メールマガジン 新聞拡張員ゲンさんの裏話

第97回 新聞拡張員ゲンさんの裏話     

発行日 2006.6.16


■拡張員列伝 その5 季諾の漢(おとこ)、ヨシアキ 前編


これは、今から18年前、時代が昭和から平成になろうとしていた頃の話や。

その頃、ワシは、大阪のある大手建築屋に勤めてた。

ワシの最終学歴は定時制高校卒。建築屋の社内には大学出が多かったから、その意味では肩身は狭く、学歴への劣等感というのも相当にあった。

その当時は、学歴偏重主義というのが色濃く残っていて、実力より学歴が優先されるというのは当たり前のことやった。

ただ、営業の仕事なら、学歴には関係なく実力のみで勝負できる。そう考えて、その建築屋に勤めることを選んだ。

その建築屋で、営業の基本、基礎を徹底して叩き込まれた。これは、今でも役に立っとる。

何でも基本は重要や。ただ、基本だけでも難しい。営業の世界には「基本を知って、基本から脱せよ」というのがある。

基本通りの営業だけでは、どうしても行き詰まることがある。いかにも、営業員然とした人間に嫌悪感を抱く人間も世の中にはいとるからな。特に関西の客にそういうのが多い。

その場合は、臨機応変にその場に即した物言いを心がけなあかん。但し、その場合でも、基本を知った上でそうするのと、単に砕けた調子にすればええやろというのとでは大違いになる。

新聞勧誘にしても、その辺が良う分からん拡張員がいとる。それが、一般から嫌われる要因の一つになっとるのやが、本人はそれに気づいとらん。そういう者は、たいてい営業の基本というのを知らんからそうなる。

基本を知っとれば自ずと砕けた物言いをするのでも、節度というのを考え、言動に注意する。どんな言葉使いであれ、節度を守るということが重要ということや。

それが「基本を知って、基本から脱せよ」ということにつながる。

ワシは、それらを徹底して学び実践していった。ワシには、学歴がないから、実力で勝負するしかない。実力さえあれば、大学出の人間を凌駕できると信じてたからな。

ワシは、自慢になるが、その建築屋では常に営業成績ではトップの部類やった。当然のように、ちやほやされた。若いから舞い上がるのも早い。

「何ぼ、一流大学を出とっても、家の1軒も売れんようやしゃあないやろ」

こんなことを平気で高言しとった。今、思い出しても恥ずかしい限りや。こんな調子やったから、社内で反感を買わん方がおかしい。

そして、そのことはワシも十分知っていた。それでも、仕事に自信があるから、そんな反感や雑音も気にはならんかった。

「くやしかったら仕事で勝負してみろ」と考えてた。自惚れの極致にあったわけや。もっとも、学歴への劣等感からそうさせていたのも確かやけどな。

ただ、学歴というのは社内的には影響はあるが、外部の人間に対してはそれほど力にはならんということはある。特に営業でそれが言える。

普通に考えたら分かるが、家を売り込みに来る営業マンの学歴がどうかというようなことを考える客は少ない。

一流大学出であろうと、定時制高校卒であろうと、客にしてみれば同じ建築屋の営業員なわけや。

むしろ、対面営業において、一流大学出というのはプラス面がほとんどないと言うてもええ。下手にそれを言えば自慢のように聞こえて客のひんしゅくを買うことが多いさかいな。

その意味では、営業の道を選んで正解やったことになる。

勤めてから数年は、それで何の問題もなかった。その間、結婚もし、息子も生まれた。順風満帆やった。

そのときは、それが、普通のことやと思うてたが、ワシの人生を振り返えれば、幸せの絶頂時やったということになる。

哀しいかな人間は、それを失って初めてそのことに気付くもんなんや。それでは遅いんやがな。

雲行きが怪しくなってきたのは、そこの建築屋の一大プロジェクトが終了に近づいてきた頃やった。

その一大プロジェクトというのは、ある地域の開発をすることで、大阪のベッドタウンを造るという計画やった。それがほぼ成功した。

そこは、普通に狸なんかがおるような山奥やった。のどかな山村と言えば情緒のある表現かも知れんが、初めて足を踏み入れたワシは「こんな所、誰も住みたがらんで」というのが正直な感想やった。

しかし、結果的には、あっと言う間に住宅が建ち並び、多くの団地が出来た。

それには、時代が味方したということもある。その頃は、高度成長期からさらにバブル経済に突入しようとしていた時期やった。

恐ろしい勢いで土地の値段が高騰し、大阪市内で家を持つというのは普通のサラーリーマンでは不可能になっとった。

必然的に周辺の郊外に住宅が建つようになった。その頃、良う言われとったのが、同じ値段、条件の物件を買おうと思うたら、1年ごとに山を一つ越さんと買えんという話や。

せやから、郊外は家を建てたら売れた。この建築屋も、いずれはという目論見で、まだ土地の安かったその地域を整地して売り出すことにした。

それが図に当たった。

住宅が増え、大型店舗が建ち並び、学校や病院、飲食街が出来上がった。大手私鉄の特急停車駅にもなった。今や、その地域有数の市にまでなっとる。

それには、ワシら営業員が少なからず頑張ったからやと思うとる。もっとも、その頑張りについては、いろいろ問題もあったがな。

いくら、時代が味方したというても、山奥の住宅地というのは、その当時でもそう簡単に売れるものやなかった。

営業は「売りやすい人間に売る」というのが基本や。営業をしとると、比較的落とし易い客と難しい客がおるというのは、誰でも経験的に分かる。

落とし易い客というのは、たいていが同じような性質を持っとる場合が多い。

おだてやお世辞に弱い。ねばりに弱い。律儀で頼まれ事を断ることができん。自尊心が強い。見栄を張る。人の話に納得しやすい。人を信用しやすい。情にもろい。楽観主義者である云々、というところやな。

こういう落としやすい人間のことを業界では「丸い人」「丸い客」と言う。その「丸い客」を捜して、徹底した営業をかけた結果が、そうなったと言うても過言やないと思う。

当然やが、そういう時期はいつまでもというわけにもいかん。企業は次の展開を考えるのが普通や。

その建築屋は子会社を設立することにした。

その子会社は、リフォーム専門会社やった。ちょうど、その辺りの住宅街が時期的に、それが必要やと思える頃合いを見計らったようにな。

その子会社に出向を命じられた。企業でそう言われるのは、たいていは左遷ということになる。

当然、ワシは不満やった。ワシは仕事に対しては自信があった。それなりにプライドもあるから「ああ、そうですか」とは言えなんだ。

「部長、何で僕が出向せんとあかんのですか」

そう上司に詰め寄った。

「これは、上層部の決定なんや。それに、君には、営業課長として行って貰うわけやから、これは出世やないか。そこで実績を上げて、本社に戻ってくればそれなりのポストにもつけるのやからな」

若いワシは、それで簡単に丸め込まれてしもうた。そのころのワシの肩書きは、営業係長やった。確かに、名目は課長ということやから出世したように錯覚する。

それに『本社に戻ってくればそれなりのポストにもつける』という不確かな約束とも言えんことを信じたというのもある。

せやけど、子会社に出向させられた理由は他にもあったというのが、後になって分かった。それは、ワシの学歴と仕事の成績にその原因があった。

その話を知ったときは耳を疑うた。営業成績がええことが左遷理由になるというのやからな。

そして、学歴のない者が何ぼ成績を上げてもあかんということも、そのときに知った。

大学出が出世に有利なのは、何も学歴からだけやない。一番大きな要素は、その学閥というやつや。

同じ大学出でも、一流と二流、三流では雲泥の差がある。たいていの大手企業の上層部は、その一流大学出身者で占められとる。それも同じ大学の出身者というのが多い。

それを学閥と言う。その学閥は自社の勢力だけやなく、他企業との関係でも純然たる力があった。

一流大学出がそうした企業のトップに君臨しとるという例が多いから、そのつながりが生きるわけや。

必然的にトップはその同じ一流大学出の人間を大事にしてその勢力を維持しようとする。

参考までに、このメルマガを読んでくれとる読者の中にも大学生の方が多いようやからアドバイスを一つ。

就職希望企業の経営陣の学歴や出身校を、その選考材料にするのも一つの方法やと思う。そこが一流企業というのなら、現在でも、それで有利不利があるというのは良う聞く話やからな。

もっとも、今は昔より実力重視ということを謳っとる企業が多いから、自分に自信があれば関係ないかも知れんがな。

実力に差がなければ、確実にその一流大学出の方が出世する。問題は、その実力に大差のある場合や。特に、営業部門は、その成績がものを言う部署や。

そこで、トップにランクされとったワシを子会社に出向させやっかい払いをするということになったという。

そうせな、上の考える人材を引き立てることが大っぴらにできんということらしい。

ワシのような、単に営業ができるだけの存在は、そういう企業のトップからすれば、駒としての価値以外、何の値打ちもないということになる。

もっとも、これに加えて、ワシの傲慢な性格というのも災いしたとも思う。もう少し、従順やったら、あるいは違うたかも知れん。そうなるのは、無理な相談やがな。

営業員は使い捨て。これは、言い過ぎのように思うかも知れんが、そう考えとる経営者、トップは多い。少なくとも、その建築屋がそうやった。

名目上は、営業のエースを送り込むということになる。しかし、実態は、トップの勢力保持のためや。仕事より、我が身の保身を優先するということやからな。実にくだらん話や。

「ゲンさん、お宅だったらどこに行っても、ちゃんとやっていけますよ」

そう言うてくれたのは、ヨシアキという男やった。この男は、実に不思議な人間やった。

肩書きは「○○新聞販売一部 有限会社○○企画代表取締役」と名刺にある。今なら、一発で新聞拡張団の団長やというのは分かるがな。

しかし、この頃のワシは単に新聞社の営業会社の社長というだけしか知らんかった。

ただ、この男がまともなカタギやないというのは知っていた。この男をワシに紹介したのは、神山というヤクザの幹部やったからな。

こいつは、後に、そこそこの組の組長にまでなった男や。その神山とは、十代の頃からの喧嘩仲間やった。

今は、ほとんど死語になっとるようやが、当時は「番長」と言うて不良仲間のボス各の人間がおった。主に高校にそういうのが多かった。

神山は、他校の番長や。ワシもその番長格に祭り上げられとった。子供の頃から喧嘩ばっかりやっとったから自然にそうなってた。

言い訳するわけやないけど、ワシは自分では不良とは思うてなかった。少なくとも何の悪さもせんような善良な人間に害を加えるようなことはなかったからな。

ただ、不良と呼ばれとる連中と喧嘩を良うしてたというだけのことや。まあ、世間ではそういうのも不良と言うのやがな。

神山もそんな人間やった。ただ、お互いがお互いを勘違いするということはあるし、別グループというだけで敵愾心というのも湧く。喧嘩は、起こるべくして起こったということや。

しかし、そういう人間とは、ドツキ(殴り)合いをしてもすぐ分かり合える。

そういう人間同士、分かり合えたら早い。それ以後、その神山とはツレ(友人)になって、いろんなことで関わり合いになることが多かった。

それは、つい最近まで続いとる。こういうのを腐れ縁というのやろなと思う。

「ゲンさん、紹介したい人がいてんねんけど、会うたってくれへんか」

と、神山が言うてきた。

「ヤクザならいらんで」

「その人はヤクザと違う。新聞社の営業の人や」

「新聞社の営業?何で、そんな人間とお前が関係あんねん」

「いや、それは……」

神山は、口ごもって言いにくそうにしとったが、元来、この男は器用な嘘のつける男やない。その経緯を話し出した。

男の名はヨシアキ。新聞社公認の営業会社の社長やということやが、もともとは、神山が所属する組の組長の兄弟分やったということや。

「やっぱり、ヤクザやんけ」

神山も、ワシがヤクザ嫌いなのは良う知っとるはずや。

神山がヤクザになると言うてきたときも「ヤクザになるんやったら、付き合いもこれまでやで」と引導を渡したくらいやからな。

「話は最後まで聞いたれや」

神山の所属しとる組は歴史がある。昔ながらの任侠道に徹したヤクザということで、その道では老舗で有名らしい。そこの組長は素人のカタギに迷惑をかけるということを極端に嫌うという。

信じられんかも知れんが、そういうヤクザも中にはおる。数は少ないがな。

そのヨシアキも、同じような考えの男ということや。そのヨシアキには、あるエピソードがあった。

それから、さらに十数年前。今からやと、30年以上、昔の話ということになる。

ヨシアキが普段から懇意にしてた喫茶店のマスターに伊藤(仮名)という男がいてた。どこかの競馬場で知り合うたという。

その伊藤は、ヨシアキという人間が気に入った。ヨシアキが年下ということもあって普段何かと面倒みてたようや。

真面目なヤクザというのは金を持ってない者が多い。あこぎな金儲けができんのやから無理はないがな。

「マスター、何か困ったことがあったら、いつでも遠慮せんとワシに言うたってや。力になるさかい」

こういうのは、ちょっとしたヤクザなら誰でも言う。別に珍しいことやない。ただの愛想、格好つけのようなもんや。普通は、そんなものをあてにしてたら、えらい目に遭う。

しかし、このヨシアキは違うた。

その伊藤のところに、その地域を縄張りにしとるヤクザが「みかじめ料」の値上げを言うてきた。

「みかじめ料」というのは用心棒代のことや。今は、これ自体が法律違反やが、この頃は普通にそういうのがあった。水商売にそういうケースが多い。

当然、伊藤は難色を示した。それでも、相手は地回りのヤクザやから、渋々でもそれに応じる者がほとんどや。商売を続ける以上は、ある程度、仕方がないと考える者が多いからな。

そのときの経緯がどうなったのかは良う分からんが、伊藤はそれを頑として断ってヨシアキの名前を出した。

そのとたん、そのヤクザに2,3発ドツか(殴ら)れたという。結局は、そのヤクザの条件を呑んだ。

それを、ヨシアキに話した。ヨシアキは「分かった」とだけ言うて店を出た。

ヨシアキは、その足で当時所属していた組に行き、盃を返した。ヤクザが盃を返すということは、その組を辞めるということを意味する。

ヨシアキの場合は、他の組に行く気持ちはないから、廃業するつもりやった。

ヨシアキがいくら伊藤と懇意にしとるからというて、他組の縄張りでの「みかじめ料」に関して文句を言うことはできん。言えば確実に喧嘩になる。

しかも、ヨシアキが所属しとる組とその相手の組は、半ば敵対関係にあったから始末に悪い。組同士の喧嘩になるのは目に見えとる。

普通のヤクザなら「いつでも遠慮せんとワシに言うたってや。力になるさかい」と言うてたにしても「悪いな。ワシらでは手を出すことはできんのや」で済ます。

また、それが男としてできんと考えたにしても、自分の所属する組の親分に話して、応援を乞うことを考える。

それを、ヨシアキは、その組に迷惑をかけるのを嫌い、盃を返すことでヤクザを廃業してまでも、相手の組に掛け合いに行くことを選んだわけや。

掛け合いというても、ヨシアキも最初から話し合いになるとは思うてなかった。ヤクザの世界では、ヨシアキの行為の方が非難される。

よその縄張り内のことにいちゃもんをつけとるわけやからな。それで、殺されても文句が言えんというのがその世界の常識や。喧嘩になるしかない。ヤクザ同士の喧嘩になれば命のやり取りになる。

せやから、ヨシアキはその組の事務所に行くのに日本刀を持って行った。ヨシアキ自身も命はないと覚悟しとったという。

相手の組員たちもその手にした日本刀を見て、殴り込みやということになり応戦し大喧嘩となった。

結局、大立ち回りの末、数人、怪我をさせたところで、警察が来てヨシアキは逮捕された。

この事件が、後に尾鰭がつき、10人斬りのヨシアキという異名がつくようになったという。それで2,3人は死んだという話になった。

その事件で、ヨシアキは傷害罪として3年の刑期を務めた。そして、新聞の営業会社に勤め、その後、独立して社長になったという。要するに、拡張員になって団長になったということや。

神山は、ヨシアキにあるとき「何でそんな無茶な喧嘩をされたんですか」と聞いたという。

「季布の一諾というのを知っとるか?」

ヨシアキは、その話が気に入っとるのか、気の合う人間には良う言うてたようや。

ワシも、後になってその話を聞くことがあったから、前回のメルマガでもそのことに触れたわけや。

「いえ……、知りません」

「要は、男なら、一度言うた約束は、死んでも守らなあかんということや。ワシがあれをやった理由というのは、簡単に言うたらそれや」

神山は、その一言に感激したという。心酔したと言うてもええ。

あるとき、神山はそのヨシアキに「俺のツレに、建築会社のサラリーマンをしとる男がいとるんですけど、こいつはカタギにしておくのは勿体ないくらいの奴でして……」という話をしたらしい。

ワシには、どうしてもヤクザの思考というのが分からん。奴らは自分たちの世界が最高やと思うとる。

せやから「カタギにしておくのは勿体ない」という言葉が平気で言えるわけや。奴らにとって廃業してカタギになるというのは、その世界では死を意味するというくらいやからな。

一般のワシらの感覚からしたら、良う足を洗う決断をしたとなるんやが、その辺がどうもずれとる。

「そのヨシアキさんが、ビジネスの話があると言うてはるんや」

「ビジネス?」

ワシは、何ぼ神山の紹介やというてもヤクザと知って会うつもりはない。

ただ、新聞社の営業会社の社長というのが気にかかったというのはあった。それに、今はヤクザやないという。

ワシは、当時は、営業の仕事にのめり込んでいたから、そのためなら何でもしてた。

客と話を会わせる目的で、競馬や麻雀、果ては賭け将棋にまで手を出したくらいや。もっとも、そっちの方の才能も人より秀い出とったということもあり、かなり嵌り込んでしもうてたがな。

その営業のプラスに少しでもなればという思いで、会うことにした。それには、そのヨシアキの言うビジネスにも興味があったからや。

ワシは、自分で言うのも何やが、若いときから人を観る目は確かやと自負しとった。

神山から吹き込まれたことを抜きにしても、第一印象で並の人間やないというのはすぐ分かった。当時、怖い者知らずやったワシが圧倒されるものがあったからな。

物腰、言葉使いは穏和なんやけど、重厚で隙がない。その動作一つ一つがそつなく意味がある。そんな風に思わせる男やった。

ワシも仕事柄、大物と目される人間とは数多く出会うとる。その中には代議士もおれば、弁護士や医者、大学の教授、有名タレント等様々や。それらの人間と比較しても、ヨシアキの存在感は際立っとった。

ヨシアキの言うビジネスというのは、新築の家が売れたときの情報を教えてくれというものやった。代わりに、家を購入したい客の情報を教えるという。

ヨシアキは、その初めての出会いの場に、その家を購入したいと考えとるという人間のリストを持ってきていた。正直言うて、ワシは半信半疑やった。

今は、新聞社の営業をしとるとは言え、所詮は元ヤクザや。そんな人間が、そう簡単にそういう客のリストなんか集められるわけはない。そう思うてた。

ワシはだめ元で、その申し入れを受けた。ワシに失うものも不利になるものもないと考えたしな。

ワシの方が提供するのは、会社で売れた住宅の顧客リストということになる。さすがに今やったら、そういうのは個人情報保護法に抵触するから違法行為になるが、当時にはそういうものは何もなかった。

それが、交渉中の客を教えるというのなら、背任行為ということにもなるやろうけど、契約が成立した客やからそれもない。

また、ヨシアキの方もそれでないと困るという。それも、今なら良う分かる。要するに、それを知ることで、引っ越し客を事前に確保できるということやからな。

拡張の仕事で一番簡単なのは、その引っ越し客を勧誘することや。

引っ越し客というのは、転居先の電気、水道、ガスあるいは、子供の学校関係のことには気を配り、その手続きも事前にするが、こと新聞に関してはおざなりにされるケースが多い。

生活必需品としての優先順位が低いわけや。せやからというて、必要やないということでもない。特に、引っ越し当初は、やはり重宝すると考えるのが普通や。

とりわけ、奥さん連中は地域のスーパーなんかのショッピング情報をいち早く欲しがる。

また、たいていは住宅ローンで購入することになるから、パート志望の主婦も結構いとる。パートの求人情報も地域限定やないと意味がない。

新聞には、そういう地域の情報としてのチラシが入るからな。

せやから、取り敢えず新聞を取ろうかと考える。銘柄に拘るケースもないことはないが、どうしてもというほどやない。

そんなときは、たいていが早い者勝ちとなる。真っ先に、そういう客を見つけた人間の成約率が、やはり一番高い。

ただ、その引っ越し客とは、その引っ越し当日、よほどタイミングが良うないと出会えんというのがある。その引っ越し客が事前に分かるのやから、こんなおいしい話はないわけや。

営業部門にはそういう情報はすべて集まる。第一、成約となれば、朝の朝礼時に発表して祝福し、尚かつ、成約札というのを掲示板に張り出す。

「○○様○○台団地○○−1号地成約。成約金○○万円。成約者営業○課○○」という具合や。ここまでいけば、隠し事でも何でもない。その顧客情報がほしいという。

ワシは、ヨシアキから渡されたリストの客を当たった。半信半疑やったのが、数件当たる内に、これはかなり信憑性の高い情報やというのが分かった。

実際、そのリストのデータで数件の契約ができたからな。それもワシからしたら当然で、そのリストの客は、ほぼ100%とも言うてええくらい「丸い客」やったからや。

今のワシやったら、それは簡単に納得できる。ワシら、拡張員は簡単な客を選んで勧誘する。難しい客は避けるというのが基本や。

良う一流の営業マンは、他の人間が契約できんような難しい客を落とすもんやと勘違いしとる者がおるようやが、そんなことはない。

確かに、そういう要素もないことはないが、確率的には少ない。難しい客を落とすのは誰でも簡単なことやないし、手間暇がかかる。

そして、何より難しい客とはどうしても無理した営業になりやすいからトラブルにもなることが多い。それは、すべての営業に通じることやと思う。むろん、新聞勧誘も例外やない。

営業は、自分にとって落としやすい客をいかに効率よく探してアタックできるかということに尽きると思う。

言えば「丸い客」に、どれだけ多く営業かけられるかということや。その見極めのええ人間が一流と呼ばれる。少なくとも、ワシはそう考えとる。

新聞を簡単に取る人間で難しい客は少ない。また、ヨシアキは、その勧誘の中で話をすることにより、その客の心理、性情というのを巧みに把握しとった。

これはという人間で賃貸住まいの人間が、そのリストなわけや。これは、ワシにとっては超Aランク情報ということになる。

ヨシアキの方は、ワシの情報でその住宅を購入した客が分かるから、その引っ越し先での新聞購読を前もって勧誘できるというメリットがある。

ただ、住宅が1軒売れるのと、新聞の購読契約の1件では、その利益率に大きな開きがあるように思うが、その情報量は圧倒的に、ワシの方が多い。

損得のバランスはそれで取れるはずや。それに、ヨシアキは損得勘定については何も言わなんだ。ワシも、そういうことは苦手やから、損得勘定に拘る人間なら付き合いはしとらんかったがな。

その情報はワシが関わったものだけやなく、大阪一円のものやからかなりある。この売り上げ情報というのは、他課、他係という全社規模のものも同じように簡単に集まる。

それも、一戸建てというだけやなしに分譲マンションというのもあるから数的には相当なものになる。最低でも、月に100件を下ることはなかったからな。

ワシも、有意義な情報を教えて貰うた見返りとしてその情報を流していた。何度も言うが、こういうのは、今やったら完全に法律に触れる行為や。

もっとも、その当時でも、多少の後ろめたさ、みたいなものはあった。ただ、その情報を流すことで、得られる利益を会社に還元できるわけやから問題ないやろとは考えたがな。

それでも、その事実は人には知られたくはなかったのは確かや。特に、客の中で、何で新聞の勧誘員がそんな情報を知っとるかということを疑問に思われ、会社が関係しとるのやないかと詮索されるのは拙いからな。

そのごまかしとして、一戸建ての建て売り住宅なんかやと、契約済みになると、その住宅の前に、これ見よがしに契約者の名前入り立て札で公表しとるから、それを見たということにして貰うようにと伝えた。

マンションの売買も似たようなところがある。そういう所を独自に調べたことにして貰うわけや。

もっとも、ヨシアキは、そんなことを念に押さずとも良う心得とるようやったがな。せやから、現実には、そういうトラブルは1件もなかった。

このヨシアキは付き合ってみると本当に信用のできる男やというのが分かる。この男から、ええ加減な話というのは聞いたことがなかったからな。

また、この男から得るものも多かったから、その後も付き合いを深めていった。

「ヨシアキさん、そんなわけで、その子会社に出向になるから、今までのように成約情報は手にはいらないと思うんですよ。申し訳ないですけど」

出向する子会社は、住宅リフォームが専門と言うてたから、既存の客が主なターゲットになるわけや。新築とは、ほぼ縁が切れるはずやからな。

せやから、ワシとしては、ヨシアキとのビジネスの解消ということで、そう言うた。

「ゲンさん、そんなことは気にせんといてください。今まで、本当にありがとうございました。このご恩は一生、忘れませんから。それに、仕事の縁が切れるとしても、私らの縁が切れるというではありませんからね」

「そう言うて貰うと本当に助かります。こんな生意気な人間ですが、これからもよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしく。何かあったら何でも遠慮なく言ってください。ゲンさんのためなら、例え火の中、水の中ですよ」

そう言うて、ヨシアキは笑った。但し、その目は笑うてなかった。

他の人間からこういうことを言われたんやったら、単なる社交辞令やろと思うけど、このヨシアキの言う言葉は重いということを承知してた。その言葉通りのことをするはずや。

ワシは、例えどんなことがあったとしても、誰かに頼るということは未だかつてしたことがない。問題が起これば自分で解決する。また、その自信もあったからな。

そのヨシアキの言葉は、ありがたいとは思うたが、何か事があったとしても頼る気持ちがないから、負担とまではそのときは考えんかった。

しかし、後日、ヨシアキは、ワシのために、本当に命がけで体を張ることになった。

そして、それは、当時のある大物国会議員も絡んどったことやから、簡単な話やなかった……。


後編へ続く


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