メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話
第45回 新聞拡張員ゲンさんの裏話
発行日 2005.6.17
■親父よ、永久に……。
今度の第3日曜日、6月19日が父の日やと言う。巷のあちこちで、この父の日というフレーズを見るこの時期になると、ワシは、いつも親父のことを思い出す。
親父が死んでもう40年にもなる。ワシがまだ11歳の頃やった。
遙か昔のことやけど、親父のことはいつも鮮明に思い出せる。ただ、単にワシの父親やったというだけやなく、一人の男としても、その生き様、死に様に教えられたことも多い。
ワシには母親の記憶がない。ワシを産んで間もなく産後の肥立ちが悪うて死んだという話や。ワシは長男として産まれたから、兄弟もおらん。一人っ子ということになる。
ワシの覚えとる親父は、お世辞にも立派な人間というには、ほど遠い男やった。いつも喧嘩ばかりしとったというイメージしかない。
その当時、勝新太郎主演の『悪名』という映画が流行ってた。ワシの生まれ育った河内を舞台にした映画や。親父に連れられて良う見に行ったことを覚えとる。
親父が大ファンやったというのは分かってた。ただ、普通、ファンはあこがれるだけで、その姿や格好は真似する者がおっても、その生き方まで真似しようというのは少ない。
しかし、親父は、実生活でも『悪名』での主人公の「八尾の朝吉」になりきっとった。いつも、喧嘩ばかりしてたのもそのせいかも知れん。朝吉ならぬ「ワイは八尾の重吉(シゲキチ)や」というのが決まり文句やったからな。
喧嘩と言うても、子供のそれとは違うから時には命がけやったと思う。特に、その相手はヤクザ者が多かったから余計や。親父自身はヤクザ者でも何でもない。言えば、喧嘩っ早い河内のあぶない兄ちゃんというところや。
親父はヤクザ者が嫌いなようやった。せやから、喧嘩ばっかりしてたんやろうがな。まだ子供やったワシの目の前で、刃物を持ったそのヤクザ者と立ち回りしてたのを何度も見た覚えがある。
そして、そういう時は、ほとんど決まって警察に連れて行かれて説教を食らうてたようやがな。
ただ、そんな親父でも不思議と刑務所に入れられるようなことはなかった。親父曰く「ヤクザ者と喧嘩をして何が悪いんや」「ワイは悪いことなんかしとらんわい」と言うのがいつもの口癖やった。
そんな親父を普通やと思うて育って来た子供が、そう簡単に、ええ子になれるわけがない。ワシも近所では喧嘩ばかりするワルガキとして有名やった。
しかし、ワシも親父と一緒で、弱い者いじめとか力で誰かを抑えつけるようなことはせんかった。むしろ、喧嘩相手は、そういうことをしとる奴らやった。
親父も、ワシが喧嘩することで良う学校にも呼び出されとったが、その理由を聞いて「良うやった。それでこそワイの息子や」と自慢にさえしとったからな。
そうかと言うて、ワシに甘かったのかと言うとそうでもない。親父はワシに対しては厳しかった。勉強の出来、不出来には何も言わん。もっとも、勉強に関しては面倒見きれんかったのかも知れんけどな。
ただ、喧嘩に負けることは、小さい頃から許されんかった。負けて泣かされて帰って来ると外に叩き出され「勝つまで帰えって来んでええ」という具合や。
せやから、ワシも仕方なく、その喧嘩相手の所に何度でも向かって行っとった。家に入れて貰えんのやからしゃあない。
勝つまでそうするわけやから、結果的に喧嘩での負けはなかった。喧嘩の実力でワシ以上の者は何人もおったけど、ワシと喧嘩になるのは皆、嫌がっとったな。
変な話やけど、ワシは子供の頃に、あきらめんへんかったら最後には必ず勝てるということを知った。負けるのは、それを認めてあきらめた時やということもな。
親父が意図してそう教えるためにワシに言うてたのやないとは思うが、結果的に、ワシにその考えが培われたことは事実や。そして、その考え方は、大人になってからも何度も役に立ったと思うてる。
また、親父はワシに何かを教えるというのも、熱心と言えばそうかも知れんが、かなり無茶をしてたと思う。
あれは、確か、ワシがまだ、幼稚園の頃やったと思う。ワシはプールで泳がれへんとベソをかいとった。すると、親父は何を思うたか、ワシを近所の大和川に連れて行った。
大和川というのは、奈良県東部の笠置山地が源流で、大和平野から河内平野を経て大阪湾へ流れとる川や。水量も少なく流れも早くない。
水質は全国の一級河川でワースト1、最悪やと言われとる川や。と言うても、ワシらの子供の頃は、それほど酷い川やとも思わんかった。よどんだ川という感じはあったがな。
親父は、どこから持って来たのか分からんボートにワシを乗せ、大和川の真ん中に連れて来た。板きれを一枚浮かべてワシを川に投げ入れ、それにしがみつけさせて、自分は一人でさっさと岸に帰って行った。
その板きれにしがみついて、岸まで泳いで来いと言う。川幅は30〜40メートル程度の川やったが、幼稚園児のワシにとったら大海のど真ん中に置き去りにされたような気分やった。
スパルタ教育と言うにしては行きすぎとる。今やったら、確実に児童虐待や言うて逮捕されとるのと違うやろか。しかし、そのおかげで泳げるようになった。そら必死やったからな。
親父のすることは、一事が万事、そんな風やった。やってることは無茶苦茶やったが、なぜか結果は良かった。
仕事は定職にはついとらんかった。転々としとったと、後に祖母から聞いた。今で言うたら、フリーターという所か。そこまで『悪名』の朝吉に似とった。違うのは子持ちということくらいや。
もっとも、当の親父には、子供を抱えて頑張らなあかんというような、そんな切羽詰まった気持ちはなかったと思う。せやなかったら、喧嘩三昧はしてられんかったやろからな。
親父のやって来たことを全部は思い出せんが、最後の仕事だけは、はっきりと覚えとる。その仕事の最中に死んだのやからな。
当時、相撲懸賞というのがあった。今でもあるということで、ハカセが調べてくれたが、ワシが覚えとるもんとは少し違う気がする。
今のそれは、年6回,開催される大相撲の取組み勝敗によって争う大相撲懸賞クイズというのがある。自分の選択した力士10人の勝敗により点数を加算し勝ち点の合計点で競い合うゲームやということや。
それを、相撲協会公認のいくつかの専門会社が個別に参加者を募り、参加費用を集めてクイズの的中者に商品を渡す。その募集はネット上でもある。考え方としては、福引きみたいなもんや。
博打性を持たせることで、相撲人気を維持しようということやろと思う。それ自体は、かなり昔から続けられとったことのようや。
少なくとも40年前は、親父はこれに関係する仕事をしとったのやからな。ただ、そのシステムというのは、ワシが覚えとるのとは少し違う気がする。
ワシが覚えとった相撲懸賞は、毎日の取り組み表の対戦別勝者を当てるというものや。幕内力士の対戦相手毎にハンデをつけて勝ち点を決める。
ハンデの付け方はいろいろある。番付によるものや対戦相手同士の直接の勝敗なんかがそうや。そういう、ハンデ師みたいな者がおったと聞いていた。
例えば、横綱と平幕の対戦の場合、横綱の勝ちは1点やが、平幕の勝ちを予想して的中させれば10点という具合や。それを15日間合計した獲得点数の上位者が、商品を受け取れるという仕組みになってた。
ただ、取り組みは前日でないと決まらん。今のようにインターネットもないし、FAXすらなかった時代や。その予想投票の集計は手作業でしか出来んかった。
取り組み表が発表されると、その対戦投票用紙が印刷される。それを、各地域毎の配達人がその投票者に即日配る。投票人はその投票用紙に予想を記入する。
翌日の午前中、それを集めて回る配達人に渡す。配達人はそれを各地域の支部に持って行く。それを15日間続ける。
その集配の仕事を親父はしとった。オートバイでの集配や。今でこそ、バイクでの集配というのは普通のことやが、その当時は少なかった。新聞配達でさえ、自転車か歩きの時代やったからな。
親父は何故かいつも赤いマフラーをして、そのオートバイに乗ってた。子供のワシは、そのちょっと前に流行ってた『少年ジェット』というヒーロー物にあこがれとったから、それと親父の姿がだぶって格好良かったと思うてた。
知る人ぞ知るというヒーローや。今で言うたら、仮面ライダーみたいなもんかな。仮面は被ってなかったけど。もっとも、今の子供やったら、自分の父親がそんな真似してたら、格好ええとは思わんやろけどな。
事故はそんな時に起こった。
後ろから走って来た軽トラックに追突された。それで、転倒して後頭部を打った。ヘルメットは被ってなかった。その当時はまだ、その着用義務もなかったということもあったがな。
軽トラックの運転手はうろたえとったらしいが、親父は自分で起きあがり、オートバイを押しながら病院に行ったと言う。そして、その病院の玄関前で力尽きて倒れた。
その知らせを学校で聞いて、祖母と一緒に急いで病院に行った。その時は、親父にまだ意識はあった。
「ゲン……、ちょっと、来い……」
荒い息で親父がワシを呼んだ。
「ゲン、ええか……、これは事故や。誰も悪気で起こそう思う者はおらん。運ちゃんを……恨んだらあかんで……」
「うん、分かってる。分かってるから早う治しいや」
「そうやな、こんなもん、赤チンぬってたらすぐ治るわな。治ったら相撲見に連れてったるからな……。ちょっと、眠たぁなったから寝るわ……」
それが、親父の最後の言葉やった。それから、3日間、昏睡状態が続いて親父はあっけなく死んだ。
ワシはどうしてもそのことが信じられんかった。ヤクザと喧嘩して体中、傷だらけになっとっても何ともないような顔をしてた人間や。それが、車にぶつけられて倒れたくらいで死ぬはずがない。そう、思うてた。
その日、病院に加害者の運転手が来た。
「申し分けありません……」
消え入るような弱々しい声でそう言うた。まだ、20代くらいの若い男やったと思う。もっとも、子供のワシから見たら立派なおっさんやったがな。
「あんたのせいや。許せへんからな」
そう言うて、祖母が泣きながら、その運転手に食ってかかっとった。祖母にしてみれば、我が子を殺されたという思いが強い。
「おばぁはん、止めときぃや。このおっちゃんを責めても、お父(と)んは喜ばんで」
ワシはそう言うて、祖母を止め、親父の最後の言葉を伝えた。
ワシも、正直、祖母と同じで、この運転者が憎かった。親父の言葉がなかったら、実際にこの後もずっと、恨んどったやろと思う。
それを聞いた運転手が、何を思うたか、その場に土下座した。
「どうも、申し訳ありませんでした。ワシは今日限り、運転手を辞めます。車
の運転も一生しません」
そう言い残して、その運転手は病院を後にした。
その後、その運転手が、本当にそうしたのかどうか、ワシは知らん。まだ、子供やったワシは、そう言われてもその言葉の重さというのが分からんかった。
実際にそれを実行したかどうかは別にして、死亡事故を起こした人間で、被害者の家族に果たしてそこまで言い切れる人間がどれだけおるやろうかと思う。
まして、その運転手は、車に乗ることで生活しとったわけやからな。仕事も辞めると言うてるのと同じや。
今のワシやったら、その言葉の重さは分かるから「そういうことは考えんといてくれ」と言うやろと思う。そういうことをされても親父が喜ぶはずもないしな。懺悔の気持ちがあれば、それで十分や。
慌ただしく葬式が終わり、焼き場に行った時に拾うた親父の骨のことも良う覚えとる。石灰のように白い骨ばかりの中で、後頭部のその部分だけが黒く変色しとった。
いつも親父のことを思い出す度に、最後の言葉とその場面が必ず一緒に浮かぶ。
享年34歳。今のワシより遙かに若い。写真の親父はいつまでも若くて格好ええように見える。それに引き替え、ワシは頭の薄うなった、ただのおっさんや。
人間、若くして死ぬとそれが伝説になることがある。ジェームス・ディーンがそうやったし、エルビス・プレスリーもそうや。日本では、赤木圭一郎というのもおった。
もちろん、そんなスーパースターと同列には扱えんが、少なくともワシにとってはその存在は大きかった。死なれてみるとそれが良う分かる。
日本人は、死んだ者に対して悪く言う者は少ない。その後、誰の口からも、親父のええ話しか、ワシには聞こえて来んかった。
余談やが、葬式の時、なぜかヤクザ連中が大勢来とった。皆、親父の喧嘩相手や。その連中がワシに「ボン、お父はんみたいな男になるんやで。何かあったら、おっちゃんに言いや」と異口同音に言うてた。
後年、何かの本で「敵に認められる人間になれ。それが、本物の人間だ」と書かれたのを見たが、その意味で言えば、親父は本物の男やったということになる。
ただ、認められた相手がヤクザや言うのは、どうかとは思うがな。ワシが、ヤクザを嫌いな理由の一つに、親父が嫌いやったということがある。
しかし、中には、ええ人間も確かにおった。特に、普通の人間の葬式に喧嘩相手やったというだけで焼香に来る者は、皆、それなりの男やったという気がする。
確かに、ワシの親父はその時に死んだ。せやけど、同時に、ワシの中で神格化された親父が棲みついたのも事実や。
何をするにしても、親父やったらこんな時どうしてたかなということや、こんなことしとったら、どやされるのと違うかなと、そういうことばかりが頭に浮かんでたからな。
普通の親子なら、父親に負けまいと挑戦的になるんやろけど、ワシの場合はすでに勝負はついてしもうとる。絶対に親父には勝てんのやからな。ある意味、それも子供としては辛いことやで。
しかし、それと同じくらい、自分の親父を尊敬出来るというのは、ええもんやとも思う。ワシはその親父の息子やと思えることでな。
ただ、人に自慢出来ることかとなるとそうは思えんから、それは良うせんかった。親父は何かを成し遂げたとか、名を残したりしたわけではないし、してたことは喧嘩ばかりやったからな。普通、そういう人間は極道者と呼ばれ、人に後ろ指をさされる。
ワシも、親父の最後のあの言葉を直接、聞かなんだら、果たして尊敬出来てたかどうかは分からん。それでも、親父を好きやったということには変わりはないがな。
親父よ、永久に……。ワシが死ぬまで、あんたのことは忘れることはないやろと思う。