メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話
第28回 新聞拡張員ゲンさんの裏話
発行日 2005. 2. 18
■一枚のお助けカード
5年ほど前のことやが、その当時、ワシがおった大阪の団に池田(仮名)という男が入団して来たことがあった。
それも、家族でや。子供は当時、小学生の女の子と幼稚園くらいの男の子が二人いとった。
拡張員になろうという人間は、普通、単独か夫婦連れが多い。家族持ちで子連れというのは、おらんこともないが少ない。
それも、池田にこの拡張員の経験でもあり、この仕事である程度、生活出来るという目途でもあるのならともかく、未経験の素人やと言う。無謀としか言いようがない。
案の定、池田はパンクして契約ゼロの日が続いた。それでも、意気込みだけは感じられた。3日め辺りから目も血走っていた。必死さは伝わる。しかし、成果は出んかった。
ある日、その池田が、公園のベンチに寂しげな様子で座っていた。偶然、通りかかったワシは、その姿を見て、何年か前の自分の姿をそれに重ねていた。
ワシも、この世界に飛び込んで来た時は、同じようなもんやった。やる気はあっても、結果が出んから気持ちが空回りする。
この池田という男は、まだ3日ほどしか見てないが、真面目な奴やった。実直そうな男や。
「どないや?」
ワシは、そう声をかけて隣に座った。
「ぜんぜん、だめです」
「そうか……」
そっけない返事のように思うかも知れんけど、これが、普段のワシや。ワシのことを、親切な気のええ、おっさんのように思うとる者も多いかも知れんけど、普通はこんな感じや。
ワシは、自分からは人にアドバイスや仕事を教えるようなことはせん。その相手が真剣に聞いてこん限りは教えても無駄や。実にならん。
それに、相手が、聞きもせんのに、こちらから仕事の話をするのは、能書きをたれとるようで嫌やしな。実際に、普段から、そんな人間ばかり見とるから余計にそう思う。
「僕、どうしたらいいんでしょうか?」
「何をや?」
「僕、この仕事に向いてないと思うんです……」
「せやな、続けとっても、あかんかも知れんな」
こんな場合、大抵の人間は、気休めにでも「そんなことを言わんと頑張れ」と言うんやろうけど、ワシはそういう無責任なことは良う言わん。
あかんものはあかんと、はっきり、その本人に言うたった方が、その人間のためになることが多い。
本当に頑張れば何とかなりそうな男やったら、ワシもそう言う場合もあるが、この男では無理や。
性格とか人間的には悪い男やないというのは良う分かる。真面目なのもな。しかし、それだけでは営業の仕事は厳しい。
特に、その営業の中でも拡張員は最悪の仕事や。素人がそう簡単にものに出来る仕事やない。
それも、弱音吐いとるようやと救いはない。人間、何でもそうやけど、あきらめが入ったら、その時点で終わりや。どうすることも出来ん。
「でも、今更、辞めるに辞めれんのです……」
池田は、ぼそりぼそりと話し出した。
池田は、兵庫県の北部の人間やった。そこで、電気店を経営しとったと言う。その電気店がこの不況で潰れた。良うある話や。
借金返しのために、土地屋敷をすべてなくした。その家も、今月中に明け渡さなあかんかった。しかし、仕事はそう簡単に見つからんかった。
それも、仕事を見つけるだけやとあかん。住む家も見つける必要がある。しかし、悲しいかな池田にはその金も余裕もない。
池田は、妻に「俺と一緒におっても、苦労をかけるだけや。俺と別れて、実家に帰れ」と言った。
妻の実家は、旧家でそこそこの資産家や。帰れば、妻の両親も喜ぶ。実は、池田の店の状態が悪化していることを聞きつけた、その両親から、盛んに池田と別れて帰って来いとその妻は言われとったらしい。
妻の両親は池田を嫌っとった。二人はその両親の反対を押し切って結婚したと言う。別れて帰れば、おそらく、これから、夫婦親子で会えることもなくなるかも知れん。
それでも、自分と一緒にいるよりは、生きていける。家も資産家やから、子供たちも何不自由なく暮らせるはずや。自分さえ我慢すれば、家族は救われる。池田はそう考えた。
しかし、即座に「嫌です。あなたと別れるくらいなら死にます」と、妻がきっぱりとそう言うた。少なからず、池田にとっては驚きやった。
お嬢さん育ちとばかり思っていた妻から、まさかこんな言葉を聞こうとは思うてもなかった。普段は、何事にも控えめな妻やった。池田に逆ろうたこともない。
しかも、その夫婦の会話を、二人の子供が隠れて聞いていた。夜で、子供たちが寝たのを確認して話していたんやが、どうも寝てなかったようや。
子供たちは子供たちで、今の状況が容易なもんやないと感じとったわけや。特に長女のヤヨイは小学校4年生やから、もう、大人の話もそこそこ理解出来る。
「うちも、お父さんと一緒に行く。離れ離れなんかになるのんは嫌や」
そう言うて、泣きながら長女のヤヨイが池田にすがりついて来た。
「ボクも、わがまま言わへんから、連れてって。オヤツのジャ○リコもいらんから」
妻が思わず、まだ、4歳の長男のツヨシを抱きしめて泣きじゃくっていた。
ワシは、その話を聞きながら横を向いた。涙を必死でこらえとった。
ワシは、大の大人がどれだけ苦労をしようが、辛いと言おうが、世の中、そんなこともあると、当の相手にもそう言えるが、子供が絡むとあかん。
ましてや、こんな健気な言葉には人一倍弱い。池田にそれを察知されまいとしたが、当の池田は、ワシに話しとることすら忘れて、その話を続けとった。
池田は腹を決めた。どんな辛いことや困難なことがあろうと、この家族は命に代えても守ると。
池田は、早速、家族で住み込める仕事を探し始めた。しかし、池田は42歳。この折からの不況による就職難で、歳も食うていて、その上、家族で住み込み可能な仕事を探すのは簡単なことやなかった。
池田は、姫路の新聞販売店で従業員募集の広告を見た。『家族者歓迎。住居あり』の一文が目に入った。早速、電話を入れ、翌日、面接のために車で姫路まで向かった。
その販売店は雇ってもええが、住居は借りて貰わんとあかんと言う。当面の住居資金は貸し付けると言う。いくらくらいかと聞くと50万円は必要やと言う。
池田は、正直、心は揺らいだが、借金という言葉に、この時は拒否反応があった。その借金のおかげでこうなったとの思いが強すぎたからや。それは、ワシも良う分かる。
意気消沈した池田は、コンビニでスポーツ紙を買うた。その求人欄に『新聞営業員募集。50万以上可。住居完備』の広告が目に止まった。
電話を入れる。今度は、住居のことも聞く。すると、2DKのマンションが空いとるから、そこにすぐに入れると言う。
会社の社宅やから、個人で借りるための権利金や手数料なんかも一切必要ないという話や。
池田は、ええ話やと思い、その足でそこまで面接に行った。それが、この大阪の団やったというわけや。
池田は、手持ちの金が10万円を切っていた。ぎりぎりの所で、見つかった仕事というわけや。
この団は、金はあるのかとか、引っ越し費用は大丈夫なのかと、いろいろ親身に心配してくれた。結局、引っ越し費用として10万円を団から借りることにした。
その引っ越しも、団の人間を二人も手伝いに行かせるという親切さやった。おかげでトラックをレンタルして、二人にいくらかの手間賃を払っても、何とか、その額内で収まった。
池田は、団の親切やと思うとるが、その二人には監視の役目もある。団は初めての人間を信用することはまずない。この世界で、そんな甘いこと言うてたら、やっていけんからな。
それと、引っ越し業者に依頼すると経費がかかるから、貸し付け金を押さえるために行かせたということもある。
もちろん、ワシは、そんなことは分かっとっても、わざわざ池田には言わんがな。これは、結果的には、そう悪いことでもない。
団にしたら経費を抑えられるということやけど、池田にしても、借金の額が少ないから、後が楽やということでな。
池田は、引っ越しが終わった翌日、1日だけ休みを貰って子供たちの学校や幼稚園の手配をした。
ヤヨイは小学生やから、金はかからんかったが、ツヨシの幼稚園は入園料と月謝を併せて6万円必要やったのが痛かった。
金があっという間になくなったが、この仕事は日銭が稼げると聞いていたから、何とかなると思うた。
それが、これやった。まさか、3日も金にならんとは思わんかった。このままやったら、食うにも困る。池田はどうしても、切羽つまった心境にならざるを得んかった。
しかし、焦ってもカードは上がらず、パンクの日が続いた。
今は、この仕事を選んだことを悔やんでいるが、どうしようもない。今更、辞めてどこかへ行こうにも金がない。
「本当に、この仕事で50万円以上、稼ぐ人というのはいてはるんですか」
「ああ、おる」
「あなたは?」
「ゲンでええ。ワシも普通、それ以上はある」
「それじゃ、このまま頑張れば、それだけ稼ぐようになれますか」
「人によるな。出来る奴は、割と短期間で稼げるようになるが、あかん奴は何年やろうが稼げん」
「それじゃ、どうしたら?」
「それは、ワシにも分からん。この仕事は、こうすれば絶対、カードが上がるということは言えんからな。向き不向きもあるしな」
「僕は?」
「今のままやと、あかんな。特に、そんな弱音を吐いとるようやと、何ぼ頑張る気持ちがあってもあかん。もっとも、あかんから言うても、契約の上がることがあるのがこの仕事やけどな」
「具体的にどうすれば、いいですか」
「そうやな。あんたは、取り敢えず、暗い。そんな表情で勧誘しても誰も話しも聞かんで。もっと、楽しそうにするか、笑うようにでもせんことにはな」
「楽しそうにですか。出来るかな……」
「それが、あかん。あんたの稼ぎに、家族の生活がかかっとんのやろ?そない思うたら、ピエロにでもアホにでも何でもなれるやろ」
「そうですね。こんな愚痴、言うてても仕方ないですもんね」
「そういうことや」
ワシも、池田にはそう言うしかなかった。具体的にどこをどう直すということもアドバイスもしてやれん。基本も何も知らん素人やからな。何を言うても無駄や。
せめて、後、一週間もすれば、ワシの言うことがある程度、分かるやろとは思うが、それまでは、とても持たんやろと思う。
ワシは、池田に2時間後、また、この公園に来るように言うて別れた。
2時間後、ワシがその公園に行くと、池田がやって来た。
「どうやった?」
「だめでした……」
「そうか、今日は、これを持って販売所に帰れ」
ワシは、そう言うて、別れてから上がったカードを池田に渡した。カードには、団名と担当者名を書く所があるんやが、ワシはそこに「池田」の名前を書いておいた。
「これは?」
「カードや。今日は、この家を上げたことにしといたらええ」
「でも、それだと、ゲンさんが……」
「ワシは、他にもあるし、1枚くらいどうということはない。気にするな。せやけど、誰にも言うたらあかんで」
「すみません、それでは、これは、借りておきます」
拡張員同士の間で、このカードの貸し借りというのは、結構、良うあることや。人間、誰でも調子の悪い時もあるし、ここ一番のカードが欲しい時もある。1本、2本のカードの違いで貰えるプレミヤに差のつくこともあるからな。
その時のために、お互いが、これやと思うた人間同士でそうする。出来る者同士か上下関係の出来上がっている者同士で、こういうことが行われることが多い。
もちろん、ワシの場合は違う。ワシが、この池田とそういう関係になったとしても、ワシの方には何のメリットもないからな。
正直言うて、ワシも池田からあんな話を聞かされんかったら放っておく。苦労話なんか、この業界には吐いて捨てるほどある。珍しいことやない。
ただ、ワシは子供のことには弱い。あの健気な子らが難儀するというのは堪えられん。
この池田は、おそらく、もう、金もないはずや。この池田は何か悪さが出来るような男でもない。
こういう状況になると、実直な男というのは、ある意味、危険や。多少、悪どい面のある男は、てんぷらなんかの不良カードでその場を凌げるが、こういう男にそれは出来ん。
思い詰めて、一家心中というのも考えられん話やない。そんなことにでもなったら、ワシも悔やみ切れん。
それに、このカードを渡すという行為は、これで、なにがしかの金銭を得られるということだけやなしに、無形の自信がつくことがある。
形はどうあれ、団内では、カードが上がったと評価される。拡張団では、この初カードの人間は、朝の朝礼の際、みんなで祝福するということがある。
すると、落ち込んだ人間でも明るくなり、違う面が出て、その後、実際にカードを上げるようになることもある。それで、伸びる人間もおるということや。
最終的には、この池田は、拡張員としてやなく、販売店の店長として成功することになるのやが、後日、この時のことは「生涯忘れません」と、その池田がワシに語ったことがある。
その話は、次回にする。続きと言えば、そうかも知れんが、また、今回とは別の話になると思う。