メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー

第124回 ゲンさんの新聞業界裏話


発行日 2010.10.22


■ゲンさんの知っておきたい故事古典格言集 メルマガ編 Part 1


今回は、今まで発行してきたメルマガの中で引用した故事古典、ことわざ、格言を拾い集めてみた。

例によって、『第111回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■ゲンさんの知っておきたい故事古典格言集 サイト編 Part 1』、および『第122回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■ゲンさんの知っておきたい故事古典格言集 サイト編 Part 2』(注1.巻末参考ページ参照)で紹介したものは省かせて貰った。

それでは早速始めたいと思う。


ゲンさんの知っておきたい故事古典格言集 メルマガ編 Part 1



【狡兎(こうと)に三窟(くつ)あり】

(第5回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■拡張員以外の道? より 発行日2004.9.17)

出典は戦国策・斉策。

賢い兎(うさぎ)は、常に三つの穴を作って逃げ道を用意しとるという意味や。

この後に【僅かにその死を免るるを得るのみ】と続く。

せやからこそ、死の危険を回避できるのやという。転じて、智者はあらゆる危険を想定して常に幾通りかの準備して備えているという喩えに使われるようになった。

ワシは、『これは、何にでも使える考え方や。例えば、金をなくした場合、一つのサイフに全財産を入れていたら、それで終いや。

しかし、こんな場合でも、家のどこかに3分の1、銀行に3分の1、残りはサイフというようにしとけばいくらか助かるはずや。

これは、サイフを落とすことの危険だけやなく、家が火事になったり、銀行が倒産したりと最悪な状況にも対処出来る考え方なんや。

つまり、何事も常に幾通りかの手段を講じるように考えれば、最悪の状態からは脱することが出来るということや』と言うた。

これは、ワシの最も好きな故事の一つでもある。



【過ちて改めざる、これを過ちと謂う】

(第7回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■資源は大切に? より 発行日2004.10.1)

出典は論語・衛霊公篇。

意味は、過ちに気づいても改めない、それが本当の過ちやということや。

ワシは、これを引用し、

『人は誰でも必ず過ちを犯す。しかし、その過ちを反省する者は、その人間にとって教訓となるから、本当の意味での過ちにならん。

本当の過ちとは、悪いと承知していながらそれを続けることや。こういうことをしてる販売所は他にもあるとワシは思う。

悪いことは言わん。今のう ちに止めることや。誰も知らんと思うてるのやろけど、周りの人間は皆、見てるし知ってるで』

と言うた。



【株を守りて兎を待つ】

(第25回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■ゲンさんを探せPart 2 より 発行日2005. 1.28)

出典は韓非子(かんぴし)・五蠹(ごと)篇。

意味は、いつまでも古い習慣を固守して、時に応じて処理する能力が乏しいこと。進歩がないこと。

【守株(しゅしゅ)】とも言う。

ワシは、『その偶然の僥倖(ぎょうこう)を美味しいことやと思うて、そんな人間を捜すというのは『株を守りて兎を待つ』ということと同じ愚の骨頂やと思う。

昔、狩人が木の切り株で、たまたま、それにつまずいて動けなくなった兎を見つけて儲けたと思い、次の日から、その切り株で次の兎を待つ狩人の愚かさを揶揄したということわざや。

二度も上手い話はないという教えでもある』と、言うた。

尚、これには、狩人ではなく農夫やったという説もある。



【朽木(きゅうぼく)は彫るべからず】

(第32回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■拡張員泣かせの人々 Part1 引っ越し取り込み より 発行日2005. 3.18)

出典は論語・公冶長篇。

意味は、腐った木では彫刻できない。そこから下地が悪いと手の施しようがないという喩えに使われるようになった。

この後に【糞土の瀟(しょう)は塗るべからず】と続く。

こちらの意味は、悪い土で作った塀には上塗りができないということや。どちらも同じ意味の喩えに使われる。

ワシは、これを引用する際、

『ワシが、人に対して文句を言うたり、怒ったりするのは、一種の親切やと思うてる。

それで、相手が何かを気付けば、その人間の教訓となるからや。まともな人間ならそれで、自分の行動を恥じ、改める。

しかし、腐った人間には何を言うても無駄や。

朽木は彫るべからず。ということわざがある。

朽ちた木は彫刻の材料にはならんから彫っても無駄やということや。人間も芯まで腐ったらどうしょうもないという例えに使う』と説明した。



【剛毅木訥(ごうきぼくとつ)、仁に近し】

(第38回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■拡張員列伝 その1 サラブレッドのマサ 後編 より 発行日2005.4.29)

出典は論語・子路篇。

一見無愛想やが一本芯が通っていて飾り気がない、こういう人物は人者に近いという意味になる。

この【剛毅木訥】の反対が【巧言令色】。【巧言令色】とは、言葉を飾り、相手に媚びるようなつまらない人間の表現に使われる。

ワシは、ある人物を説明する際、

マサは『剛毅木訥(ごうきぼくとつ)、仁に近し』というのを地で行っとるタイプの男や。

この表現は、一本気で飾り気がなく芯が通って、仁義に篤い人間の形容に使われる。

と言うた。



【怪力乱神を語らず】

(第52回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 死者との契約 Part 1 より 発行日2005.8. 5)

出典は論語・述而篇。

意味は、怪異、怪力、無秩序、鬼神などという非合理的なことは議論しない、話さないということ。孔子の言った言葉とされている。

ワシは、これを引用する際、『別に怪談話を始めようというのやない。「怪力乱神を語らず」が、ワシの信条やからな。ワシは、こう見えても合理的なんや。

神や幽霊、宇宙人がおってもええなとは思うけど、信じるにしては、あまりにも、非合理すぎる。

特に、神や幽霊という類はな。ワシから言わせれば、ほとんどは、人の心が作り出す幻影にすぎんと思う。

もっとも、営業で、そういうことの好きな客とは、トークの一環として適当に話に付き合うことはあるが、その程度や。

せやけど、世の中には、わけの分からんことが起きることも、確かにある。

人は、それを合理的に説明できんから、そういう、神とか幽霊の存在を作ることで納得しようとするのやと思う』と言うた。



【無用の有】

(第66回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■新聞の利点 より 発行日2005.11.11)

出典は老子。

意味は、一見、役に立たないように見えるものが、却(かえ)って非常に大切な役を果たしているということ。

正式には、【有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり】という。

老子は、「有が有として成り立つのは、その裏に無の働きがあるからだ」と力説する。

例えば、焼き物などは、中が空っぽだからこそ、入れ物として役に立つのやという。

類似に【不用の用】というのもある。

ワシは、『新聞は読まんけど購読しとるという人間が、結構な数いとる。

質問者からすると何でやと思う。そんなのは、まったくの無駄やないかと。

その通り、新聞のように、文字で書かれただけの媒体を読みもせんのに金を出してまで買うというのは、まったくの無駄や。

しかし、「無用の有」という考え方がある。一見、無駄と思えることの中に、その価値があるということや。

ほんの少し前まで情報の中心は新聞やった。今は、残念ながら、その中心と言うには怪しい状況や。

未だにそう思うとる者も多いようやけど、テレビやインターネットがその地位を逆転しとるというのは、残念ながら認めんわけにはいかんやろ。

その情報の中心であった頃の新聞は、それを読むことが常識やと思うてた人間がほとんどやった。そして、その時代は数十年と長く続いていた。

昔の教育状況は、今とは格段の違いがあった。

ワシらが、子供の頃には、字が読めんという者が、それほど珍しい存在でもなかった。読めても、ひらがなや簡単な漢字だけという者も多かったからな。

新聞記事は、端的に分かりやすくを基本にしとるから、本来は読みやすいものや。しかし、それすら満足に読めんかったわけや。

せやからと言うて、馬鹿にされたくはない。新聞を購読することで、それをカモフラージュしてきたという側面がある。

新聞を取っとるくらいやから、それが読めるということのアピールのためや。

それには、拡張員による「新聞くらい読まな、アホやと思われまっせ」と言うような勧誘の口車に乗ったということもあるやろと思う。

また、世の中全体の風潮としても、そういうのがあった。拡張員でも何でもない普通のおっちゃんに「新聞くらい読めよ」と言われてたからな。

勉強するなら新聞を読めというのも、常識的に言われてたことや。

新聞は、単なる情報だけやなしに間違いのないものとして認知されとったからな。

せやから、知識人と呼ばれる連中の講演会には、その新聞紙面の引用が多い。

また、一部の大学教授の中には、新聞紙面そのものを教材に使うとる者すらおる。

勉強は新聞でを地で行っとるということや。別に、新聞社の回し者やないとは思うけどな。

加えて、日本人には活字信仰が極端に高いというのも、それに拍車をかけとった。

手書きの内容より、印刷された活字が信用される。その最たるものが新聞なわけや。

馬鹿げた信仰やが、それが現実としてある。

ただ、拡張員の強引で無法な勧誘だけでは、ここまで新聞の飛躍的な伸びはなかったということや。時代が味方せん限りはな。

そして、それが、いつしか新聞を読むことが常識という考え方にまで発展して行った。未だにそう考えとる者も多い。特に年配の人間はな。

更に、新聞代金の設定というのも、その背景にある。

いくら、そのためとは言え、手の出し辛い価格やったら、やはり無駄ということになる。買いたくても経済的な面で無理なわけや。

新聞代は、その時代により変動してきた。しかし、その時々に会わせた価格の設定を意図的にしてきたのは間違いないと思う。

普通、物の値段を決めるのは、コストに利益を上乗せした金額や。

しかし、新聞のように、生活必需品やないようなものは、それだけでは売りにくいということがある。

例えば、現在の経済状況の中で、1ヶ月の宅配新聞代を仮に5000円に設定したとしたら、果たして今ほどの部数を維持できるかということや。

新聞本来の定価で言えば、その設定価格は当然の価格やないとおかしいということになる。

駅売り、コンビニ売りの新聞は朝刊で1部130円、夕刊50円というのが、新聞社が定めとる定価や。朝夕で180円ということになる。

つまり、これで計算すると、180円×30日=5400円が定価ということにならなあかんわけや。

しかし、実際にはもっとも売り上げの多い主要全国紙の宅配販売設定価格は3925円になっとる。

このことについて新聞社の説明は、月決めのお客さんには、特別割引としてこの価格の設定をしとるということや。実に、1475円もの値引きになる。

しかも、これには、宅配コストも含めてや。つまり、自ら足を運んで買う客は朝夕刊1部180円やが、宅配客には毎朝夕配達込みで1部130円程度ということになる。

定価やサービスとの差を、これほどつけとる商品は他には見当たらんのやないかな。

もっとも、駅売り、コンビニ売りは全体の6%程度の売り上げしかないから、これが、定価やと言うには無理があると思うけどな。

どうして、こういうことになるのかと言えば、誰もが、これなら買えるやろという価格に設定しとるからやろうと思う。

つまり、一般的な客の購読しやすい価格に設定することで部数を伸ばしてきたということになる。

要はその程度なら、まあ、ええかと思える値段なわけや。昔から、その流れの中で時代毎に新聞代を設定してきた。

そういう購読者にとっても、新聞を読まんと購読しとることにさほど負担を感じることはないから差し支えないということになる。

負担も少ないし、それで、馬鹿にされることもないのやからな。加えて、新聞も取れんほど貧乏臭いのかという陰口を叩かれんでも済む。

新聞を読まんでも、購読しとるというのは、それだけの理由と根拠があったわけや。

せやから、その目的が重要な人間にとっては、それは無駄やないということになる。

しかも、この考えの人間は未だに根強い。特に年配の者ほどその傾向が歴然と残っとる。

そして、それが、いつしか慣習となり新聞を取り続けとるということや』と、言うた。



【好死は悪活にしかず】

(第67回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■生きるために より 発行日 2005.11.18)

出典は漢・通俗編。史記の編纂者、司馬遷の言った言葉とされている。

意味は、潔く格好のいい死よりも、少々みっともなくとも、生きている方が数段値打ちがあるということ。

ワシは、この言葉を引用する際、

『悟りというほどのことでもないが、それでワシの行き着いた結論が一つだけ見つかった。

それは「人間は生きられるだけ、生きなあかん」と言うことや。単純と言えば、単純やけど、人間の目的は単に「生きること」やないやろかと、そう思うようになった。

名を残すのもええやろ。事業で成功して金持ちになるのも悪くはない。人のために尽くすのも立派や。

指導者になるというのも捨てがたいことやと思う。人に尊敬されるのも更に値打ちがある。

しかし、それが、すべてやない。

好死は悪活にしかず。という教えがある。

英雄として格好良く死ぬよりも、ぶざまでもええから生き続ける方が、はるかに値打ちがあるという教えや。

どんなに、みじめな境遇になろうとも、生きている限りは後日を期すことはできる。

せやけど、どんなに格好良くても死ねばそれまでや。すべてが終わる』

と言うた。



【火中の栗を拾う】

(第68回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■どっちも、どっちや より 発行日2005.11.25)

出典は、17世紀のフランスの詩人、ラ・フォンテーヌの寓話集。

その寓話には、『猿が猫を煽(おだ)てて、囲炉裏の中の栗を拾わせて、猫が大火傷をした』とある。

意味は、他人の利益のために危険を犯すこと。単に無茶な危険を冒すバカな行為のこと。

ワシは、えげつない客と、無法な先輩拡張員との争いに巻き込まれそうになったことについて、この言葉を引用してその折りの説明をした。

『豊津の言い分は、新聞を取るとも言うとらんのに勝手に置いて行って、その挙げ句に脅すような真似までされて、何で返さなあかんねんということや。

確かに、豊津の言い分にも一理あるが、それでも、タダで何もなしに人から物が貰えると思う感覚は異常や。

この場合、貰うというよりふんだくるという形に近いんやからな。

販売店の中には、それで大揉めに揉めて、結局、拡張禁止になった所もあるくらいやった。

ワシは、そういう豊津のバックボーンのことを知っとっても、脇坂にそれを説明してやるようなことはせんかったがな。

そうしても、ろくなことにはならん。

脇坂も、豊津が極道で筋者やと勘違いしとるから、それで収まっとることで、相手が素人やと知ったら、なめられたと言うて乗り込んで行くやろと思う。

そうせな格好つかんと思うやろからな。

それだけなら、勝手にやっとれで済むが、ワシの口からそれを言うと必ず、ワシも一緒に巻き込もうとする。間違いなく一緒に来いとなる。

何も敢えて、『火中の栗を拾う』ようなことをして火傷する必要もない。

そういう喝勧みたいな真似をしとれば、いつかはえらい目に遭う。それは、豊津のような男にも言えることや。

いつも、いつも、そういうことが成功して上手いくとは限らん。

そういうことを続け取れば、いつかは、取り返しのつかんような目に遭う可能性も高くなるということや』と。



【黄金百斤を得るは、季布の一諾を得るに如かず】

(第96回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■季布の一諾 より 発行日2006.6. 9


出典は史記・司馬遷撰。

意味は、季布という人物の信用、承諾を得るのは大金を得るより値打ちがあるということ。

季布という人物は、この当時の中国では「約束を守る」、「信用できる」という代名詞的な存在であったため、このことわざが生まれた。

【季布の一諾】、【季諾】の語源とされている。

これに関しては、本文で、

『季布が引き受けさえすれば、黄金を得ることより確かなことやというのが、常識のようになっていたわけや。それを証明することわざということになる。

そして「季布の一諾」という言葉は、その後も、約束を守ることの代名詞として、延々と今日まで語り継がれることになった。

因みに、中国では季諾という熟語が生まれ、それが広く知られているという。意味は同じや。

ただ、この「約束を守る」ということが、そのまま「嘘をつかない」ということと同義語のように扱われることになり、いつの間にか、季布は絶対に嘘はつかず、言うことはすべてが正しいという神話のようなものまで生まれた。

これについては、季布自身も悩んだのやないやろかと推測する。

約束を守るというのは、安請け合いすることさえ気をつければ、それほど難しいことやないとは思う。

しかし、嘘をつかんというのは、人間である以上、絶対と言うてええほど無理なことやないのかと考えるからや』

と、話した。



【馬脚を露(あら)わす】

(第99回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■新聞を売るということ より 発行日2006.6.30)

出典は、中国元代の古典劇・元曲陳州攫米、第三折。

この芝居の中で、馬脚役の役者が間違って姿を見せてしまったことから言われたとされている。

ここから、包み隠していた事が現われるという意味で使われるようになった。

ワシは、これを引用する際、

『簡単なことやが、新聞の勧誘員が来て「あんたの所の販売店は、お客にこんなことしてまっせ」と言われて「それなら、お宅の新聞を取りましょう」と言う客がどれだけいとるかということや。

良く見られるよりも、他の販売店の悪口を言いふらす程度の悪い勧誘員やと思われるのがオチやないやろか。

それよりも、嫌われるとるということをその販売店がしとるのであれば、その逆をすればええと考えることや。

客をぞんざいに扱うのなら、こちらは徹底して大事に扱う。そして、それは、必ず見ている人間もおるし、分かって貰えると信じることや。

但し、心底、その人間がそう思うてなあかん。

ただの見せかけだけでそうしてたら、簡単に「馬脚を露(あら)わす」ことになるからな』

と言うた。



【傍若無人】

(第110回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■脱金融屋へのススメ より 発行日2006.9.15)

出典は、史記・刺客列伝。

【傍(かたわら)に人無きが若(ごと)し】という故事から生まれた四字熟語。

意味は、人前をはばからずに勝手気ままな言動をすること。無茶な行為。

ワシは、『傍若無人という言葉があるが、これは間違いなく金融屋のためにあるものやと思う。

もっとも、金貸し屋は、大昔からあくどいというのが通り相場やから、今さら驚くには値せんがな。姿形は変わっても、その本質に変わりはない』と言うた。



【覆水盆に返らず】

(第114回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■帰らざる日々 より 発行日2006.10.13)

出典は、漢書・朱買臣伝。また拾遺記という説もある。

漢書・朱買臣伝では、中国・前漢の政治家である朱買臣がうだつの上がらない平役人だった頃、妻が愛想をつかして出ていったということがあった。

その妻が夫の出世を知って復縁を求めてきたときに言った言葉とされている。

拾遺記では、周の呂尚(太公望)が仕事もせず読書に耽(ふけ)ってばかりいたので、愛想をつかした妻は離縁してくれと言い、呂尚のもとを去った。

後に呂尚が斉に封じられると再縁を求めてきたが、呂尚は盆から水をこぼし、「その水を元に戻したら求めに応じよう」と言ったという故事がある。

それが転じて、一度してしまったことは取り返しが付かないという意味に使われるようになった。

ワシは、『ただ、あの日、あの時、こうしていたらと考えんでもない。悔いはそこにある。

覆水盆に返らず。

一度、地面にこぼれてしまった水は、もとの入れ物には絶対戻らないという意味や。

そこから、取り返しのつかないこと、別れた夫婦はもとに戻らないということへの喩えに使われるようになった。

人は、失ってみて初めてそれが、どれほど大切なものやったかというのに気づく。

そして、それはたいていの場合、気づいてからでは遅い』と言うた。



【一寸の虫にも、五分の魂】

(第121回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■拡張員列伝 その6 変人、タケシの陰謀 より 発行日2006.12. 1)

出典は特になし。日本のことわざ。

尺貫法で、一寸は約3センチ。五分は一寸の半分。

意味は、例え一寸しかない小さな虫でも、それ相当の意志や意地を持っているということ。小さくても、侮(あなど)れないという例えに使われる。

それは、タケシという、一風変わった拡張員仲間との会話に出てきたことわざや。

「オレ、いつもバカにされてまっしゃろ。えーと、何て言いましたかな……虫の意地という意味の……」

「一寸の虫にも、五分の魂、か」

「そう、それですわ。それを分かって貰わんとあかん、お人もいてますよって
に」



【他山の石】

(第122回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■ゲンさんのよろず相談 Part1 そこまでは知らん より 発行日2006.12. 8)

出典は詩経・「小雅・鶴鳴」にある「他山の石、以(もっ)て玉を攻(みが)くべし」から。

本文でワシの言うたことが、そのまま解説と意味になるから、それを紹介しとく。

『他山の石というのは、他人の山のしょうもない石でも、自分の山の石を磨くことくらいはできるという昔の故事に由来するもんや。

転じて、他人の愚行も自分を成長のための参考になるということやな。同じような意味のことわざに「人の振り見て我が振り直せ」というのもある』


今回は、このへんで止めとく。

こういった故事古典、ことわざの類は後世の人間へと引き継いでいくべき貴重な遺産やと思う。

しかし、肝心の現代人、特に若者が、それを知らんというケースがあまりにも多い。

それでは、将来、後世への引き継ぎが困難になる。

現在、日本と中国の関係が上手くいってないということで、中国を毛嫌いする者が多いというのも懸念される。

言うておくが、今はどうであれ、歴史が消えることはない。また、その中にある有意義な教えは消すべきやない。

「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」という狭い了見を若い人たちに持ってほしくないと思う。

当たり前のことやが、人類の進歩は過去の歴史、先人の知恵があってこそ可能となるものや。

新しいものを追い求める上でも、過去のこうした教えが、その基盤にあるということを知って目を向けて貰いたいと思う。

数千年の年月は、一人の人生では経験不可能なことやが、その古典故事にはその叡智が凝縮されとる。

それを学んだ人間は、その数千年の歴史と生き方を知り、その教えを会得できる可能性があるわけや。

それを逃すのは、如何にも勿体ない。

ワシらに、どこまでのことができるのかは分からんが、これからも役に立つと思える故事古典、ことわざを、その状況にあった場面で面白く紹介していきたいと思う。



参考ページ

注1.第111回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■ゲンさんの知っておきたい故事古典格言集 サイト編 Part 1

第122回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■ゲンさんの知っておきたい故事古典格言集 サイト編 Part 2


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