メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話

第42回 新聞拡張員ゲンさんの裏話     

発行日 2005.5.27


■拡張員の記憶力の果てに?


拡張員の中には馬鹿に出来ん記憶力の持ち主がおる。もっとも、拡張員にもいろいろおるから、特別な人間もおるということも考えられんでもないがな。

例えば、前職でホテルのベルボーイをしてたとかという場合やと、こういう人間は客のことを記憶する訓練も積んどるやろうからそういうこともあるやろ。

職業的な特技やな。客商売にはこういう特技の持ち主は多い。そういう特別な能力のある者なら、そのことも不思議とは考えんから、ここでわざわざ『拡張員の記憶力』と題してまで取り上げようとも思わん。単にそういう人間のすごさだけを紹介して終わりや。

せやけど、拡張員の中にはこんな奴がと思うような男が、その驚異的とも言える能力を披露することがある。

例えば、以前、このメルマガの『第24回 ゲンさんを探せPart 1』でも紹介したことのある大森という男なんかがそうや。

こいつはお世辞にも頭が切れるとかやり手の拡張員やというわけやない。どちらかというと、調子者のアホな部類の典型のような奴やと思う。

新聞も字だらけやという理由で読まん。読んどるのかも知れんがその場面をワシは見たことはない。

こいつの読むのはマンガくらいや。もっとも、この男に限らず、拡張員でマンガ好きは多いけどな。

拡張員のサボる場所は喫茶店が多い。それもマンガの読める所や。その中でもマンガ喫茶が一番人気になる。

別にそれにケチをつけとるわけやない。そういうのは本人の自由や。何を隠そうワシもマンガが好きやからな。人にとやかく言えた義理やない。

この大森という男は、どこから、どうひいき目に見てもお世辞にも知性的とは言えんが、それでも、こいつの記憶力には頭が下がる。というより、ある意味異常や。

それが分かったのは、こいつと連勧で一緒に仕事をした時やった。

連勧というのは、拡張の仕事の形態の一つで、グループで一緒に行動するやり方のことや。主に1台の車に乗り込んだメンバーでする。ワシらの場合は4,5人というのが多かった。

これは、ほとんどの場合が、団からの指示、命令でそうする。拡張員が率先して連勧を希望することは少ない。これは、サボり防止対策用の営業という側面が強いからな。これをする時はサボれん。

拡張員がサボるのは個人で仕事をしとる時や。個人的になら、それでその日、成績が悪うても調子悪かったで済ませることが出来る。個人が我慢するか、責めを負えば済むことや。怒られて終いということやな。

グループやとそうはいかん。特にその中のリーダーとなる人間は責任重大やからある程度、必死になる。他の人間の手前、ええ格好もせなあかんしな。

そのリーダーに大森がなったことがあった。この大森は歳もワシより上や。団でも古株の内に入る。その意味で言えば大森がリーダーになることは別に不自然なことやない。

この日のメンバーは、大森とワシの他に二人の計四人や。残りの二人はいずれもまだ一ヶ月弱の新人や。沖田と斉藤というどっちも30歳前後の男やった。

沖田は以前、他でも拡張の経験があると言うてたが、斉藤の方は素人ということや。どちらも、見た目もそうやが、大人しそうに見える。真面目かどうかというのは分からん。まだ、猫を被っとるのかも知れんしな。

連勧というのは、別名、データ拡張と言われとるくらい、データ中心に廻るのが一般的や。そのデータというのは、多くの場合、入店した販売店から出る。

「今日は連勧するからよろしく」と拡張団の事務所を出発する前にその販売店に連絡を入れておけば、大抵の店ではそれ用のデータを用意してくれとる。

データのほとんどは過去読と言うて、以前、その販売店で購読していた読者のデータや。これは、その場所にもよるが、それほどあてに出来るデータというわけやない。ないよりましやという程度のもんやと思うとかなあかん。

過去読というのは、止め押しと言うて現読継続の依頼に失敗した客のことや。理由はいろいろある。

単に交代読者というやつである一定の期間毎に新聞を2社、または数社変えて購読しとる人間か、その販売店と何らかのトラブルを起こし離れた読者や。

こういう場合のデータは後者の場合が圧倒的に多い。問題の小さな客は、そこの従業員でも処理出来るからワシらに依頼されるケースは少ない。

ワシらに廻って来るのは、販売店で処理出来んかったやっかいな客ということになる。それでも、ないよりましやということになるんやがな。

販売店がやっかいやと思うた所でも、ワシらにとってはそれほどでもない場合がある。少なくとも「以前、お世話になりました○○販売店です」と言うて入って行けるだけまだましや。

よほど、嫌われとるんやなかったら、話くらいは聞いて貰える。この話くらいは聞いて貰えるということが重要なんや。

ベテランの拡張員はこの話を聞いて貰える状況になれば、何とか出来ると思うとる。拡張というのは、その自信がないと辛い仕事やからな。

その日、その販売店に着くと地図と過去読の顧客表の一覧を渡される。渡されたのは全部で30軒。そのすべてがカード(契約)になれば言うことはないが、そういうことはまずない。

一応、作戦会議なるものを開く。場所は、ファミリーレストランや。ここで、食事を取りながらする。ここやと大抵はテーブルもでかいしデータ地図も広げやすい。即席の会議室としては申し分ない。店がどう思うかは知らんがな。

この日のリーダーは大森やから、その指示通りにする。リーダーには逆らえんということやなしに、逆らわん方がええということや。

特に連勧の場合はな。どんな相手と組むことになろうとも、ワシはそうしとる。そして、その日はある程度、仕方ないと割り切ることや。

「ゲンさんよ。A地区の山岡のおばはんの所から廻ろうと思うんやけど、どないや?」

「ええんと、違いますか。大森さんに任せますわ」

こういう時、下手に出しゃばって「いや、B地区からの方が効率ええと思いまっせ」などと例えそう思うてても言わん方がええ。

その日、カードの上がりが悪かったら、それを理由にされかねんからな。特にこの大森という男は、そういうのは平気で言うタイブの男やさかいにな。

上手く行けば自分の手柄、悪ければ人のせいにするというのは、この男にとっては普通というか当然な考え方ということになる。

せやから、本当はこの時に、ワシに何か言うてほしいわけや。ワシが口を出したということなら、その日、成績が悪うても言い訳が出来ると思うとる。そんな誘いには乗らんがな。

因みに、この連勧のリーダーに指名するというのは、何も団がその実力を認めとるからだけとは限らんということがある。

理由はいろいろやが、古株で普段良うサボるからネジを巻いとけというのが多いようや。この大森の場合は正にそれやと思う。

「よし、頑張って行こうか」

大森のかけ声で仕事に出る。まだ、午後1時過ぎや。まあ、この時間から営業開始しても別に不思議はないんやが、拡張員でこの時間から動くことは少ない。

特にこの大森なんかは、こういう勧誘のリーダーでもやらさん限りは、まず動こうとはせん。一人で放っといたら、仕事を始めるのは、ええとこ夕方の5時くらいからや。

古株というかベテランの拡張員にはそういうのが多い。狙いが独身か共稼ぎの低家賃のアパート、マンション住まいを中心にしとるということもあるがな。

業界で言う所のガサ廻りというやつや。拡材でなびくのは、概ねそういう所の住人やと思うとる。それを好む拡張員の人気スポットになる。

当然やけど、そういう所は、仕事が終わらな住人は帰って来ん。昼間は留守が多い。早めに行っても無駄やと思うから余計にそうなるんやがな。

それなら、それまで他を廻ればええやないかと思うかも知れんが、こういう大森のような連中にそういう発想はない。

しかし、連勧はそうはいかん。のんびりしててカードが上がらんかったら団長や幹部からきつく叱責される。余裕をかまして成績が悪かったら何を言われるが分からんから、早めに初めとるということや。

叱責というと怒られて終いだけのように思う人間もおるかも知れんが、営業会社の叱責というのは普通で考えるよりも厳しい。

さすがに、今の時代、ドツクような暴力を振るうことは少ないが、もっと陰険な責めが普通にある。

この団で多いのは、こういう連勧で最悪な結果を招いた人間に与える罰として、朝礼時に土下座させるということがある。上がったカードが人数分以下やったら、間違いなくそうなる。

今日の場合で言えば4人やから、カードが3枚以下ということや。連勧の場合、基本的に上がったカードは、その人数で分配するという暗黙の決まりがワシらの所にはある。

上げた者のカードにはならん。それやと、同じデータで廻る場合、ベテランはええとこを選び、駆け出しはカスの客を廻されるということになりかねん。

実際、昔はそういうことが多かった。この分配で良う揉めとった。拡張員も銭が絡むと必死やから、殺し合い寸前の喧嘩沙汰というのも珍しいことやなかった。

この4人で3枚しかカードが上がらんかった場合は、団の預かりとなる。実質、取り上げや。これは、分けることが不可能やから、恨みっこなしという考えからや。

分けた場合、必ず一人はゼロ、坊主になるからな。この坊主になった者がその他の者に対して恨む気持ちは相当なもんやからな。

そして、そういう結果を招いたリーダーには、その罰として土下座させるということや。他の者に詫びろという意味やけど、実質は見せしめや。

自己申告より少なくても、場合によればそうなる。自主申告というのは、行く前に今日の成果を全員の前で自主申告させる。

自主申告というても、雰囲気として少な目な数は言えん。皆の手前もあるし見栄もある。そやから、どうしても多めの数になる。大森の今日の自主申告は20本や。一人5本平均になる。

微妙というより、この団ではきつい枚数や。無理とは言わんがな。それが出来んかったら土下座が待っとる。

これは、やらされる人間には、見た目以上に辛いことや。さらし者やから当然やけどな。また、それが団の狙いになる。そんな恥をかきたなかったらカードを上げろということや。

大森が張り切っとるわけがここにある。誰もそんな目には遭いたくはないからな。

連勧で廻る所は普通の民家が多い。アパートやマンションは希や。そういう所は、店の従業員が行くし、何より放っといても拡張員が勝手に廻る。結果として、過去読のデータには残っとらんことが多いということや。

一軒目の民家の前で車が停まった。

「ここの山岡のおばはんは、3年前に伊藤が上げた(契約した)客なんやが、その時、店に内緒で商品券1万円寄こせと言うて巻き上げとんねん。ずっと、Y紙にする言うてな。今はA紙や。せこい、おばはんやで。ゲンさん、その辺つ
ついたってや、頼むわ。ワシらこの突き当たりの村田の家に行っとるから……」

販売店から貰うたデータにそんなことは当然やけど書いとらん。半年前に契約が切れたことだけしかデータにはない。

大森の言う伊藤というのは、以前、団におって今は辞めた奴や。その人間のとった契約の経緯を知っとるということになる。

連勧の場合、こうしてひとりずつ降ろして勧誘させるということになる。その間、残りで他を当たるわけや。村田という家はその内の一軒で、その辺りで落ち合うということになる。

ファミリーレストランで地図を広げて攻める地域の打ち合わせをしていたのも、その確認を兼ねてや。離ればなれにならんようにな。もっとも、最近は携帯電話があるから、それほどその心配もいらんがな。

「ごめん下さい。以前、お世話になってましたY新聞です」

インターフォンでこう言うと、しばらくして年輩の奥さんが出て来た。大森の言う「山岡のおばはん」や。話通り、強欲そうな雰囲気の強い客やった。

「今、うちはA紙とってるからいらんで」

現在A紙を購読しとるのも大森の情報にあった。これも、販売所のデータにはない。どこからか仕入れた情報や。

これだけやと、たまたま知っとったということになるが、この大森は過去に行ったことのある地域の人間の情報は驚くほど良う仕入れとる。

しかも、それを何かを見ながらということやなしに話す。暗記しとるわけや。

「以前、うちの伊藤が商品券を余分に店に内緒でお渡ししているはずなんですけど……」

大森からの情報をそのままぶつけて見た。

「そんな、昔の話、今更言うて、どうすんの?返せ言うのか?」

「そんなアホなこと言いますかいな。いえね、今、読まれているA紙の後に、また、うちのを取って頂いたら、同じようにサービスしますんで……」

これで、ここではカードになった。拡材が余分に必要になったけど、これも、さっきの大森との会話の中に暗黙の了解事項として含まれとることや。

あまり、大きな声では言えんが、販売店が何度行っても失敗するというのは、こういうケースが結構ある。

店に内緒で拡材を渡しとるというケースや。客からそのことを言う場合は販売店もそのことが分かるから、そこで無理するということもある。

販売店がその客をどうしも欲しいと思えば同じようなサービスをする。そういう客は今回のデータとして残っとらん場合がある。

また、販売店がそういう客は必要ないと思うたら、データには残っとるが、そこで勧誘する条件を拡張員に釘刺す場合がある。余分にサービスはするなとな。

この山岡という客は、そのことをその販売店には言うてないということや。こういう客は、販売店に言うても無駄やと思うとる。

販売店から、通常のサービスだけしか提示せん人間を何度か断っとったら、いずれワシらが来ることを知っとるわけや。そういうことを、あからさまにワシらに言う客もおるからな。簡単に契約するにはそういうわけも含まれとる。

それにしても、この大森は、そういうことは良う覚えとる。それだけは感心する。それも、すべて暗記やからな。

ワシにはその真似は出来ん。そら、ワシでも懇意にしとる顧客の情報なら覚えとるが、この大森のように他人のも含めて何十軒、何百軒もの家の情報を軒並み暗記なんかは出来ん。

せやから、ワシは昔から手帳を常に持ち歩いとる。これは、建築屋の営業を始めた頃からの癖や。

ワシはこの営業には、データは欠かせんもんやと常に思うとる。そのためには、こまめにメモを取るしかない。記憶力にはそれほど自信もないしな。

しかし、こいつは何でも良う覚えとる。自分が客と交わした会話はもちろんやが、他の拡張員と客との会話の内容までというのは、単なる記憶力があるにしても異常や。それも古い話やと5,6年前までさかのぼってやからな。

その仕入れるのは、大抵、車中とかサボりの喫茶店の中での無駄話からや。そういう意味では、そういうのも役に立っとるようや。

せやけど、そこで話すことがすべて本当のこととは限らん。口から出任せや嘘を平気で言う奴とかそれを言うことで人を嵌めようという者も中にはおるさかいな。

その情報の真偽も確かめとかなあかん。それを確かめんと聞いた情報だけを鵜呑みにして披露してたら、その人間の程度が疑われるし誰も相手にせんようになる。

大森の情報も中にはそういうのもあるが、ほとんどは全くのでたらめと言うほどのものはない。一応、その情報を確かめるか選別しとるわけや。その意味ではプロや。

せやけど、こいつにもっと驚かされるのは、それが拡張に関する記憶だけで、普段の記憶は昨日のことすらまともに覚えとらんということや。

特に自分の都合の悪いことは絶対に忘れとる。例えば「今、たばこを買う小銭がないねん。明日必ず返すから、300円貸してくれ」と言うたことなんか、覚えとることはまずない。

まあ、これは本当に忘れとるのかどうかは怪しいがな。せやけど、昨日、喋ったことを忘れとるというのは事実や。

「ここだけの話やがな、誰にも言うなよ。団長、浮気がバレて嫁はんに散々ドヤされとるらしいで……」という話を何度も同じような調子でワシに言う。

「大森はん、それは昨日も聞いたで」

「アホなこと言うな。この話をするのは初めてや」

と真顔で言う。本当にそう思い込んどるようや。他にも似たようなことは多い。ボケが始まったか進行しとるのかも知れん。

しかし、拡張では相変わらずの記憶の冴えを見せる。わけの分からん奴や。この大森だけが特別なら、そういう人間も中にはおるかも知れんと思うんやが、こいつに似たような者は他にもおる。

ひょっとしたら、この拡張の仕事はそういう記憶障害?の起こりやすい職業なんやろうかと思うことがある。

ワシも、この頃、どうもそれが他人事のようには思えんようになって来たんや。何や妙に昔のことがまるで昨日のことのように鮮明に思い出すことがある。

それも、何かの重大事ということでも、懐かしく思い出すということでもない。ふと、そのことが気になりその状況が頭に浮かぶ。

ひょっとしたら、大森の記憶力の鋭い原因はこれやないやろか。もちろんワシは医者でも何でもないしそんな医学的な知識も知らんが、何かえたいの知れん脳の病気のように思われてしゃあない。

せやなかったら、あんな大森みたいな人間に備わっとる能力やと言うにしたら、あまりにも不自然や。特殊能力はそれにふさわしい人間が身につけとると思うからな。

ワシは慌てて、手帳を取り出した。メモは常に克明につけとる。そのメモをめくった。もしかしたら、どこかに同じことを書き込んでないかと思うたからや。

そのメモに同じ事が繰り返し書き込んであったら、あの大森のことは笑うたり馬鹿に出来んことになる。書いとることを忘れるのも喋ったことを忘れるのもそう大差はない。

好むと好まざるとに関わらず同じようなことになっとるわけやからな。しかし、それはなかった。まだ、大丈夫なようや。

ろうそくの炎でも、燃え尽きる前が一番よく燃えるという。それが、あの大森の記憶力やとしたら辛いものがあると感じるのはワシだけやろうか。

拡張員の記憶力の果てに……、そんなものは何もないと信じたいけどな。


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