白塚博士の有料メルマガ長編小説選集
第7作 新聞業界暗黒物語 悪い奴ら
初回発行日 2015.12. 5
作品紹介
新聞業界には様々な人たちが活動しています。その中で、特に面白いと思われる出来事や人たちにスポットを
当てたいと考えています。
サスペンス小説ですが、謎解きだけではなく本当の正義とは何か、悪とは何かといったことを面白おかしく描けたらと思っていますので、ご期待ください。
著者 白塚 博士
第1回配信分
■第1章 群雄割拠 その1 運の悪い男
京田真之介(きょうだ しんのすけ)は、いつものことながら自身の運の悪さには辟易していた。運が悪いにも、ほどがあると。
人間、誰しも運が悪いと思えるような出来事は結構起きるものである。
外出中、急に便意を催し、大急ぎで公衆便所を探して駆け込んだところ満室だったり、やっとのことで目的を果たしてホッとしてトイレットペーパーを見ると、紙がなく芯だけしか残っていなかったり、自動販売機に小銭を入れても缶コーヒーが出なくて金も返ってこなかったり、といったようなことは頻度の差こそあれ、誰にでも起きる。
その程度のことなら笑って済ませられるが京田の運の悪さは、そんなレベルの話とは桁が違っていた。
何しろ、何にもしてないのに、たまたまそこに居合わせたというだけで警察に逮捕されてしまったのだから。
2015年4月5日、日曜日の午後のことだった。
新聞営業会社、俗に言う新聞拡張団「斑鳩(いかるが)企画株式会社」の拡張員である京田は、奈良県香芝市内の独身者専用の賃貸マンションで「白叩き」をしていた。
「白叩き」とは勧誘する新聞の客になったことのない新規の読者へ営業をかけることを指す新聞業界用語である。
たいていの新聞販売店では地域の詳細な市販の住宅地図というのを持っている。多少値は張るが、表札を掲げてない家の名前まで書き込まれているから、新聞販売店にはなくてはならないアイテムだと言える。
その地図をコピーし、現読や契約済み、過去読者などの家々がすぐわかるように色鉛筆やマーカーなどで色分けしたものを勧誘員に渡して勧誘させている新聞販売店が多い。
一般的には色分けした家への営業はしてはいけないことになっている。
特に現読や契約済みといった客宅を勧誘すると「新聞を取っている家もわからんのか」、「契約しているのに、何で何回も来るんや」と言われ、挙げ句に「そんな新聞は解約する」と激怒されることがあるからだ。
そのため一般の勧誘員は、色分けされていない白い部分の家だけを勧誘しなければいけない。そこにかける営業を「白叩き」と呼んでいるのである。
過去読者については自店の勧誘員に任せるケースが多いが、客により出入りの新聞拡張員に勧誘させることもある。要するに、店の従業員では勧誘しきれない難しい客をプロである拡張員に回すということだ。こういうのはデータ拡張と呼ばれている。
ちなみに、新聞販売店が持っている詳細な住宅地図には賃貸マンションの部屋毎に住民の氏名が記載されている。もちろん、それはその住宅地図が発行される直前までの情報だが。
独身入居者の多い賃貸マンションでは人の出入りが頻繁だから、5、6年も経つと古くなって使い物にならなくなるケースが多い。
その点、入店先である朝夕新聞三条新聞販売店の住宅地図は去年発行したものだから大丈夫である。
全50戸中、7軒が現読の顧客で赤塗りされていて、過去読者は3軒でオレンジ色、その他が白だった。つまり、京田が叩ける(訪問勧誘できる)のは、それを差し引いた残りの40軒ということになる。
京田は、いつもの癖で、まず最上階にエレベーターで上がり、それから順番に下へ降りていくという方法を採っていた。
これは、特にそうしなければいけないといった決まりのようなものは何もない。拡張員次第だ。
新聞勧誘の仕事は、留守宅だったり、在宅していても断られたりすることの多い仕事だから、下から順番に上がった場合、何軒も留守とか、立て続けに断られ話すら聞いてもらえないという状況が続くと、嫌になって途中で止めてしまうことが多い。
それだと、叩けるすべての部屋を「白叩き」するということにはならず、中途半端に終わる可能性が高い。
その点、上からなら、例えそういった状態になっても惰性で続けられる。この片っ端から叩くというやり方は、例えまったく成果が上がらなかったとしても、良しとすることができる。
少なくとも、京田にとって、そのマンションは「ダメだった」という結果が得られる。その事実が結構重要になる。
無駄も仕事のうちだからだ。無駄の積み重ねが後で活きると京田は信じている。
ダメな場合でも、すべてを回り「潰した」ことにより、次回からそのマンションでの勧誘を避ける、あるいは重要度の低い訪問先にすることで、そこにかける時間を減らすことができる。
それを判断するために全戸叩くのだと京田は言う。上から攻めるのは、そういう意味があると。
もっとも、拡張の仕事というのは、それだけで判断できるほど単純なものではない。
たまたま叩いた時に留守だっというケースもあるし、在宅していても居留守を使っていたり、トイレに入っていてすぐ出られなかったりということがある。
あるいは若い連中だとゲームに夢中になっていたり、パソコンに没頭していたりということも多い。また、ヘッドホンで音楽を聴いていたり、電話に夢中になっていたり、スマホの操作で気がつかなかったりということも考えられる。
中には恋人と……、ということもあるかも知れない。
訪問した家の住人が玄関口に出て来ないというのは、実にいろいろなケースが考えられるわけだ。
そのため、別の日や異なった時間帯に叩くと、また違った結果になることも多い。表に出て来た客でも、勧誘員が違えば違う結果になることもある。
本当は何度も訪れてからでないと確かなことはわからないというのが正しい答えになる。
そうは言っても、拡張員は限られた時間内で契約をあげなければ仕事にはならないから、それぞれが独自の方法で、自分にとって有利な「訪問先」を効率よく見つけ出すしかないのである。
その「若葉マンション」は築5、6年の小綺麗な10階建て1R(ワンルーム・マンション)で、中央にエレベータと階段があり、両サイドに非常階段があった。
中央のエレベータを境に3軒、2軒と左右に部屋が別れている。京田は、いつものようにエレベーターで10階の最上階に上がり、端の1005号室から順番に始めた。
10階には現読の部屋が1軒あるため、それは避け、残り4軒のインターホンを順番に押した。
予想されたことではあるが、そのうち2軒が留守なのか、手が離せないのかわからないが出て来ない。1軒はインターホン・キックで、あっさりと断られた。
最後の4軒目、1001号室から学生らしき、若い男が玄関口に出てきた。
「大石さんですね?」
「どうして僕の名前を?」
表札に名前を出してないのにと、その大石という若い男が訝しがった。それについては最新の住宅詳細地図に載っている「若葉マンション」の部屋別の入居者情報をコピーして持っているだけの話だが、それは黙っていた。
「私たち新聞販売店の者には、地域のマンションの入居者のことなら、たいていはわかっていますので」とだけ言った。こう言えば大方の人間が、そんなものかと思うからだ。
京田は続けて「私、朝夕新聞の京田という者ですが、お時間よろしいでしょうか?」と畳みかけた。
現在、法律で勧誘員は相手方に勧誘の意志を伝えなければならないと決められている。京田の言い方だと、はっきりそれとはわからないという指摘もあるが、法律的には「勧誘の確認」を行ったと推測されるものと考えられている。
「新聞の勧誘?」
殆どの人間が、この大石のように、それと察するからだ。何事も相手にそれとわかれば通じたことになる。
「ええ」
「新聞の記事ならネットで見るから必要ありません」と、お決まりとも言える断りの一言が入る。
「大石さんは学生さんのようだけど何回生?」と、京田は、その断り文句を無視して、ソフトな感じで話を振る。
「今年から3年だけど」
「就職の準備は?」
「まだ」
「それでしたら、今からその準備をしておかれた方が良いと思いますよ」
一時期の「就職氷河期」と呼ばれていた時代に比べれば、いくらか就職状況は改善されているとは言うものの大企業への就職となると、まだまだ狭き門には変わりがないからだ。
その危機感のためか、実際には3年生になると就職活動の準備に入る学生が多いという。
「それが、新聞を取るのと何か関係があるんですか?」
「大いにありますね。大石さんはネットで新聞記事を読まれておられるようですけど、新聞紙面の記事と同じだと思っておられるのですか」
「ええ、そう思っていますけど、違うんですか?」
「かなり違いますね」
確かにWEBサイトに公開されているニュースには、新聞紙面に掲載している主な記事がある。しかし、宅配される新聞紙面と同じ内容の記事がすべて載っているわけではない。
普通、新聞の情報量は、朝刊の場合、単純計算で400字詰め原稿用紙に換算して約500枚程度になる。B6版の書籍にして300ページ分ほどもある。ちょっとした単行本1冊分である。
WEBサイトの無料で見ることのできる記事には、その一部しか載らない。WEBサイトと比べて情報量に格段の違いがある。しかし、そのことに気づいている学生は少ない。
「インターネットで新聞社のWEBサイトを見ているから、新聞は必要ない」というのは、その事実を知らないから、そう言えるだけの話なのである。
無知以外の何ものでもないと京田は、わざとらしく、そう言った。これは相手を、ちょっとだけ怒らせ反論させるように、仕向けることで、こちらの会話に引き込むためのテクニックの一つである。
京田は、さらに続けた。
パソコンに馴染んでいる人には、有料ソフトの無料体験版がWEBサイトに該当すると言えばわかりやすい。
無料の体験版でも、そのソフトの内容はわかる。それをわからせて本ソフトを売るのが目的だから当然と言えば当然である。
ただし、機能は本ソフトに比べて少ないし、制限もある。WEBサイトの新聞記事で満足している人は、無料体験版ソフトで納得しているようなものなのだと京田は力説した。
「大石さんは、将来、どういったお仕事に就きたいのですか?」
「大手商社のビジネスマンを目指しています」
こういったことを自慢げに言う学生には「あんたらのような、しょうもない人間になるつもりはない」というような見下した気持ちがあるからなのだが、京田は、その答えを聞いて逆に「しめた」と思うようにしている。鴨が葱を背負っていると。
新聞は、その名の通り、新しい情報の塊である。実に多くの情報が詰め込まれている。
一面から順に「総合」と呼ばれるその日のトップニュース、重要ニュースに始まり、社説や投書などが掲載された「主張」「解説」があり「政治」「国際」「経済」「商況」「学芸」「家庭」「社会」「地方」「スポーツ」「テレビ・ラジオ案内」と続く。
ビジネスマンになる上で新聞記事に書かれた内容を知っているのと知らないのとでは、大きな違いが生じる。
京田は大石に、「今年の2月1日の朝夕新聞に、『原油相場はなぜ急落したのか』という記事が載っていましたが、ご存知でしたか?」と訊いた。
「いえ……」
「ビジネスマンを目指すのなら、その程度の記事は見ていないと話になりませんよ」
実際、この手の質問を企業の面接官が面接試験の場でするケースが多い。一種の人物鑑定テクニックである。
新聞記事に載っていた記事について質問することで、情報収集能力と分析力、考え方が瞬時に知ることができるから都合の良い鑑定方法なわけだ。新聞を読む行為にそれが表れると考えている。
その時、京田にしたのと同じような返答をすれば「こいつは、新聞を読んどらんな」というレッテルを貼られかねない。
年輩の経営者、重役連中は未だに「新聞も読まない人間」イコール「馬鹿な人間」と思い込んでいる者が多い。そんなレッテルを貼られるのは就職活動をする上で致命的なマイナスになる。
ビジネスマンになるには、そういった情報は常に仕入れておかなければならないという思いが彼らには強いからだ。
「残念ながら、ネット上の無料で読める新聞記事には、『原油相場はなぜ急落したのか』ということについて詳しく解説している記事は殆どありませんし、何より、その記事が掲載されているという事実を知らないと、例えネットにその詳しい解説があったとしても見ることはありませんよね」
まさしく、それがネットの弱点だと言える。ネットは自身の興味のある記事なら、いくらでも探して見つけることができるが、興味のない事柄については何も知ることができない。というか、知ろうとしない。これでは偏った情報しか入手できない。
ビジネスマンとして成功したいのなら、それでは駄目だと京田は言う。
新聞は、その反対で読む人の意志に関係なく、紙面を広げるだけで多くの情報が視覚に飛び込んでくるという特性がある。
例え、興味のない記事でも目につく。目につけば何げなく読むこともある。記事の内容を読まないまでも見出しくらいは見る。
これが、結構、重要な要素になる。記憶に残るからだ。広範囲な情報を得るためには新聞を読むのが最も適しているという理由が、ここにある。
しかも、新聞は重要度の高い情報ほど目につくところにあるから、特に読み手が選別しなくても良いという利点もある。この差は思っているより大きい。
ちなみに、原油の価格が急落している理由として、新聞記事では、「世界的な需要の鈍化」が挙げられるとされている。
欧州の景気低迷に加え、中国をはじめとする新興国も景気の減速懸念が強まっているからだと。
ユーロ圏やロシア、中国で軒並み、景気が伸び悩んでいるためだと言われている。ただし、原油価格下落の最大の要因は需要の鈍化とは別のところにある。
アメリカで本格化したシェール革命による大増産で、世界のエネルギー地図が完全に塗り替えられてしまったからだ。米国のシェールオイル生産は10年足らずで生産量が10倍を超えているのである。
加えて、電気や水素ガスで走る自動車も市販されるようになり、最早、石油のみに依存する時代が終わりを告げつつあるということもある。
新聞を、ちゃんと読めば、その程度のことは造作なくわかると京田は力説する。ビジネスマンとして成功したいのなら、あるいは大手の企業に入社したいのなら、新聞を読むのは必要不可欠なことだと。
「でも、新聞記事全部に目を通すとなると……」
新聞を読み慣れてない学生だと、それが難しいことのように思い込んでしまいやすい。もちろん、誰であってもすべての新聞記事を読むのは大変である。普通に読めば相当な時間を必要とする。
しかし、新聞には簡単な読み方というのがある。
新聞記事には、すべて見出しがついている。朝刊で、およそ200前後の見出しがある。一つの見出しは10字以内とされているから、すべての見出しを読んでも原稿用紙5,6枚分程度だから10分〜15分ほどで読める。
それで、必要だと思える記事をチェックして、後から時間のある時にでも念入りに読むようにすると効率的になる。
見出しだけでも読んでいれば「ああ、そう言えば、そんな記事が新聞に載っていましたね」と言えるから格好がつくし、その人間の評価も上がる。
新聞記事は、重要な内容から先に書くものと決められている。最初の数行(リード)で事実関係と結論があり、後はそれを補足する内容が続く。こういう書き方を逆ピラミッド型と言う。
つまり、記事のすべてを読まなくても最初の数行を読めば殆どの内容を把握できるように書かれているのである。
なぜ、こんなことをするのかというと、限られた紙面の編集をするには、その記事の内容の増減をしやすくしておく必要があるからだ。
突発的な事件やビッグニュースなどで他の記事が増えれば、当該の記事を短くする必要があるし、なければ、適当に後で補足して紙面を埋めることができる。このことが、わかっていれば読むのも早くなるというわけだ。
「そのためにも、今から新聞を読む癖はつけておいた方が良いですよ」と、京田は、大石にそう言って説いた。
ここまで話すことができれば、たいていの学生は納得して成約に応じるケースが多い。それなら一度試しに読んでみようかと。
しかし、この大石の場合は根本的なところが違った。
「それって、タダなんですか?」
「タダ?」
京田は何を言っているのかといった顔をしたが、心の中で「もしかして」と嫌な予感がした。
三条新聞販売店に入店する際、所長の三条芳孝から、他の団の人間が客に金を渡して契約したことが発覚して、しばらくその団の入店を禁止にしたと話していたのを思い出した。
「ええ、以前、勧誘員の人に無理矢理、お金を渡されて契約したことがあるんで」
「それ、うちの新聞?」
「ええ、朝夕新聞でした」
その話が本当なら過去読者ということになる。それなら、この1001号室はオレンジ色に塗られていなければいけないはずだが、白のままである。おそらく塗り忘れたのだろう。
それと知っていれば叩く(訪問)こともなかったのにという思いが強いが仕方ない。希にこういうこともある。
「そうですか、それでしたら、大石さんから契約をしていただくことはできませんね」と京田が言った。あきらめるしかない。
販売店の所長、三条から、「一度でも、金をもらって契約した人間は断ってほしい」と言われていた。そういう客と付き合うと、後々ろくな事がないからと。
ここで、大石から契約を取っても、すぐにわかるから不良カードになる確率が高い。
それに、一度でもタダで購読した人間は、次も同じことを要求する。そんな馬鹿げた要求をする人間と付き合う気はないから、京田としては断るしかなかった。
京田は、「これだけ時間をかけて、これかい」と運の悪さを嘆いたが仕方ない。この仕事をしてれば、こういうこともあると割り切るしかないのである。
京田は気を取り直して、また叩き始めた。9階は全室、無反応だった。誰も出て来ない。
9階から非常階段で8階に下りた時、エレベーター横の803号室の外から、ドアスコープに顔を押し当て室内を覗き込んでいる野球帽を被った不審な若い男がいた。
男は非常階段から人が現れるのを予期してなかったのか、京田を見ると驚いたような素振りを見せ、中央階段に向かって一目散に走って逃げた。
「泥棒にでも入ろうと思うたのやろうか」と、京田は考えたが後を追いかけるまでの気にはならなかった。
その男が何をするつもりだったのはわからないが、京田には関係のないことだ。ややこしいことには関わるつもりは、さらさらない。
格闘に自信がある方ではないから、追いかけて反撃され怪我でもしたら、つまらない。事なかれ主義と言えば聞こえは悪いが、それが無事に生きる術だと京田は心得ている。
ただ、念のため、その部屋の主には、今のことを知らせよう考えた。もっとも、それには、それを口実に勧誘の突破口を見出せるのではないかという下心もあったわけだが。
その部屋のインターホンに手をかけようとした時だった。
「こら何をしとるか!」と、エレベータから飛び出してきた警官3人に京田は、あっという間に取り押さえられた。
「な、何なんですか?」
京田は何が何だかわからず、パニックになって叫んだ。
「4月5日、午後3時5分。男の身柄を確保」
警官の一人がハンドマイクに向かって、そう報告していた。
「ちょっと、待ってくださいよ。僕は怪しい者じゃありませんよ。仕事をしていただけですよ。それに、今しがた、この部屋を覗いていた男を見ましたが階段で逃げて行きましたよ」と、京田は懸命になってそう訴えた。
「お宅らがエレベーターで上がって来ているのを知って階段で逃げたんじゃありませんか。それだと時間的に、まだ4、5階辺りにいるはずですから、そいつを捕まえてくださいよ」
そう言われた警官はハンドマイクで誰かと交信していたが、すぐに「でたらめを言うな。そんな男が階段から逃げてきた事実はない」と、その警官は取り合おうともしなかった。
「あっ、あの男や」
京田は、警官二人がかりで通路側の手すりに押さえられていた。その時、マンションの出口から悠然と歩き去る野球帽を被った男が見えた。先ほどの男に間違いない。
「ええ加減にせい。お前の話やと、その不審な男というのは、まだ4、5階辺りにいるはずなんやろ。それが何で、そんな先をゆっくり歩いとんねん」と、怒ったような口調で警官が言った。
結局、京田の言うことは何も信じてもらえず、そのままパトカーに乗せられ警察署に連れて行かれてしまった。
1階のフロアに着くと外には、パトカーが2台来ていたということもあり、いつの間にか大勢の野次馬が集まってきていて、京田はその連中の格好の見せ物になっていた。中には、その様子をスマホで撮っている者もいる。
テレビで良く見かける凶悪犯が捕まった時の光景と同じである。
「ああ、これで、当分この辺では拡張ができんな」と、なぜかそのことだけが京田の脳裏を横切った。
その後、警察署でいろいろと取り調べられた末、誤認逮捕だったということがわかった。
警察に不審者通報をしたのは、803号室の濃尾由香という若い女性だった。
濃尾由香は最近見知らぬ男につきまとわれ、困っていた。つまりストーカー被害に遭っていたことになる。
この日は、長時間部屋の外でインターホンを押し続けるので怖くなって警察に通報したのだという。
ストーカーというのが、例の野球帽を被った男だった可能性が高い。
その男が京田を見て驚いて逃げた後、たまたま、その女性の通報で駆けつけた警官に京田がストーカーと勘違いされたというわけである。
その京田の窮地を救ったのは、皮肉にも客になるのを断った10階の1001号室の大石だった。
京田は、803号室の前に長時間いなかったと証明するために、話し込んでいた大石のことを持ち出し、警察がその確認を取ったところ容疑が晴れたわけである。濃尾由香が警察に通報した時間と重なっていたということも大きかった。
潔白が証明されたのは良いが、京田には、その野球帽の男の行動がどうにも腑に落ちなかった。
あの時、野球帽の男が逃げたのは階段に間違いない。あの状況なら京田に追われるかも知れないということを真っ先に考えるから、エレベーターに乗り込もうとするはずがない。
しかし、その考えは警官に否定された。階段で下りて逃げるのは不可能だったと。どういうことかというと、あのとき通報で現場に駆けつけたパトカーは3台で警官は2人だけではなく、7人いたという。
3人が現場に向かい、残りの4人は下にいた。
追われた被疑者が中央の階段、もしくは非常階段から逃げるだろうというのは警察も考えに入れていて、そのため、中央階段の1階部分に2人、両サイドの非常階段に1人ずつ待機して待ち構えていたということだった。
あの時、警官が京田の言うことに一切耳を貸さなかった理由がそこにあったわけだ。
そうなると野球帽の男は1階にいた警官4人に怪しまれず、悠然と歩いて立ち去ったことになる。
それが可能なのは、どういう状況か? 考えた末、京田はある仮説を立てた。
野球帽の男が階段で逃げたのは京田が見ているから間違いない。ただし、それは下に向かってではなく、1階上の9階に駆け上がった可能性が高い。
野球帽の男は逃げる途中、下からエレベーターが上がって来ていることに当然気づいたはずである。
もっとも、それに警官が乗っていたとは知らなかっただろうが。また、それが8階に止まることも予測できなかったと思われる。
普通階段で逃げる場合は、誰でも下に降りると考えがちである。野球帽の男も追いかける人間がそう考えるはずだと思い、1階上に駆け上がりエレベーターを呼んで乗って降りた方が安全で早いと判断したものと思われる。
昇ってくるエレベーターが9階に止まれば申し分ないし、それが8階や10階だったとしても降下ボタンを押せばすぐに来るから乗れる。
警察も階段で駆け下りて来る人間を待つことはできても、エレベーターで降下してくる者は、そのマンションの住人だと考えて見逃す確率が高い。
しかも、警官は犯人のいる8階に向かったわけだから、物理的にも犯人がエレベーターに乗れるわけがないと考えたはずだ。
そして、決定的なのが「犯人確保」の一報が1階で待機していた警官たちに届いたことだ。それで警戒を解いたと考えられる。
犯人の野球帽の男は、1階に降りた時、警察を呼ばれたと知ったが、そこで慌てた素振りを見せると怪しまれると判断して悠然と歩いて立ち去った。如何にも、そのマンションの住人のように振る舞って。
京田は、そう推理した。
そして、怒りとともに、その男に興味を持った。ストーカーという愚劣なことをやっている割には、やけに行動が計算されていて知性的で頭の回転も早い。
業界には不運に見舞われた人間に対して、優しく労る者など皆無に近い。人の不運や不幸をネタに笑い飛ばす連中なら多いが。
当然のように、あっという間に業界内で京田の話が広まった。仲間内だけではなく、勧誘時のネタとして話す者もいた。
笑い者にされた人間は、それにより不運が倍増する。どこに行っても、その話から逃げられないからだ。
京田は、ストーカー男を見つけることにした。京田にもプライドがある。そのプライドを保つためにも笑い者にされた原因をもとから絶たねばならない。
それには犯人を挙げることが一番だ。京田は、それしかないと考えた。
しかし、京田はそうすることにより、さらなる不運に見舞われることになろうとは想像すらしていなかった。
第1章 群雄割拠 その2 ジゴロを追え へ続く
白塚博士の有料メルマガ長編小説選集
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