メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話

第76回 新聞拡張員ゲンさんの裏話     

発行日 2006.1.20


■粉雪の舞う日に


拡張の営業をしとると、たまに、話好きの客と出会うことがある。

ワシも話好きやから、それに付き合う。たいていは、契約に結びつけようと思うてのことやがな。

その中には、少し後ろめたいとか、普通の人間と交わし辛いような話を、ワシらとしたがる者が多い。もっとも、これはワシだけなのかも知れんがな。

同病相憐れむ、のような気持ちがあるのやと思う。「こんな話は、あんたになら分かるやろ」というやつや。

それには、本人が思うほどの話やない場合も確かにあるが、中には、本当に面白いものも少なくない。そういう話を聞けば、それだけで何か得した気分になる。

それでも、ワシにも苦手というか、辛いと思う話がある。それは、競馬に関しての話や。

話好きな客の中には博打好きというのもおる。中でも競馬好きというのが多い。

そういう客にしてみれば、ワシが拡張員ということで、当たり前のように競馬をしとると考えるようや。

確かに、拡張員で競馬好きというのは結構いとる。その競馬に困じて借金を作り、この業界に流れてくる者も珍しいことやないからな。

イメージとしても、博打くらいしとるのは当たり前やろとなる。本当は、真面目で地道な人間も多いのやが、そうは思われんのや。

せやから、その競馬の話も、何のためらいもなく言うてくる。

「ディープインパクト、有馬記念で負けましたなぁ」

最近は、こういう客が多い。

ディープインパクトというのは、去年、無敗で3冠を制した馬や。そして、その有馬記念も誰もが負けるはずはないと思うてたレースやった。

それが、首差とはいえ2着になった。この客も落胆の意味でそう言うてるわけ
や。

普通なら、クラッシックレースでの2着、それも、まだ3歳馬で並み居る古豪馬を相手にやから、健闘を称えられてしかるべきなんやが、それが許されんほど期待されとったということになる。

ワシも、競馬が苦手やと言うても、このディープインパクトのレースは、騒がれたということもあり見たことはある。

確か菊花賞やったと思う。往年のどの名馬と比べても確かに遜色のない勝ちっぷりや。騒がれるだけのことはある。

ただ、その勇姿故に、ワシにとっての辛い記憶も呼び起こされた。競馬が苦手となった出来事や。

ワシは、競馬が苦手やと言うても、したことがないというのやない。むしろ、一時期、徹底してのめり込んだことがあった。まだ、20代の若い頃やったがな。

土日ともなれば、必ずどこかの競馬場におった。というても、ワシは関西人やから、主に仁川の阪神競馬場と淀の京都競馬場やったがな。

夏になれば、仁川、淀も開催してへんから、九州の小倉競馬場まで足を運んだことも何度もあった。東京の東京競馬場、中山競馬場にも行ったことがある。

競馬場へ行くだけやない。滋賀県の栗東トレーニングセンターに、早朝、馬の調教をしとるのを見に行ったことも結構多い。

その当時、現役の騎手や調教師、厩務員とも知り合って懇意にして貰うてた。競馬に関しての情報は相当集めとったな。

また、仕事でどうしても競馬場に行かれんときには、ノミ屋というて主にヤクザの主催する私設馬券を買うてまでしてたもんや。

もちろん、これは違法なことや。このノミ屋のトラブルで何度か警察に引っ張られたこともある。いうても、ワシは、ただの客やから、たいていは参考人や。

これについては、法律違反やとの認識はあったが、悪いことをしとるとは思わんかった。

因みに、この私設馬券の売買が違法なのは日本くらいや。他国では、ブックメーカーというて公式に認められとる所が多い。

ワシにしたら、競馬場に行かれへんから、そのノミ屋で買うわけで同じことなわけや。しかも、ノミ屋は電話1本で買えるし、1割安い。

支払いも1週間後というのが一般的やし、少々の融通は利く。勝った金は、早ければその日曜の夜、遅くとも翌日、持って来る。

ヤクザがやっとるというても、支払いの悪い人間以外、脅すというのは絶対にない。ワシの知る限り紳士的な連中が多かった。腰も極端に低い。

せやから、全国的にも需要が多く、人気も高い。公営競馬の数倍の売り上げがあるという。もちろん、その数字と実態は定かやないがな。

余談やけど、ワシが競馬をやり始めた頃の馬券売り場は、今のように、どこの窓口ででもすべてのレースの馬券が買えるというわけやなかった。

窓口によって馬券が決まっとった。一つの窓口で一つの馬券しか売ってなかった。例えば、1−2という枠連の馬券を買うには、その窓口しかなかったわけや。

せやから、人気の馬券を買うために長蛇の列になることも珍しいことやなかった。

その当時の競馬場は庶民の娯楽というには、ほど遠いような雰囲気の所やった。

胡散臭そうな連中が、そこら中におる。そんな奴らは、人が並んでても、目の前の窓口に金を握ったまま平気で横から手を差し入れてくる。

それも、締め切り間際が壮絶や。自分の番が来ても、目の前には知らんおっさん連中の手が、タコのように何本も絡みながら伸びてくるんやからな。

究極の横取り合戦となる。それが許されるのも、窓口によって売る馬券が決まっとるからやった。買う馬券の種類や枠連は言う必要がないからな。

売り場のおばちゃんも、そんなのは手慣れとるから、握り締めた現金に見合う馬券をその手に握らすだけや。

せやけど、ちゃんと並んどるのに、目の前でそれをやられたら腹が立つ。

ワシは、そういうのが来るなと察知したら、腕を窓口に入れながら、そういう連中の腕を、肘で押さえつけ動けんようにしてたもんや。これには、テクニックと腕力がいる。

相当、痛いはずやけど、そうされても皆、平気な顔をしとったな。顔をにらみつけても、たいていは横を向いて知らんぷりや。それで、文句を言う奴もおらんかった。

腕づくで馬券を買うようなことは当たり前のことやったわけや。それを一々、怒っとったら競馬場には来られんからな。

確か、馬券も100円券と特券と呼ばれてた1000円券しかなかったと記憶しとる。但し100円券は、200円単位でしか買えんかった。

当時は、単勝、複勝、連勝(枠連)だけやった。ワシが買うのは、たいていが連勝や。単勝や複勝を買うのは、金持ちくらいやと思うてた。これは、今もそうなんかも知れんがな。

そんなんやから、給料の大半は競馬につぎ込んどった。

今から、ちょうど28年前の、1978年、1月22日の日曜日、淀の京都競馬場でそれは起きた。

くしくも、明後日の1月22日も日曜日や。偶然やけど、これも何かの因縁のような気もする。その年に、こういう話をしとるというのがな。

その日は、今年ほどやなかったが、冷え込みがきつく粉雪が舞っとった。

例によって、ワシはそのスタンドの最前列、4コーナー付近におった。ここで、競馬を見るのが好きやった。ワシの定位置や。

それには、ゴールを見るまでもなく、大半はここで勝負は決るもんやと思うてたからや。少なくとも、それが分からな通とは言えん。

それに、ここは、騎手の怒号や駆け引きが、間近で見られる絶好のポジションやというのもある。

「こらぁ、ボケェー、どかんかい!!殺(い)てまうでぇ!!」というのが、ほぼ毎回、当たり前のように聞こえてた。

それで、勝利した騎手は、実直そうな好青年よろしく「今日は前が開いて、とてもラッキーだったので助かりました」と、テレビのインタビューなんかに、すました顔でそう言うてたもんや。

笑うで、ほんま。良うもあれだけ、ころっと、人間が変われるもんやといつも感心しとったからな。

まあ、競馬の騎手はスポーツマンと違い、勝負師やから当たり前やがな。また、それくらいでないと勝つのも難しいと思う。

そのメイン競走は『日経新春杯』という重賞レースやったが、当時の超人気馬、テンポイントにとっては、ただの壮行レースという程度のもんやった。

テンポイントはその前年、年度代表馬になった名馬中の名馬や。ワシに限らず、未だにそのファンは多い。

このテンポイントは、単に強いだけやなく、貴公子と形容されていたように栗毛の美しい馬体で、華麗に走るその姿で多くのファンを魅了しとった。

また、額の鮮やかな白い流星模様が、印象的な馬やった。圧倒的な存在感があった。

そして、何より、ドラマを持った馬やった。それには、誰が書いてもそんなストーリーは思いつかんやろというくらいの秀逸な物語や。哀しい物語やがな。

ワシが、最初にテンポイントを見たのは、その2年前の、もみじ賞という3歳の特別レースやった。

噂は聞いていた。関西に久々に大物が出てきたと騒がれとったからな。

デビュー戦の函館での新馬戦の1000mで2着馬に10馬身差をつけるという圧勝やった。タイムも58秒8という、当時では驚異的なコースレコードやった。

このテンポントを一目見て、理屈なく痺れた。その日、パドックを廻っとるときに見た、憂いのこもった大きな瞳は、今も忘れられん。

結局、そのもみじ賞も、9馬身差の圧勝やった。その後、阪神3歳ステークスは、7馬身差で勝ち、さらに、クラッシック目指して東上しても、東京4歳ステークス、スプリングステークスと無敵の快進撃を続けた。

クラッシックの第一関門、皐月賞では、圧倒的な1番人気に支持された。しかし、ここで、テンポイントは初めての負けを経験することになる。2着になった。

その勝った相手が、トウショウボーイというて、これも、後に天馬と称され、同じく名馬中の名馬と評されることになる傑物や。

このトウショウボーイは、テンポントとは、まったく正反対とも言えるタイプの馬やった。

テンポイントは華麗そのもので、トウショウボーイは筋肉隆々タイプやった。

このレース以降、テンポイントとトウショーボーイは宿命のライバルとなる。未だに、当時からのファンの間では、どちらが強かったかという舌戦が繰り広げられとるというくらいやからな。

さらに、その秋の菊花賞からは、グリーングラスという、これも後に名馬と呼ばれる馬が、その2頭に割って入って、TTGと呼ばれる3強時代が訪れる。

ワシは、ひいき目やなしに、この時代が、日本競馬の最強時代やなかったのかと、今でもそう思うてる。

確かに、その後、無敗で3冠となったシンボリルドルフや現在のデープインパクトのような傑出した馬は出とる。

しかし、それらと匹敵する馬同士が、同時期に集中したのは、この時代くらいやなかったのかと思う。

ワシが、この馬たちが最強時代やと言い切るには、もちろん、それなりの理由がある。

一つは、この3頭が同時に出走したレースは、すべてで、1位〜3位までを独占しとるというのがある。

他の馬の入り込む余地がなかったわけや。そして、こういうケースは、ワシの知る限り他にはないはずや。

ただ、その強さを比較した場合、グリーングラスが一段下に見られてたというのはある。菊花賞では、その両馬に先着しとるのにな。

テンポイントとトウショウボーイは、公平に見て甲乙付け難いと思う。敢えて言えば、4歳時はトウショーボーイ、5歳時になってテンポントが勝ってたというところやろ。

それを裏付けるものとして、トウショウボーイが4歳のとき年度代表馬に、テンポイントが5歳で年度代表馬になったというのがある。

さらに言えば、そのテンポイント、トウショウボーイが表舞台から退場した後、グリーングラスは6歳で年度代表馬になっとる。

このレベルは、やはり尋常やない。ワシの最強時代やったと言う意味が分かって貰えるのやないかと思う。

5歳暮れの有馬記念で、トウショウボーイとの勝負に勝ち、名実共に日本一となり、年度代表馬となったテンポイントは、次のステップを目論んでいた。

それは、海外遠征やった。その時代は、まだ、ジャパンカップもなく、世界の一流馬と競うには、欧米に渡るしかなかった。

その頃の日本競馬のレベルは低く、欧米と比べて格段の差があるとされていた。テンポイトは、そのレベルを覆す馬として期待されたわけや。

日経新春杯は、そのための壮行レースになるはずやった。単なるウォーミングアップや。

他も一流のオープン馬が出走はしとる。とはいうても、普通に走らせたんでは、テンポイントとは勝負にならん。

競馬の理想は、ゴールは横一線になるようにということや。実力差をハンデで埋める。どの馬にも勝つチャンス与えるという原則がある。

クラッシック以外の重賞レースには、その原則に基づいてハンデがつく。そのハンデというのは、背負う重量で決められる。

重い物を背負うほど、走りにくくスピードが鈍るという理屈や。

そして、このレースでは、テンポイントは、66.5sという酷量を背負わされることになる。

他の馬が、重くても56sで軽いのになると50sというのもおったから、いかに厳しいハンデやったか分かるというもんや。

それでも、誰もテンポイントが負けるとは夢にも考えんかった。ワシもそうや。

普通に練習がてらに走るだけで、間違いなく勝つと思うてた。当然のように、1番人気にも支持されてた。

レースは予想通り、テンポイントは、いつものように首を下げ、流れるような華麗なフォームで先頭を悠然と走っとった。誰もが、そのまま圧勝することを確信してた。

ところが、4コーナー手前、その悪夢がワシの目の前で起こった。

突然、失速してずるずると後退した。おかしいと気づいたときには、すでにテンポイントはその場で立ち止まり左の後ろ足を上げとった。

「医者や!!獣医を呼べ!!」

ワシは、興奮してそれだけを何度も喚いていた。

そのワシの声に反応したのかどうかは分からんが、テンポイントは、チラリとこちらに視線を向けた。そして、悲しそうに呻いとった。

左第3中足イ開骨折及び第1指骨複骨折。正式な診断結果や。

普通、競走馬がこういう骨折事故を起こせば、薬物注射で即座に安楽死処分となる。

しかし、不世出とも言えるテンポイントをそうするのは偲びんという多くのファンの声と競馬界全体の意向が働き、延命に向けて一大プロジェクトチームが組まれた。

競走馬が骨折をすると簡単に薬殺処分したという発表に、何も知らん者は非難の目を向ける。

走らせるだけ走らせて、金を稼げんようになったら即、殺すのか、タカが足の骨折やないのかと言うてな。

馬とか牛のような大型の動物にとって、足の骨折というのは、それだけで命取りになる。自然界でも、それで生き長らえることは、まず無理や。

理由は、馬は1本でも骨折すると、当然ながら、残り3本の足にその全体重がかかる。サラブレッドは軽くても420sから重いのになると550sほどになる。

骨折した足が治るまでに、残り3本の足がその負担でやられる。多くは、蹄葉炎(ていようえん)というて、蹄が割れ炎症を引き起こす状態になるためや。こうなるとどうしょうもない。歩行不能になる。

結局、助からんのなら、早い段階に苦しませずに薬物注射で安楽死させた方がええとなるわけや。

それでも、テンポイントの場合は、敢えて、やれるだけのことをして助けようということになった。

おそらく、この試みは、後にも先にも、このテンポイントだけやなかったかと思う。

翌日、33人もの医師が立ち会う空前の大手術が行われた。

手術は成功した。その報道が、すべての新聞の一面で報道された。ワシは、そのとき、泣きながら喜んだのを覚えとる。

実は、テンポイントにとって本当のケガとの戦いはこの後からやった。もちろん、そんなことは、ワシには分からんかった。

ワシらは、新聞の報道だけが頼りやった。

吊起帯と呼ばれるネットでテンポイントの体をつり上げ、少しでも足に負担をかけんようにしとるとか、24時間体制で付きっきりの看病をしとるという情報が、それにはあった。

今、ワシが拡張員をしとるからと言うのやないが、その当時は、新聞はかけがえのない情報源やったわけや。

2月12日の新聞報道により、担当主任医師から「もう大丈夫、生きる見通しが強くなった」と発言したことで、誰もが安堵した。

しかし、それは、一時的なことでしかなかった。それから、症状は徐々に悪化し、ついにおそれていた蹄葉炎が発症した。

そして、3月5日、午前8時40分。テンポントは静かに息を引き取ったという。

これも、おそらく、競走馬としては初めてやと思うが、栗東トレーニングセンターで、盛大な告別式が行われた。

もちろん、ワシもそこに行った。そして、その霊前で「もう競馬は止めた。お前の命を奪った競馬も金輪際見ん」と誓いを立てた。

これは、それまで考えてたことやなしに、その場での衝動的な思いつきからやった。

それから、実際にほとんど競馬には手を出してない。もっとも、まったくということやないけどな。つき合い程度で馬券は買うたことはある。

ただ、馬券を買ても、そのレースも見ることはなかった。というより、それから以降、ワシは競馬を見るとどうしてもテンポイントを思い出してしまうんや。

せやから、その気になれん。あれほど競馬にのめり込んどったのが、本当に嘘のようやと思う。

正直言うて、その当時ですら、それは一時的なものやろと自分の中でも考えとった。時間が経てば、また、どこかの競馬場には行ってるやろなと。

博打をやっとる人間で「もう止めた。もう金輪際、博打はせん」と考える程度のことは、何ぼでもある。

ワシもそれまでに数え切れんほどあった。たいていは、大負けしたときや。

あるときなんか、淀の京都競馬場まで行って、帰りの電車賃くらいはと残しとった金も、最終レースに「ええい、男の子や。いてまえ!!」とつぎ込んで見事に負けて、仕方なく歩いて帰ったことがある。

その当時、ワシは大阪の八尾という所におった。そこから、京都競馬場までは、JR環状線、京阪電車と乗り継いでも小1時間ほどかかる。それを歩いた。

ふらふらになって歩いて帰る道中は、後悔の念と自分のふがいなさ、運の悪さを嘆くだけしかなかった。もう、二度と競馬なんかやるもんかと思うたもんや。

しかし、これでも、まだましな方や。持ってる金がなくなるだけで済むからな。

最悪なのはノミ屋で負けたときや。ノミ屋で買うのも、持ってる金だけなら何の問題もないが、ここは、電話1本の後払いやから、すぐには現金がいらん。

実は、これが落とし穴になる。例えば、途中までで、合計10000円負けとるとする。

競馬場で、持ってる金だけでやってる分なら、負けてなくなったもんはしゃあないとあきらめやすい。

せやけど、まだ払うてないものは、取り返そうと思う。なるべくなら払いたくない。

10000円を取り返すには、それに見合う賭方をする。例えば、配当が300円の本命やったとしたら、その1点に5000円以上、買わんと元が取れん。

それが外れると、次は15000円の負けを取り返さなあかんと思い込む。同じようにして、その負けを取り返すために、どんどん金額が増えるわけや。

その支払いが困難な額になればなるほど、熱くなってしまう。何とかしようと焦る。せやけど、こんな状態で勝てることはまずない。

気が付けば、借金をせな支払えんほどの負けになっとることも多い。そして、ここで、あきらめれば、まだ救われるが、次には、その借金分も勝とうとして、さらに深みに嵌る。

ついには、その借金も普通に働いとるくらいでは、返せんような金額になる。ノミ屋も、その付き合いの度合いにもよるが、少々の融通も利かすし、待つこともある。

しかし、最終的には、借金する所もなくなりノミ屋にも払えんようになる。ノミ屋がヤクザなのは百も承知やから、踏み倒すわけにもいかん。

家や財産を持っとる者は、それを売るしかない。それがない者は、逃げることを考える。

実際、それが元で、拡張員にまで流れてくる者もおる。そういうのは、何人も見てきた。

それでも、博打を止める人間は少ない。どんな境遇になっても、どこに行ってもする。

それで、どれだけ後悔していたとしてもや。博打の後悔ほどあてにならんものはない。

博打をする者は、誰も負けるとは思うてない。負けることがあるかも知れんと考えるだけや。

そして、その考えに倍する思いで、勝つと信じとる。人は、博打は負けたときのことは比較的簡単に忘れるが、勝ったときのことは、いつまでもしつこく覚えとるもんや。

その記憶に頼って一発逆転を信じる。一発逆転だけを神頼みのように願う者で、その通りになることはまずない。さらに、深みに嵌るだけや。

それが、分かっとっても、なかなか抜け出すことができん。それが、博打の怖さや。アリ地獄に似とる。

ワシは、その競馬をする気がなくなった。一匹の馬のために、レースを見るのも辛くなった。そして、それは考えてたように一時的なものやなかったわけや。

28年経った、今でもそうやからな。あのテンポイントの事故は、ワシには悪夢やったが、結果として、嵌りかけた博打からは救われたことになる。

もっとも、その救われた結果が、拡張員をしとるのかと言われても困るがな。


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