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第110回 ゲンさんの新聞業界裏話

発行日 2010.7.16


■新聞購読へのススメ その1 新聞を読むことで向上する学力について


世界で最も賢く優秀な国民。

そう信じとる日本人は多いと思うが、本当にそうなのか。

確かに、現在、テクノロジー(科学技術)の分野での優秀さは世界でもトップクラスなのは間違いないと思う。

ただ、それが今後もずっと維持され続けるのかとなると懐疑的にならざるを得ない。

PISA(学習到達度調査)というのがある。(注1.巻末参考ページ参照)

PISA(学習到達度調査)というのは、OECD(経済開発協力機構)が、加盟国の15歳児について学習到達度調査を目的に行なっている国際学力テストのことをいう。

2000年から実施され、3年に1度行なわれている。

調査は読解力、数学的リテラシー(応用力)、科学的リテラシーの3分野からなり、2006年の調査には、57の国と地域、約40万人の15歳児が参加したという。

この調査結果を見る限り、日本の15歳児の学力がその調査毎に著しく低下していっているというのがよく分かる。

過去、日本人が秀でていたはずの数学的リテラシーの分野では、2000年の第1位から2003年、第6位、2006年、第10位と急降下している。

科学的リテラシーでは、2000年、2003年、共に第2位を維持していたものの、2006年では第6位になった。

読解力においては、2000年、8位から、2003年、14位、2006年、15位という結果になっている。

これらの傾向は、今後も続き、さらにひどくなるのは容易に想像できる。

このままやと日本の将来は暗い。

一体、いつからこんなことになったのか。

このPISA(学習到達度調査)が行われ始めた2000年が、一つの分岐点になっていると推測できる。

今から10年前や。その頃に何があったのか。

真っ先に、そのやり玉として挙げられているのが、「ゆとり教育」の弊害ということのようや。

ゆとり教育とは、今までの知識重視型の教育方針は詰め込み教育であるとして、経験重視型への教育転換を目指したものとされている。

「ゆとり教育」は、それまでの「詰め込み教育」に反対していた日教組や教育関係者、経済界などの有識者などから支持されていたが、PISA(学習到達度調査)などによる生徒の学力が低下していると指摘され、批判されるようになったことで、現在、否定的な見方の方が強い。

その「ゆとり教育」が叫ばれるようになった背景には、1990年代の少年犯罪の多発、校内暴力、いじめ、登校拒否、落ちこぼれなど、学校教育や青少年に関わる様々な社会問題が大きな要因として挙げられていた。

それには、子どもたちの生活の現状に、ゆとりの無さ、社会性の不足と倫理観の問題、自立の遅れなどを指摘する声が多かったからや。

そのため、教育のあり方を基本的に見直し、「生きる力」の育てる必要があるとの結論から導入されたものやった。

それにより、週休2日制の導入や授業時間短縮などの「ゆとりの教育」が始まった。

この考え方自体には、それなりの根拠もあり、必ずしも間違いやったとは言い切れんが、そのための授業時間短縮、授業科目の減少から、必要な教育まで削ってしもうたことが、結果として、子供の学力低下を招いた大きな原因になったことは否定できん事実やろうと思う。

それが、PISA(学習到達度調査)に、はっきり表れたと。

次に、テレビゲームの普及を挙げる人間もいとるが、これは何も日本だけの問題ではなく、PISA(学習到達度調査)加盟国全般に見られる傾向やから、ゲームのやりすぎが、日本の子供の学力低下を招いた主たる原因とは言えんと思う。

日本の子供が、他国の子供たちと比べて突出して多いのが、テレビやDVD鑑賞の時間やという。

学力低下最大の要因は、ゴールデンタイムを占拠しているテレビのバラエティー番組の存在やと言い切る識者が多い。

教養の側面から見た場合、日本のテレビ番組、取り分けバラエティー番組は突出して程度が悪く質が低いと。

まあ、何を持って程度が悪く質が低いとするのかという問題はあるがな。

識者と称する人間は、その時代、時代に流行っているものを、そう断じて否定的な見方をするものと相場が決まっとる。

例えば、現代では伝統文化の代表のように考えられている「歌舞伎」にしても、その初期の頃は単に変な格好をした連中のつまらない芝居という風にしか評価されてなかったと言うさかいな。

歌舞伎の由来は、「傾(かぶ)く」の連用形が名詞化して「かぶき」になったという。

あるいは、戦国時代の末期から江戸時代初頭にかけて京都や江戸で流行した、派手な衣装や一風変った異形を好んだり、常軌を逸脱したりした者たちのことを俗に「かぶき者」と呼ばれていたのが、その語源とも言われている。

その歌舞伎には「世話物」と呼ばれている当時の現代劇があり、庶民の暮らしぶりを題材にした演目が一般庶民の間で人気を博していたとのことやが、武士や貴族といった当時の特権階級、知識階級たちからは蔑まされていたという。

程度が悪いと。

それが今や格式の高い伝統文化の象徴になっとるわけや。

また、ワシらの子供の頃から、マンガが広まり出し、テレビでもアニメ番組が放映され始めたが、それも識者と呼ばれとる連中からは程度の悪いものと断じられてきた。

それも今では、マンガやアニメは日本文化を代表するもので世界に誇れるとまで言われるようになっとる。

事ほど左様に、識者の「程度が悪い」、「質が低い」という評価ほどアテにならんものはないということや。

それからすれば、今は低俗と言われている「バラエティー番組」も未来の社会では格調高いものになっとるかも知れんさかいな。

それなら、その子供の学力が低下した根本的な原因は何なのか。

ワシは、ズバリ「新聞を読まんようになった」からやと思う。

その2000年頃を境に、若い人たちを中心とする新聞離れが顕著になっていったわけやが、PISA(学習到達度調査)の結果は、それと符号しとるとしかワシには考えられん。

世界的にも優秀と言われていた昔の子供は皆、普通に新聞を読んでいた。

新聞の購読理由で最も多いのが、惰性で読んでいるという人たちやが、その人たちは、何も「さあ、今日から新聞を読むぞ」と新に意気込んで、そうしたわけやない。

毎日届けられる新聞がそこにあったというだけのことや。そこに新聞があれば読む。それが少なくなれば、その分、読む機会も減る。

単純に言うてしまえば、それだけのことやが、それが、子供の学力の低下として表れとる大きな原因のように思う。

ここにそのデータがある。

文部科学省が、小中学校の最高学年(小学6年生、中学3年生)を対象とした全国学力テストを毎年、4月の第4火曜日に実施しているが、その際、ある興味深いアンケートを一緒に集めているという。

そのアンケートの中に「新聞やテレビなどのニュースに関心がありますか?」という設問がある。

そのアンケートで、「関心がある」と答えた生徒と「関心がない」と答えた生徒では、ほぼすべてのテストの平均点が、15点から20点ほども違うという結果が出ているという。

もちろん、「関心がある」と答えた生徒の方が上や。

その一例として、小学6年生の場合、新聞を読む回数が「ほとんどない」と答えた生徒の「国語B」平均点が37点に対して、「週に数回読む」と答えた生徒の平均点は56点やったという調査結果がある。

そして、これはPISA(学習到達度調査)で得られた結果とも、ほぼ一致するという。

世界的に見て、新聞をよく読む子供ほど成績がええという結果になっていると。

ただ、せやからと言うて、「新聞を読むから学力が高い」とは一概に決めつけられんとは思うがな。

なぜなら、学力の高い子ほど知的好奇心が高く、その結果として「学力の高い子供は新聞を読む」とも言えるさかいな。

ワシとすれば、新聞を読むから賢くなるのやと言いたいのやが、その科学的裏付けがない以上は、そうと決めつけるわけにもいかん。

しかし、新聞の購読率の減少に伴って、子供の学力が低下しとるのだけは確かで、これを単なる偶然の一致と片付けることもできんと思う。

日本の場合、読解力においては、2000年、8位から、2003年、14位、2006年、15位という結果で止まっているが、日本よりも新聞の購読率の減少が著しいアメリカの場合やと、2000年、15位、2003年、18位になっていて、2006年は「記録なし」という事態にまでなっとるという。

日本では、現在、若い世代での新聞離れというのが、業界での深刻な問題になっとるが、これは業界だけでなく、日本の未来にとっても由々しき大問題になりかねんことやと思う。

なぜなら、その若い世代が結婚して家庭を持つようになっても、その新聞離れした生活が変わるとも思えんさかい、相変わらずの「無読」に徹するものと考えられる。

そうなると、当然のことながら、その子供たちも新聞を読む機会がなくなる。

新聞を読む機会が減れば、さらなる学力低下は避けられんということになる。

しかし、ここにきて、それが救われる可能性が、僅かながら生まれた。

来年の2011年から施行される小中学校の新学習指導要領というのが、それや。

ただ、これについては以前の「詰め込み教育」に戻すとも言えんから、「ゆとりでも詰め込みでもなく、知識、道徳、体力のバランスとれた力である生きる力の育成を実現」するという、何とも苦しいスローガンではあるがな。

要するに、今までより勉強の科目、時間を増やそうというものや。

その中に、「新聞を教材にした授業」が導入されるという。

もっとも、一部の学校では、すでに20年以上も前からNIE(Newspaper in Education)で実際に、その新聞を使った授業が導入されとる地域もあるがな。

NIE(Newspaper in Education)とは、日本新聞教育文化財団(注2.巻末参考ページ参照)が押し進めているもので、今年、2010年度のNIE実践指定校は全国47都道府県で533校に上っているという。

尚、これには大学は含まれていない。大学では、それ以前から「新聞」を教材に使っている教授や講師も多く、その数は把握できていない。

余談やが、ワシら拡張員は、その大学生相手に「教材で使われているから購読しないと損ですよ」、「企業の就職試験でも新聞紙面から問題が出されるケースもありますよ」というトークを使って勧誘しとるさかいな。

いずれにしても、教育現場では、それなりに認知度も高く、効果も上がっていると聞く。

それを文部科学省が、今回の新学習指導要領で、社会科系の授業で週一程度の範囲で「義務化」しようということになったのやろうと思う。

新聞を教材に使って教えるというのは、新聞離れしている子供たちにとっても、業界にとっても、ええことやと考える。

ただ、問題も多い。

1.日本の場合、公営新聞というものがなく、すべて民間企業ということで、特定の新聞が限定できんという難しさがある。

教材にする限りは、生徒が同じ新聞を教材として持っとく必要がある。またはそうした方が望ましい。

何でもええから「新聞を持って来い」では、その持ち寄る新聞によっては、その教材とする「記事がない」、あるいは「少ない」ということが起き、教材として役に立たんことも考えられるさかいな。

しかし、そうすることが、この日本では困難やということや。

2.その教材となる新聞をどうするのかという問題もある。

新聞は、生徒それぞれが家から持ち寄るのか、学校側が用意するのか、あるいは新聞各社がそれぞれの学校に無償提供するのか、それによって大きく違ってくる。

新聞を家から持ち寄る場合、指定された新聞を購読していない、あるいは「無読」で新聞を取ってないという場合、コンビニや駅売りなどの店頭で、その都度、その新聞を買わなあかんことになる。

それに保護者や生徒がどこまで「仕方ない」として応じるのかという難しさがある。

まあ、実際に始まってみんことには分からんと思うがな。

学校が用意する、または新聞各社が提供する、新聞販売店がそれぞれ独自に学校に売り込むという場合、そこに利権や過当競争が発生する可能性も考えられる。

3.新聞業界の救済という批判が起きやすい。

新聞の購読率は今以て、80%台以上を確実にキープしとると思うが、年々その売り上げが落ち込んでいるのは否定できん事実や。

それは新聞の売り上げが落ち込むことに対するテコ入れ対策でしかないという批判が上がる可能性が考えられる。

また、そういった新聞の売り込みそのものを教育の現場に持ち込むことについての批判も上がるものと思われる。

新聞否定論の保護者もおるやろうから、学校で新聞を教材に使うことに反対して、その新聞を持っていくこと自体を拒否するケースもあるのやないかという気がする。

それで果たして授業として成立するのやろうかという危惧が生じる。

4.新聞には、残念ながら、そこに人が介在する限り、誤報記事や捏造記事、冤罪報道といった報道被害の発生が避けられんという一面がある。

当然やが、そういった記事であっても、そのときは、それが正しいものとして生徒に教えてしまうことになるわけや。

その弊害がある。

また、あってはならんことやが、昔からそういった情報は、隠蔽、伏せられてしまうということもあったさかい、そうなると意味がないものになる。

5.これについては既存の新聞社が協力することになるため、誤報記事や捏造記事、冤罪報道やなくても、その新聞社特有の偏向報道を見抜く難しさというのもある。

新聞は事実の報道と同時に、その意見、論調というのもあるさかいな。

政治的に見ても、政府寄りの報道、野党寄りの報道というのは普通にあるさかいな。

その問題次第では、その意見、論調が正反対ということも考えられる。

6.教材となる新聞記事を誰がどう選別して教えるのかという問題も発生する。

新聞紙面の文章や使われている漢字(新聞漢字)には独特のものがあり、教える側がそれをどこまで理解できているかとなると、はなはだ疑問ではある。

通常の国語教育とは、また違った教え方が求められるさかいな。

実際、現在のNIE(Newspaper in Education)教育などでは、新聞記者を講師に招いて、それぞれの学校が独自にその授業をしとるというが、それが文部科学省の管轄になってスムーズにいくのかという問題がある。

7.教える教師の問題もある。

教師も人間やから、それぞれがそれぞれの考え方というものを持っている。

他の教科のように決まり切った内容のものを教えるのなら、それほど問題もないやろうが、日々違う報道記事が掲載される新聞で、どの記事に対して教えるかというのは、その日毎で考えなあかんようになる。

そこに、その教師の考えなり学校の考えなりが介在すれば、意識して特定の新聞記事を教材にするといった恣意的な教育が行われる可能性が考えられるわけや。

8.新聞にはタブーやアンタッチャブルな面が多すぎる。

新聞には、誤報記事や捏造記事、冤罪報道だけやなく、その勧誘営業、そのものの問題もある。

現場で働く新聞販売店の従業員や新聞拡張団員たちの過酷な仕事の一面というものもある。

また、押し紙、積み紙、背負い紙といった業界の暗部も根が深い。

新聞を語るのなら、それらを避けて通れんと思うのやが、教育の場で、どこまでそれに触れられるかという問題がある。

今、ワシに言えるのは、このくらいやが、この他にも、様々な問題の発生があるものと思う。

何でもそうやが、やってみな分からんという側面は確かにある。

マイナス面ばかりを考えても仕方がないのも確かや。

それよりも、ワシら勧誘に身を置く人間は、取り敢えず、この状況をプラスと考えた方がええ。

それには、その地域毎の戦略、方法というのもあるやろうが、今までよりも新聞の勧誘がしやすくなったのは確かと思うて、それに取り組むしかない。

まあ、これについては今後も話す機会も増えるやろうから、問題が起きれば、その都度、取り上げていきたいとは考えるがな。



参考ページ

注1.子供の学力ランキング

注2.日本新聞教育文化財団


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