メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話

第67回 新聞拡張員ゲンさんの裏話     

発行日  2005.11.18


■生きるために


先日、葬式に行ってきた。亡くなったのは、ワシが日頃、懇意にして貰うてたハルさんという享年66歳の女性や。

ハルさんはアパートや借家を経営してた、やり手のおばちゃんというタイプの人やった。

このハルさんは、お世辞にも性格のええ人間とは言えなんだ。評判が悪い。ごうつく(強欲)婆さんと陰口を叩かれて、その近所では有名やった。

ワシがあるとき、このハルさんに「顧客を紹介してくれたら、紹介料を払いますよ」と言うて具体的な金額も提示したら、短期間のうちに数十人もの客を集めたことがあった。

それは、紹介というより、勧誘そのものやった。その強引さは、並の拡張員では足下にも及ばんやろと思う。

客は、ほとんどが、ハルさんの経営するアパートや借家の住人たちやった。

従来からの入居者には「あんた、新聞どこ取ってるの?どこも取ってないんやったら、○○新聞読んどき。新聞屋に言うといてあげるから」とか「あんた、△△新聞読んでるの?あかん、あかん。あんな新聞読むんやったら、○○新聞にしとき」と、言葉以上にうむを言わさん口調で強引に口説き落とす。

新規入居者には「うちに入居して貰う人は、○○新聞を取って貰うてるんよ。サービスもええし、頼むわよ」と、さも、それが決まり事のように言う。

ワシらのように、ただ新聞の勧誘というだけで来た人間に対しては、断わろうと思えば、それほど難しいことやない。

せやけど、こういう大家の言うことなら、仕方ないかと大抵は思う。変に揉めるのもどうかと考える。どうせ、新聞はどこかで取ろうかと思うてた人間なら尚更や。

それに、従来からの住人は、このハルさんの性格を良う知っとるから、下手な断り方をすると、居づらくなるというのが分かる。

このハルさんの逆鱗に触れて、そのアパートや借家から追い出された人間は数知れずいとるということや。

このハルさんには、法律はあまり意味がなかった。無法な立ち退きを要求されたということで訴訟を起こした住民がおった。

普通は、こうなれば、その裁判の判決なり、調停で片を付けるのが一般的やが、それがハルさんには通用せん。

「ここは、わたいの家や。さっさと出ていけ、出て行け!!」と四六時中、裁判、調停中にも関わらず、その住居に押しかけて喚く。

相手の弁護士から文句を言われようが、裁判所の調停員から注意をされようが、そんなものはまったく意に介すことはない。

大抵の人間は、揉め事というのは嫌がるもんや。しかし、このハルさんにとっては、そういう揉め事が生き甲斐やないのかとさえ思えるほど、そのことに異常な闘志を燃やす。

せやから、その裁判沙汰にまで持ち込んだ人間も、最後にはギブアップしてあきらめることが多い。わけの分からん人間に法律で対抗したのが間違いやったとなる。

これだけを聞くと、何とえげつないおばちゃんやな思うかも知れんが、住居人にとってはメリットになる場合もある。特に、新聞を購読することを強要された住人にはな。

それは、ハルさんが管理しとるアパートや借家での、しつこい新聞勧誘がまったくと言うてええほどなくなったからや。

○○新聞の勧誘員が来んのは当然やとして、それ以外の勧誘員が来たと分かったら大変や。

すぐさま、その販売店にねじ込む。大抵の販売店も、そのハルさんのことは知ってる所が多いから、謝まらなしゃあないとなる。

本当は、勧誘に行ったくらいで謝る必要はない。当然の営業行為や。せやけど、そんなことを言うても分かる相手やないというのがある。

揉めて得する相手やない。当然のように、ハルさんの所は拡張禁止ということになった。

しかし、そんなハルさんから、ワシは気に入られてたようや。このハルさんは、敵対する人間にはえげつないほどの闘志を見せるが、気に入った人間には徹底して世話をやく。

「ゲンさん、あんさん、まだ独り者なんやてな。そら、あかんわ。わてがええ嫁さん紹介したるさかい」と言うて、どこから持って来るのか、ワシに見合い話を持ち込む。

ワシは、その気はなくても曖昧に返事をする。どうせ、そんな縁談がまとまるはずがないと思うからや。

ワシの仕事が拡張員ということもあるが、それ以上に、ハルさんの紹介というのがきつい。大抵の人間は、表だっての紹介は「結構です」とは言えんだけのことや。

幸いにというか、案の定と言うか、実際に見合いにまで至ることはなかったから、その意味では救われとるがな。

ワシにとって、ハルさんは愛すべき人やった。これは、何も勧誘客を数多く斡旋してくれたからと言うのと違う。

正直、ワシは、今まで、年配のおばちゃんに、これほど親身にして貰うたことはなかった。

ワシの母親は、ワシが生まれてすぐ死んだ。せやから、ワシは母親というものを知らん。もし、母親が生きていたら、こんな感じやったのかと、一瞬やが考えたこともあった。

そのハルさんが、あっけなく死んだ。憎まれっ子、世にはばかると言うが、あれは嘘や。

人は死ぬときには死ぬ。ええ人間も悪い人間もない。そんな当たり前のことが、現実として思い知らされた。

死因は心筋梗塞やという。くしくも、それは、ハカセと同じ病気や。

人が死ぬ原因というのは、世の中に、それこそ腐るほどある。やはり、病気がそのトップやが、他にも、自然災害、事故、事件、あるいはアスベストなどのようなの労働災害の問題もある。

世界に目を向ければ、戦争もあり、テロも存在する。他にも探せばキリがない。

誰も明日、絶対に生きていられるという保証はない。未来は誰にも分からん。人間に限らず、すべての生き物がそうや。生きるということは、いつか死ぬということやからな。

もちろん、ほとんどの人間が、そんないつ死ぬかということなんか考えて、生活しとるわけやない。普通は、現状が長く続くもんやと思うてる。

まあ、ハカセなんかは口癖で良う「私は病気で体が弱いから、いつ死ぬか分からない。明日、死んでも不思議やないから」と言うてるけど、こういうのに限って長生きしよる。

死ぬ死ぬと言う奴で、すぐ死んだ人間をワシは知らん。特に、ハカセみたいなタイプはな。

人からの同情を引くと同時に、この病気ということを武器にしとるのやないかとさえ思うことがある。

例えば、ハカセは子供の通っとる中学校でPTAの役員をしとったんやが、煩わしかったのか、すぐに辞めたと言う。理由は、持病の発作が続いたからということや。

そうなのかと聞くと「面倒になったから、そう言うた」と平気で言う。ええ根性しとる。こんなのが、そう簡単にくたばるわけがない。

本当にくたばる運命やったら、最初に病気が発症したときにハルさんのように死んどるはずや。

担ぎ込まれた病院の集中治療室で、一時は、実際に心臓が停まったと言うことやからな。担当医も半ばあきらめかけたらしい。

そこから、復活して生き返ったという。それから、今年で6年間も、たまに検査入院するくらいで元気にしとる。通院と薬は欠かせんらしいがな。

少なくとも、口は達者や。良う喋る。本人が言わな、おそらく、病気やというのも誰も分からんやろと思う。死に神に見放された人間がそう簡単に死ぬはずがない。

ワシも、ハカセと知り合うまでは、生き死になんかに、それほど興味はなかった。人間死ぬ時は死ぬもんや。考えてもしゃあないことは考えんようにしとったからな。

ただ、最近は歳を食うてきたせいか、後、何年くらい生きられるのかなと漠然とやが考えるようにはなった。

それに、ハルさんに代表されるように、知人や友人の死に接することが増えたせいもあるやろと思う。長く生きるということはそういうことなんやないかな。

それと、何やかや言うても、ハカセのように生死の瀬戸際を経験しとる人間を間近で見とると、それが現実感として伝わる。

ハカセも、ハカセなりに、日々、一生懸命生きようとしとるのが、良う分かるしな。ハカセがポツリと洩らしたことがある。

「ゲンさん、私は朝、目覚めたときは、いつも幸せな気分でいられるんや。ああ、今日もまだ生きているってね」

ワシも、それにつられて自然にそういうことを考えとるからな。悟りというほどのことでもないが、それでワシの行き着いた結論が一つだけ見つかった。

それは「人間は生きられるだけ、生きなあかん」と言うことや。単純と言えば、単純やけど、人間の目的は単に「生きること」やないやろかと、そう思うようになった。

名を残すのもええやろ。事業で成功して金持ちになるのも悪くはない。人のために尽くすのも立派や。指導者になるというのも捨てがたいことやと思う。人に尊敬されるのも更に値打ちがある。

しかし、それが、すべてやない。

好死は悪活にしかず。という教えがある。英雄として格好良く死ぬよりも、ぶざまでもええから生き続ける方が、はるかに値打ちがあるという教えや。

どんなに、みじめな境遇になろうとも、生きている限りは後日を期すことはできる。せやけど、どんなに格好良くても死ねばそれまでや。すべてが終わる。

もちろん、人の生き方は、人それぞれ自由やから、どういう生き方を選ぼうと基本的には構わんと思う。自分の人生は自分だけのものやからな。

但し、ただ一つのルールとして、他人の生きる権利を疎外せんかったらという条件付きやがな。せやけど、最近の事件報道を見とると、命を軽く考えとる人間が増えとるという気がする。

自分の一方的な都合だけで、簡単に人を殺傷する者が後を絶たん。自分が、逆にその立場にさらされたらということは考えへんのかと思う。

僅かでも、その相手のことを考えやる気持ちがあれば、そうすることがいかに不条理なことかというのが良う分かるはずなんやけどな。

己に欲せざる所、人に施すことなかれ。有名な孔子さんの教えや。意味は簡単明瞭。自分がして欲しくないことは、人にもするなということや。

まあ、こういう教えが昔にもあったということは、自己中心的な考えの人間は、何も今の時代特有の現象というわけでもないのかも知れんがな。

そして、いつの時代もそうなのやろと思うが、人の世は生きにくいようになっとるような気がしてならん。

ワシも過去を振り返って、今まで良う生きてこられたなと思う。

死にそうな目に遭うたのは一度や二度では済まんからな。その場は、それなりに必死やったから「生きるとは」ちゅうな悠長なことを考えとる余裕すらなかった。

それが、過ぎ去って「危ないところやったな」と感じるだけや。しかし、ワシはアホやから、それをすぐ忘れる。そして、同じような危険にまた身を置くことになる。

それでも、過去はまだええ。それがどんなに危険なことやったにしても、現在は、こうして生きとるわけやからな。アホな思い出話で済む。

現在、将来の展望が何もないという人間が増えとると聞く。まあ、ワシもどちらかと言うとその口やけどな。

それで、悲観したり、自暴自棄に陥り、あるいは一時の欲望にかられ犯罪に走る人間がおる。せやけど、そうしたからというて、それで満足できるという者は、まずおらん。

大抵は、冷静になってから、刑務所の中なんかで、えらいことをしたと後悔するだけや。

ワシみたいな者が、偉そうに人に言えた義理やないのは十分承知の上やが、何も将来の展望や目標を大きく掲げる必要はないと思う。

もちろん、それがあるに超したことはないが、例え、何もなくても、人は誰でも最低限の目標は持てる。

それは、生きることや。

これは、誰でも、そう思うだけでええ。生きるという確かな目標を持てば、それぞれがどうすればええのか自ずと分かるはずや。

良う「ただ生きとるだけや、つまらんやろ」という者がおる。それは、その人間の人生観やから、別にそれでええが、それはあくまでも、自分で自分なりの目標を見いだせた者の言えることやと思う。

ここで、ワシが言うてるのは、何も希望の持てることがないとしても、悲観する必要はないということや。

人間を含めすべての生き物は、間違いなく生きるためだけに存在しとるはずや。ただ、人間だけが、その生きることに疑問を抱き、悩み苦悩するにすぎん。

窮すれば変じ、変ずれば通ず。という通り、前向きに生きてさえおったら、どんなに苦しい状態になろうと、あるいは、どうにもならんと思えるような場面でも、必ず、その道も見つかり開けるはずや。

これは、実際に奈落の底に落ちた経験のある人間が言うのやから間違いない。人間あきらめんかったら、どうにかなるもんや。

その結果が、あんたは拡張員かと言われても困るが、ワシは、今の自分の境遇をそれほど悲観しとるわけやない。

むしろ、ある意味、誇りにさえ思うことがある。直接、拡張員という仕事を誇れるということやないが、少なくとも、その仕事を続けとったから、今、こうして好きなことが言えるというのがそうや。

それには、ハカセという人間に巡り会えたからやが、それも、この仕事を続けとればこそやと思うてる。

このメルマガで、あるいはHP上で言うてることに、読者の方々から感謝や感動、役に立ったなどというメールを数多く頂いている。

ワシの方こそ、感謝をしたいと思う。つくづく幸せな男やと実感もしとる。正直、ワシの人生で、こういう日が来るというのは想像もしてへんかった。

まあ、読者にしてもそうやろと思う。まさか、一拡張員にしかすぎん人間に、感謝し、感動したとメールすることがあろうとは、夢にも思うてなかったやろしな。

人間、生きとれば、何かええことは必ずある。それが、例えどんな境遇であろうと、何を生業としていようとや。生きるために特別なことは何も必要ない。敢えて言えば、生き続けようとする気持ちをなくさんことやと思う。

人は、ただ生きることにこそ意味がある。意味のない人生なんかは絶対にない。大事なのは、そう信じることやないかな。


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