メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話
第38回 新聞拡張員ゲンさんの裏話
発行日 2005.4.29
■拡張員列伝 その1 サラブレッドのマサ 後編
それからマサはしばらくの間、ワシと行動を共にした。ワシと一緒の時は、団の連中とも揉めることはなかった。
拡張の仕事も以前してた経験があるとかで、そこそこの成績やった。この団の他の人間のように喝勧で人を脅すということもない。真っ当な営業や。
マサは『剛毅木訥(ごうきぼくとつ)、仁に近し』というのを地で行っとるタイプの男や。
この表現は、一本気で飾り気がなく芯が通って、仁義に篤い人間の形容に使われる。
マサは拡張をしとる割に無口や。本人は無口なのは、話す言葉にも原因があると思うてる。マサは広島弁が染みついとるから、どうしてもそれが出る。
田舎者やと思われるのが嫌やから、最低限度のことしか話さんようにしとるということや。
しかし、営業では、そういうタイプは客によほど好感が持たれんと辛いということがあるが、マサにはその心配はなかった。マサは、見かけは小柄な優男にしか見えんから、その点では得をしとる。
例えて言えば、マサは元騎手やからというわけでもないんやが、テレビの競馬中継で勝利インタビューを受けとる真面目な騎手をそのまま想像したら分かりやすいと思う。
せやから、客からの好感度はええと思う。営業でこれは重要な要素や。あまり喋らんでもこの好感度さえ良ければ何とかなるもんやさかいな。
もっとも、その外見のせいで秋田のような男に甘く見られ、先日のような喧嘩沙汰になることがあるんやがな。
しばらくは一緒やと言うたが、班替えというのをしてから別々になった。
ちょっとした拡張団には班制度というのがある。その拡張団によってその形態は違うが、この団では6、7人編成で5つの班があった。一ヶ月毎に2,3人のメンバーが入れ替わる。
班制度というのは、各班で競わせるために営業会社では良う採られとることやが、班自体に実力差があったら競わせる意味がない。
そこで、実力の均等を図るために分散する目的で頻繁に班替えが行われるわけや。
そのメンバーの編成は、班長以上の幹部の合意でする。せやから、ワシとマサが別々の班になったからと言うても何の不思議もない。
もっとも、このことがワシを陥れる意図のもとに行われたことやとは、この時は想像もせんかったがな。
マサはワシと別々になって、その日のうちに団の人間と喧嘩になった。そのことは、多少、危惧してなかったわけやないけど、団にも慣れてきた時分やからと安心しとった。
相手は宮下という男や。こいつも例の秋田と同じ松下の子分や。拡張員は、とかく群れたがる者が多いのか派閥が自然に出来る。松下の所にも常時、7,8人がそれで集まっていた。
この宮下はその中でも、ナンバー2的存在の男やった。喧嘩の詳しいことは良う分からなんだが、宮下はマサにどつかれてケガをしたということや。
その日の夜。ワシは団長にその喧嘩のことで呼ばれた。
団長の家に行くと団の幹部が揃うてた。そこにマサもおった。もう一人の当時者の宮下は病院に入院しとるという話や。
「ゲン……、呼び出して済まなんだな……」
「おう、ゲン、ワレどないしてくれるんや。このガキは、オノレが責任持って面倒見る言うたんと違うんかい!!可哀想に宮下は当分、仕事も出来へんのやで!!」
松下が団長の言葉を遮って、ワシに食ってかかるように吠えた。
「ちょっと、待っとれ、松下……。まあ、こいつの怒る気持ちも分からんでもないんやがな……」
宮下は仲の良かった秋田がやられてから、マサに対してええ印象を持ってなかった。マサの反抗的な態度も気に食わんかったようや。
それで、先輩に対する口の利き方を注意したということらしい。その注意の仕方が問題やったのはワシでも分かる。マサを逆撫でするような物言いやっんやろと思う。
例によって、マサは簡単に手を出したと言う。結果、宮下は気絶した。倒れる時、頭を強く打ったらしい。それで、病院に担ぎこまれた。それが、喧嘩の経緯やと言う。
「ワシは、何も喧嘩が悪いと言うてるのやない。この仕事は中途半端な気持ちやとものにならん。ワシは、この仕事を男家業やと思うとるから喧嘩もたまにはええ。せやけど、仲間内でやりすぎたらあかん」
ワシもそれほど物分かりが悪い方やないから、団長が何を言いたいのかは分かる。マサの前の喧嘩で、その場を収めるためとは言え、ワシはマサのことを任せてくれと言うてる。
せやから、マサに関して何かあれば責任を持たなあかんと団長は暗に仄めかしとるわけや。その責任の取り方というのも、大抵は金で解決することになる。
その辺は世間一般とそれほど変わらん。喧嘩で相手にケガさせたら治療費と慰謝料は払わなあかんからな。
ただ、こういう団で違うのは、世間ではその責任を負うのは当事者、加害者だけやが、それでは、その責任が全う出来んことの方が多い。
どういうことかと言うと、その加害者に金のない場合や。特に、マサのように入団したての人間は金のないのが普通や。何ぼ払わなあかんちゅうても、金のない者から取ることは出来ん。
せやから、ちょっとでも取れそうな所から取ろうということになる。その責任がワシにあると言うてるわけや。
「ワシにどうしろと?」
ワシも一応、とぼけてそう言う。ここから先はちょっとした交渉事になりそうや。何でもそうやが、交渉事は最初に自分の方からいらんことは喋らん方がええ。
特に今回のように、詳しい経緯や事情が分からず、尚かつ、不利やと思われる状況ではな。相手の言い分を黙って聞いとく方が取り敢えずは得策や。反論はいつでも出来る。
「ゲン、お前も知っての通り、宮下はそこそこ仕事の出来る男や。その宮下が仕事出来んちゅうのは、本人もやが、団としても痛い。ただ、謝って貰うてもしゃあないちゅうことや」
「どうしたら、ええか、はっきり言うて貰われまへんか」
ワシは口調は極力、穏やかに言うたが、正直、苛立って来た。この団長もこの世界が長いだけあってなかなかの狸や。おいそれと自分の手の内を明かそうとせん。どうしても、先にワシの口から何か言わそうというのが見え見えや。
「ほな、はっきり言おう。ゲン、お前、班長をやれ」
「は?班長?」
さすがのワシが面食らった。予想もせんかったことや。責任話にそう言うとは、普通は考えられんことや。
「せや、ゲン、お前がそれで頑張ってくれれば、宮下の分くらいは楽にカバー出来るやろ。マサもお前の専属につける。どや、悪い話やないと思うがな」
確かに悪い話には思えん。ただ、悪い話に思えんだけに腑に落ちん。いくら、ワシがそれを今まで固辞しとるからと言うても、今回のような不始末と引き替えにするようなことやない。
「それで、マサの処分は?」
「何もなしとは行かんやろ。宮下も病院送りにされとるんやからな。病院代と気持ちだけの詫び料は、マサが払わんと収まりがつかんのと違うか。まあ、心配せんでも、その分の金は、ワシが立て替えたる」
なるほど、そういうことか。ワシも理解した。つまり、ワシを責任ある立場につけることで、ワシを間接的にマサの保証人にしようという腹や。
班員の不始末は、ここでは当然のこととして、班長が負わなあかんことになる。つまり、今回の場合、班員となるマサの責任をワシが負うということになる。
もっとも、責任と言うても、それは、マサが逃げた場合のことや。因みに、団長の立て替えるという金は、マサの借金になる。いとる間は、マサがそれを支払う。
「松下、そういうことや。ええな」
「オヤッさんが、そう言うのなら……」
結局、その場は、それで終わった。詳しい打ち合わせは後日ということや。宮下のケガの程度もはっきり分かっとらんから、金の話も出来んしな。
ワシはマサを寮に連れ帰った。ワシの部屋で事情を聞こうと思うたからや。もちろん、責めるつもりはない。
「やってしもうたもんはしゃないから、何でそうなったかだけ、教えてくれんか」
「……。何を言うても言い訳にしかならんけぇ。こらえてつかぁさいや」
マサは、それだけしか言おうとせん。しばらく、沈黙が続いた。すると、部屋を小さくノックする音が聞こえた。
ドアを開けると、上野という男が立っていた。世間話くらいは同じ団やからしたことはあるが、取り立てて心やすいという人間でもない。
「上野さんか、悪いな、今、ちょっと、取り込んどるんや。話なら、明日にでもして貰えんか」
「その取り込んどるいうのは、マサのことやろ、オレも現場におったからな。それで、ゲンさんに知らせておきたいことがあって……」
そう言いながら、上野はしきりに辺りを気遣い伺うような仕草をしとる。落ち着きがない。
「そうか、入って……」
ワシがそう言うと、上野は素早く部屋に入ってきた。
「知らせるて、どんなことや」
「実はな……」
この上野が、今日の喧嘩の詳細を話し出した。
それによると、マサは宮下の挑発にもかなり我慢していたらしい。その宮下は執拗に秋田のことを持ち出したと言う。今回、その秋田は、他の班やから、そこにはおらんかった。
マサも一応、けじめとして、当の秋田には謝って決着のついとることやから、今更、宮下にそのことで言われる筋合いはない。
それでも、マサは我慢して、その宮下にも謝ってたと言う。上野はそれをはらはらして見ていた。上野から見ても、明らかにマサを挑発して喧嘩を仕掛けとるようにしか見えんかったからや。
宮下も自称、空手の有段者やとかで喧嘩には相当の自信があったらしい。そう言うて普段から吹いとった。それは、ワシも知っとることや。
それまで、我慢していたマサが、宮下の一言で急に変わったと言う。宮下の言うた一言というのは、ワシへの陰口やったと言う。
「あのゲン、普段、ええ格好ばっかりぬかしとるけど、何しとるか分からん男やで……」
そう宮下が言うたとたん、マサの目の色が変わった。それまで、大人しくしていたのがいきなり、宮下に掴みかかった。
勝負はマサが突っかかってすぐについた。マサのパンチ一発で倒れてそのままや。他の人間がすぐ止めに入ったが、宮下は起き上がらなんだ。
マサが喧嘩に強いのは知っていた。しかし、それにしても、あまりにもあっけなさすぎたと言う。まあ、それでも、当たり所が悪かったということがあるから、そういうこともあるかも知れんが。
しかし、上野がおかしいと思うたのは、マサを止めに入った奴らは全員、宮下の仲間やったとうことや。
普通、こういう場合、その全員でマサをやっつけようとするはずや。もちろん、普通というのは、この団ではということやがな。
上野はマサが袋叩きになるもんやとばかり思うてた。ところが、そうはならなんだ。気絶した宮下を病院に運ぶと言うて、すぐ連れて行った。
ところが、その宮下は病院には行ってなかった。どうも、団のナンバー2の部長の家にいとるということが分かった。今もいとると言う。
上野は、それがどうしても納得出来んから知らせに来たのやと説明した。ワシのためにということやが、それは、どうかとは思う。
上野は岡谷というこれも班長をしとる男の派閥に属しとるやつや。そして、その岡谷と松下は反目しとる。せやから、ただの親切心だけで知らせに来たのやないのはすぐ分かった。
ワシには大体の筋書きが読めた。これは、団ぐるみの陰謀や。少なくとも、団長と松下が画策したことは間違いがない。部長も一枚噛んどるのやろ。
目的はワシを取り込むことや。今にして思えば、団員同士の喧嘩で、無理矢理ワシに責任をかぶせて、その挙げ句の裁きが、ワシが班長を引き受けることやいうのは、どう考えてもおかしな話やった。
しかも、それをするのに、こんな手の込んだ芝居をしてマサまで嵌めるというのは、何ぼ何でもやりすぎや。
それにしても……と思うた。マサがそれほど我慢しとったというのは意外やった。おそらく、ワシに迷惑がかかると考えたのやと思う。
そして、ワシのことを考えたからこそ、ワシの陰口に過敏に反応した。そのことを自分の口からワシには言えんかったから黙っとったというわけや。
喧嘩をしたのはあんたのためやったと言うのがな。つくづくマサは男やと思うた。
団長もそれほどワシが欲しければ頭を下げたらええやないかと思う。しかし、それを今更言うてもしゃあない。
それは、この団長の習性に近いもんやろうからな。人を弱みで縛るということに慣れすぎとるということや。
或いは、松下に乗せられただけかも知れんがな。松下という男は、完全に団長の太鼓持ちや。ワシを取り込むことで団長を喜ばせ点数を稼ごうとしたのやろ。
ワシは念のために、部長の所へ行ってみた。上野の話通り、宮下がおった。案の定、元気や。
宮下はワシを見て慌てたのか、今、病院からの帰りやととぼけとった。
ワシには、宮下がそこにおったという事実だけでええ。こんな男の言い訳を聞く気にも相手する気にもなれん。どの道、こいつは言われたことだけをした、ただの下っ端やからな。
ワシは、その足で団長の家に行った。
「今、ワシも宮下が病院から帰ったと聞いた。どこも悪いところはないようやな……」
団長は、ワシが乗り込んで来るのを部長や宮下に聞かされとったのやろと思う。この期に及んでも、まだごまかそうとしとるからな。
「オヤッさん、長いこと世話になったけど、今日限りで辞めさせて貰いますわ……」
ワシは、極力、怒りを出さずにそう言うた。
「何や急に……」
「この仕事に嫌気が差した……そういうことに、しといて下さい」
この時、本当にそう思うた。すべてをぶちまけて喧嘩するのは簡単やが、それをしてもどうにもならん。結局、最後は辞めなしゃあないことになる。
拡張員に限らず、その組織が気に食わんかったら辞めるしかない。それが、下っ端の唯一の抵抗や。
「分かった……。好きにしたらええ」
「マサは連れて行きますんで……」
「……」
団長から明確な了解はなかったが、返事のないのはこの場合、了解ということや。
ワシはトラブルの場数だけは人より多く踏んどると思うてる。その経験から言うんやが、トップとトラブルの交渉や話し合いをする場合は、他の人間のおらん1対1の場を選んでせなあかん。
トップの立場として、他の人間のおる場所でそれを言うと、例えこっちに利のあることで、そのトップが引け目を感じとるとしても、絶対にその非を認めようとはせんからな。話がややこしい方向に行くだけや。
その話の内容を他で言うのもあかん。良うええ格好して、ワシがそう言うたから、こうなったんやと自慢げに喋る人間がおるが、そういうのは、男として最低の奴やと思う。
そして、一番、肝心なことやが、いくら腹を立てたからというても、今まで何らかの世話になった人間の悪口、陰口は絶対に他で言うたらあかん。
『交わりを絶つとも悪声を出さず』ということや。
ワシは、それまで付き合っていた人間の悪口、陰口を叩く者は信用せんことにしとる。手のひらを返すというのも嫌いや。
ワシは、この団長のことは、この後、どこに行っても批判がましく言うた覚えはない。
実際、この団があって団長がおったから、ワシも窮地を脱することが出来たんやからな。何があっても、そのことは忘れたらあかん。
それに、その手段は褒められたことやなかったとしても、ワシの能力を高く買うてくれたことが一因としてあったことは間違いないからな。
ただ、これ以上は付き合えんと思うたら、黙って離れたらええだけのことや。
ワシとマサは、この後、大阪のある団に身を寄せることになる。
しかし、その半年後、どういう経緯でかは分からんが、マサは田舎から呼び戻され帰って行った。最後の別れ際、楽しそうにしとったから、悪い話やなかったはずや。
数年前、その悪名高き鬼○団も解散したということや。確かに、拡張団としては最悪な所やったかも知れんが、そう聞かされたときは、なぜか無性に寂しさを感じたもんや。