メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話
第8回 新聞拡張員ゲンさんの裏話
発行日 2004.10.8
■ 腹の探り合い
休みの日に、極希に新聞の勧誘に拡張員が来る事がある。ワシが拡張員やと いうことを何も知らんと来る新米か、知って来るベテランのどちらかや。
つい、先日も来た。 ワシらの休みは、拡張団毎に違う。拡張員の定休日ちゅうなもんはない。世間並みの週休2日なんかある拡張団はまずない。月休3、4日くらいが普通
や。
年間300日は仕事する。 団は拡張員に休みを与える必要はない。日給を払うわけやないからな。働か
さな損やと考えとる。
拡張員のほぼ全員が休みになるとしたら、この前みた いな台風の時くらいなもんや。しかし、これは代休になるだけで、休みが増
えるわけやない。 せやからと言うて、過酷な仕事やと思うてくれんでもええ。
ほとんどの拡張 員は、毎日が休みみたいなもんやからな。仕事しても、多い日で、3,4時
間くらいなもんや。 普通の仕事は、仕事と仕事の間に休憩が入るが、ワシらは、休憩と休憩の間
に仕事しとる。
もっとも、営業の仕事は短時間であっても、精神的疲労はか なりきついから、朝から晩まで仕事をしとったら持たんということもあるがな。
そんなんで、当然、他の新聞拡張団と休みも違うから、拡張員の訪問を受け るということが、希にあるわけや。
ワシら拡張員のほとんどは、団が借りてるアパートやマンションに住んどる。
中には、アパートごとマンションごと拡張員が住んどるということも珍しい ことやない。
そんな、ワシらの住んどるアパート、マンションを通称『拡張ハウス』と呼 んどる。ムネオハウスとは違うで。ちょっと、古いか。
そんな所やから、他の新聞拡張団や販売所がそのことを知らんはずはまずな い。ワシらも仕事する地域内なら、どの新聞のどの団がどの地域にどんな場
所に住どるかくらいは全部把握しとるからな。
せやから、ワシらの所に来る拡張員は、承知の上で何かの狙いか意図を持っ た者か、全く右も左も分からん新米が、叩き(訪問)続けて流れて来た結果、
ワシらの所やったというケースかのどちらかや。
普通、ワシらの所は他の新聞販売店では、間違いなく拡禁(拡張禁止)にな っとるから、ちょっと、拡域地図(拡張販売範囲地域地図の略)を確認した
ら分かりそうなもんやけど、新米にはそんな余裕のある者は少ない。
それに、夜ともなれば、その地図も見にくいし、住所の特定もし辛いからな。
しかし、その新米にとったら災難や。たまたま、その時、アパートやマンシ ョンに拡張員が大勢おったら、当然のように、よってたかっていびられるか
らな。
せやけど、拡張員を志したんなら、この程度のことはざらにあると覚悟しと かなあかん。幾多の修羅場を乗り越えな、ワシみたいな拡張員にはなれん。
もっとも、ワシみたいな拡張員になっても誰も尊敬はしてくれんし、自慢も 出来ん。苦労の割には報われん典型的な職業やけどな。
ワシの正体を承知で来る拡張員は、一癖二癖どころか十癖ほどもあるような 煮ても焼いても食えん奴ばっかりや。
今回の奴も例に漏れずそうやった。
「こんばんは、新聞屋です」 歯切れのええ声がした。
「何や」 ワシは、わざと面倒臭そうにドアを開ける。
ここで、ワシは、いつも拡張員 相手には、一般人として対応をする。その先は、相手を見てから考える。
「A新聞なんですが、サービスしますので取ってくれませんか」 その拡張員は、にこやかな笑顔で単刀直入にそう言うた。
新米の駆け出しは 大抵こんな感じや。如何にも、まだ、経験の浅い気の良さそうな年輩の男のように見せとる。
しかし、ワシには通用せん。一見してすぐそれと分かる。ベテランや。それ も相当の狸や。まだ、駆け出しやと見せることで自分以下の人間やと、ワシ
に思わせようとしとる。
せやけど、この男は自分のミスに気がついとらん。それは、真っ直ぐワシの 部屋に来たことや。
このアパートには、団の人間が他に4人おる。今も確か おるはずや。その内のどこにも寄らずワシの部屋に来とる。他の奴の所に先
に行けば、すぐ騒ぎ出すから分かる。
それに、今日が偶然とも思えん。休みと知って来とる。もっとも、相手の拡張員の休みの日なんか調べるのはわけないがな。
拡張団の事務所に客を装うて 電話をすればすぐ分かる。事務所は日曜以外やってるからな。
この拡張員の狙いはワシやろ。ワシの存在を知って、何かを探るつもりやろ うと思う。駆け出しの素人を装うてるのは、恐らくワシを値踏みしとるのか
試してるのやろ。
そうやとすると、ワシが、ここで「拡張員や」と言えば底の浅い奴やと思う かも知れん。与し易い相手と考え、自分のペースに引き込めると計算するは
ずや。
「ワシも拡張員やで」 ワシは、敢えてその注文に乗ることにした。
相手の意図が読めてそれを暴くというのは、相手が思慮の足らんアホなら、 核心をつかれて焦るやろうから、それなりに効果的やが、こういう狸には
用心させるだけやし、意図が分からず仕舞いになるから得策やない。
相手が切れる人間やと分かって、それに対抗しようと意気込むようでは、 相手の上を行くことは出来ん。上を行くつもりなら、敢えてアホを演じる
ことや。
自分を切れる賢い人間やと自惚れとる奴は、アホやと思うた者を馬鹿にす る癖がある。相手を見下すか馬鹿にしたら必ず隙が出来るもんや。そうい
うタイプの弱点やな。本当の知恵者はそこをつく。
「えっ、そうなんですか。知りませんでした」 男は、いけしゃあしゃあと言う。
本当に、この男が、何も知らず間違うて来 たのなら、これですぐ帰る。 しかし、男に帰る素振りはない。それで、すべてが読み通りやと分かる。
「どちらの新聞?」 どうやら、ワシが相手しとる男は、並大抵の人間やなさそうや。とぼけ方
も自然や。
「Y新聞や」 しゃあないから、ワシもしばらく付き合うことにした。それに、久しぶり
に緊張した会話が楽しめそうやからな。
「どないですか、カード上がりますか」
「あかん、さっぱりや。ここのYでは飯が食えん。どこか、他を探さなあ かんかも知れん」
ワシは、そう言うて男に水を向けた。
この業界は、隠れた所で結構、引き 抜きがある。この男の目的がそれなら、食いついてくる。
「こっちも一緒ですわ。どこともC紙ばっかりで、どうにもなりません」 なかなか、乗って来ん。
「同感やな」
「失礼やけど、お名前は?僕はウエダと言います」
「ワシは、皆からゲンと言われとる」
「ゲンさんですか、ゲンさんは相当、カードを上げられるんでしょうね。 最初にお会いした時から、お宅には、何かオーラのようなものが感じらて
圧倒されそうですから」
何や、今度は、よいしょ作戦か。本当に煮ても焼いても食えん奴やな。ど うでも、こっちの底を見ようちゅう魂胆やな。
「そんなおだてても、何も出んで。それに、ワシらでは拡禁でカードにも ならんやろ」
「あれっ、そうなんや。知らんかったなぁ」
白々しいと言えば、そうやけど、こいつは人間的には、ええ奴なのかなと 思わせる雰囲気がある。少なくとも悪党やないやろ。狸には違いないがな。
それから、しばらく取り止めのない、不毛な会話の後、ウエダと名乗った 拡張員は帰って行った。
ふうっ。傍目には何やと言う程度のことやが、ワシは疲れた。多寡が腹の 探り合いや言うても、ワシにとっては息の抜けん緊張感かあった。そう思
わせる相手や。
例えて言えば、二人の剣豪が対峙して、お互いの攻撃を想定しながら、相手 に勝機を見出すことが出来ずに、そのまま分かれたというところや。ちょっと、
格好良すぎるかな。
結局、このウエダという男の目的は分からず仕舞いやった。しかし、また必ず
来る。ワシには分かる。ウエダにとっては、今日はただの顔見せのつもりやろ。
次は、その正体と狙いを暴く。拡張員でもランクはいろいろやからな。ワシの
目に狂いがなかったら幹部級の奴のはずや。
今回の、痛み分けはワシの負けや。相手はワシのことを知っとるようやけど、
ワシの方は何も分からんかったからな。
もっとも、あのウエダという拡張員も、訪問の狙いは達成されとらんから、向
こうも思惑外れやったはずや。
それでも、途中で狙いを隠して悟られんように するいうのも大したもんやけどな。
せやけど、これが、ワシの思い過ごしやったとしたら笑うで。
まあ、それはな いやろがな。 しかし、世の中は、おもろいな。いろんな奴がおる。