メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話

第43回 新聞拡張員ゲンさんの裏話
     

発行日 2005.6. 3


■たかがマンガ、されど漫画……。


どうも、ここのところ調子が悪い。原因は分かっとる。例の虫歯が原因や。

歯医者で貰うた痛み止めの薬を飲んどるから、それが効いとるうちはええけど、きれたら痛うてたまらん。

営業中にそうなると、どうしようもない。営業用のゲンさんスマイルで笑おうにも笑えん。それこそ「苦虫をかみつぶした笑い」ということになる。仕事にならん。

常連の客やと「虫歯で難儀してますねん」と言えば「大変ですね」と言うて同情もして貰えるが、何も知らん人間やと不愛想なおっさんやと思われるだけや。そう考えたら余計に仕事にならんし、する気も起きん。

もっとも、その憂いも今日でなくなるかも知れんがな。と言うのも、今日の夕方、4時に例の美人医師の歯医者に予約を入れとる。そこで、その虫歯を引き抜くことになっとるんや。

麻酔注射をするからそれ自体は痛うはないらしいが、ハカセに言わせるとその麻酔注射がかなり痛いと言う。

その状況を頼みもせんのに説明しよる。それも楽しそうに。

「ゲンさん、大丈夫ですよ。麻酔注射も3本ほど歯茎に打つんですけど、最初、チクッとするだけですから」

「ハカセ、あんたは、そこら中、注射されとるから平気やろけど、ワシにとったら命がけの気分なんや。注射も歯医者も死ぬほど嫌いやのに、それがセットで襲うて来るんやで。ワシの身にもなってんか」

正直、今日の予約もすっぽかしたろかと思う。実際、歯の痛みさえなかったら、そうしとる。結果、この近辺では行ける歯医者がなくなっとるんやけどな。

今は、午後1時過ぎやから、後3時間ほどや。ただ、じっとしとったら、屠殺場に引き出されるのを順番待ちしとる牛の気分になる。滅入るだけや。

せやから、そういうことを少しの間でも考えんでも済むように、このマンガ喫茶で漫画を見ようと思うてやって来た。前回のメルマガでも少し話したが、ワシはこのマンガが好きや。気晴らしが必要な時は、大抵、このマンガを読む。

今日は、横山光輝作の『三国志』を数冊、目の前に並べとる。ワシはこの横山光輝氏のマンガが好きやったが、残念ながら去年、氏は亡くなられた。

ワシが初めてこの人のファンになったのは『伊賀の影丸』というマンガを見てからや。その頃、氏はすでに『鉄人28号』で有名になっとったが、ワシはこの『伊賀の影丸』が一番好きやった。

週刊少年サンデーの1961年14号からの連載ということになっとるが、ワシはそれを最近になるまでは知らなんだ。その当時は、まだワシは小1になったばっかりの頃やったからな。

1959年3月17日に『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』が同時に創刊されたというのも、まだ幼稚園の時分で当然やけど、記憶にない。

ただ、その氏のマンガとともに成長してきたというのは間違いない。特に小学生時代はそうや。

その頃、ワシの家は貧乏やった。ワシらの子供時代は貧乏というのが、特別ということでも珍しいことでもなかった。みんな、大抵は、貧乏人やったからな。

この頃の『伊賀の影丸』の載ってた少年サンデーは、確か30円くらいで売られてたと思う。せやけど、ワシはそれを初めの頃は、発行日には見たことがなかった。

ワシらの子供の時代には、貸本屋というのがあった。当時の貸本屋の雰囲気は、古い小さな古本屋を想像したらええ。

その少年サンデーが貸本屋に並ぶ時に、立ち読みするんや。貸本屋には、発行日から早くて2.3週間ほどせんと並ばん。

並んでも、それを買えん奴が借りに来るからすぐなくなる。因みにその借り賃は1日、5円やった。ワシには、それすら借りることは出来んから、それが返されて並んどる僅かの隙に立ち読みする。それしか、それを見るチャンスはなかった。

せやけど、貸本屋のおっさんも、そんなことをするガキにええ顔はせん。今で言うたら、本を万引きする子供を見張るような感じや。

その現場を押さえられてそこの店主に良う怒られた。その店主は、ワシの親父(オヤジ)にもそのことで文句を言うとった。

しかし、オヤジは厳しいタイプの人間やったが、そのことでドヤされたことはなかった。盗んだりしたら半殺しは間違いなかったやろうがな。

ある日、ワシが学校から帰って来ると机の上に、その少年サンデーが置いてあった。オヤジが買うて来たんや。ワシは涙が出るほど嬉しかった。

ワシはそれを何度も何度も読み返した。それから、オヤジは毎週、買うてくれるようになった。

今なら、ワシもオヤジの気持ちは良う分かる。子供の喜ぶ顔を見たら、親ならそうしてやろうと思うからな。少々、無理をしてもな。

話を戻すが、ワシは『伊賀の影丸』の大ファンやったが、その理由はその時には良う分からなんだ。面白いから面白いというしかな。

それが、分かったのは大人になってからや。今にして思えば、この横山光輝氏は子供向けのマンガに壮大なメッセージを込めていたんやというのが分かる。ワシの考え方の根幹にも少なからず影響しとる。

その頃の少年マンガというのは、実に単純ではっきりしてた。正義の味方の主人公が悪人をやっつけるというお決まりのストーリーが多い。

正義の味方はどこまでも清く正しいヒーローで悪役は極悪人なわけや。子供の頃はそれもそれなりに面白かったが、今、改めて見直すとやはり、幼稚さは否めん作品がほとんどやけどな。

その中にあってこの『伊賀の影丸』は異質な作品やったと言える。今の大人が見てもその作品の真意なりメッセージなりを、どれだけの人間が読みとることが出来るやろうかと思う。

この作品を知らん比較的若い読者もいとると思うので簡単に内容を説明する。

時代は江戸時代前期。江戸幕府に伊賀忍者総帥、服部半蔵が組織するお庭番というのがあった。公儀隠密とも言う。当時の諜報組織、つまりスパイ組織やな。

影丸はそこの忍者で、屈指の実力者や。『木の葉隠れ』という術を使う、少年天才忍者として描かれている。

任務は他国に侵入してその動向を探ることや。もちろん、他国というても、今の日本国内のことや。

その当時の日本は、群雄割拠していた戦国時代が最終的に徳川家康の手によって統一されたばかりやった。藩という名の国の集合体が江戸幕府であり、当時の日本やったわけや。

武力によって統一されとるから、中には反感を持っとる国も少なくない。江戸幕府としては、自由にさせると反乱を起こされる可能性がある。

その当時の公儀隠密の任務は、その国に入り込み、責任を追及出来るような情報を探して幕府に報告することや。つまり、つぶす口実やな。史実では、この頃、かなり頻繁に藩の取りつぶしが行われとった。

いくら、天下を徳川が取ったとは言え、何のお咎めや理由もなしに国をつぶすことはさすがに出来ん。世間に説明出来る口実が必要なわけや。それも、今の時代から見ると単なる言いがかりとしか思えんことも多いがな。

実際、この時代、それに抗議する不満分子による小さな反乱はいくつかあった。そんな事件もこの作品では取り上げとる。

第2部の由比正雪編がそうや。これは、実在の人物で、藩の取りつぶしで職を失った浪人たちのリーダーやった男や。幕府に対するクーデターを計画してた。

結局、そのクーデターは失敗して自刃して死んだことになっとるが、この作品では、それは、替え玉の男で、実際は死んでなかったということで話を展開させとる。

他にも第5部の半蔵暗殺帳編では、服部半蔵が幕府の命令で大名を暗殺したという歴史が綴られているとされる設定の巻物を巡っての争奪戦という話がある。

実際にあったような話に思えるような内容や。影丸を主人公ではあるが、必ずしも正義の味方ということで描いとるわけでもないというのが分かる。

むしろ、その所属組織には影の部分があることを強調しとる。せやから、敵側が必ずしも悪役としては描かれとらん。やむ得ず、そういう行動をしているという、その敵側としての立場からの視点もある。

この頃の少年マンガは普通、当時の『月光仮面』などのヒーロー物に代表されるように、正義の味方が一人で奮闘、活躍し悪組織の大人数と立ち回りを演じながら勝利するというのが、一つの法則のようなところがあった。

この作品はその意味でも全く異質やった。敵も味方も対決する場合は、ほぼ互角の人数、勢力、実力というのを基本にしていた。影丸の存在もあくまでもその一員としてや。

そして、最後には影丸側が傷つきながらも勝利するという結果になるが、氏はそこでもその勝利に疑問を呈し、常にむなしさのようなものを強調しとった。それが、すべての話のラストシーンで感じられる。

氏のどこかには、倒される側への同情というか思い入れがあったのやないかと思う。理不尽さというようなもんやないやろかとも思う。

氏はその理不尽さへのバランスを保つために、影丸の宿命のライバルとして阿魔野邪鬼というキャラクターを登場させたという気がする。

この阿魔野邪鬼は、第1部の若葉城編で初めて登場し、全編を通じ唯一生き残った敵側ということになる。不死身の体を持った忍者という設定や。

この阿魔野邪鬼というキャラクターも敵役やが、悪役という雰囲気はない。むしろ、この阿魔野邪鬼のような状況に置かれたら、そうするしかないと思えるような説得力がある。

そして、氏は話が進むに連れて、この阿魔野邪鬼をある時は影丸を助ける味方としてまで描いとる。それが、子供心に深い疑問として残っていた。なぜ、阿魔野邪鬼だけが特別なのかというな。

それが分かったような気がしたのは、ずっと後のことやった。それは、今、目の前にある『三国志』を読んでからや。

横山光輝氏の『三国志』を読んで、その存在を知ったという人間は多いと思う。特にワシのように氏のマンガで育った世代はそうやった。今でも、若者中心に人気がある。不朽の名作や。

もっとも、氏はその名を日本に広めた原作の吉川英治氏の『三国志』をほぼ忠実に描いている。小説好きの人間はむしろこれが主流やろと思う。

良くこれらを、歴史の史実と思うとる者もいとるようやが、史実の『正史三国志』とは内容が違う。

『正史三国志』というのは、三国志の舞台となった、魏、蜀、呉の国々が滅んだ後、晋時代の陳寿(ちんじゅ)という人物によって書かれたものを、その後、宋時代の裴松之(はいしょうし)が注釈をつけ完成したものとされとるもんや。

中国の数ある正史の一つで、物語性などはない。ただ、その時代の出来事が記されとるだけや。

それを物語風にアレンジしたものが、その『正史三国志』が出来てから1100年も後になって明の時代の羅貫中(らかんちゅう)という人物が書いた『三国志通俗演義』というもので、一般には『三国志演義』と呼ばれとるものや。

これは、小説風にした話やから、当然、フィクションも多い。吉川英治氏や横山光輝氏の小説やマンガの原型はこれを基にしとる。

せやからと言うて、その値打ちが下がるわけやない。むしろ、逆や。フィクションと承知で描くことで作者のメッセージをより強く、その作品にこめることが出来る。

そして、物語というのはそれを読む者にアピールするように書かれるから、面白い。もちろん、それを書く人間の技量にもよるがな。

ワシはこの『三国志』を読んでいてあることに気付いた。それは、主人公がはっきりせんということや。一応、物語の進行上、劉備玄徳中心に話が展開して行っとるようにも思うが、絶対的な主人公というわけでもない。

読み進むにつれて様々な登場人物がその場その場で、それぞれ中心人物のように描かれとる。それだけに魅力的な人物が多い。それが、この『三国志』の人気の秘密やろと思う。また、それらの人物もある時は魅力的であったり、違う場面では非難される対象であったりする。

唯一、その登場から死ぬまでの間、魅力的な人物として終始一貫、描かれとるのは諸葛孔明くらいなもんやと思う。

ただ、そのスーパンマン的活躍を見せた諸葛孔明にしても、そのできすぎた能力ゆえに、何でも自分で行うことで自らを酷使して命を縮めたとの皮肉も込められとるがな。

横山光輝氏はこの『三国志』の執筆を1972年から実に15年間かけて完成させた。単行本で全60巻。氏のライフワークとも言える作品や。

『伊賀の影丸』はその10年も前の作品になるが、ワシはこの『三国志』を読んで初めて氏の言わんとした意味が分かったような気がした。

主人公が常に正しいとは限らん。敵側とされる方もそれなりの言い分があり、時としてはそれが正義の場合もあり得る。そう言いたかったのやないかと思う。

作品を書いた時期は『伊賀の影丸』が先で『三国志』の方が後やが、明らかに氏が受けた影響は逆や。それは、氏がすでに子供の頃から、吉川英治氏の『三国志』の熱烈なファンやったということからも分かる。

そして、ワシ自身、この氏の作品を通じ、一方からだけの見方では、物事を正しく知ることは出来んということを教わったような気がした。

それは、立場による見方というものが存在するということや。人の正義というのは、その置かれた立場で違うことがある。自分の正義もあるが、相手の正義もある。しかも、それは必ずしも同じ価値観を伴うとは限らん。

それが、ワシの考え方の基本の一つになっとるというわけや。

少なくとも、営業では、常に相手の立場があるということを念頭に入れとる。そういうことを、子供のころから氏のマンガで自然に教えて貰うたような気がする。

ワシらの子供の頃も、マンガと言えば悪書という概念が大抵の大人にあった。今もそれはあるやろ。その考えがすべて間違いとも言えん。確かに読むに耐えん、下劣なものも中にはある。しかし、それは、そういうものもあるという捉え方が正しい認識やと思う。

そのマンガの中には横山光輝氏のような偉大な漫画家が残した作品が少なくない。ワシ自身はそれで教えられたことが多い。そして、何より面白かった。

たかがマンガ、されど漫画……。ということやないやろか。

さあ、そろそろ時間が来たようや。影丸の『木の葉隠れの術』で雲隠れしたい気分やけど、覚悟を決めなしゃあないやろ。


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