メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話
第80回 新聞拡張員ゲンさんの裏話
発行日 2006.2.17
■専拡エレジー 後編
「マタやん、この3日で4軒の解約ということは、後1軒はそのままなんやな」
6件の不配やったが、内1軒は、マタやん所の2度やから、抜き取られとるのは、5軒ということになる。
「ええ。残りの1軒は、まだ、解約とは言うてませんけど……」
「そこが、やられたのは、いつのことや」
「今朝です」
「そこに行ったのは、誰や?」
不配の電話があって、謝りに行った人間のことや。
「確か、大山(仮名)さんです。大山さんの区域なんで。呼んで来ましょうか」
「ああ、頼む」
大山というのは、4人の専業の内の一人や。歳は30すぎで、痩せた陰気な感じに見える。いかにも、不健康そうな雰囲気を漂わせる男や。
「何か?」
事務所の奥の部屋から、その大山が現れた。
「今日の不配の件やが」
「俺は、ちゃんと入れたんやけどな」
それを咎められるとでも思うたのか、すぐ、言い訳を始めた。
こら、あかんなと思うた。こんなんやと、客の所に謝りに行っても言い訳しかしとらんと思う。
こういう、不配のあったときは、その理由はどうあれ、客は気分を害しとるはずやから、ただ、ひたすら謝るということに徹しなあかん。
ワシらのような根っからの営業員か、店の責任者なら、そうするのが当然やと考える。
中には、気の利いた従業員もそうすることがあるが、それをこの男に期待するのは無理やろなと思える。
配達員には、不配もたまには仕方がないという思いがある。不配はやろうとしてしたことやないからというのがその口実になる。
それに、こうして、サービスも付けてすぐ新聞を持って来とるのやから、問題ないやろと考える。
ワシが、客の立場で、この大山みたいな男が来たとしたら、間違いなく怒って追い返したやろと思う。
客にとって、どんな事情があろうと関係ない。その日、新聞が入ってないという事実が重要なわけや。
それを、満足に謝りもせず、言い訳を始められたら誰でも怒る。怒り出さんとしても確実に気分を害する。
しかし、大山にしてみれば、本当に入れ忘れたつもりやないと思い込んどったら、客がどうであろうと、自分の正当性を主張するのが当たり前やと考える。
まして、今回のことは、他の人間も多発しとるということもあり、店内でもヌキ取りやないかと噂しとったから、よけいや。
これは、あくまでも、一般論やが、客あしらいのええ専業というのは少ない。黙々と言われたことを守り、自分の範囲の仕事だけをこなすというタイプの人間がほとんどや。
それは、それでええのやが、こういう場合は、一番に店のことを考えなあかん。
例え、客にどんなに罵倒されようが、我慢せなあかん。
せやけど、大山のようなタイプにはそれができん。客の怒り方、言い方次第では反抗的な態度を示す者もおる。
俗に言う逆切れというやつや。何で、そこまで言われなあかんねんと思う。
実は、一般客から、新聞屋の態度が悪いという苦情の多くは、こういうところにある。
客を客とも思うてない態度やとなる。大山は、大山で何様のつもりやとなる。
そこで、ぶつかり合えば、そのイメージは最悪になるということや。
「それは、分かっとるから、ええ。それより、客はどうやった?」
「そんなに、怒ったようには思わんかったな。ゴミ袋を渡したら、そこの奥さん、黙って受け取ってたから」
「そうか……。分かった」
ワシが「分かった」と言うたのは、大山の言い分が分かったということやない。これ以上、話を聞いても無駄やという意味や。
「マタやん。その客のデータを教えてくれんか」
「いいですよ。大山さんの所は8区やから……」
そう言いながら、パソコンの顧客データを調べ始めた。
余談やが、今でこそ、ハカセのおかげで、パソコンも、ちょっとくらいは扱えるようになったが、この頃は、チンプンカンプンでさっぱりやった。
もともと、機械オンチやったからよけいや。それに、データの記録ということなら、手帳で十分やと思うてたからな。その考えは今も変わらん。
「あれ?ゲンさん、進藤さんて知ってます?」
「進藤……て、N台のか?」
「ええ」
そのパソコンの画面を覗き込むと、契約担当者の覧にワシの名前があった。
その進藤という客のことなら、良う覚えとる。台風で吹き飛ばされたカレージの波板を交換したことで、気に入れられて、S紙を購読して貰うたという経緯がある。
それには、ワシは、この拡張員をする前は、住宅リフォームの小さな会社を経営していて、職人として、そういうこともしてたから、得意やったということもあった。
意図してそうしたわけやない。困っとる人間を見ると放っておけずに、つい手を貸した。性分やな。それがきっかけでカードになった。
この辺りには、その手の客が結構いとる。
「ワシは、今から、その進藤さんの所へ行って来る」
そこへ、大山が、さっきのような態度で行ったというのはまずい。
その進藤という客は、長年、A紙を購読してたんやが、ワシを気に入ってくれたというだけで、S紙に乗り換えてくれた。
ヌキ取りが、本当に亀山の仕業なら、元のA紙に戻そうと画策するはずや。
今日にでもそこに勧誘に行くと考えられる。そして、あの大山の対応やと、簡単にそうなる可能性が高い。
今回のことは、どこか半分、他人事のようなところもあったが、これで、本腰を入れることにした。
ワシも拡張員や。自分の顧客が狙われたとあっては、放ってはおけんからな。
「あら、ゲンさん、お久しぶりね」
「どうも、ご無沙汰しています。今朝は、うちの人間が新聞の入れ忘れをして
いたようで、どうもすみませんでした」
「それなら、今朝、すぐにいらしたわよ」
「何か失礼なことは言ってませんでしたか」
「そうね、そう言えば、確か、誰かに新聞を取られたんじゃないかとか言ってたわね」
「やはり。実は、そのことを本人から聞いて、それで、こうして来たわけなんです。今回のことは、配達のミスなんで、言い訳がましいようなことを言って申し訳ありませんでした。二度とこういうことのないようにしますので……」
と、言いながら、ワシは買ってきた菓子折を奥さんに手渡した。
こういう場合は、なるべく、こちらの非を認めて、次回は絶対しませんという姿勢を示した方がええ。下手な言い訳はマイナスにしかならん。
「ゲンさん、そんな気を遣わないでください。さきほど、サービスのゴミ袋を貰いましたし。次から、気を付けて頂ければいいことですから」
菓子折の受け取りに、消極的な姿勢を見せとったが、無理にという感じでそれを置いてきた。
こうしておけば、奥さんはもちろんやが、帰宅したご主人も、ワシのことを思い出すはずやから、今日、例え、亀山が勧誘に来たとしても、それで、すぐには心変わりせんはずや。
但し、二度目はまずい。そして、断られれば、その二度目を狙うと踏んだ。その現場を押さえる。
実は、前回、前編の最後で、ワシが言うてたのはこれや。マタやんが2度、ヌキ取られたことで、これを思いついた。
そこも、一度目は客に断られたはずや。せやから、2度目を狙うた。このことが、なかったら、現場を押さえるには、まだ時間がかかったかも知れん。
進藤家の近くで網を張る。もちろん、やって来る時間は分からん。夜中の午前3時から午前5時くらいの間やろとは推測できるがな。
午前3時というのは、大山が進藤家に新聞を配達する時間や。午前5時には明るくなり始める。やる方としては、まだ暗いうちの人通りのないときを狙う。
そして、狙いはその進藤家だけやなく、他でも同じことをするつもりのはずやから、それ以上の時間の決めつけは難しい。
待つのは、この場合、乗用車の中の方がええ。その時刻、外をうろうろしとったら、来る者も来んようになるからな。
停める位置も当然考える。ちょうど、そのすぐ近くに公園があり、その周りに路上駐車が多かった。そこに、乗用車を紛れ込ませて待機する。
ワシは、午前1時に起きてその場所に行った。停めた位置も、近からず遠からずで、なかなかええポジションや。
待つこと2時間足らず。正確には、3時10分頃、大山が新聞を入れて1,2分してからや。そのとき、いきなり、進藤家の門扉の近くで人影が動いた。
ワシは、てっきり、単車か車で来るもんやと思うてた。せやから、エンジン音に注意しとったのやが、やっこさんは自転車で音もなく現れた。
どうやら、この現場にやって来たのは、大山が配達する以前やったようや。どこかで、それを待っていたことになる。
ワシの目は、門扉の郵便受けに集中しとったから、その新聞がヌキ取られたのは、はっきりと確認できた。
ワシは、エンジンをかけ、その自転車の動きを確認しながら、ゆっくりと発進させた。
ライトを点灯させる。そして、静かに自転車の隣で止めた。自転車も止まる。
「カメさん、ちょっと、横に乗ってくれへんか」
ワシは、ちょっと、笑みを浮かべ、いつもの調子で気安くそう声をかけた。
こういう場合、その現場を押さえたからというて、勝ち誇ったように恫喝するような真似をしたらあかん。
「おい、こら」というような声をかけると、相手は気が動転して、どういう行動に出るか分からんからな。
そのためには、声をかけるのも細心の注意がいる。ワシは、客以外で心やすくなると、なるべく相手を愛称で呼ぶようにしとる。こうすると、相手も身構えることが少なくなる。
「ゲンさん……」
亀山は、観念したように、自転車を停め、車の助手席に座った。
「カメさんともあろう人が、何でこんなアホな真似を……」
実際、状況からは怪しいとは思うたが、この亀山というのは、そういうことをする人間には思えんかったからな。
事実、亀山を知って半年ほどになるが、それまで、こういうことは起きてなかった。以前はどうか知らんが、ここでは、こういうのは初めてのはずや。
「すんません。オレは警察行きなんやろか」
「心配せんでも、このことはワシしか知らん。悪いようには、せんから理由を
教えて貰えんか」
亀山は、その言葉に少し安心したのか、話始めた。
亀山が、A紙の専拡になったのは半年前。A紙に限らず、この辺りで専拡になるのを拡張員なら望んどるということがあった。
それには、この辺りの客層がええから、他より稼げるということがあった。当初は、実際に亀山も稼げた。
しかし、2ヶ月ほど前から、成績が思うように伸びんようになった。すると、とたんに、専拡の交代を示唆されるようになった。
この業界は、こういうことは本当に厳しい。以前いくらカードを上げていようと、ちょっと、成績が落ち込むとその評価は一気に下がる。
これが、団内でのことやったら、それほどでもないが、専拡という特殊なポジションにいとると、そういう風当たりは特にきつい。
「娘が結婚するんです……」
亀山が、ポツリとそう洩らした。娘さんは今年20歳やという。亀山も外見は歳食っとるように見えるが、その当時、まだ41歳やった。ワシより2つ若い。
その娘さんは、別れた奥さんと二人暮らしをしとるらしい。
「オレは、若い頃から、嫁さんと娘には苦労ばっかりかけてきた。親らしいことは何もせんかった。せやから、せめて、娘の結婚式くらいは、ちゃんとしてやりたかったんや」
そのためには、短期間の内に金を稼がなあかん。それには、今のこの専拡の地位を逐われるわけにはいかんかった。その焦りがそうさせたと言う。
「例え、どんな理由があっても、こんなことをしたらあかんがな」
ワシには、そう言うしかない。掟破りは、どんな事情があろうと正当化されることやない。したらあかんことは、あかん。
「それは良う分かってる。ゲンさん、勝手なことを言うようやけど、1ヶ月後に娘の結婚式があるんや。それまで、このことは内緒にして貰えんやろか」
これが、公になったら、かなりな大問題になる。被害にあった販売店が訴えたら、警察沙汰になりかねん。
例え、新聞やからというても窃盗になる。それで、契約を潰されとるわけやから、販売店が黙っとるとも思えん。
団も、こういうことは、庇いきれん。下手に庇えば、団の立場も危うくする。
警察に突き出されて捕まれば、結婚式どころやなくなる。父親がそういう事件を起こしたと知られれば、破談になりかねん。
後生やから、それだけは避けてほしいと、亀山は哀願してきた。
「それで、そのヌキ取りやが、いつから始めて何件くらいやったんや」
「1週間ほど前からで、20件ほどかな……」
「その内、カードになったのは?」
「全部で15件……」
すべて1年契約やという。亀山曰く、この間、正規の拡張でも40件カードを上げとるらしい。1週間で55件なら、そこの所長も喜ぶはずや。
「それにしても、この1週間で40本も上がっとるのやったら、何もヌキ取りまですることはないやないか」
「それが、それをやりだして急に上がり出したんや。オレもヌキ取りしたから、上がり出した。そう思い込んどったから、止めらんかったんや」
それは、考えられんこともない。亀山は、必死になってたんやろ。その必死さが好成績に繋がってたとは考えんかったことになる。
拡張は、精神的な影響の大きい仕事や。気持ちが高揚すれば、カードを上げることに集中する。そういうときは、ときとして、その人間の力以上のものが発揮されやすい。
ただ、亀山の場合は、それがエスカレートする余り、ヌキ取りという邪道に踏み込んだというわけや。そこから、抜ける考えが浮かばんかった。
そして、今は、強烈にそれを後悔しとる。哀しいかな人間は、それがバレて、初めてアホなことをしたと反省する。たいていの場合、それではもう遅い。
「カメさん。あんた、もう二度とせんと約束できるか?」
「と言うと……」
「ああ」
「見逃してくれるのか。おおきに、おおきに」
ワシも、人間がまだまだ甘いのかも知れん。しかし、ワシの弱点かも知れんが、子供のことを出されると、つい庇いたくなる。
己の私利私欲でしたことなら、そんな情けをかけるつもりもないが、そういうのには、本当に弱い。ワシ自身も似たようなもんやと考えてしまう。
幸い、このことは、マタやん以外、誰も感づいてはおらん。噂にはなっとるが、今なら、それが止めば発覚はしにくい。
それに、ワシの狙いも、最初からそれを暴くことより、止めさせることやったから目的は達せられる。
それには、例えこのことを公にしても、マイナス面が多すぎるということがあるからや。
まず、客にこのことを説明しても、分かったと理解を示すことはほとんどない。
さらに、そういうことやから、契約を元に戻して、以前の新聞と契約し直してくれと言うても、どれだけの客がそれに応じるかとなる。
各販売店も、この事実を知れば、一斉にA紙の販売店を責める。A紙はA紙で、拡張員のしたことやからと逃げる。
そうなれば、せっかく、上手く行っとる紳士協定も崩れることすら考えられる。その可能性が高い。
そして、何よりこのことが広まれば、新聞屋の評判自体が極端に悪くなる。ひいては、その後の仕事にも影響してくる。
それを考えたらそう簡単には、何ぼ悪事やからと言うても、暴露はできんわけや。それで、救われる人間が誰もおらんということもあるしな。
まあ、不配の汚名を被った配達人は可愛そうやけどな。何かで穴埋めしたらなあかんやろなとは思う。
しかし、万が一、亀山がこれに懲りずに続けて、他でバレるようなことがあったら、それと知りながら見逃したワシも無事には済まんというのは分かる。
そうなれば、事を抑えることはできんやろから、最悪、店も団も辞めなあかんことになる。
不正を見逃すというのは、その程度の覚悟はしとかなあかんということや。裏切られた場合は、その尻くらいは拭かなあかん。
その日の朝。
「ゲンさん、どうでした?」
マタやんがそう言うて近寄って来た。
「別に何もなかった。ただ、もう、心配はないのと違うかな」
「そういうことですか」
「そういうことや」
それで、マタやんは、すべてを察したようやった。
それから以降、どこからも、ヌキ取りの話は聞こえて来んかったから、約束は守ったことになる。
その後、しばらくして、亀山は自主的に、店も団も辞めた。
ワシにそのことを知られたというより、後悔の念に耐えられんかったのやろと思う。そうなら、まだ救われる。
もっとも、本当のところは分からんがな。そして、どこへ行ったのかもな。一人の拡張員が、そこから消えるのは、この世界、珍しいことやない。
一般のように、盛大な送別会なんかすることはまずない。あれば、その方が珍しいくらいやからな。