メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話

第93回 新聞拡張員ゲンさんの裏話     

発行日 2006.5.19


■ある新聞販売店での出来事 前編


それは、ある販売店で起きた事件やった。

一つ間違えば、人ひとり、命を落としていたかも知れん事件やったにも関わらず、今でもその販売店では何事もなかったかのように、日々の業務が行われているという。

握りつぶし。悪く言えば、そういうことになる。

事件の漏洩に関しては、店は徹底した箝口令を布いたつもりやが、そういうのは、どこからとはなしに洩れ聞こえてくるもんや。

それでも、今のところ、その販売店の目論み通りになっとるようや。表立った問題にはなっとらんようやからな。

その販売店に、ヒロシという若い専業がいてた。

ヒロシは大学在学時からアルバイトで朝刊の配達をその販売店でしていた。大学卒業前、店から専業にならないかと誘われた。

店からは、配達、集金、勧誘のいわゆる三業務の専業になれということやったが、それは断った。

ヒロシはアルバイト時代から、そこの専業員と話すことが多く、またその仕事ぶりを見ていたから、そうなるには抵抗があった。

長時間拘束され、休みが少ないというのが一番の理由や。それに、専業からは愚痴だけしか聞こえて来んかったというのもある。

ヒロシは、司法試験を目指していた。弁護士になるという夢がある。

司法試験に合格するというのは周知のごとく狭き門や。合格率も低い。試験勉強に没頭する必要がある。

しかも、それには上手くいったとしても数年かかることも珍しいことやない。

ヒロシは、配達専門ならということで、その話を受けた。

他の専業と比べれば給料は安いが、その分、時間がとれると踏んだからや。

アルバイト時に比べれば配達部数が400部と増えたが、それでも慣れとるから、朝の折り込みチラシ入れを含めて4時間弱、夕方2時間弱程度の仕事時間で済む。

交代で、朝の配達後の早朝6時くらいから、事務員の出勤する9時までと、夕方、事務員が帰る5時から7時まで、事務所におって電話番をせなあかんこともあるが、それも1週間に1度くらいやからどうということはない。

その販売店は、その地域では大きな販売店グループの支店の一つやった。他に本店と支店が3件。全部で5店舗ある。

その公表部数は全店で3万部というふれ込みやった。

もちろん、残紙や積み紙、俗に言う押し紙込みでやから、実数は2万5千部ほどやないかと思う。もっとも、それにしても大したもんやけどな。

店から、寮として個室をあてがわれた。それも魅力の一つやった。寮から店までは歩いて3分ほどと近い。

大学を卒業したら、さすがに親に頼るわけにはいかん。家がそれほどの金持ちということでもないしな。アルバイトをしていたというのも、理由としてそれがある。

大学時代の下宿も出る必要があったし、新たなアパートかマンションを探すにしても金がかかる。ヒロシにしても渡りに船ということやった。

店側としても、初めは配達専門でも、その内、三業務(配達、集金、勧誘)の専業として使おうとの思惑があったから、一般の専業並の待遇をしたわけや。

ヒロシもそれは薄々感づいとったが、マイペースを貫くつもりやった。それには、アルバイト時代で、いろいろその裏を聞かされていたからというのもあった。

特に勧誘は大変らしい。古くからの専業もなかなか契約が取れんと良うぼやいとった。専業に対するノルマはご多分に洩れずこの店でも過酷や。

月最低でも新勧(新規勧誘)を10本というのが、その店のノルマやということや。それに加えて止め押しという担当地域の継続客の契約更新を100%要求される。

それが、そんな簡単にいくもんやないという。そのノルマのために「抱え込み」というのをする。「抱え込み」というのは、自分が客になることや。

つまり、ノルマの不足分の新聞を身銭切って取ることを意味する。

少ない者でも10部程度、多い人間になると30部、40部というのもざらにいとるという。金額にするとかなりになる。

販売店は確かに押し紙というて、新聞本社から半強制的に部数を押しつけられるということがあると聞くが、販売店は販売店で専業に、こういう形で新聞を買わすような所もあるようや。

もちろん、表面的には、従業員の希望ということになる。あるいは、別名での購読というのもあるという。

もっとも、押し紙とされとるものも、表面上は、販売店からの希望注文ということになっとる。

新聞社によれば、販売店に「不必要な新聞の注文はしないこと」という通達をしとる所さえある。さらに、そのための誓約書を提出させとる所もあると聞く。

これが、新聞社サイドからすれば、押し紙は存在しない根拠ということになっとるわけや。

ワシらから言わせれば、姑息なということになるが、実際、このことで揉めた場合、裁判所ではその主張が通用する。

現在までの所、裁判所の裁定は、押し紙というものは存在せんということや。それを前提に判決を下しとると思える。

せやから、この押し紙に耐えかねたある販売店が新聞社を相手どって裁判を起こしたことが過去にあったが、そのすべてで敗訴となっとるということがある。

ワシも今さら、この押し紙が違法やとか、えげつないと声を荒げるつもりはない。世の中にはいくらでも理不尽なことというのは存在する。それを一々、あげつらっとったら人間の世界では生きてはいけん。

清濁併せ呑む。特に長く生きとるとたいていの人間はそう考える。別の表現をすれば、長いものには巻かれろということになる。

もちろん、ワシもそれについては例外やない。但し、その理不尽さが我が身、あるいは守るべき人間に降りかからん限りということでな。

この販売店グループの専業は常時50名はいとる。平均20部の抱え込みがあれば、計算上は1000部の新聞を彼らが取っとるということになる。

加えて、成績の悪い出入りの拡張員も、その抱え込みをする人間が結構いとる。その数は把握できんけど相当数あるはずや。

加えて、この店では、アルバイトの人間にも新聞の購読を義務付けとる。全店でアルバイトの総数は500名近くになるから、その数も馬鹿にならん。

一般的に昔から押し紙というと、一方的に販売店のみの負担と思われがちやが、店によれば、こういう状態の所もある。

勘違いされると困るから、大半の販売店では、こういうことはないというのは言うとく。そういうのは、極一部や。

確かに、三業務の専業になれば、今より10万円程度給料が上がるが、結局、その分は、こういう形で消えることになる。特に、この店ではそれが顕著のようや。

結果、長時間拘束され、しんどい目するだけ損やとなる。ヒロシはそれが分かっとるから、いくら言われても三業務の専業だけはするつもりはなかった。

それに、今のヒロシにとって必要なのは、勉強する時間や。金はめしが食える程度あればええ。そう思うてた。

その店の店長に、沖原(仮名)というのがいとる。歳は30前でまだ若い。先月からこの店の店長になったばかりやった。それまでは、本店の主任を2年ほどしていた。

沖原は、抜擢してくれた所長の期待に応えようと、はりきっていた。徹底した管理をすると宣言もしていた。

ある日、その店長の沖原が朝の配達後、全員を事務所に集めた。

「昨日、拡材倉庫から缶ビールが1ケースなくなっとった。誰か持ち出した者はおらんか」

場に緊張が走った。誰もそれに対する返答はない。

ここにいるヒロシを含めた7人の専業の誰かが、それを無断で持ち出したと疑うとるのは明白やった。

拡材倉庫の鍵は事務所にある。持ち出そうと思えば、誰にもそのチャンスはある。事実、普段から専業の誰もがそうしていた。

ただ、その拡材を持ち出すときは、持ち出し表にその目的と品名を記入する決まりになっていた。

沖原は、先月、店長として赴任してきたとき、自分で、拡材倉庫の在庫をチェックしてリストを作り、それを、時折、調べていた。それと、持ち出し表の数量が合わんかったわけや。

前任者の店長というのが、ええ加減な男やった。その管理がずさんやったということで左遷され、代わりに沖原が抜擢されたという経緯がある。

誰も返事がないということで、沖原は仕方なく一人つづ指名して問い質していった。

「僕は、アルコールは一切飲みませんから知りません」

その順番が回ってきて、ヒロシはそう答えた。

何げなく言うた、この返答が結果的に拙かったことになる。

この場合は、他の人間のように、単に「知りません」とだけ言うておけば良かったんやけどな。

そのビールケースがなくなったのは、従業員の誰かが飲んだとは限らんわけや。客へのサービスとして持ち出した可能性もあるからな。あるいは記入忘れということも考えられる。

ヒロシの言う「酒を飲まんから」という言い訳は、それからすれば何の意味もないことになる。

ヒロシが思わずそう言うたのには、それなりのことがあったからや。

この7人の専業の中に、岩田(仮名)という50歳くらいの酒好きな男がいとった。

ヒロシは以前から、専業仲間の噂話で、拡材倉庫からビールがよくなくなるということは聞かされていた。それを盗み飲みしているのは、その岩田に間違いないというのが定説やった。

それを裏付けるようなことがあった。ヒロシ自身も寮で、その岩田が缶ビールを飲んどる場面を見たことがある。その缶ビールが、店で使うとる拡材のそれと同じものやというのは、見てすぐ分かった。

「お前もどうや?」

と、岩田にその缶ビールを勧められたことがあるけど、そのときも「僕は飲めませんから」と断った。

「何や付き合いの悪いガキやな。お前、アホみたいに本ばっかり読んどるらしいけど、ワシらは所詮、専業や。無駄なことは止めとけ。大学出を自慢しとるのかも知れんけど、今はお前みたいなのは吐いて捨てるほどいとんのやで」

ヒロシは、その険を含む言い方に気分を害したが、その場は何も言わず離れた。ただ胸の内で『おっさんと一緒にせんといてくれ』という言葉だけをを呑み込んだ。

岩田は、そのとき小声で「ええか、このことは誰にも言わんとけよ」と、脅しのつもりでヒロシにそう言うた。当然、ヒロシもそれが何を意味しとるのかは十分知っていた。

そのときの印象がヒロシには強烈に残っていて、思わず「僕は飲めませんから」という返答になった。もっとも、ヒロシには、その意識すらそのときはなかったんやけどな。

当然やが、ヒロシは岩田に対してええ思いはなかった。それ以後、できるだけ、話も避け、接触することを嫌った。

人間というものは、一方が嫌えば、嫌われた方もそれとすぐ分かる。岩田は岩田で、些細なことでヒロシに突っかかるようになった。

ヒロシの方でも、こんなおっさんに何で言われなあかんねん、という思いがあるから、言いがかりに対しては反発しとった。両者に溝ができていたことになる。

司法試験を目指しとるということは、販売店の人間には誰にも言わんかった。言うても、共に語れるほどの人間がおらんと思うてたからな。

ここの連中に、下手にそれを言えば、それを肴にからかわれるのがオチや。

ここで、専業になったのも、折からの就職難で、その就職活動に失敗したからやと店の人間には言うてた。

店長の沖原がヒロシの次に指名したのが、その岩田やった。

ヒロシが「僕は、アルコールは一切飲みませんから知りません」と言うた直後やったから、絶妙のタイミングになった。

皆の視線が一斉に岩田に集中した。

「な、何や。ワ、ワシが盗んで飲んだちゅうんかい。何の証拠があんねん」

岩田は、皆から疑われとるということを察知したのか、かなり狼狽しとった。

「俺は何もそんなことは言うてへんがな。順番に事情を皆に聞いとるだけやからな……」

沖原は、その場はそう言うたが、実は、最初から岩田が犯人やと目星をつけていた。

岩田には、その状況証拠が多い。店が拡材に使用しとる缶ビールと同じ銘柄のビールを常に寮の自室で飲んでたということが一つ。

岩田は、店に対してかなりの借金をしていた。この店では、その借金の返済を毎月いくらという取り決めはしとらんかった。

毎月の給料全額を一旦、借金の返済に充てるということをしてた。もちろん、これは、労働基準法17条前借金相殺禁止というのに違反する行為や。

しかし、この店では、そんなことはお構いなしでそうしていた。それは、この岩田に限らず借金のある人間には一律でそうしていたという。

これは、ワシら拡張員の世界でも、ほぼ公然と行われとったことや。もっとも、最近はいろいろうるさくなっとるから、そういうのは減っとるようやがな。

第一に、昔ほど、拡張員に借金自体をさせんようになったということもある。

給料支給分を全額差し引くと、当然やが、めしが食えんようになる。そこで、毎日、僅かづつの金をめし代として、貸し与えとるということをしとるわけや。

ただ、本店からの命令で、岩田には、その貸し出しを控えろと厳命されとった。岩田の浪費癖は昔から酷く、貸せば貸しただけすぐ使う。

たいていは、酒代とパチンコ代に消える。それで、仕事に影響をきたすことが多い。余分に金を貸すということは、本人のためにもならず情けが情けにならんという考え方からや。

以前の店長は、それができんかった。岩田に頼み込まれたら、つい金を貸してしもうてた。良う断り切れんかったわけや。

そういう所も、前任者の店長が左遷された一因やというのは、沖原も知っていたから、岩田に対しては非情に徹して、必要最低限度の金しか貸さなんだ。

前日も、余分に前借りを頼まれたが、それを断ったということがある。

拡材倉庫から、缶ビールが1ケース消えたというのが分かったのは、その翌日、つまり、今朝やった。

前日の朝には、その数量は合っていた。沖原にしてみれば、その缶ビールを持ち出したのは、十中八九、岩田やろうと思うてた。状況的にそれしか考えられん。

「ええ加減にせいよ。人を泥棒扱いしてからに。気分が悪いわ」

岩田は、そう吐き捨てると、さっさと寮に引き上げた。

沖原は、それ以上は、声もかけず放っておいた。

その場にいた誰もが、その態度に岩田の犯行やというのを確信した。もっとも、ほとんどの人間が、最初から犯人は岩田しかおらんと思うてたわけやけどな。

沖原が、それ以上、その場で岩田を問い詰めんかったのは、決定的な証拠がなかったということもある。

岩田が普段飲んでいた缶ビールが拡材で使うとるのと同じ物やとしても、それは、そこらで一般に市販されとるものやから、買うて飲んでたと言えんこともない。

それに、沖原にすれば、今回のことは脅しになればええと思うてたというのもあるから、そこまで追及する気もなかった。

岩田も皆から疑われとるということは良う分かったやろから、さすがに次からは、こういう真似はせんやろしな。抑止になればそれでええということや。

収まらんのは岩田やった。

夕刊配達の直前、その夕刊が店に届くのを待っていたとき、ヒロシは岩田に呼び止められた。

時間は午後1時過ぎくらいやった。店にその夕刊が届くのは、その午後1時過ぎから30分くらいの間や。

「おい、ヒロシ、お前か、店長にいらんことをぬかしたのは?」

岩田の目は完全に血走っていた。

「えっ?何のこと?」

「とぼけるな、ぼけぇ!!告げ口したのは、ワレかと聞いとんのんじゃ。おかげで寝ることもでけへんかったやないか」

通常、専業は朝の配達が終わると仮眠をとる。それができんかったと言うてるわけや。

岩田は何か完全に勘違いしとるようやった。今朝、店長の沖原に缶ビールの件で問い詰められたのは、ヒロシが告げ口したせいやと思うとる。

「知りませんよ。そんなこと。変な言いがかりつけんといてくれませんか」

「何やと、しらばっくれようちゅうのんか」

「あんた、頭がおかしいのと違うか?何で俺が、そんなしょうもないことせなあかんねん」

岩田の言いがかりに、それまで大人しくしていたヒロシも頭にきた。思わず声を荒げて応戦した。

「ぼけぇ、ネタは割れとんのじゃ!!店長が、ワレから聞いたと言うとったわい」

「え?」

ヒロシは一瞬、固まった。岩田があり得んことを口走った。

店長がそんなことを言うとは考えられん。ヒロシには身に覚えもないし、何かの聞き違いか、でっち上げかや。おそらく、そのでっち上げやろと思う。この岩田ならそういうこともありそうや。何を言い出すか分からんところがある。

「変なでっち上げは言わんといてくれ。そんなことは店長から聞いたらすぐ分かることやないか」

「もう、ええわい。このガキ、どつき(殴り)倒したる」

岩田が掴みかかってきた。ヒロシもただ、どつかれるわけにはいかんから、応戦しようとして、揉み合いになった。

その場におった他の専業連中が間に割って入って、二人を引き離した。

夕刊も到着したということもあり、その場は、それで収まった。

そこに、店長がおれば、岩田のそれは、すぐ言いがかりやと分かるんやが、あいにくその場に店長はおらんかった。

夕刊の配達終了後、ヒロシは、店長に確かめた。

「ヒロシか。話は聞いとる。あんなアル中のおっさんのことは放っとけ。そのうち、すぐ、よそへ飛ばすさかい」

「それは、いいですけど、岩田さんは、僕が店長に告げ口したというのを、店長の口から直接聞いたと言うてましたけど、どういうことなんですか」

「俺は、そんなことは何も言うてないで。考えたら分かるやないか。俺はお前から何も聞いてないのに、何でそんなことを言えるんや」

「それなら、やはり、岩田さんのでっち上げなんですか」

「というより、何か勘違いしとるのやないかな」

「どういうことです?」

「実は、今朝、あの後、岩田のおっさんの部屋に行ったんや……」

店長の沖原には、あれ以上、岩田を責めるつもりはなかった。むしろ、目的は懐柔にあった。

それは、従業員の掌握術ということで所長から叩き込まれた手法の一つやった。

囲師には必ずかき、窮寇(きゅうこう)には迫ることなかれ。というのが昔の中国の有名な兵法家、孫子の教えにある。

意味は、敵を包囲したら、必ず逃げ道を開けてやり、窮地に追い込んだ敵には、攻撃を仕掛けたらあかんということや。

それを、人心掌握術に置き換えると、部下を叱ってもとことん追い詰めるのやなく、逃げ道を探せるようにフォローしろということになる。

人は、追い詰められて逃げ道がなくなると思えば、とんでもない反撃を企むものやが、逃げ道があると分かれば、そこに入り込み、上位者の指図に素直に従うという考え方や。

今回のケースで言えば、岩田に対して、犯人はお前やと、とことん責めるのやなく、少しうやむやにすることで、恩を売るという手法になる。

犯人はお前やというのは分かっとるけど、見逃したるから、これからは言うことを聞けよというのを暗に仄めかすという具合やな。

このやり方がええかどうかは、ワシには良う分からんけど、こういう手を使うトップもいとるのは確かや。

ただ、その人間により、とんでもない逃げ道を探す者が希にいとる。この岩田がそうやった。

「ワシが、缶ビールを盗んだと告げ口したのは、ヒロシか」

岩田はそう聞いてきたが、沖原はそれには何も答えなんだ。というより、それは、沖原に対する質問というより、独り言のように受け取ったからや。

それに、沖原は、そのとき「騙るに落ちるとはこのことやな」と、密かに考えとったから尚更やった。

つまり、告げ口したと怒るというのは、その行為が事実やと認めたことになるというのを自分で暴露しとるようなもんやからな。

しかし、それが分かっても、人心掌握術、操作術の観点からいうと見逃そうということになったわけや。

岩田がヒロシに怒りの矛先を向けたというのは、何となく分かったが、それならそれでええ。トップとしたら、それも思惑の一つということになる。

部下の恨みが自分に向かうのは拙いが、その他の者、特に同じ立場の者同士に向かうのは歓迎されることやとなる。部下同士、仲良く結託されるより、反目し合う方が扱いやすい。

沖原が、岩田の疑問に気付かんふりをして、敢えて何も言わんかったのは、そういう狙いもあったからやと考えられる。

もっとも、そんなことをヒロシに言うわけにはいかんがな。

案の定、岩田は不満をヒロシにぶつけるという結果になった。

「そのとき、店長の口から、僕は関係ないと言ってくれていれば、こんなことにはならなかったんやないですか」

「そうかも知れんな。後で、岩田には俺からちゃんと言うとく。俺はちょっと、外回りしてくるから、後を頼むで」

沖原は、そう言うとそそくさと出かけて行った。

後を頼むというのは、夕方の電話番のことや。今日が1週間に1度の電話番の当番日やった。

人は誰でも逃げ道を探す場合、自分より弱い存在を探すということがままある。その存在は人によりそれぞれやけど、岩田の場合は、それをヒロシに狙いをつけた。

本来、まともな人間なら、このケースは、直接、疑いの目を向けた店長の沖原に、怒りをぶつけなあかんはずや。しかも、それが、本当の冤罪やとしたらな。

しかし、それを岩田はせんかった。沖原が店長で上司というだけやなく、その沖原の後ろには所長がおるということを知っとるからや。

ここの所長は単に経営者というだけやなく、岩田にとっても怖い存在として映っていた。

所長はこの業界に長い。昔は、新聞販売店や拡張員がヤクザと関わり合いを持っていたというのは珍しいことやなかった。今でも、極一部にはそういう人間もおると聞く。

所長もそういう人間やと岩田は考えていた。とてもなやいが、それに対して逆らう気力や根性はない。

しかし、ヒロシなら別や。ついこの前まで学生やった。50過ぎの岩田からしたら子供ということになる。

岩田のような人間は、自分のしたことに反省するという思考がない。一番悪いのは、当然やが、それを盗んだ自分や。

まともな人間なら、今回のようなことがあれば、やばいから次からは止めておこうという気持ちが先に立つ。人を責めることまでは考えつかん。

岩田は違った。その言い訳を考える。しかも、その行為を無理にでも正当化しようとする。

給料もまともに貰うてないのやから、それくらいは多めに見てくれ。そんなのは、昔から誰でもやってたことやないかという思いが強い。

しかし、そう思うても上には何も言えん。言うのが怖い。特に所長にどやされると考えただけで身が竦む。

そこで、何で自分がこんな惨めな思いをせなあかんのかと考えたとき「これは、誰かの告げ口やないのか」ということに考えが及んだわけや。

実際に、その缶ビールを飲んどることを知っとる人間で、口止めもしたことのあるヒロシがそうやないのかと考えた。そう考えると、自然に今回のこともヒロシの告げ口で、店長が調べたことやないのかという結論になる。

「僕は、アルコールは一切飲みませんから知りません」と、ヒロシが直前に言うたのは、どう考えても不自然や。その後に、店長がすぐ指名したのが岩田やった。

嵌められたのやないか。岩田はそう考えた。

そして、そのことを店長に問い質した。店長は何も言わんかった。

しかし、それは、ヒロシが告げ口をした何よりの証拠やないかと思い込んだ。黙っとることが、それを雄弁に物語っとるということや。

ヒロシが相手なら怖いことはない。どついたる。それで、身の潔白を証明できる。そこまで、怒っとるわけやから、誰も岩田が犯人やとは考えんやろというアピールにもなる。

浅はかと言えば、それまでやけど、こういう思考しかできん男というのもいとるのは確かや。ワシも、そんな男は腐るほど見てきた。

それに、実際に、どつくまでせんでも、ちょっと脅したら、あの本の虫みたいな、ひょろっこいヒロシやったら、すぐに泣きを入れるとそう思うた。

ところが、その思惑が外れ、ヒロシは反撃してきた。引くに引けん岩田は掴みかかるしかなかった。

それが、あの騒ぎの顛末やった。

反撃されるとは予想だにせんかったことや。それが、岩田のプライドをさらに傷つけた。こんなガキに舐められてたまるか。それだけを考えた。

岩田は自棄になって、残っていた缶ビールを部屋で煽った。

もう、夕方の7時を過ぎようとしていた。

7時になれば、電話番は終わる。それまでに、店長の沖原は帰って来ると言うとったが、まだや。

携帯に電話を入れた。

「あっ、ヒロシか。もう1,2分で店に着くから、悪いけど、帰るまで待っとってくれ」

1,2分くらいなら仕方ないかと、受話器を置いたときやった。

事務所のドアが勢いよく開けられた。

そこに、明らかに酔っぱらった岩田が、据わった不気味な目つきで突っ立っていた。常人の目つきやない。

岩田の手に、文化包丁が握られていた。

ヒロシは、瞬間、体が硬直して恐怖が疾った。殺される……。漠然とそう考えた。


後編に続く


ご感想・ご意見・質問・相談・知りたい事等はこちら から


メールマガジン・バックナンバー 目次                       ホーム