メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー

第100回 ゲンさんの新聞業界裏話


発行日 2010.5. 7


■新聞の実像 その3  新聞業界、それぞれの使命とは


ワシら拡張員は新聞を売るのが仕事や。それは、はっきりしとる。

営業するという一点で言えば、それなりにやりがいのある仕事ではある。

しかし、使命感を持ってそれをしとるかと問われると、その返答に困る。

昔なら、「より多くの人に正しい情報を知らせる」、あるいは「教養を身につけさせる」、「識字能力を上げる」ということのために新聞を売り込むのが使命やと言えば言えたかも知れんが、今の時代、それを理由にするのは少し弱い。

インターネットやテレビなどの媒体が広く普及しとる現代において、新聞を売ることが「より多くの人に正しい情報を知らせる」ための唯一の方法とも言い難いし、「教養を身につけさせる」というのも違うと思う。

「識字能力を上げる」に至っては、国民のほぼ100%が字を書き読めるわけやから、そのために新聞を売り込むことが使命やと言うのも何かおかしな話やしな。

「新聞を読めば賢くなりまっせ」と言えば、以前なら「なるほど」と納得して貰えたことが、今は、あまり通用せん時代になった。

その昔、新聞がまだ少数の人間しか読んでなかった時代なら、その普及にはそれなりの意味もあり、大いなる使命感を持つこともできたと思う。

しかし、現代の「無読者」は、その新聞の内容を批判する人間が大半で、その価値を認めとるとは言い難い。

新聞が何であるかを自分なりに理解した上で、無読を貫いている人が多い。

それら諸々の事を考えると、果たして「新聞を売る」ことが世の中、社会のためになっているのか、人の役に立っているのかという疑問を抱く。

単に仕事やから売っているだけやないのかと。

世のため、人のためというものがないと「使命感」など、湧くもんでも持てるもんでもない。

加えて、ワシら拡張員の多くが、そのシステム上の問題で、「特定の新聞」に愛着が持ちにくいということもあって、尚更、そういう気にもなる。

新聞社に勤務している人間なら「愛社精神」は育つやろうが、ワシら拡張員は、その新聞社からは、それほど大切には扱われていないという実感が強い。

その存在、実態すら、未だに新聞紙面上にも公にされていないし、疎(うと)ましくさえ思われている。

少なくとも、そう感じとる拡張員は多いと思う。

どんな業界のどんな商品販売においても、その営業部門は花形的存在なのやが、なぜか新聞となると、そういう扱いやなく、厄介者として見られているフシがある。

もちろん、それには「無法な勧誘」を行っているという事実もあるから、それを広く知らせることはマイナスになるという考えもあって、一概に新聞社の責任ばかりとも言えんのやがな。

ただ、人は認められてないと知ると、それに応えようとは考えんものや。

それにより、ほぼ必然的に多くの拡張員が、「どの新聞でも売るのは同じ」と考える。

それが「特定の新聞」に愛着が持ちにくい大きな要因になっとるのは確かやとは思う。

実際、新聞の銘柄による売り込みの差というものも、その地域のシェア次第、その新聞のファン層次第というのが多少影響ある程度で、それ以外はあまりない。

多くは、その拡張員の個人的な力量で売っているのが実状やと思う。

そこから、ワシは新聞を売り込むには「人間関係を重視」するという必要性を痛感し、それを実践しとるわけや。

その新聞がええから売れるのやなく、売り込む人間がええから売れるのやと。

それを前面に押し出して売るのやと。

それでないと新聞は、そう容易(たやす)く売れるものやない。

新聞の銘柄自体にはブランド力はない。

なぜなら、その地域においては、どの新聞であろうと、それなりにすべてが有名な存在には違いないわけやさかいな。

無名の新聞などあり得ない。

案外、ブランド力があると思うとる、思いたいのは、新聞社くらいやないかなという気がする。

いずれにしろ、売る側の立場からすれば、殊更(ことさら)、新聞の銘柄で売り込む必要はないということや。

そんな状況で、ワシら拡張員に売り込む新聞に対して「愛着を持て」、「使命感を持て」というのは難しいのやないかと思う。

正直、ワシ自身、過去、A紙、S紙、Y紙と全国紙3紙の新聞を売り込んでいたということもあるが、それぞれの新聞には、取り立てて愛着があったわけやない。

営業のために、それぞれの新聞を売り込む特徴や利点についての把握はしとるつもりやったが、あってもその程度や。

もっとも、「売り込む新聞に愛着がないのに売っていたのか」ということで節操がないと言われれば、その批判は甘んじて受けるがな。

ただ、拡張員の場合、世話になった拡張団への恩義を感じとる者は多い。それが愛社精神につながると言えば、そうなるかも知れん。

これが、新聞販売店ともなると、まったく話は違ってくる。

新聞販売店、および配達人には、どんな災害に見舞われようと、どんなに悪天候であろうと、どんなに体調の悪い日であろうと、新聞の配達を中止するという発想がない。

何が起ころうと新聞の配達は絶対にする。

このメルマガでも、『第71回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■悪天候時の新聞配達の見直しについて』(注1.巻末参考ページ参照)で、そのことに言及しとる。

しかも、それで毎年のように命を落とされる配達員の方が、おられるのにも関わらず、誰もそれに対して臆することなく、それを当然の事として貫徹する。

まったく、頭が下がる。

そこには、崇高なる「使命感」があるからやと言う外はない。

おそらく、日本中の約2万店舗あると言われとる新聞販売店において、休刊日以外で、ただの1日も新聞が配達されんかった日はないのやないかと思う。

すべてが、そういう意識で統一されとる業界の店舗が他にあるやろうか。

世間の心ない人の中には、新聞販売店のことを「新聞屋」と半ば卑下(ひげ)したような言い方をする者がいとるが、その一点おいては、誰よりも誇れる仕事やないかと考える。

少なくとも、何も知らん人間から蔑(さげす)まれる謂(い)われなど何もないはずやと思う。

新聞社はどうか。

新聞社で働く人間の多くは、ワシなんかとは違うて、愛社精神は旺盛やろうと思う。

特に記事を書く、編集するという部署にいれば、常に他紙との競争に鎬(しのぎ)を削ることになるわけやさかい、嫌でもそうなるはずや。

ただ、常に「使命感」を持って新聞を作っとるのかと問うた場合、どれだけの人間が胸を張って、そう言い切れるのかは、はなはだ疑問やとは思うがな。

人は日々の生活、仕事の中では、往々にして流されやすい生き物でもあるしな。

ある現役の地方紙新聞記者の話がある。


http://shigahikone.blogspot.com/2010/01/blog-post_4207.html より引用

2010年1月19日火曜日

新聞とは何か―「使命感」と「忘己利他」の精神を抱きながら


 阪神・淡路大震災15年目に合わせて先週16日、フジテレビ系列で放送されたドラマ「神戸新聞の7日間」は、新聞とは何か、記者の役割とは何か―を改めて考えさせられた真に迫る作品だった。

 ドラマは、震災で本社ビルや新聞を製作するためのメインコンピューターが破壊された中で、新聞製作を続ける社員の奮闘と、悲惨な街で取材をする記者たちの葛藤をえがいていた。

 友人を亡くした写真記者、血まみれになりながら新聞製作に打ち込む整理記者、父親が亡くなったことを社説で紹介する論説委員、身内が行方不明になっている社員たち―。そのような状況でも黙々と新聞を作る生き様に、新聞記者または新聞作りに携わる者にとって、使命感がどれほど大切かを理解するのは容易であろう。

 小生は、労働とは、自分自身や家族のために働くというよりも、「忘己利他」の精神、つまり「他」の幸せや喜びのために働くことをいうと考える。特に新聞社で働く者にとっては、その精神が他業種よりも求められ、他の喜びが自身の喜びにも繋がるという情念を抱かなければならない。

 新聞業界は、テレビやインターネットに押され気味であるのは否めぬが、立法・行政・司法の「三権」を動かし、世論を形成させるのは元来、新聞の役割である。 

 社会の急速な変化により、新聞社の多くが紙媒体とネットの両輪で展開しているが、新聞社に与えられた使命は不変である。要領だけを覚え、ねじが緩みがちな我々、新聞人にとって、「神戸新聞」の社員の勇姿は、自戒の念を抱かせたと共に、意気に感じさせられた。


というものや。

人は有事において、また過酷な状況に追い込まれて、その使命感に気づくことが多い。

それで燃える。

それは、ちょうど、このメルマガでも紹介した『第31回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■映画「クライマーズ・ハイ」に見る新聞報道の現場 前編』、『第31回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■映画「クライマーズ・ハイ」に見る新聞報道の現場 後編』(注2.巻末参考ページ参照)の話と符号する。

その映画は、乗員乗客合わせて520名もの人命が失われた日航ジャンボ機123便の墜落という世界最大規模の事故の起きた地元の地方新聞社が舞台になっている。

そこの記者たちの葛藤、活躍を描いたものやが、その有事があるためにそれぞれが、それぞれの立場で使命感を持って、必死に事に当たっている姿が観る者に感動を呼ぶわけや。

実際にも、その現場で仕事された方々は、すべてがそうやったのやないかと思う。

新聞に掲載される記事は、「事件」、「事故」、「出来事」などの連続なわけで、常に「有事」なんやが、その記事を作っている編集者、記者さんたちには、そういう意識には、なかなかなりにくいようや。

この日本だけでも、殺人事件は、年に1300件ほども起き、交通事故の死傷者は年1万人を数え、単純な病死者になると実に年間100万人以上もの人が亡くなっている。

その人たちの中で、誰もが知るほどの新聞の記事になるのは、ごく僅かでしかないわけや。

殺人事件なども、よほど特異な事件でもなければ大きく報道されないし、交通事故も大事故や悪質なもの以外では、あまり取り上げられない。

病死者に至っては有名人以外では、まず報じられることはない。

新聞社では、それらの事件、事故、出来事の中から常に選別して記事にするという作業を日常的に繰り返しているわけや。

そうそう阪神・淡路大震災のような大災害や日航ジャンボ機123便の墜落という未曾有の大事故が起きることなどないさかいな。

その新聞にどの記事を掲載して、ボツにするかは編集者に任されている。

新聞は公器という表現を良く使うが、実際はその新聞社の一部の編集者による思惑で記事が選別され決定されていると言うても過言やないと思う。

その編集者も人間である以上、間違いを冒すこともあればミスをすることもある。

サイトにも時折、新聞の偏向的な記事に嫌気が差して講読を止めたいという方が相談、あるいは投稿されて来られるケースがある。

新聞に偏向的な記事があってはならないというのは建前としては正論やが、哀しいかな一部の編集者による思惑、選別されているという現実がある限りは、見方によって、どうしてもそう見えてしまうことも多い。

あるいは、本当に意図してそういう記事が掲載され、ボツにされるということがあるのかも知れん。

そういうことはないと信じたいのやが、先頃、『ゲンさんのちょっときいてんか NO.12 私がM新聞の講読を止めたくなった理由……頑張れ小沢一郎さん』(注3.巻末参考ページ参照)という投稿記事が寄せられたのをきっかけに、ワシらの中で新聞記事に対する信頼が揺らぎ始めたのは確かや。

現在、多くの報道機関は「小沢一郎」という政治家を「悪の権化」として捉え、そう報道している。

果たして、そうか。

ワシは、はっきり言うが、小沢一郎氏のファンでもなければ、支援者でもない。

民主党政権の最実力者やというのを知っとる程度や。

彼が巷間言われているような「政治資金収支報告虚偽記載」に関与したのかどうかということやが、それについては詳しいことは何も知らん。

というか、そういうのには、あまり興味すらなかった。

それには、それをしていたとして、誰が困り、国民にどんな不利益があるのか良う分からんからや。

ワシは基本的には、その行為で誰かが迷惑を被る、被害を受けるという事があって、初めて「悪事」やという思いがある。

その被害者が特定されんような事案で、単に法律に触れたというだけでは、あまり攻撃する気にはなれん。

もちろん、それを許せん、正義に反するといって攻撃したい人を批判するつもりもないから、それするのは自由や。好きにされたらええ。

巨悪と対峙するのが新聞の使命と考えとるということもあるようやから、新聞がそう報道するのも、それが事実である限り、構わんと思う。

ただ、今回寄せられた情報により、どうやら、新聞やテレビで言われとるような事とは少し様子が違うのやないかと考えるようになったのは確かや。

その投稿があったのが、5月1日の夜で、掲載したのが、5月4日の早朝。

ハカセも、その投稿の内容が気にかかり、少しばかり調べてみたという。

その結果、小沢氏に、そもそもその罪そのものが最初からあったのかという疑問を抱くようになったと。

その投稿に、


今回の検察審査会に小沢さんに対する不起訴不当の申し立ては、「在日特権を許さない市民の会」会長のSさんが一人で申し立てし、その場で正式に受理されたと、ご本人のブログ、2010年2月5日付の記事にそう書かれています。

中略(引用ブログ記事の内容)。

そして、結果が先日の検察委員会による11名全員による起訴相当ではないですか?

また、そのブログに書かれている小沢さんに対する申し立て理由は、小沢さんが不起訴になった事で外国人参政権法案の国会上程を目指す事を阻止する為と書かれています。

こんな事をどこのマスコミも知らせないではないですか?

起訴理由になんら関係のない理由が申し立ての大きな理由であり、たった一人で申し立てを行い、その場で正式に受理された!と。

一人の人間の罪を調べる為に一年を要し、全ての証拠を差し押さえ結局何も罪が問える材料が出てこない事での不起訴が、そんなたった一人の思惑で、起訴になる確率が高くなる・・。

ただ罪を作りたい人の思いだけで、この国の犯罪者が作られるというのが実状だということになります。

純粋に小沢さんの罪を問いたいというのなら、それも分からないではありません。

しかし、本来の目的は別にあり、その目的を遂行するために小沢さんが邪魔だから、そうしたと広言していることを問題にしないというのは異常すぎます。

こんな怖いことはありません。

一体何の為のメディア・マスコミですか?

正義も公平もないことは国民にとって大きな不幸です。


とあった。

検察による小沢氏への不起訴決定の不服申し立ては、そこそこの市民団体がそれなりの人数を擁して訴えとるのやろうと考えていた。

まさか、それがたった一人の思惑によるものやとは考えもせんかった。

検察審査会というのは、そんな軽いものかと。いくらクジ引きで決められた人間の集まりやとしても、それはないやろうと。

しかも、その人物に止むに止まれん思いがあったのでもなく、本人の弁からすると、他の目的を遂行するために、それを実行したとある。

実際、新聞社をはじめとする多くのマスコミが、たった一人の訴えで、しかもその狙いは別にあると広言しとるという事実を掴んでないはずはないから、それを報道せんかったというのは、その投稿者の言うとおり、異常なことやという気がする。

おそらく、ワシと同じように、多くの人が、そこそこの市民団体の訴えでやむを得ず取り上げたことやと思うてたはずや。

事実は違った。

そこに何らかの思惑が働いたと勘ぐられても仕方ないと思う。

たった一人の訴えで簡単に受理され、しかも、それで検察審査会の11名全員が「不起訴不当」と判断したという事実を多くの人が知れば、ワシと同様、意外なことやと考えるのやないやろうか。

それを知られないために、あえてその報道を伏せた。

巨悪を追及する新聞社にとって、マイナスになるような事実と情報は伏せといた方がええと。

そういうことなのか。もし、そうやとすると、それはフェアやない。

事実を握りつぶして、巨悪を追及するという姿勢は、明らかにおかしいやろ。

新聞は、すべての事実を公開して、その巨悪を追及するべきや。それでないと、そのことの是非よりも、新聞そのものの信頼性が損なわれるのと考えるがな。

検察審査会のメンバーは一般市民やということやが、もし、そこにワシが入っていたらと考えた場合、そんなたった一人、しかも調べればすぐその素姓の分かるような人間の訴えで、果たして即座に「不起訴不当」という結論を下すやろうかと思う。

誰一人、それに対して疑問を持つことはなかったのかということを考えれば、考えるほど不思議な気持ちになる。

そこで、一体どんなやり取りがあり、そんな結論に達したのか。

その報道は一切ない。ただ、結論として「不起訴不当」というのがあるだけや。

確かに「刷り込みの怖さ」というのはある。

新聞やテレビ報道で、連日に渡り「小沢一郎は悪人」という風に言われ続けていれば、それに反対する者は「悪」として見られるのやないかという恐怖が芽生える。

あるいは、知らず知らずのうちに、その検察審査会の人たちは、それらの報道に染まっていた、誘導されていたのかも知れんという気がする。

ワシは、新聞やテレビの報道くらいで簡単に誘導されるはずはないと考えていた。

ワシ自身が、そうやという自信があるさかいな。

サイトのQ&A『NO.588 残念ながら、サイトにあきれています』(注4.巻末参考ページ参照)で、ワシらに意見ありと質問されて来られた人がいてた。

その人は、『日本人は、メディアの発言を鵜呑みします』と言うておられ、それに対しては、


これについてもそうやが、あんたは本当に独善的なお人やな。何でそう決めつけるのやろ。鵜呑みにせん日本人かておるで。

ワシやハカセはむろんやが、あんたにしても、そう言うくらいやから、メディアの発言なんか鵜呑みにはしとらんやろ。他にもそんな人はいくらもおられるはずや。


と言うた。

しかし、今回のようなことがあると、その人の言うことも、あながち的外れやなかったのないかという気にもなる。

その人の質問の中に、


新聞にこの世のすべての事象が載ることは理論的に見てありませんが、事実に反した報道があること、メディアが取り上げようとしない不都合な事実があることは、メディアリテラシーのある人は誰でも知っています。


と言うておられた部分があった。

そのときには、それを認めることはできんかったが、今、同じ質問をされると、同じように反論できる自信がない。

ワシが、そういう気持ちになったのは、『ゲンさんのちょっときいてんか NO.12 私がM新聞の講読を止めたくなった理由……頑張れ小沢一郎さん』を見た読者の方が知らせてくれた、決定的とも言える情報のためや。

それを紹介する。


私も、「とも」さんの意見に賛同します。

小沢一郎さんは完全に無実です。まさに、今、えん罪が公然と作られようとしています。

その証拠として、下記のブログ記事での記述がすべてを語っていると思います。


5月4日のElectronic Journal「●「期ずれは過失でも虚偽でもない」(EJ休日特集号/002)」(注5.巻末参考ページ参照)より引用。


 少し法律論を展開しますが、誰でもわかるように平易に記述します。まず、前提とすべきは、この小沢事件が起こった当時、政治資金で土地を購入することは禁じられていなかったということです。

 マスコミは小沢氏だけが土地を購入していると書いていますが、事実と異なります。自民党はもとより他党の多くの議員が政治資金で土地を購入している事実があるのです。

中略。

 つまり、「期ずれ」は小澤事務所の過失でも虚偽記載でもなく政治資金で土地を購入するための必要な手続きにおいて、必然的に発生するものなのです。

 したがって、何ら政治資金規正法に違反していないのです。

 いつも不思議に思うことがあります。それは、民主党には枝野氏をはじめとして、多くの弁護士がいます。つまり、法律のプロがごろごろいるのです。

 そういう人たちは、小沢幹事長に「辞任せよ」とか「説明責任を尽くせ」という前に、なぜ、事実関係を調べないのでしょうか。

 別に小沢氏に聞かなくても、公開されている情報を調べれば、誰でもわかることです。まして弁護士ならそういう事実関係は掴めるはずです。

 その事実関係は以上の通りなのです。党としての調査の結果、問題がないとわかれば、民主党に対する不当な議決であるとして、堂々と反対意見を述べてもいいのではないでしょうか。
 
 ところが、そういう前向きの努力を一切しないで、しめたとばかり小沢氏の足を引っ張る。実に見苦しいです。

 政権運営がさまざまな点でもたついているのは仕方がないでしょう。まだ一年経っていないのですから。慣れていないの一言に尽きます。

 国民も性急過ぎると思います。民主党の小沢氏と距離を置く人々は、政権交代までは小沢氏を利用し、それが実現したいまは小沢氏は追い出そうとしているのではないでしょうか。

 本当に小沢氏が悪いことをしたのであれば、それは許されることではありません。しかし、ネットなどから情報を集めて分析をする限りにおいて、小沢氏はご本人のいう通り、法律を犯すことは何もしていないのです。

 それなのに、なぜこれほどバッシングされるのでしょうか。その罪はマスコミにあります。

 たとえ検察がおかしなことをしても、マスコミが健全であればそれは是正されます。それがマスコミの使命であると思います。


この投稿の真偽、あるいは小沢氏の問題については後日、もっと良く調べた上で、このメルマガでも詳しく話すつもりにはしとる。

ここに示した記事の出所は、その小沢一郎氏を支援されている方々ということでもあるしな。

その記述だけで、そうやと断じることはワシらにはできん。その反対意見も良く吟味する必要があるさかいな。

公平なジャッジは、それでないと下すことができんからな。

この件について読者の方々の中で、何か情報なり、意見なりがあれば、是非、お知らせ願えればと思う。

しかし、今のところ、この記事の内容には、それなりの説得力があるのは確かや。

新聞が、昔から巨悪を追及することが使命やというのは知っている。それはそれで崇高なことやし、その意気を失ったらあかんことや。

しかし、それには、その人物なり団体が罪を犯しているということが事実やという大前提が必要になる。

事、この小沢氏の一連の問題に関してだけで言えば、新聞やテレビ報道内容と、上記の証拠付きでの分かりやすい解説内容とを比較すると、残念ながら後者に軍配を上げざるを得んと思う。

説得力に数段の開きがあると。

しかし、いかんせん、その意見は、今のところ封じ込められている。

ネット上では、その事実を知って、少しずつ様子が違ってきとるとは言うものの、やはりまだ、新聞やテレビによるマスコミの影響力には絶大なものがあると認めんわけにはいかんやろうと思う。

ただ、真実は強い。いずれは人々も必ずそれに気づくときがくるはずや。

今からでも遅くはないから、新聞各社も事実に基づいた報道をしてほしいもんやと思う。

少なくとも、握りつぶしだけはせんといてほしい。

人の犯罪を追及する場合、その報道機関はすべての情報を公開するべきや。

それがないと、意図的に事実を隠蔽し、世論を操作しとると勘ぐられても仕方ないさかいな。

その真実を多くの人が知る段階になれば、新聞の唯一とも言える報道の確かさというのが地に落ちることにもなりかねんわけや。

新聞は世論を誘導したという分かりやすい事例として、この問題が長く語り継がれることになるかも知れん。

そうなってからでは、すべてが手遅れや。「新聞の進退ここに極まれり」ということになる。

先に挙げた、有事の際の崇高な記者さんたちの行為や使命感すら色あせてしまいかねんさかいな。

そうならんためにも、くれぐれも「新聞の使命」というものを履き違えんといてほしいと思う。

巨悪は作るものやなく、あぶり出すものという基本に立ち返ることやと。

そして、その巨悪を追及するのなら、その反論をさせんくらいの事実を突きつけて、説得力を示す必要があると。

新聞がペンで負けとるようやと救いはないで。ホンマ。



参考ページ

注1.第71回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■悪天候時の新聞配達の見直しについて

注2.第31回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■映画「クライマーズ・ハイ」に見る新聞報道の現場 前編

第32回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■映画「クライマーズ・ハイ」に見る新聞報道の現場 後編

注3.ゲンさんのちょっときいてんか NO.12 私がM新聞の講読を止めたくなった理由……頑張れ小沢一郎さん

注4.NO.588 残念ながら、サイトにあきれています

注5.Electronic Journal「●「期ずれは過失でも虚偽でもない」(EJ休日特集号/002)


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