メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話

第195回 新聞拡張員ゲンさんの裏話     

発行日 2008.5. 2


■店長はつらいよ Part4 恋と集金……そして、店舗荒らし


店長のタケシタは、500万円ほどの現金が詰まったカバンを前部のカゴに無造作に投げ入れたまま、バイクで自宅近くの駐車場へと向かった。

駐車場には、愛車のホンダシビックがある。

それに乗り換えて、待ち合わせ場所のファミレスに急いで向かった。

そこには、恋人のエミが待っている。はず……である。

その頃、タケシタは、ワダ新聞販売店の店長になって3ヶ月が経っていたが、大きな悩みを抱えていた。

性格はともかく、どう贔屓(ひいき)目に見ても冴えないルックスのタケシタにも、彼女がいたわけや。ごく普通のOLで21歳。2年ほど付き合っていた。

しかし、店長になったことで、仕事が急激に忙しくなり、なかなかデートらしいデートもできんようになっていた。

その彼女が、それに業を煮やして電話をかけてきたのが、3日前のことやった。

そして、無理やりにデートの約束をさせられた。

「今日こそ、約束を破ったら、もう終わりだからね」

そう宣告されていた。

約束の時間は、夜の10時。

普通のデートの待ち合わせ時間にすれば遅いが、そこはタケシタの仕事を考えたエミの最大限の思いやりがあり配慮があった。

「今日は必ず行くから」

今まで、散々、約束をすっぽかし、最後通告を突きつけられたタケシタにとっては、そう答えるしかなかった。

しかし、今日は月末の30日。

新聞販売店では、集金業務のピークの日でもある。

それをいくら、エミに説明したところで、おそらく、ただの言い訳にしか受け取らんやろうと思う。

素人に、新聞販売店の集金業務の過酷さなど分かるはずもないしな。

何とか早めに仕事を切り上げるしかない。

そうは言うても、状況は厳しい。

店長であるタケシタは、ただ単に自分自身の集金業務を終えれば仕事が終了という訳にはいかん。

ワダ新聞販売店の全14区域の集金人が集めてくる現金をすべて預かって管理するという責務がある。

今日は、その集計日や。

夜8時を過ぎると、集金人たちがぞろぞろと店に集まり始めた。

専業スタッフが9名、パートの集金人5名。タケシタを含め、総勢15名分の集計を今日中にやってしまわなあかん。

それを、所長宅まで持って行ってタケシタの仕事が完了する。

夜の10時までに、エミの待つファミレスに行くには、それから逆算すると9時30分までに、その作業のすべてを終了させなあかんことになる。

20畳以上はある広い事務所内で、彼らはそれぞれに集計作業を始めた。

間違いは許されない。慎重に1万円札から1円玉に至るまで数えるという細かな作業が続いていた。

一番初めに終わらせたのは主任のカトウやった。

遠慮がちに「お疲れさんです」と消え入りそうな声を残し、去っていった。

「お疲れさん」と、タケシタも返すが、その胸中には複雑な思いがよぎる。

他の専業やパートの集金人は、それとは関係なく作業を続けている。まったくのマイペースや。

「もっと、早くしてくれ」という言葉を吐き出すことのできんタケシタは、ただただ、各自の頑張りに期待するしかなかった。

中でも先月から集金を始めたパートのショウコは、その典型やった。いくら、他が急いでいても動じるようなことはほとんどない。

ショウコは主婦やったが、二十歳代と若く可愛らしいルックスもあって、男性スタッフからの人気は高かった。一見して、グラビアアイドル風に見える。

この日は、ベテラン専業のナカタ、マツナガと共に事務机を囲み、集計作業を行っていた。

ショウコが、やおら挙手して「はぁ〜い!」

ナカタ「はい! ショウコさん。どうしたの?」

ショウコ「5日分の配達休止してたお客さんの分は、どうやって計算したらいいんですか〜?」

マツナガ「ショウコさん。ボクが教えてあげますよ」

ナカタ「マツナガ!! 勝手なこと言うな。オレが先輩だから、オレに任せろ!!」

マツナガ「はい……」

ショウコ「じゃ、ナカタさん、お願いしまぁ〜す!」

ナカタ「それはね。こうして、ああして……」

そんなアホな会話が延々と続けられていた。

ショウコの争奪戦? には激しいものがあった。

しかし、そんなことタケシタにとってはどうでもええことやった。

とにかく、一刻でも早く集計作業を終えて貰いたかった。

最低でも、夜の9時30分までに。お願いやからと、それだけを願った。

そうこうしているうちに、順調に集計を終えた専業たちが次々と「現金」を入れた袋を携え、タケシタのもとへやってくる。

「お疲れさん」

その都度、ねぎらいの言葉をかけ、集計作業を見守りながら本社へ提出する帳票類をまとめていた。

残るは、ショウコと専業のハシモトの2名や。

時計を見ると、9時10分。ギリギリや。気持ちばかりが焦る。

「店長〜。お待たせしましたぁ〜! すみませ〜ん」

舌っ足らずな声と共にショウコが集計袋を持ってきた。

顔がかわいいだけになぜか、そのふざけたような言い方にも腹が立たん。

「お疲れさ〜ん」

思わず、同じような口調になって言い返してしもうた自分が恥ずかしくなり、小さく落ち込む。

残りはハシモトただ一人。

日ごろから何かとルーズな動作が目立つ。集金の時期はまったくのお荷物や。

ところが、そのハシモトにも意外な特技がある。

それは、ダンスや。しかもヒップホップ系のダンスが得意やった。

何度か一緒にクラブに行ってそのダンスを見たが、日ごろのハシモトからは想像できん俊敏な動きと抜群のリズム感を見せる。おまけに歌まで上手いときとる。

そんなハシモトも、こと集計のような「算数」、つまり計算ごとには滅法弱かった。

札を数えるのにも「いち、に、さん、し、ご……」と声を上げなければ満足に数えられない。

何度も電卓で、「あれ? 違う」と言いながら計算し直している。

「ヘキサゴン」というテレビ番組があるが、それに出てくる出演者のバカぶりを見ていると、いつも、そのハシモトのことを思い出す。

普段は憎めん男なんやが、今日ばかりはそのキャラが恨めしげに思える。

もうすぐ9時30分になろうとしていた。

タケシタは、たまらずハシモトのそばに駆け寄る。

「どうした? まだかかるのか」

「いやぁ……電卓と手計算が合わないみたいで……」

ハシモトはご丁寧にも、電卓での結果と、自分の手計算を合わせようとしていて、ドツボに嵌っていた。

「あのなぁ……」

さすがに、「堪忍してくれよ」という言葉は呑み込んだが、それが正直な気持ちやった。

タケシタは、その作業を覗き込んで2、3秒後、ハシモトが紙の切れ端に書いていた手計算にミスがあるのを見つけ指摘した。

「あっ、そうか!」

「あぁ、そうかやないで!!」と、思わず心の中で叫んだ。

ハシモトが最後の集計袋を手渡してくれたのは、もう10時近くになってい
た。

予定していた時間より30分も遅れている。

「急がなあかん!!」

店の戸締まりを済まし、急いでバイクに跨った。

それが、冒頭のシーンにつながる。

「やべぇな。20分くらいは遅れそうや……」

車内時計にチラリと目を向けると、すでに10時をすぎとる。

意外にもエミから、携帯に着信がない。まだ許容範囲内なのか? 

裏道を通り、国道に出てからスピードを上げた。この時間ともなるとさすがに国道もガラガラやった。

「あれっ? カバンは……」

ふと、そのことに気づいて目で車内を探ったが、500万円の現金が詰ま
ったカバンは見当たらん。

「そんなアホな!!」

首を後ろに回し、後部座席も確認するが、カバンは視界に入らなかった。

タケシタは、車を急停車させた。

「ウソやろう?」

運転席を降りて、車内を徹底的に探す。

ない。どこにもない……。

頭の中が真っ白になりかけて、ハッと気付いた。

重大なミスを犯していたと知った。

バイクで駐車場に着いて、シビックに乗り換える時、現金が詰まったカバンを移し忘れていたのや。

つまり、カバンはバイクの前カゴに乗っけられたままや。それに間違いない。

顔面蒼白。

そのときのタケシタを見た人間なら、誰もがそう見えたはずや。

もはや、エミのことなどは眼中になかった。

現金500万円を駐車場に野ざらしにしていることで頭の中がいっぱいやっ
た。

もう駐車場を離れてから12、3分は経っている。

悪意を持った輩(やから)がそこを通りがかったら、もはや手の施しようがない。持ち去られて一巻の終わりや。

タケシタは、急いで駐車場へ引き返した。

その乱暴な運転によって、愛車は悲鳴を上げていたが、それに構う余裕などなかった。

スピード違反はおろか、信号無視をしたのかどうかさえ、そのときのタケシタは覚えていない。

とにかく無我夢中やった。

それでも、なんとか問題の駐車場に到着した。

車を飛び降り、祈るような気持ちでバイクの元へと走った。

ああ……。

カバンは無事に前カゴにスッポリと納まったままやった。

ファスナーを開け、中身を確かめ深く安堵の息をつく。

九死に一生を得た。それが正直な気持ちやった。

人通りの少ない駐車場を使っていたのが幸いしたのか、空白の20分余り、500万円が入ったカバンは、よこしまな輩の目に触れずに済んだわけや。

タケシタは、安堵すると同時に、あまりの自分のふがいなさ、アホさ加減に強い自己嫌悪にとらわれた。

そして、急に現金を持ち歩くことが怖くなって、カバンを自宅マンションにしまい、所長のワダに電話した。

恋人のエミの所に会いに行ってたら、所長の家に現金を持って行くのが遅れる。

その言い訳の電話や。

「所長、すみません、まだ集計作業中ですので、もう少し時間がかかります」

とっさに、そうごまかした。

「そうか、それは明日の支払いにする分やから、そのまま店の金庫にでも入れといてくれ。終わったら帰ってええから」

「分かりました」

とりあえず、タケシタは、再び、エミの待つファミレスへと向かうことにした。

エミと会って別れてから、店に戻ってその現金を金庫の中にしまうつもりやっ
た。

愛車のシビックで発進しようした瞬間、携帯電話の着信音が鳴った。

エミからやった。

すでに、約束の時間から30分以上もすぎていた。

「どういうことなの? 私のことなんかどうでもいいのね!!」

案の定、責める立てるエミの金切り声が、空虚なタケシタの胸にむなしく響いてきた。

「すまん……」

そのときのタケシタには、取り繕うような言葉は出て来んかった。その気力がない。

「どうしたの? 何かあったの?」

いつものタケシタの反応とは明らかに違う。いつもなら、山ほど言い訳をする。

それが妙に憔悴(しょうすい)しきった声で力なく、ポツリとそう答えただけ
やった。

「会ってから話す……、すぐ行くから」

タケシタは、それだけを言うと電話を切った。

そして、今度は、ゆっくりと静かに愛車のシビックを発進させた。

「そうだったの……、大変だったね……」

タケシタの話を聞き終えたエミは、意外にもそう優しくつぶやいた。

今回のことは、単なるタケシタのポカでありミスや。責められ、詰られても仕方ない。

「今日、約束を破ったら、もう終わりだからね」と、エミに釘を刺されていたから、本当に、これでもう終わりかも知れんな、と覚悟もしていた。

それを、「私のために、そこまで必死に頑張って急いでくれたのね」とまで言うてくれた。

タケシタには、そのエミが無性に愛しいと思えた瞬間やった。

「この女は大事せなあかんな」

そのときのタケシタの偽ざる心境やった。

結果的に、このことがあってから二人は、以前にも増して親密になり、ええ雰囲気になっていった。

「もう、遅いから帰るね」

時計を見ると、すでに11時を10分ほど過ぎていた。

エミは両親と一緒に暮らしているから、それが限度やった。

「今日はほんまに悪かったな、また何かで埋め合わせするから」

その頃には、タケシタも気持ちが収まっていて、その声も心持ち明るくなっていた。

もちろん、エミの優しさに触れ、惚れ直したというのもあってのことやったがな。

「そうね、それじゃ、エルメスのバッグでも買って貰おうかしら」

エミはいたずらっぽく、そう笑って見せた。

「ああ、そんなもので良かったら、いつでも買ってやるよ」

人間の無知というものは怖いもので、エルメスがブランドもんやとは知っていたが、所詮は、ただのカバンやくらいにしか考えてなかった。

ナンボ高いというても、せいぜい5、6万円程度やろうとタカをくくっていたということもあり、タケシタは、そう安請け合いをしたわけや。

「えーっ!! エルメスのバッグてこんなにすんのんか?」

後日、エミに連れて行かれた店に行って仰天したが、時すでに遅し、後の祭りやった。

男が一旦口にしたことや。今更、撤回することなんかはできん。沽券(こけん)に関わる。

その場では、「こんな貧相なカバンが20万円はないやろ、ぼったくりやんけ」という言葉を呑み込むのが、精一杯やった。

エルメスの中でも人気があるというガーデンシリーズのトートバッグやという。

それにしても、女はこんなものに、何でそんなに金をかけ、有り難がたがるのか、理解に苦しむと、タケシタは思うた。

もっとも、金をかけるのは男やから、それなりに合理的なのかも知れんがな。

「まさか……」

ひょっとして、エミは、最初からこれが狙いやなかったのか?

それがあるから、あのとき、同情を寄せるようなことを言うたのやないか?

エミが、タケシタの凡ミスに対してとった態度に少なからず疑念が奔(はし)った。意外やと感じたのは、まんざら的外れやなかったのかも知れん。

そのエルメスのカバンを持って、はしゃぐエミを見ているとなぜかそう思える。

あれだけの優しさを見せた女にしては、そのタケシタの懐具合を気遣う素振りすら、今はない。

「まさかな……」

タケシタは軽く頭(かぶり)を振って、それ以上、考えるのは止めた。

疑念の先の真実を知ることで得られるのは、深い闇と落胆でしかないさかいな。

ファミレスでエミと別れたタケシタは、マンションに戻り、500万円の現金を持って販売店に行き、事務所の金庫に入れた。

「11時半か……」

タケシタは、いつも午前2時に起床する。紙受けというて、新聞社の工場から新聞が届くのがその10分ほど後やからや。

しかし、それまでは、軽く一眠りできる。

これで、一件落着となり、ハッピーエンドに終わるはずやったが、不運はまだ続くことになる。

翌朝、と言うても深夜の2時やが、タケシタはいつものように、起きて販売店に向かった。

店に着くと、主任のカトウもちょうど来たところやった。

「おはよう、ございます」

「おはよう」

タケシタは、いつもどおりの挨拶を交わして、販売店のシャッターを上げようと近づき、その異変に気がついた。

シャッターの根本が大きく外れている。まるで、大型の台風でも襲ったような跡やった。

昨晩、帰宅するときはどうにもなってなかった。それはいつも確認しているから間違いない。

「何や!! これは!!」

その外れたシャッターの内側を見たタケシタは自分の目を疑った。

シャッターの内側は、ガラスの開き戸が4枚あるのやが、その内の1枚が割られていた。

明らかにそこから何者かが侵入した形跡がある。

「泥棒?」

こんな入り方をするのは、それしか考えられん。

それと同時に、500万円入りのカバンをその金庫にしまっていたことを思い出した。

タケシタは、外されたシャッターの鍵を開け、他のガラスの開き戸の鍵も開けて中に入り、一目散に事務所の金庫に向かった。

その金庫は、バールのようなもので、すでにこじ開けられていた。

中を確認すると、やはり、現金500万円入りのカバンは消えていてない。

「そんな……」

タケシタは、その場に崩れるようにへたり込んだ。

「店長、警察に通報しますか?」

カトウも興奮していた。

「ああ……、あ、ちょっと待て」

タケシタは、かろうじて気を取り直し、所長のワダに電話した。

まだ、おそらく寝ている時間やが、そんなことには構ってられんかった。

「どうしましょ、所長?」

「取りあえず、警察にすぐ連絡しろ」

意外にも、ワダに取り乱した風はなかった。ちょっと、一拍おいてからワダが続けた。

「店長、カバンの中身はいくらや?」

「500万円ちょっとですけど……」

「それなら、カバンの中以外にも金庫に200万円あったことにして、700万円の被害やと警察には言うといてくれ」

「でも……」

「そんなことがバレたら拙いんじゃないですか」と言いかけたタケシタをワダが制した。

「大丈夫や。おそらく、その犯人が捕まることはないはずや」

タケシタがまだ、このワダ新聞販売店に勤める前にも、同じようなことがあったらしい。

結局、そのときも犯人は捕まらんかったという。

ワダに言わせれば、「警察にそんな事件の犯人を捕まえるつもりなんかあるもんか」となる。

どうせ犯人は捕まらんのやし、盗られた金は保険で戻ってくるから、多めに申告しろという支持や。

確かに褒められたことやないけど、それで保険会社が困るわけでも、誰が困るわけでもないという。勝手な言い分ではあるがな。

「分かりました」

タケシタとしても、そこまで言われたら従うしかない。こうなった、責任の一端は、タケシタ自身にもあると思うてたさかいな。

タケシタの通報から10分ほどして警察のパトカーが数台やってきた。

深夜やったが、そのサイレン音に目覚めた近所の人たちが遠巻きに集まって、販売店の周囲は騒然とした雰囲気に包まれた。

店内を数人の捜査員たちが、あちこちに粉状のようなものを塗って指紋を採取
している姿が見えた。

テレビドラマなどでこれと良く似た光景を見ることがある。

これは、極微細なアルミニウム粉末を、指紋がついていると推定した個所に刷毛で塗布し、分泌物に付着させて潜在指紋を検出する最もポピュラーな方法とのことやった。

所長のワダは「警察なんか、まともに捜査するわけない」と言うが、これを見る限り、かなり本格的やし、やる気も伺える。

事実、このときの警察はかなり本気やったと後で知ったのやがな。

タケシタは、その捜査主任と名乗るカゲヤマという刑事から事情聴取を受けていた。

「なるほど、犯人は昨晩の11時30分から午前2時までに侵入して金庫をこじ開け、500万円入りのカバンと現金200万円を奪ったということになりますな」

「ええ、それしか考えられません」

そこへ、一人の若い刑事がカゲヤマに近寄ってきて小声で言った。

「やはり、これは同じホシの犯行ですね。手口が酷似してます」

「え? どういうことです?」

タケシタは、思わず、そう聞き返した。

「実は、この管内とは違うのですが、近辺の警察署管内で現在、新聞販売店ばかり狙う同じような窃盗事件が多発してましてね。今年に入って、お宅でもう5件めなんですよ」

そのカゲヤマという刑事は、何の悪びれた様子もなく、そう言い放った。

「そんな……」

「それならそうと、教えてといてくださいよ」と言いかけて止めた。

それを教えてくれていたら、金庫になんか金は入れてなかったのにという思いがタケシタにはある。

昨晩のようなことがなければ、その金は、直接、所長のワダに持って行ってた。

それが、本来の決まりやったわけやしな。

それが、エミとのデートと、タケシタのカバン置き忘れが重なったことにより、
結果として所長宅に持って行くことができんようになった。

それをごまかすために、集計作業が遅れたとワダに嘘をついた。

加えて、その事情を言えば、普段、金庫には、それ以外にも200万円もの現金が入っていたということの信憑性に揺らぎが生じかねん。

それらのことをとっさに考えて、タケシタは本当のことを言うのを避けた。

「それでは、またご事情をお聞きすることもありますので、よろしく」

それだけを言い残し、カゲヤマたちは引き上げて行った。

事件のおかげで、その朝の配達業務は多少影響もあったが、何とか大事には至らずに済んだ。

また、遅配した家もいくらかあったが、販売店に泥棒が入ったということは、すでに知れ渡っていたから、たいていは「大変ね」と好意的やったという。

不謹慎なようやが、タケシタとワダは、正直、その犯人が捕まらんことを祈っ
た。

しかし、皮肉にも、その事件のことなど忘れかけたある日、その犯人が捕まったという一報が、警察から入った。

その犯人が逮捕されて裁判が行われている間中、ずっと、被害金額と犯人の供述に違いがあったと判明したらと考えるだけで、タケシタとワダは気が安らぐことがなかったが、結果的には何の問題もなく終わった。

その犯人は新聞店を何件も荒らしていたとのことで、一件ずつの窃盗金額を正確に覚えてないらしく、各販売店の申告する被害金額をそのまま認めたことにより、その争いや検証がなかったということが幸いしたようや。

もっとも、新聞販売店の集金は、全種類の札と硬貨ばかりやから、正確な金額を知ろうという気も犯人にはなかったのやろうがな。

ちなみに、犯人は業界に関連した運送業者の人間やということやった。

そのほとんどの犯行日が、月末の集金時に集中していたということ、確実に販売店の店舗内が留守になっている時間帯を狙って押し入っていることなどの点から、新聞業界に詳しい人間やないかと、警察もある程度、目星をつけていたようや。

それにしてもと、タケシタは思う。

一つの無理な約束がもとで、次々と物事が悪いように転がって行き、結果として長い間、心配せなあかんような羽目にまでなった。

このときの教訓として、タケシタは無理な約束と、ごまかしは止めようと誓った。

もっとも、人生とは、それほど簡単なものやないがな。誓うのとそれを守るというのは、また別や。

その後も、似たような間違いは幾つかあって、その都度、同じような嘘も言い訳もしてたさかいな。

しかし、その多くが、今回と同じように店長という立場が招いたものやったのは確かや。

店長は、つらいよ……。

改めて、そのことを噛みしめるタケシタやった。


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