹底的に覚え込まされる。
営業員としての基本が網羅されとるものや。
おじぎの仕方、話し方、名刺の渡し方、営業のタブーなど覚えることは山ほどある。
その上で、上司が客に扮して新人と実践形式のやりとりの練習をする。
これはロールプレイング(役割演技)と呼ばれとる営業の訓練方法や。縮めて「ロープレ」と言う。
その一例を教える。
新人が、その家のインターフォンを押す仕草をする。
上司の客役が、その架空のドアを開けながら「どちらですか」と言う。
新人「本日は、こちらの団地にお住まいのお客様に特別、ご自宅の点検を無料でさせて頂くために廻っているのですが、お宅では雨漏りなどで困っておられるというようなことはございませんでしょうか?」
上司の客役「どうかな。オレは、いつも家におるわけやないから良う知らんけど、嫁はんからそんな話はあまり聞かんがな」
新人「まことに失礼ですが、お宅は建てられて何年くらいになられます?」
上司の客役「10年ほどやけど……」
新人「それでしたら、一度、この機会に、ぜひ調べられたらどうでしょうか。お家の不具合が見つかるというのは、統計的にその時分が一番多いと言いますから。それに本日でしたら、その点検は無料ですので絶対、お得ですよ」
上司の客役「そんなタダやと上手いこと言うて、何か売りつけるか、工事させようとでも思うとんのやろ」
新人「いえ、どこも悪い所がないのに、そんな真似はけっして致しませんから。その点は、私を信用してください。お願いします」
上司の客役「時間がかかるんやろ。それに今は忙しいから無理やで」
新人「本日は、その工事の専門家が一緒に来てますので、お手間は取らせません。今、お忙しいということでしたら、お暇な時間を仰って頂ければ担当者を連れてお伺いしますので。点検するだけですから、それで何もなければ安心だと思いますが」
上司の客役「まあ、そこまで言うのなら見て貰うだけならええけど」
新人「ありがとうございます。それでしたら、何時頃がご都合がよろしいでしょうか?」
上司の客役「そうやな、夕方の5時くらいには帰って来るから、その頃にしてくれ」
新人「分かりました。その時間に必ず寄せて頂きますので、よろしくお願い致します。それでは、失礼します」
言うまでもないとは思うが、この新人がアポインターで、点検に来るという約束を取り付けた工事の専門家というのが、クローザーなわけや。
このクローザーは工事の専門家かどうかは別にして、建築関係の専門用語は熟知しとるから、素人にそれと思わせるくらいは造作はない。
しかし、彼らはあくまでも営業のプロで、工事の専門家やないから、何としても工事を受注させるようなトークしかせん。
もっとも、嘘八百並べて、そうするかどうかというのは、あくまでもその人間の良識次第やがな。
ただ、そういう営業のプロ(クローザー)にとって、聞く耳を持った客との交渉は比較的簡単や。
ほとんどの場合、これで某かの工事の受注にこぎつけるさかいな。
このアポインター役というのを、一般の素人さんの感覚では軽視しがちやが、聞く耳を持った客を確保するというのは、どんな営業でも結構難しいことやから、ある意味、もっとも重要なポジションやと言える。
まあ、そうは言うても、業界内でも花形は、やはりクローザーということにはなるがな。
たいていクローザー方がベテランで上司でもあるし数が少ない。どことも、アポインター役の営業員の方が多い。
アポ取りが難しい分、数で集めるということが主流なわけや。クローザーはその中から、いけると判断したターゲットに営業をかける。
ここまでロープレができれば、ほぼ完璧やが、なかなか初めからそう上手くはいかん。
これを何度も何度も、身につくまで繰り返すわけや。
もちろん、それもワンパターンだけやなく、上司の客役が、その受け答えを適当に変えて幾通りかのパターンを習得させる。
それに合格した者を現地にアポインターとして送り出す。飲み込みの早い者でも一週間程度はかかるということや。
それを、簡単なことしか教えず、西も東も分からん状態で営業させるというのは、タクには信じられんことやった。
しかし、この拡張の世界では、それは取り立てて珍しいことでもない。
通常、新人教育の目的というのは、現地に連れて行き、実際に契約を上げるところを見せることによって、この拡張の仕事が儲かるものやと教えることにある。
せやから、その指導員というのは、何も手取り足取り懇切丁寧に教えるとは限らんわけや。
それどころか、ほったらかしにされるというケースの方が多い。
契約を上げる現場を見せるにしても、金魚の糞みたいに後ろに、べったりとくっつかれたのでは、客を警戒させるだけで邪魔になる。
たいていは、車の中などの離れた所で待機させ遠くからそれを見せる。そんな様子を見てるだけやと、ほとんど何も分からん。とても教えるというのとは、ほど遠いさかいな。
用心する指導員は、今回のイワイのように肝心のその現場にすら連れて行かんケースがあるという。
それには、指導員といえども、契約を上げてナンボという拡張員には変わりないということがあるからや。
新人をその現場に連れて行って、そこで契約を上げたとする。
すると、たいていの新人は、個人行動をするようになれば、その指導員に連れられて行った場所で拡張するようになる。
ヘタしたら、交代読者などの同じ客を狙いかねん。そんな話は腐るほどある業界や。
そうなると、その指導員の営業エリアが脅かされることになる。
これは、漁師などにも言えることやけど、魚の獲れる本当のポイントというのは絶対に他人には教えんというのと同じなわけや。
そんなリスクを背負い身を削ってまで教える指導員は、拡張の世界には少ない。
勢い、新人を指導するときは、いつもの得意な場所へはいかんというケースが多くなる。
しかし、いかにベテランの指導員といえども、その得意でない場所で確実にカード(契約)が上げられるという保証はない。
それでも、新人教育を任された指導員が坊主というのは格好がつかんから、それだけは避けたいと思う。
そこで、何とかして、格好のつく最低限度のカードを確保しておきたいと考えるわけや。
イワイがタクをそのマンションの前で置き去りにした裏にはそういうことがあったと考えられる。
本来の場所か、アテのあるカード(契約)を上げに行ったとみて、まず間違いないと思う。
もっとも、タクがそれと知るのは、もう少し後になってからやけどな。
とりあえず、この古ぼけた5階建てのマンションを叩けというのやから、そうするしかない。
マンションに入ると小さなエレベーターがあったので、それに乗って5階まで上がった。
最上階から下に向かって叩くことにした。
これは、住宅リフォームで分譲マンションを営業するときの癖でもある。
ピンポーン。
「はーい……」と、最初にインターフォンを押した最上階の端部屋が開いて、30代の主婦らしき女性が出てきた。
イワイの話やと、水商売風の女性が出てくるのかと思うてたが、そうやなかった。
まあ、特にそれを期待してたわけやないから、どうということはなかったがな。
「僕は、○○新聞のタクという者ですが、奥様は現在、どちらの新聞をご購読されておられます?」
「新聞の勧誘員さん?」
その主婦は、なぜか不思議そうな顔をして、そう聞き返した。
タクのあまりにも丁寧な物言いが、勧誘員のそれとそぐわん感じを受けたのやろうと思う。
「ええ、そうですが」
「うちは△△新聞だけど……」
「それでしたら、ぜひ、当店の○○新聞をお願いできませんか。サービスしますので」
「そうねぇ……、どうしようかしら……」
タクは、直感的にこの主婦は客になると判断した。
「ぜひ、お願いします!!」
今やったら、余裕を持って雑談を交えながら、主婦の心を解きほぐすというテクニックも使えるが、このときは、拡張での初めての相手という緊張のためか、この言葉しか出てこんかった。
「分かったわ。とにかく話を聞くから中に入って」
「失礼します!!」
タクも、おそらく、在宅はこの主婦だけやろうとは思うてたが、一応、中に誰かいるものとして、少し大きめな声をかけながら、言われるままに中に入ってドアを閉めた。
「まだ、若そうね。いくつ?」
このときになって、タクはようやく、その主婦の妖しげな視線に気がついた。
そして、イワイの言うてた、女性客とのアバンチュールというのが脳裏をかすめた。
「まさかな……」と、その言葉を呑み込んで、すぐその思いを打ち消した。
そんなバカなことがあるはずがないと。
しかし、この主婦が、タクに興味を示し好意的なのは間違いないとは感じた。
住宅リフォームの営業でもそうやったが、客から好意を寄せられると成約になる確率は高くなる。
ここは一番、頑張るしかないと思った。
「20歳です」
「そう……、若いわね」
「今、○○新聞を取って貰えれば、ビール券を……」と、タクが言いかけたのをその主婦が遮った。
「いいわよ。取って上げるわ。だから、私の話も聞いてくれる?」
「ええ、僕で良ければ……」
タクも、一方的に売り込むばかりが営業ではないというのは熟知してた。
それにもう、契約は成ったも同じやさかい、話くらいならと快く承知した。
「嬉しいわ。さあ、上がって。お茶でも煎(い)れるから。それとも、コーヒーの方がいいかしら?」
「お茶の方が有り難いです。できれば、冷たい方が……」
この冷えたお茶を頼んだことが、結果的に後で救われることになる。
もっとも、このときは、本当にのどが渇いていたんやけどな。
タクは、奥の居間に通された。
ほどなく、その主婦は、ガラスのコップに氷を入れた麦茶を持ってきた。
それを一気に飲み干した。すると、すぐまたもう一杯、運ばれてきた。
「ところで、あなた、彼女は、いるの?」
「いえ、いませんけど……」
「あら、そうなの? モテそうな感じなのに」
「いえ、僕なんか」
「あら、かわいい!! ねぇ、私みたいなオバさんじゃだめ?」
その主婦は、タクの目の前に、その顔を寄せてきた。
「これは、本物や」と思うたが、正直、どうしたらええか対処に困った。
むげに拒否するようなことを言えば、せっかくの契約をフイにしかねん。
それに、主婦をその目で良く見れば、美形やないにしても逃げ出すほどでもない。タクにとっては、ぎりぎりセーフというところや。
このままなら、セックスにまで進むやろうというのも想像つく。
それでもええかと、このときはそう思うた。
イワイの言うてたことが、本当なら、これからもこういうことはあるということになる。
これも仕事の内やと考えたらええのやないかとも思う。役得なのやないかと。
それに、男の身体というのは、こういう状況になると意志の力だけでは、なかなか制御不能ということもある。若いと特にそうや。
タクの男の一部分がすでに、その気になり始めていた。
そのとき、ガチャリというドアの開く音が玄関から聞こえた。
瞬間、その主婦の顔がこわばって、小さく「あっ!!」と、洩らした。
40歳くらいの中年の男が部屋に入ってきた。
どうやら、旦那のようや。
一瞬、タクも焦った。
自分の嫁さんと、得たいの知れん若い男が奥の居間で仲良く一緒にいるという現場は、もっとも誤解しやすい絵になる。
実際、後、2、3分、その旦那の帰りが遅かったら、事に及んでいたやろうから、誤解では済まんかったと思う。
ヘタしたら、血の雨が降っていたかも知れん。
「どちらさま?」と、その旦那がタクに向かって声をかけてきた。
旦那は旦那で驚いたとは思うが、取りあえず、とっさにはこう尋ねるしかなかったのやろうと思う。
タクは、瞬間的に猛烈な勢いで頭をフル回転させた。
「○○新聞のタクと申します。お邪魔しております。実は新聞の勧誘を奥様にさせて頂いていたところでして、奥様には旦那様じゃないと分からないと言われてたのですが、無理を言ってお願いするあまりに熱が入ってしまい、つい話し込んでいたら喉が乾いてしまいましたので、あつかましくもお茶を一杯、お願いしてごちそうになっていました」
必死の言い訳は、まだ続いた。
「これもまた申し訳ないのですが、その後、すぐトイレをお借りしたくなり、またあつかましくもお茶のおかわりを戴いていたところでして」
見ると、主婦も、そうそうという感じで相づちを打っていた。
いくら、必死やったとはいえ、よくもまあ、こんな言葉がすらすらと言えたもんやとタクは我ながら感心した。
もっとも、昔から機転は利く方ではあったがな。
その当時の拡張員は、今と違いスーツ着用が義務付けられてなかったから、皆、ちゃんとした身なりはしてなかった。チンピラ風の人間が大半やった。
タクもそれは同じで、見るからにヤンキーっぽい、いでたちをしていた。
そんな見た目と違う若い人間の口から予期せんような丁寧な言葉が矢継ぎ早に出てきたことで、その旦那は、一瞬、驚いたのかキョトンとしていた。
タクは、間髪を入れず続けて「6ヶ月だけで結構ですから、お願いします」と頭を深々と下げた。
まったく非がなかったということが幸いしたのと、言うてることに整合性があると思われたことで、結局、この旦那にも好印象を持って貰え、拡張で初めてのカードになった。
「あぶない、あぶない……」
このとき、タクは初めての契約を上げた喜びよりも、窮地を脱したという安堵感の方が強かった。
その後、この経験のおかげで、タクには、これと似た誘惑は数多くあったが、一線を越えることはなかった。
それには、単に、こういう拙いこともあるというだけやなしに、そうするのは、心のどこかで、身体を売ることと同じやないかという気持ちがあったからやった。
そこまでせんでも、真っ当な営業だけでも勝負できると考えてたというのもある。
ただ、タクに色目を使う女性客を上手く扱うことで、契約枚数を順調に伸ばしていったというのも事実やったがな。
営業では、その外見の良さは大きな武器となる。それで契約が上がるのなら、その武器をフルに使うのは当然のことや。
もちろん、タクはそれだけの男やない。
きちっとした営業の下地もあるし、話術と人当たりの良さに加え、機転も利くアイデアマンでもある。
そして、今や団長としての人望も厚い。
ただ、昔ほどその外見が役に立たんようになってきたのは、最近になって感じるようにはなったがな。
かつてのように、女性客から流し目で見られるようなことが激減していた。
まあ、40歳と言えば中年の域に差しかかっとるわけやから、20歳の頃のようにはいかんわな。
麒麟(きりん)も老いては駑馬(どば)に劣る。という格言もある。
どんなに優れた人物も、年老いてしまったら、その働きや能力が普通の人にも及ばんようになるという意味や。
もっとも、老いと経験は、したたかさを身につけるから、営業の世界では、一概に衰えたとは言えんがな。
見てくれ以上の力を発揮する場合も多い。……と、信じたい。
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