メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー
第128回 ゲンさんの新聞業界裏話
発行日 2010.11.19
■ある新聞専業員の嘆き
「おれは一体、何をしているんだ……」
ナオトは、誰に言うでもなく、ポツリとそう洩らした。
心機一転、やり直すために、この関西に流れてきたのやないのか。
それなのに、また同じことを繰り返している。
まともな生き方がしたい。その思いはある。あるが、それができない。
なぜなのか。
今のナオトには、いくら自問自答しても見つけることのできん答えやった。
1年前。
ナオトは関東のある全国紙の販売店で専業員として働いていた。
新聞販売店の専業員というのは、専属の従業員の略称で、業界全体の従事者としては、それほど多くはない。
たいていの新聞販売店ではアルバイト配達員とパート従業員が大半を占めている。
アルバイト配達員は朝の2時間程度の配達をするだけや。
多くはサラリーマン、フリーター、学生、主婦、定年退職した年配者たちなどで構成されている。
新聞販売店の仕事は、その配達の他に、集金と勧誘がある。
それを指して、俗に三業務と呼んでいる。それが専業と呼ばれる従業員の仕事ということになる。
専業には、その三業務、すべてにノルマが課されていてハイレベルな能力が要求される。
そして、それらのすべてが、一般と比べてもかなり過酷な部類に属する仕事でもある。
まず配達やが、これは一般のアルバイト配達員よりも配達部数が多いのが普通や。1.5倍から2倍というのが一般的やという。
専業は、アルバイト配達員たちの準備をする関係で出勤時間が早い。
深夜午前1時〜3時の間に、「紙受け」と言うて、朝刊をトラックで運んで来る新聞の受け取りをする。
店によって時間はまちまちやが、毎日ほぼ同時刻に配達される。
それが届いたら専業は、前日にパート従業員たちがチラシ折り込み機でセットしたチラシを1セットずつ新聞に挟み込む。
どんな仕事でも、そうやが、その作業の手早さや正確さを暗黙のうちに作業者同士で競い合うということが往々にして起きる。
このチラシの挟み込みもそうや。
そのスピードでその専業の能力のあるなしを推し量ることができるとさえ言われている。
朝のその時間帯は、どこの販売店でも猛烈に指と腕を動かし、そのチラシの挟み込みを競い合っているのが普通や。
高速の機械に負けんほどのスピードを見せる者も珍しいことやない。器用というレベルをはるかに超えている。
タカが新聞配達くらいと軽く考えていた新人の多くは、その光景に度肝を抜かれる。こんなことが自分にできるのかと。
熟練の職人ワザ。大袈裟やなく、そんな感じに映る。
専業は自身の配達部数分だけやなく、その他のアルバイト配達員用の分も用意する。
そして、そのアルバイト配達員が来る頃には、それらはすべて終わっており、「紙受け」で届けられた新聞の結束ヒモやら包み紙やらのゴミなども綺麗に片付けられとるのが普通や。
何事もなかったかのように。
朝刊の配達は午前6時くらいまでに終わるというのが、一般的な新聞販売店の決まりとされている。
午前7時を過ぎると不配、遅配扱いになる店が多い。実際にも、その頃から苦情の電話が入り出すさかいな。
朝の配達が終わると仮眠を取るのが普通やが、たいていの販売店では、その専業員同士で順番に朝の電話番をするケースが多い。
当番というやつや。その当番になって、不配などの苦情を聞くと、その新聞を客に届けて謝らなあかんことになる。
そして、その記録を克明に書き残す。それが配達員の評価の対象になる。
配達の評価というのは、いかにミスが少ないかで判断される。
その不配や誤配、遅配といったミスは月5回までが、業界での一般的な許容範囲とされ、それ以上多いと解雇の対象になるケースもあるという。
加えて、そのミスに対して罰金が取られることも多い。
これについては、専業、アルバイトを問わず、1件あたり500円程度が一般的とされている。
その罰金徴収については現金回収の場合、損害賠償の請求に当たると考えられ、違法性や問題も少ないものと思われる。
但し、それが給料からの天引きということになると、その程度により過剰な減給の制裁に該当する可能性も考えられるがな。
その場合は上限が決められている。
労働基準法第91条(制裁規定の制限)の第91条に、
就業規則で、労働者に対して減給の制裁を定める場合においては、その減給は、1回の額が平均賃金の1日分の半額を超え、総額が1賃金支払期における賃金の総額の10分の1を超えてはならない。
とある。
その範囲内での罰金なら合法と判断される可能性は高い。
新聞販売店だけやなく、この法律を根拠に罰金制度を設けている会社や組織は他にも結構多い。
普通、ノルマを達成できれば何らかの報酬が得られるが、事、この配達に関してはノーミスが当たり前とされとるから、よほどの販売店でもない限り、1月程度のノーミスでは評価されることは少ない。
これが1年とか、それ以上続いているというのなら、また別やろうけどな。
せやから、この配達に関しては「ミスなし」の状態が普通で、それがノルマと言える。
新聞配達は深夜作業という外に、交通事故や台風や地震などにより命の危険が伴う可能性が他の業種よりも高い。しかも、それを新聞休刊日以外は休まず続けなあかんということがある。
夕刊の場合は、薄い上に昼間の配達で折り込みチラシもないから、比較的楽とは言うものの、深夜や早朝より交通量が多い分、事故に遭遇する危険も増す。
その点、ナオトは事故もしていないし、不配や誤配も少ないから、その方の問題はない。優秀な配達員と言える。
一般からは、新聞販売店にとって配達が一番重要やと思われがちやが、この業界では、それがソツなくできても、それほど評価されることは少ない。
新聞販売店の仕事で評価されるのは、集金と勧誘ということになる。
その中でも、集金に比重を置いている販売店は多い。
まあ、集金せんことには販売店の経営自体が成り立たんわけやから、当然と言えば当然やけどな。
一般の新聞販売店では、その月の集金は、月末の25日から翌月初めの5日くらいまでの間に行われる。
それはナオトの店でも同じやった。
新聞販売店の発行する領収書のことを俗に「証券」と呼ぶ。正しくは「領収証券」という。
ミシン目でつながった2枚綴りになっていて、半券と呼ばれる内側の小さい方が店の控えで、外側の大きい方が客への領収書となる。
もっとも、大きい方と言うても、12センチ×7センチ程度のもんやけどな。半券の小さい方は4センチ×7センチくらいのものや。
若干、販売店によって違いはあるが、たいていはこの大きさが一般的なようや。
世間一般の企業の領収書と比べると小さい。小さいが、これには結構、いろいろな情報が詰まっている。
新聞社名、販売店住所、社印、客の住所、名前、集金額などの情報があるのは、一般企業の領収書と大差ないが、新聞販売店にはその他に、照会番号と○区○番というのが記されている。
照会番号は、その販売店のパソコンデータへの登録順やから、あまり大きな意味はない。
問題は○区○番という部分で、○区は、その販売店での配達コースの区分けを表し、番号は順路帳というて配達順路に書かれとる順番を指すことが多い。
そこに○区1番とあれば、その配達区域で最初に新聞が配られるということを意味する。
普通は、これを起点として、ここから順路帳の道順が、販売店特有の記号で書き表される。
この順路帳の見方さえ理解できれば、例えそのコースが初めての者でも配達が可能なようになっている。
たいていの販売店がそうであるように、ナオトの店でも、その証券は25日に発証される。つまり、その日から集金開始となるわけや。
まあ、これはほとんどの会社の給料日が25日やから、それに合わせとるだけのことで他に大した理由はないがな。
単に、集金しやすいということがあるだけや。
ナオトの店では、月末までに8割の集金回収をするよう厳命されていた。
それがノルマということになる。
それをクリアすれば、集金手当が余分に貰え、逆に少なすぎるとペナルティが科せられる。
そうするには、販売店の方でもそれなりの理由がある。
ナオトの店では、その月末までに新聞社へ新聞の卸し代金の納入を義務付けられとるからや。そういう新聞販売店は多い。
集金の集まりが悪くても、新聞社にその日の納金を待ってくれとは言えん。絶対厳守や。
それが守られんと当然やが、新聞社からの評価は著しく下がる。ヘタをすると改廃というて、廃業にまで追い込まれることもあり得るという。
これは、一般でも同じことで集金日に取引代金が支払えんでは信用をなくすさかいな。そんな会社はどこからも相手にされず、早晩つぶれる。
せやから、集金できんで金が足らん場合、借金してでもその日に納金せなあかんと考える販売店経営者は多い。
借金すれば、それに金利がつく。集金できんのは集金人の怠慢やと経営者は考え、ペナルティも当然やとなるわけや。
それとは逆に月末までに8割の集金ができれば、その新聞社への納金もでき、従業員への給料も支払えるさかい、特別手当も出せるということになる。
ちなみに、それもあり、新聞販売店の給料日というのは月末、もしくは月初めというのが多い。
ナオトの店では、その集金ができんかった場合、その未回収分については給料から差し引かれ、その代わりに証券で支払われるという。
つまり、給料がほしければ、その分を自分で客から集金しろという理屈なわけや。集金できん場合は自腹で立て替えろと。
その証券を切り取った領収書の部分だけを渡されるということで、それを業界では「切り取り」と呼んでいる。
もちろん、こんなことは違法や。
それに関しては、サイトの法律顧問をして頂いている法律家の今村英治先生の見解があるので、それを紹介しとく。
集金は業務外という理屈は、私には納得しかねます。100%歩合制だから労働じゃない・・・ここまでの理屈は分かります。
では労働じゃないんだから断る自由もなきゃおかしいです。
私は労働である配達はしますが、請負の集金はしません。そんな自由が認められるとは到底思いません。
集金は業務に付随するどころか、業務そのものです。
従業員の承諾なしにそれをやっているとしたら36協定違反や、残業代の未払いなども含め経営者サイドの責任は重いです。
集金の命令を拒めますか? 事実上強要されるでしょ? それは労働に他なりません。
集金を業務外にしているのは、業界全体が労働基準法に抵触している恐れありと私は判断します。
では「集金」が労働でなく「請負」であると仮定します。
集金という請負において、締め切りに間に合わなかった場合の切り取りというのは、販売店の集金人に対する債権譲渡に該当しましょう。
立て替えはつまり、集金人が販売店に対し、その債権の譲渡代金の支払です。
これは労働の対価として支払う賃金とは本来全く無関係であるものです。
ですから、労働基準法第24条第1項「賃金全額払いの原則」に抵触し明らかに違法です。
そしてこれはあくまでも労働ではないですから「オレは集金しないよ」と言ったことでクビにされたりなんかしたら、根拠のない不当解雇になります。
「集金」は「労災も残業代も出ないよ。労働じゃないんだから」という店側の理屈を前提にするなら、じゃあ給料から差っ引くのは明らかにおかしいよってことです。
ところが、契約上どのような取り決めになっていようと、外形上判断すると、集金業務は労働です。
多くの社会保険労務士及び労働基準監督官は、これを労働とみなすんじゃないでしょうか。
では労働とした場合、非常に苦しい詭弁なのですが、期日までに集金できなかったので、店側に損害を与えた。従って集金人たる労働者が店に対し損害賠償債務を背負ったという「ヘ理屈」を前提にしてみます。
期日に間に合わなかったとは言え、いずれ回収できそうな債権であるならば、その時点での損害賠償額を算出することは難しいと思いますし、そのようなあやふやな状態で給料から差っ引くというのはやはり「全額払いの原則」に抵触すると思います。
法律的にシロクロはっきりさせるためには、そもそも集金業務が請負なのか労働なのか最初に明確に定義する必要がありそうですね。
労働である場合
労災保険が適用になる。時間外割増賃金が発生する。「集金してこい」は業務命令。労働契約の一部。サボったら当然懲戒の対象となる。
請負である場合
労災未適用。賃金ではなく請負代金。店と集金人の請負契約。集金や切り取りを拒んだことで給料を下げられた・解雇されたとなると、これは不当な理由による不利益処分となる。
店側にとって労働でも請負でもないグレーゾーンにすることで、双方のいいとこ取りをしているように以前から思っていました。
いずれにしても切り取りは債権譲渡という商取引ですから、労働契約とはなんら関係のないことです。
商取引である以上、切り取りそのものには違法性はありませんが、労働条件・労働契約に密接に関連していたりすると途端にいかがわしさが増しますね。
こうしたことを条文では直接定めていないですし、判例もないので、私も様々な類推解釈をせざるを得ないのですが、新聞代金の集金業務は、購読契約や配達と密接に関連しており、事実上「集金してこい」という命令を拒めないのであれば、その集金業務だけを切り離して「請負」とし「労災の対象外」とすることは非常に無理があります。
ましてや半ば強制的に債権を譲受させられてしまうという状況は劣悪です。
というものや。
これを根拠に労働基準局に訴え出れば、その販売店は何らかのお咎め、注意を受けるのは、ほぼ確実やと思われる。
ナオトの店では、それが半ば公然行われているというさかい、そうなる確率は高い。
もっとも、今までナオトの店から労働基準局に駆け込んだ者はおらんということやがな。
業界の過去の例からしても、それは少ない。
労働基準局に訴え出ても、せいぜい、その販売店の経営者が注意、もしくは指導されるというのが大半で、結果として改善されて、その授業員のためになるようなことはほとんどないという。
労働基準局としては、経営者が「以後気をつけます。善処します」と言えば、当面はそれを信じて様子を見るという姿勢になるさかいな。
それで駆け込んだ人間の失望を招くケースが多い。
最後の手段として労働基準局に訴え出れば何とかなると考えていたのが、それでは精神的な縁(よすが)を失うことになる。
その後は、その販売店の経営者に睨まれて辞職を余儀なくされる場合が多いという。
その経営者と差し違えるくらいの覚悟、気概を以て、動かぬ証拠を揃えてから訴えな意味がない。
現状を改善して貰いたいという程度の甘い考えなら、止めといた方がええ。徒労に終わり、泣きを見ることの方が多いさかいな。
この「切り取り」行為については、新聞社も違法という認識があるから、たいていは「そんなことはしないように」という通達をかなり昔から出している。
それにも関わらず、そういう真似を未だに繰り返しているような販売店に反省を促しても無駄や。
改善や改心することを期待するのは、どだい無理な注文やと思う。
それが、この業界の実態なのやと知って、ナオトはそれもあきらめたという。
但し、ここで、全国の新聞販売店の名誉のためにも、はっきりさせとくが、現在、そういった「切り取り行為」をしているケースは、ほとんどないと断言する。
このナオトのようなケースの方が珍しいと言えると。例外的なケースやと。
それにしても今日び、集金業務が手集金という業種は、この新聞販売店くらいなものやないかと思う。
たいていは、銀行自動引き落とし、コンビニ払い、クレジットカード払いというのが一般的やさかいな。
それなのに、なぜ新聞販売店は昔ながらの手集金に拘っているのか。
それは、客とのつながりを保ちたいということがあるからやと思う。
手集金で毎月顧客宅に行けば顔見知りになり、心やすくなれる。それにより、契約の延長を頼みやすくなるという理由がある。
一般の人からすれば、集金くらい簡単やろうと思われるかも知れんが、新聞販売店の集金は、これで結構、難しいことが多い仕事なんや。
傍目ほど簡単なものやない。
集金時間は、通常、夕刊配達後の午後4時から夜の9時頃までというのが多い。
いつ行っても在宅していて快く支払ってくれる客もおれば、なかなか会えない客や、何かと理由をつけて支払いを渋る客といろいろおる。
いつ行っても在宅してて快く支払ってくれる客は何の問題もない。
なかなか会えない客というのは、多少厄介やが、その会える方法を探し出せばええだけの話で、専業員にとってはそれほど難しいことでもない。
そういう客は、独身者や若者に多い。
彼らは仕事帰りに、どこかに立ち寄ってというのが多いから、どうしても帰宅時間が遅くなる。
たいていは、午後10時から12時までの深夜に及ぶが、それらの客の多くには、その時間に訪問することを事前に約束、了解して貰うてさえいればトラブルになるケースは少ない。
通常、ナオトは、午後10時から午前2時頃までは就寝時間なのやが、この集金の時期、それはあきらめるしかないと考えていた。
ただ、そこまでして行っても、新聞の集金というのは、それほど大事なことやと考える客は少ないから、約束の時間に在宅してないということもあり、会えんというケースも結構あるがな。
ましてや、その期間に給料日の後の土日が絡むと、よけいそうなる。
たいていの集金人は、集金できんような状況になって初めて慌てることが多いが、それでは遅い。
早めに予測して対処しとく必要がある。
具体的には、会うのが難しいと思える客には、配達時、及び集金開始日に訪問予定日時を知らせたチラシを作りポストに入れておくという方法を使う。
それには、その時間に不在の可能性があると見越して、「ご都合の悪い場合は、希望集金日時をご記入の上、ポストにこの用紙を貼り付けてください」と書いておく。
たいていの客は、それをポストに貼り出すか、電話で知らせてくる。
ここまでは、何とかなるからまだええが、一番の問題、悩みのタネは何かと理由をつけて支払いを渋る客や。
誰でも、たまたまそのときに限って金の持ち合わせがなかったということはある。
そういう客は、次回、約束した日時に貰える可能性が高いから問題はない。
ナオトにとって困るのは、「今月はきついから来月分と一緒の支払いにしてくれ」と言う客や。
ナオトの店では、基本的に100%の集金回収を命じられている。それができん場合、その不足分は給料から差し引かれることになっていた。
先に言うた「切り取り行為」というのが、それや。
その理由として、その集金を猶予したのは、お前の判断で勝手にしたことで、店の決定とは違うという理屈からや。
しかし、実際問題として、客に「来月分と一緒の支払いにしてくれ」と言われて、「いえ、どうしても今払って貰わなくては困ります」と言い返すことなど、できるもんやない。
たいていは、仕方なくでも「分かりました」と引き下がるしかない。
もし、そう言うてトラブルになった場合、「お前の持って行き方、頼み方が悪い」と店から責められ、万が一、それが原因で「解約する」となれば、その責任を問われペナルティが科せられることになるのが関の山や。
ナオトは、実際にそういうケースを何度か見て知っていた。
そうなるくらいなら、「切り取り行為」を受け入れて、客からの支払いに期待する方がええとなる。
ただ、支払いの悪いという客は、とことん悪いということがある。
最初から、新聞代など支払うつもりはないのやないかとさえ思えるような悪質な客も多い。
また、急に引っ越して行方をくらまし、新聞代を踏み倒す輩も珍しいことやない。
切り取り行為をしている販売店の場合、それらの損失はすべてナオトたち専業が被ることになる。
ただ、それにしても、その手の悪質な人間が一時期に何人も重なるということもあまりないので、被害額としては大したことがないさかい、まだ救われるがな。
それよりも、ナオトにとって最大の課題は勧誘のノルマということになる。
ナオトは元来、人と接するとか話すというのが苦手なタイプの人間や。社交的でもないし、協調性にも欠けると自覚していた。
そもそも新聞配達なら、人と話すことも少ないだろうという動機で専業の仕事を選んだという経緯がある。
しかし、勧誘は人を説得して契約に持ち込まなあかん仕事やさかい、話すのが苦手というのでは勤まらん。
「止め押し」と言うて、延長契約を依頼するのなら、集金時にそれと頼めば応じて貰えるケースが多いから、まだマシやが、新規での飛び込み営業となると、身がすくんで、なかなか思うように言葉が出てこない。
インターフォンを押す手が鈍り、ドアをノックするのも躊躇するというケースが多い。
10件程度、立て続けに断られたら、それ以上は続ける気が失せる。
そんな状態では、まともな契約など確保できるはずもない。
専業の勧誘ノルマというのは、ワシら拡張員からすれば少ない。「止め押し」は別にして、新規契約については多くても月に10本程度やという。
勧誘が弱いと責められるのを覚悟して、それに耐えられるのなら、月2、3本でも確保できれば何とかやっていける。
しかし、ナオトにはそれすら難しかった。
ナオトに限らず、出入りの拡張員たちを含め、その販売店全体でも、その辺りが全国的にも大激戦区なためか、まともな契約を取ってくる者は少ないという。
ナオトが勤め出してすぐに、「背負(しょ)い紙」というものを知った。
これは、ノルマの不足分の新聞を身銭切って買い取るということを意味する業界の隠語や。
その販売店の専業はおろか、出入りの拡張員ですら、それをやっている者がいとるという。
ナオトも困ったら、そうするしかないと考え、実際にそうした。
それには、いろいろな方法がある。
一番多いのが「てんぷら」と呼ばれる架空契約で、架空の客の名前と住所を作り、いかにもそこから契約を取ってきたかのように偽装するやり方や。
その架空契約に対して、実際に新聞代を集金してきたかのようにみせかけて自腹で販売店に払うわけや。
次に多いのが、実際の勧誘時に、「私の方で新聞代を支払いますので」と客に頼み込み、契約を取るという方法や。
こういうのを業界で俗に「爆」と呼ばれている。
サイトのQ&Aにも、関東方面から、その手の相談やトラブルが数多く寄せられている。
その都度、ワシは、「勧誘の仕事は、勧誘員自身もやが、販売店、拡張団、引いては新聞社に利益をもたらす営業なわけやから、そんな真似はするべきやない。そんなことまでせなやっていけんのなら、この仕事には向いてないから辞めた方がええ」と言い続けてきた。
その思いは今も変わらん。
ナオトのような者には、冷たく非情に聞こえるかも知れんが、ワシは、そう言うことが、結果的にはその人間に対して親切になると考えとる。
そのまま、単に頑張れと励ましても、またこんな方法があるとアドバイスしても、できん者はいくら頑張ってもできん。
そういう者は、例えやる気を見せても心と体が動かん。その手の人間を数多く見てきた。
この仕事に向いてない者には、どうしようもないわけや。
結局は勧誘員自身、さらに深み嵌るだけにしかならん。いずれは遅かれ早かれ辞めることになる。
それなら、少しでも早い方が、その分、ケガが少なくて済む。
客にしても、こんな営業に乗って得をしたと喜んでいたら、いずれ大きな損をして、えらい目に遭うということも考えられる。
そんな甘い言葉に乗るようになったら、新聞の購読契約程度のものやなく、もっと大がかりな上手い話、詐欺話にも簡単に騙されやすくなるさかいな。
そういうことに慣れると、得するという気持ちが、危ないという感覚に勝るわけや。判断を誤る可能性が高くなる。
販売店や拡張団にしても、そんな営業しとったら先はない。新聞社も、その地域では確実に信用を落とす。
実際、そういう地域では、そんな客ばかり増えすぎてしまい、今ではそれを切らんとやっていけんようになっとるというさかいな。
それが新聞離れをさらに増長させる要因の一つにもなっている。
はっきり言うて、一度でも新聞がタダやと知った人間が、まともな料金を支払って新聞を購読しようとはなかなか考えんわな。
誰にとっても益になることはない。不幸な結果にしかならんということや。
しかし、そんなことを深く考える余裕のないナオトは、目の前にノルマをクリアできる方法があると知り、それに躊躇なく飛びついた。
それで、少なくとも次の月のノルマまでは安泰になると考えて。
初めのうちは、月に2、3本のペースやったが、それがあっという間に増え、最終的には、それが月30本まで増えたという。
ナオトの地域は朝夕セット版で1ヶ月の新聞代が3,295円やから、金額にして、実に1ヶ月117,750円の負担になる。
それに「切り取り分」も加わる。
給料は税込みで25万円とこの業界としては少ない方やなかったが、寮費としてのアパート代が光熱費込みで毎月8万円程度が差し引かれるから、手元には僅かしか残らん計算になる。
それではやっていけんから、仕方なく店に借金をする。
それが膨れ上がって身動きが取れんようになった。
このままでは飼い殺しになる。そう考えて、その販売店から逃げ出す決断をした。
借金は当然のように踏み倒して。そうすることへの罪悪感はなかった。
それには、ナオトがこんな真似をせなあかんことになったのは、その販売店の所為やという気持ちが強かったからやという。
ただ、逃げるにしても慎重にせなあかん。
関東近隣に逃げても、他の新聞販売店へ面接する場合、免許証の提示は必ず求められるから、その名前が業界情報などに要注意人物として掲載されて回されていたら、勤めること自体が困難になるおそれがある。
場合によれば、金を持ち逃げされたことにされ、「業務上横領」で警察に被害届けを出されることもあるという。
ナオトは、それもあり、なるべく遠く離れた土地に行く方が無難、得策やと考えた。
しかし、まったく土地鑑がないというのも、この仕事は辛いさかい、中学時代まで住んでいた関西方面に行くことにした。
父親の仕事の関係で、10数年前、ナオトが中学3年生の時、家族全員で関東に引っ越して来たわけや。
万が一のときは、親戚縁者に頼れるかも知れんという思いもあった。
それに何より生まれ育った場所やから、それなりに安心感がある。
関東の人間は関西弁に慣れるまで時間がかかるというが、ナオトにはその心配もないしな。
流れる……。
この言い方が正しいのかどうかは分からんが、関東を離れるのなら、関西に行くしか、ナオトにとっての選択肢はなかったわけや。
ただ、念のため、関西の新聞販売店に面接に行く前に、運転免許証の住所変更の手続きだけは済ませといた。
それさえしておけば、例え、その関西方面にまで業界情報が出回っていたとしても、ナオトの名前はありふれとるから、同姓同名の他人やと言うても通る。
そう考えた。
もちろん、警察などの本格的な取り調べからは逃れられんやろうが、例え、「業務上横領」で警察に被害届けを出されていたとしても、よほどの事でもない限り、それだけで警察に追跡されることはまずないと思う。
警察に被害届けを出して効果があるのは、その相手の所在が確かな場合くらいなもので、行方知れずになった人間を追いかけるほど警察は暇やない。
余談やが、家出人の捜索願いなんかも、単に届けを受理したというだけで真剣に探し出すことなんか、絶対と言うてええほどないというさかいな。
よほどの事件にでも関わっていると判断されん限りな。
それが発覚するのは、何かの犯罪で警察に捕まった際、その警察官が警察のコンピータ内にある被害届データと照合したときくらいなものやという。
せやから、法に触れるような事さえせんかったら、そんな心配をすることもないわけや。
ナオトには法を犯すようなあくどい真似はできん。できんからこそ、こんな事態に陥っていると言える。
案の定、最初に面接を受けた新聞販売店では何も疑われず、あっさりと採用された。
心機一転、一からやり直す。ナオトは、そう心に誓った。
その販売店では、以前の関東の店で行われていた「切り取り行為」というのは一切なかった。
その店の古株に、その「切り取り行為」について聞くと、「何やそれ?」と、そのシステムすら知らんという。
「金払いの悪い客や難しい客は、店長に言うたらええ。何とかしよる」と。
それで、心配が一つ減った。
ただ、もう一つの心配でもある勧誘のノルマは当然のことながら、あった。
まあ、ノルマのない販売店というのは、すべての新聞を取り扱っている合配店くらいなものや。
それ以外の業界で大多数を占める専属販売店では、そのノルマがあるのは常識やけどな。
ナオトは、この際、「爆」ではない正規の勧誘のやり方を覚えようと決心した。
この業界で生き残るには、それしかないと。
そこで早速、その販売店で、一番の勧誘成績を上げている、ハシモトという男に弟子入り志願をすることにした。
すると、そのハシモトから、「ここだけの話やが、オレの成績がええのは、あるホームページを見て参考にしとるからや」という答えが返ってきた。
「お前もやる気があるのなら、それを見て勉強しろ」と。
そのハシモトに教えられたのが、『ゲンさんの勧誘・拡張営業講座』(注1.巻末参考ページ参照)というワシらがやっているサイトのコーナーの一つやった。
内容的には、勧誘の初心者向けのものやが、これを読んで成績を上げることができたと言うてこられる方は結構多い。
ナオトは必死になって、それを読み漁ったという。
そして、カルチャー・ショックを受けた。これが本当の勧誘の営業なのかと思ったと。
ただ、そう考えるのと、実践でそれを応用できるのかどうかというのは、また次元の違うことや。
理論と実践の違いは大きい。
人には、頭で納得したことを、そのまま活かせることのできる人間と、やろうとしても、なかなか、それができん者の2種類のタイプがある。
ナオトは後者のタイプやと自覚していた。
それには、人と話すのが苦手やという意識が強すぎることが大きい。
その『ゲンさんの勧誘・拡張営業講座』の中の、『第2章 新聞営業の実践についての考え方 拡張タイプ編 その1拡張タイプとは』(注2.巻末参考ページ参照)で、勧誘する人間のタイプというのが、いろいろ紹介されていたので、ナオトは自分がどのタイプに属するのかと考えてみた。
結果、そこに示されたどのタイプにも該当しないということが分かった。
「積極果敢タイプ」、「天真爛漫タイプ」、「牛歩タイプ」、「理論武装タイプ」、「大物タイプ」、「データ尊重タイプ」というのは、考える余地がないほど違いすぎる。
「生真面目タイプ」というのが近そうやが、これも文中に『このタイプは総体的に粘り強い人間が多い』とあるので、それは該当しない。
ナオトは自分でも認める飽き性な性質やさかいな。
「一点集中タイプ」、「短期集中タイプ」というのなら何とかやれそうな気がしてチャレンジしてみたが、成果は出んかった。
「移り気タイプ」というのは、ええのやないかと考えたが、これも『計画性を持ってする』ことが条件とあるから、それとは違うという気がする。
ナオトに計画性はない。せやからこそ、こんな不細工なことになっとるわけやしな。
確かに、それには、ええ事は書かれとると思うのやが、ナオトにとって参考になる、できるものはなかったということや。
気がつけば、以前のように拡材のサービス品を提示して契約に持ち込もうとばかりしてた。
しかし、そのサービス品の量と質が関東の以前いた店と比べて格段に悪いさかい、押し切ることができん。
それで、つい、以前の「私の方で新聞代を支払いますので」という手法を使ってしまった。
そうしたことへの自己嫌悪が、冒頭の言葉として出たわけや。
「おれは一体、何をしているんだ……」と。
関東の以前の販売店なら、「背負い紙」ということで黙認されていた部分もあったが、現在の販売店では、それが許されるという風潮にない。
「てんぷら」や「拡材の渡し過ぎ」ですら発覚した場合、ヘタをするとクビもあり得るという。
客には一応、口止めはしたが、どこまでそれで安心できるかは何とも言えん。いつバレるとも知れん怖さがある。
それより何より、こんなことを続けていたら、また以前の二の舞になる。
この就職難の折、他の仕事を探すのも簡単な話やない。できれば、慣れた新聞販売店の仕事を続けたい。
しかし、このままでは先が見えている。
何か打開策はないかと、思い余って、ナオトはワシらに相談してきた。
初めまして。いつも参考にさせてもらっています。
中略。
……というわけで、いろいろ試してみたのですが、どれもうまくいきません。
何か打開策はあるでしょうか?
ゲンさんのホームページは私の店の人間も多数見ていますので、できれば非公開でお願いします。
宜しくお願いします。
ナオトには回答を送ったが、それを詳しく説明すると、質問文にも触れなあかんことになり、Q&Aで非公開にした意味がないさかい、読者には悪いが、具体的な回答については控えさせて貰う。
まあ、今までの話で、どんな回答になるかは想像して貰えれば、ある程度は分かるのやないかとは思うがな。
ということで、今回は結論の部分だけ抜き出して知らせる。
『何か打開策はあるでしょうか?』ということやが、あんたが勧誘は苦手やと考えとる限り、何をやっても無駄やと思う。
何事もマイナス思考の分だけブレーキがかかるさかいな。
他の相談者にも言うとることやが、あんたはこのまま続けていても無駄やから辞めた方がええとしか言えん。
但し、その販売店の仕事を辞めろということやなく、その苦手な勧誘の仕事を辞められるように、その販売店と交渉してみることを勧める。
できれば、あんたの得意とする配達だけをするという条件でな。
そうなると、専業という社員待遇ではなくなる可能性もあり、収入も減るかも知れんが、やり方次第では、ある程度のカバーできると思う。
幸い、あんたの所の販売店は「紙受け」時間が早いようやから、それに合わせて出勤すれば、相当数の配達部数をこなせるのやないかな。
専業のとしての給料は貰えんでも、その配達部数の多さで、ある程度はカバーできるのやないかということや。
その線で話が折り合えば、何もその販売店を辞める必要はないわけや。
それでダメなら、この業界には臨配、代配専門という手もある。
専業である社員には、1週間に1日程度の休みが与えられる場合が多い。
通常、中小規模販売店の店長クラスは、専属の配達区域はなく、この専業員の休日にその区間の配達をしてカバーするケースが多い。
しかし、大規模販売店などの従業員の数が多い所では、実質的にそれは無理やから、そのための専門職を置いているか、外部の専門組織に依頼することがある。
代配、臨配と呼ばれとるのが、それに当たる。
新聞販売店にとっては、その場しのぎという意味合いが強く、社員待遇やない。その名の通り臨時雇いということになる。
せやから、いつ切られるか(解雇)分からん立場でもある。その分、他の専業より高給な場合が多い。
配達に自信があれば、そういった道で活路を見出せる可能性もある。
いつ切られるか分からんと言うても、そのエキスパートになれば、また人の評価も違うてくるしな。
人の生きる道は一つやない。
一本の道しか見えてなかったら、その人間にとっての道は一本しかないが、その気にさえなれば、いくらでも脇道はあるし、見えるもんや。
どんな状況になろうと悲観することはない。すべては、あんたの心の持ち方次第で変わる。世の中の仕組みとは、そんなものやと思う。
と。
その後、ナオトからのメールは届いとらんが、上手くいっているものと信じたい。
参考ページ
注1.ゲンさんの勧誘・拡張営業講座
注2.第2章 新聞営業の実践についての考え方 拡張タイプ編 その1拡張タイプとは
書籍販売コーナー 『新聞拡張員ゲンさんの新聞勧誘問題なんでもQ&A選集』好評販売中