メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー

第132回 ゲンさんの新聞業界裏話

発行日  2010.12.17


■古き良き時代の新聞拡張員物語……その1 多羅尾伴内ここにあり


これは今から50年ほど昔、昭和32年(1957年)〜昭和34年(1959年)頃にかけての拡張話や。

その頃、ワシはまだ鼻たれ小僧の小学3年生やったから、そんな時分の事など知る由もない。

まだいたいけな少年? やったワシにその当時の拡張について語るのは無理がありすぎるさかい、今回は特別に業界の大先輩である多羅尾伴内氏に登場して頂くことにした。

「誰やそれ、そんな人間、今まで聞いたこともないで」と言われるのは尤もやが、氏について話し出すと長くなるので、その人物紹介は本文後の『■多羅尾伴内氏とアンダー(地下)・メルマガについて』にあるので、詳しく知りたい方はそちらを見て頂きたいと思う。

ここでは、その「多羅尾伴内」というのはワシが勝手につけた「あだ名」で、その頃拡張員をしていた人やとだけ知っておいて貰えたらええ。

「多羅尾伴内」というのは当時人気の高かった映画の主人公で、「七つの顔を持つ男」と言われた名探偵の名前や。

その当時、同じく名探偵として名を馳せた金田一耕助に匹敵する人気があった。

ワシが、なぜそう呼ぶようにしたのかは、その映画と同じく、氏はいろいろな名前、ハンドルネームで登場する、お人やったからや。

その様は、まさしく「あるときは○○、またあるときは○○、しかししてその実体は……」という往年の名台詞そのままやった。

我ながら、言い得て妙やと思うとる。もっとも、ご本人が気に入られるかどうかは定かやないがな。

氏は、ワシよりも高齢やが、その精神年齢、感覚はとても若い方やから、そんな古くさい名前は止めてくれと言われるかも知れん。

まあ、ワシは人に断りもなく勝手にあだ名をつけるのが趣味やさかい、そんな人間と関わったことを不運と思うて、あきらめて頂くしかない。

昭和30年(1955年)。

「こんなのやってられん。何と言われようと絶対に辞めてやる」

当時18歳の多羅尾伴内は、何度となくそう毒づいた。

その頃、愛媛県八幡浜市所属の漁船の無線通信長をしていた。

伴内は無線好きの科学少年やった。

中学時代、馬糞紙を利用してカメラを自作したし、幻燈も作っていた。

ちなみに馬糞紙とは、稲わらや干草を食べた馬が排出する糞に似ていた事から、そう呼ばれていた比較的ぶ厚い洋板紙(黄板紙)のことで、これの薄いのを、わら半紙といった。

昭和40年代までは、紙が堅い事から小学校の工作などでよく使われていたものや。

もっとも、この馬糞紙というのは現在では死語になっていて、ほとんど見かけることもなくなり、ワシと同年代か、それより少し若い昭和30年代生まれまでの人にしか分からんやろうと思う。

伴内は、器用にその馬糞紙を使ってカメラに自作の電磁イヤホーンも組み合わせ教室で販売していた。

求めに応じて鉱石ラジオを組み立てて売っていたこともある。

その伴内が長じて、国立熊本電波高等学校【別科】(現、電波工業高等専門学校)を卒業し、通信士の資格を取り、漁船の無線通信長になったわけや。

ただ、無線室は一人勤務やから、誰もがそう呼ばれていただけの話で、特別偉くなったわけでも、そういう待遇があったわけでもない。

実体は18歳の新入りに見合った下っ端の小間使いでしかなかった。

そこで2年ほど勤務していたが、その扱いや待遇に変化はなかった。

乗船勤務していた木造漁業船は全長10メートル前後しかなく、大海に浮かべると木の葉同然やった。

伴内は、慢性の船酔い状態が続いていて、いつも海に向かって「ゲェー、ゲェー」とやっていた。

普通、船酔いというのは慣れるものやというのが定説やが、そんなことはない。

それはちゃんとした船に乗っているから言えることで、木の葉漁船にそれは当て嵌まらない。

最後まで、その船酔いを克服できんかった伴内には、「そのうち慣れる」などと言うのは何も知らん者を騙して仕事をさせるための方便、陰謀にしか思えんかった。

船にはトイレなどはなく、排泄物はすべて大海原に垂れ流ししていた。

オシッコは海に同化し、ウンコは魚たちをおびき寄せる格好の撒き餌になった。

しかし、オシッコはともかくウンコをするのは命がけやった。

船長に「船尾の艫(とも)から落ちてサメに襲われても誰も気づかんで」と事前に注意というか、脅かされていたので、慣れないうちはブリッジから見える位置でロープにしがみついて必死になって用を足した。

そこへいくと、ベテラン船員たちは慣れたもので、原っぱの茂みでする野糞感覚で気軽にそれをしていた。

お世辞にも格好のええもんやなかったが、伴内は素直に「すごい」と感心した。

それにしても、ひねり出したウンコを魚が食べ、それを人間が捕獲して食うということには、少なからず抵抗があった。

食物連鎖の営みとはいえ、自身のその情けない姿と船員たちの小汚いケツから絞り出されるウンコを思い出す度、魚を口にするのが躊躇(ためら)われたもんや。

何も知らず、その魚を喜々として買って帰る人たちが哀れに思えた。

もっとも、いつしかその事実も、長い年月と共に忘却の彼方に消え、今は伴内も美味しく魚たちを食しているがな。

そんな小さな漁船やったから時化(シケ)などで海が荒れると、ひとたまりもなかった。

ある時、その恐れていた時化に巻き込まれた。

波は大きくうねり、木の葉漁船を上下左右、前後とあらゆる方向に揺らす。

伴内は甲板で必死になって踏ん張り、手に触れるものは何にでもしがみついた。

並走していた仲間の漁船はその波間に消えて見えなくなる。代わりに見えたのは恐ろしげな怪物と化して襲いかかる海の水やった。

刹那、波に勢いよく持ち上げられた木の葉漁船は、ちょっとしたビルの屋上くらいまで達した。

その直後、一気に奈落の底にでも叩きつけられるかのように急降下した。

木の葉漁船は一応新造船やったが、うねりを受けた船体はギシギシと軋み、板のすき間から海水が入ってくる。

船員たちが排水ポンプをフル稼働させて懸命に対処するが、とても間に合わない。

やばい。

船長から退船命令が出る。

それでも伴内は、その状況に加えて強烈な船酔いに苦しみながらも、通信士としての最低限の責任だけは果たそうと必死やった。

手順どおり所定の周波数で遭難信号(電信はSOS、電話ならメーデー・メーデー)を発射した後、無変調キャリアを送信状態にした。

そうしておくと、仲間の船や陸上の海岸局などで電波が止まったことを察知し、沈没したものと判断するさかい、救助される確率が高くなるわけや。

伴内が海に飛び込むと、すぐ近くでスクリューが断末魔の叫び声を上げながら空転しているのが見えた。

結局、伴内は救助されて事なきを得たが、今でもあの日の記憶が鮮明に甦ることがあるという。

本当に海は怖い。それが伴内の正直な気持ちやった。

その後、通信士が少ないということで、あの手この手と辞めるのを引き止められたが、命をかけてまで続ける気にはとてもなれんかった。

すると八幡浜漁港の偉いさんは何をトチ狂ったのか、伴内の中学時代の恩師に説得を依頼した。

数学のテストで、二分の一+二分の一は四分の二と答案してペケにした教師である。

分母と分子を足してどこが悪いと、しばらくその教師を信じなかった時期がある。

そんな教師に頼んで、どうにかなると考える神経を疑う。

もっとも、そうは言うても、その教師には他で世話になっていたのも確かやったから、表立った反抗は避け、うやむやに返事しといたがな。

伴内が過ごした昭和30年〜昭和32年頃の熊本には、まだ馬車が走っていて高いビルはデパートくらいしかなかった。

市中の大半は未舗装で風が吹けば土埃(つちぼこり)が舞い上がり、前が見えなくなることも、しばしばあった。

日本は第二次世界大戦で焦土と化した状態から驚異的な復興を成し遂げ、その後どんな山奥の田舎道でさえ舗装してあるのが当たり前という世界でも類を見ないほどの舗装国家になっていくわけやが、当時は穴ぼこだらけのガタガタ道ばかりというのが、例え都会の街中であっても普通やった。

そこにはオート三輪が走り、まだ木炭車が活躍していた。

伴内の好きな長崎チャンポンと大盛り白飯がセットで110円やった。

その長崎チャンポンを食いにいく途中、焼き芋屋の前を通ったとき、特に理由もなくその焼き芋を買ってしまった。

それが、その後の人生の歯車を大きく狂わせる原因になるとも知らず。

目の前にエサをぶら下げられ思わず食いついてしまった魚に似ていた。意味もなく釣られた魚に幸運が訪れることなどない。

伴内は、焼き芋を食い終わると包んでいた新聞紙を広げた。それは求人募集の広告欄で、その中の一つに目を奪われた。

『M新聞社。営業マンを求む。東京都千代田区神田常盤町……M新聞販売部』とある。

当時、M新聞と言えば飛ぶ鳥を落とす勢いがあり、日本三大新聞の一つと広く認知されてもいた。

昨今は黄昏(たそがれ)状態気味で、その地位も危うくなっとるようやがな。

新聞社に勤めることができるかも知れん。

伴内は半信半疑ながら、ハガキで問い合わせてみた。すると折り返し「採用通知」が届いた。

驚いた。

そして、よほど「M新聞」は大きくなりすぎて人手不足なんだろうと思い、それなら新聞社の社員になってやろうと決めた。

新聞記者になるのも悪くはないと。

その頃、地方の若者の多くは東京に幻想、いや夢を抱いていた。もちろん、伴内もその例に洩れず、東京にあこがれていた。

このまま、この片田舎で朽ちたくはない。そのあこがれが、今現実のものになりつつある。この機会を逃がす手はない。

伴内は正式な辞職届けを出さないまま勝手に逐電(ちくでん)を決め込んだ。

つまり、八幡浜漁港からそのまま逃げるように上京したわけや。

時は昭和32年。

指定された場所に行くと、そこには朽ち果てる寸前の木造家屋があった。

「何だ、これは?」

てっきり、M新聞社に採用されたものとばかり信じていたので、さぞかし大きなビルやろうと予想していた。

何かの間違いだと思い、もう一度、その募集広告を確認した。

すると、そこには小さな活字で「所属」の文字が印刷してあり、それに気づき騙されたと知ったときには時すでに遅し、後の祭りやった。

何のことはない、M新聞の新聞拡張団の求人広告に引っかかったわけや。

今の時代にそんなケースはさすがに少ないとは思うが、その頃には伴内のように、そういった求人広告で半ば騙されておびき出された者も、それほど珍しくはなかった。

そのためか、世間から悪の権化のように評価されていた拡張員であっても真面目な人間の方が圧倒的に多かったように伴内は記憶している。

しかし、環境は人を変える。

その中にいると、悪い事をしているという感覚が薄れ、麻痺していく。気がつけば、いつの間にか悪質な拡張員と呼ばれるようになっている。

新聞拡張員が悪質な営業をすると言われるのには、それなりの理由がある。

新聞業界では、購読者確保のための営業は業務委託で外部に任せるシステムになっている。

その委託先が新聞拡張団と呼ばれている新聞専門の営業会社なわけや。

それだけなら、何の問題もない。

問題は、その初期において、新聞社が拡販営業のための組織をヤクザに任せていたというところにある。

初期の新聞拡張団では、ほぼ100%に近い確率で、その手の組織やったというさかいな。

それには、戦後間もないということもあり、まだ経済的な基盤の弱かった新聞社が自社で新聞普及のための営業員を確保できんかったということが大きい。

それを補う方法として、ヤクザなどの一定の人数を擁することのできる組織に「営業部門」を外部委託したわけや。

それにより膨大な数の営業員を確保することができた。

他企業という体裁のため、そこの従業員である個々の営業員の行状について法的な責任を負う必要がなくなる。

当然、直接管理することもない。

新聞社は、それぞれの拡張団組織のトップ、団長さえ抑えて手なずけておけば、それで事足りた。

そうであれば、ヤクザであろうが何であろうが関係ないということになる。

建前上、業務委託契約書には法的に瑕疵のない項目を並べ綺麗事を記載しとけば何の問題もないわけやさかいな。

それを破れば、破った拡張団、拡張員が悪いと非難できる。累が新聞社におよぶことはない。

そう当時の新聞社は目論(もくろ)んだ。

それが図に当たった。

結果的に、仕事のほしい組織はいくらでも集まり、全国各地で新聞拡張団が爆発的に増えていった。

新聞の部数が飛躍的に伸びた大きな理由がそこにあったわけや。

その当時、訪問販売というのは、その法律さえ、まだ確立されとらんかったから、何でもアリの押し売り営業というのが大半を占めていた。

新聞拡張に至っては喝勧、置き勧、騙し、ヒッカケ、てんぷら、泣き勧などまさに何でもござれの時代やった。

今でもそうやと言う意見も聞こえてきそうやが、法律が整備されとる今のそれとは比べものにならん状態やった。

新聞社がヤクザを使うという発想も、今やったらとんでもないと非難されるやろうが、そうさせたのは、押し売りは素人ではできんという考えが根強くあったからや。

スタートがそれやから、その流れを色濃く受け継ぐ当時の拡張団の上層部や古株にはロクでもない連中が多かったというのは容易に想像がつくやろうと思う。

その連中が、手ほどきと称して伴内のような何も知らん新人たちに、さもそれが拡張の王道でもあるがごときの教育を施すわけや。

根が真面目であればあるほど、その考えに染まりやすくなる。

余談やが、16、7年前、ワシがこの世界に初めて飛び込んだ京都の拡張団は、同業者からも恐れられ敬遠されるほどの悪名高い団やったが、その中に入ると、皆それなりに気のええ人間ばかりやったと記憶しとる。

元はたいてい気のええ普通の人間ばかりで、ちょっとしたことがキッカケでそうなっただけにすぎん。

朱に交われば赤くなる。そういうことやと。

その団の寮は荒川区にあった。

タコ部屋というのが、その当時、建築現場などにある飯場では常識やったが、その団も同じようなもんやった。

小汚いアパートの一室に詰め込めるだけ団員を詰め込む。

魚臭さには慣れているはずの伴内が思わず、顔をしかめるほどの悪臭が辺りに漂っていた。

およそ人の住めるような所やない。ないが、そこが今の己の住み処とあきらめるしかない。

朝、そこから、さらにじめじめとした朽ち果てた木造家屋の団に出勤する。

毎日、親方から300円の前借り金を貰って、指示された販売店に向かう。

当時はバンク(販売店の縄張り内)で真面目にセールスに励むと日に4200円ほどは稼げた。

ちなみに1契約の拡張料は当時420円やったから、1日に10本程度の契約を上げることができたという計算になる。

当時としては悪い稼ぎやなかった。

喫茶店のコーヒー代が50円。かけウドン15円。ジャンボ稲荷寿司1個10円。定食やカレーライスが80円〜100円。仕事をサボって観る3本立ての映画が75円という時代やったさかいな。

その頃の拡張の一端を紹介する。

ドンドン。

この頃には、まだインターフォンといったものはなく、拡張員はノックをするのが当たり前やった。

このノックをするというところから、拡張のことを業界用語で「叩く」と呼ぶようになったという。

そのノックに急かされるように、40歳過ぎのオバちゃんが出てくる。

「M新聞ですけど取って貰えませんか」

「うちはA新聞と決めてるから……」

断り方の語尾が弱い。これは脈のある証拠やと教えられていた。

「そんなことを言わず、頼みますよ。1ヶ月だけでもいいんで」

伴内はそう言いながら、拡材用の台所用粉末洗剤の小箱を、せっせと取り出し目の前に、これでもか、これでもかと積み上げていく。

それを横目で見る、その40歳過ぎのオバちゃんの口元が、その度に少しずつ綻(ほころ)んでいくのが分かる。

伴内の方は、「さあ、どうだ」とばかりに、さらに小箱を積み上げる。

すると、「仕方ないわね」と、観念したように言う。

洗剤の量と新聞代金を天秤にかけ、得になると考えたわけや。

このオバちゃんのような客は多かった。今もそうかも知れんが。

契約書にサインしてハンコが押されたのを確認すると、洗剤を1箱だけ残し、それ以外は全部しまい込み、さっさとその場を立ち去る。

あっけにとられた客から、背中越しに異が唱えられ抗議を受けるが遅い。

こちらは山積みして見せただけであって、「全部、差し上げます」と言った覚えもなく約束したわけでもない。

客が勝手にそう勘違いしただけで、こちらの責任ではない。

そんな理屈がまかり通った時代やった。

今なら、クーリング・オフや消費者契約法といった法律で簡単に無効になるやろうがな。

伴内にはできんかったが、脅しながら契約を取る「喝勧」というのも多く、気弱な読者はカレンダーに目印をつけ、半年先まで毎月読む新聞の種類が違うということもざらにあったと聞く。

頻繁に新店拡張も行っていた。その店に飛び込む。

「今度、新しい店(販売店)をここの商店街で開くことになりました。ついてはお付き合いの意味で、よろしくお願いします」

「どこに開店するんだい?」

「あっち……」とあらぬ彼方を適当に指さす。

コントのようなやり取りやが、そんな感じで煙(けむ)に巻く。それで結構、成約できていた。

その当時は今と違い、「付き合い」という言葉にはそれなりの重みがあったさかいな。

そのうち、テンプラ(架空契約)カードの作り方も覚えた。

そのため、ズボンのポケットには常に三文判が5、60本程度入っていてジャラジャラと賑やかやった。

ちょっとした偽造技術は必要やが、それを半分ずつ使うことで100〜200人分の名前ができる。その主な細工、偽造場所はもっぱら郵便局でしていた。

ハンコを持っているから、後は表札を見て歩くだけやった。中には墓石を見てカードを作る猛者まで現れた。

もちろん、新聞販売店側も指をくわえて、それを見逃していたわけやない。

そんな真似を拡張員がしているというくらいは店も先刻承知やから、カードの監査は徹底して行っていた。

正しい「契約」か否かを夕刊配達時のついでに契約者一人一人に尋ねて廻るわけや。

今は、携帯電話も含め、電話連絡のつかん者の方が少ないから、たいていは電話一本の確認で済ますが、その当時は固定電話さえない家も、それほど珍しくなかったさかい、確かめるにはその手しかなかったということもあるがな。

それにより、真正なカードと店が判断した場合は即金で全額を、未確認カードの場合は100円だけを支払ってくれ、残りの差額は月末に親方が給料としてまとめて支払うことになっていた。

もっとも、拡張員たちもそんな真似ばかりやってたわけやないがな。

また、そうせずとも契約を上げるだけなら比較的簡単な時代でもあった。

その当時の新聞購読率、普及率は現在の半分程度しかなく、客になる人間はいくらでもいたから、普通に「新聞を取ってください」と言うて廻るだけも、ある程度は仕事になった。

世の中は、高度成長期の兆しが見え始めた頃で、景気も上向き加減やったというのもあったと思う。

また、その当時は字が読めない人も結構多く、そういう人には「新聞を取っていたら、他人からそんな目で見られなくても済みますよ」と言えば、簡単に契約が取れた。

ただ、無理して新聞を取ることで、何とか新聞を読もうと努力する人もいて、それで識字能力が格段に上がった例も多々あったというから、その意味では、新聞記者にはなり損ねたが、それなりに社会の役には立っていたと考えることができた。

加えて、新聞も取ることができない貧乏人という陰口をたたかれることを気にする人も、ええ客になった。

新聞を取ることで、そうではないと証明できるさかいな。

今の業界人には考えられんくらい、拡張員にとっては古き良き時代やったということになる。

そんなある日、団長宅で夫婦喧嘩があった。

結果は、カミさんの圧勝やった。

結局、団長夫妻は離婚し、ついでにカミさんは団員の半数を引き連れてY新聞の拡張団を新設した。

伴内は冷静に考えて、やり手のカミさんについていく方が賢いと踏み、それに従った。

昭和34年頃、Y新聞社北陸支社が富山県高岡市にオープンした。

ここに地方紙の雄、K新聞、北陸C新聞、Y新聞の三者の間で三つ巴の販売合戦が勃発することになる。

熾烈を極めた戦いが繰り広げられた舞台として業界でも伝説の一つに数えられとるものや。

その戦いの中心に伴内は身を投じていた。

そのときの経緯も面白いが、話すと長くなりそうなので、それについてはまたの機会にさせて貰う。

それから30年後の1989年に公開された映画『社葬』で描かれていた新聞拡張の主戦場として、その地域が選ばれたことからも、その争いが、いかに凄まじく有名なものやったかが窺われると思う。

制作サイドの裏話として、それを長く温めていた人がいてたということやさかいな。

当メルマガ『第47回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■映画『社葬』による新聞への負のイメージについて 前編』、『第48回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■映画『社葬』による新聞への負のイメージについて 後編』(注1.巻末参考ページ参照)で、それに触れている部分があるので、見て頂ければと思う。

ちなみに、その映画の冒頭付近で流れた、


日本の新聞はインテリが作りヤクザが売る。


というあまりにも有名なテロップは、放映されて20年以上経った今も、新聞業界を攻撃、批判する格好のフレーズとして使われ続けている。

特に、ネット上にそれが多い。

それを見て、その言葉どおりやと信じる、あるいは納得する人も多いと思う。

「それは、エンターティメントとしての面白さを誇張するためのつかみ、キャッチコピーにすぎなかったと思うのですけどね」と、ハカセ。

真実は必ずしも、そのテロップどおりではない。

新聞記者にインテリだけが存在するわけでもないし、拡張員にも伴内のように高度な知識と技術を持ったインテリと呼ばれてしかるべき人間も多い。

業界人なら、その程度のことは常識やが、ある一面を強調して見せることで世間の認識は簡単にそれに傾くわけや。

しかし、その事実に関係なく、映画制作者側の思惑は成功した。いや、成功しすぎた。

それにより多くの人に刷り込まれたイメージの悪さの大きさには計り知れんものがあり、現在も尚、それが尾を引いている。

伴内は結局、3、4年で拡張員を辞め、職を転々としながらも、ある事業で成功を遂げ、財も得、現在は借家経営で悠々自適の生活を送っている。

その多羅尾伴内氏は言う。


忌嫌われる職業でしたが、この仕事で苦労に耐える力をつけたまじめな人が多かったことを世間に周知したいですね。


と。

あまり表には出てこんが、元拡張員をされていた方で、氏のように成功された方も多いと思われる。

ただ、その情報があまりにも少ないのは事実や。

これを見られた方で、その経験がある、またそんな人物を知っているという方がおられたら是非、教えて頂きたいと思う。



■多羅尾伴内氏とアンダー(地下)・メルマガについて


読者の中で、『アンダー(地下)・メルマガ』というのをご存知の方がおられるやろうか。

これについてはネットでいくら検索しても、その実態に近づける内容のものがヒットすることはないと思う。

分かりやすく言えば、通常のメルマガ・スタンドを使わず、個人的なつながりの限られた人だけに向けて発行しているメルマガのことや。

個人から個人のメールボックスに送付されるだけやから、そこで書かれたもの、発表されたものがネット上に載ることはほとんどない。

氏がなぜそうされるようになったのか、その確かな理由はワシらにも分からん。

一つ言えるのは、ワシらのようなメルマガはネット上で残るさかい、迂闊なことを書くと具合の悪い事も多いが、『アンダー(地下)・メルマガ』やと少々何を書いても、どこからも突っ込まれにくいということがあるからやないかと思う。

難点は、その当事者同士の間でしか知られることはないから、通常のメルマガのように世に知られる可能性が極端に少ないということがある。

プラス面は、ネット上で、公開されるものについては、その記述次第では法に触れたり、大勢からひんしゃくを買って責められたりすることがあるが、『アンダー(地下)・メルマガ』にはその心配はないということや。

あくまでも個人的なメールということで通る。

それもあり、好き放題の内容が書かれている。名指しの批判や風刺、ブラック・ジョークなどいろいろや。

個人的に読む分には面白い。腹を抱えて笑えるものも多い。

但し、残念ながら、その内容をここで紹介するのは、いささか憚(はばか)られるから、それはできんがな。

それさえなければ、内容の濃い情報が溢れとるから申し分ないんやけどな。

もっとも、そうなると面白味も半減するかも知れんから、そのあたりの兼ね合いが難しいところやとは思う。

いずれにしても、ワシらは、他を誹謗中傷しない、許可なく名指はしない、ということをモットーとして、それに徹しとるさかい、そのままの引用はできんわけや。

せやから、ワシらだけで密かに楽しむしかない。

今回、登場して頂いた、多羅尾伴内氏も、そういった『アンダー(地下)・メルマガ』を発信されておられる方の一人や。

ご本人は、『スパム・メルマガ』と卑下ともジョークとも取れる言い回しをされておられるがな。

氏とワシらとは、かれこれ2年半の付き合い、絡みがある。

調べてみると、最初に、その第1号が送られてきたのが、2008年の6月17日で、それ以来、約850回以上の話が届けられている。

本文でも言うたが、「多羅尾伴内」というのはワシが勝手につけた「あだ名」や。

もちろん氏の本名はあるのやが、それをこのメルマガ誌上で明かすことはできんので、適当な名前は何かないかと考えた結果、そう名付けさせて貰った。

その理由として氏は、数多くのハンドルネームを使い分けておられる方で、一つに絞るのが難しいということがあったからや。

最初は「風の又三郎」と名乗り、以後「夢の又三郎」、「風邪の又三郎」、「腎の又三郎」、と又三郎シリーズが続くと、「腎のネコ次郎」、「腎の風五郎」、「腎の波次郎」と腎シリーズに変わっていった。

さらに、「リッチ猫」、「腎猫」、「腎の猫二郎」と猫シリーズが続く。

また「失言太郎」、「よろめき太郎」、「○○金太郎」、「○○菌太郎」、「菌太郎」、「ぼやき菌太郎」のように、太郎シリーズというのもあった。

「金正雲」、「泥正雲」、「拉致金」、「金正夫」、「金正男」と「北の国」シリーズも結構多かった。

最近では、「前田恒彦」というのを好んで使われている。

まあ、ハンドルネームやから何でも良さそうなもんやが、これだけでもジョークや皮肉、洒落の好きな人物というのが、よく分かるのやないかと思う。

その中の一つのハンドル・ネームを使っても良かったのやが、それやと、その面白さが、もう一つ伝わりにくいのやないかと考えた。

思案した結果、「多羅尾伴内」がええやろうとワシが進言したので、ハカセがそれに乗ったということや。

今回、この話をすることになったのは、氏は50年前に拡張員をされておられたことがあると言われていたので、是非、そのときの様子を教えてほしいとハカセが熱望して、それに応えて頂いたからや。

ハカセは、「本当は原文のままの方が面白いと思うのですが……」と言うが、さすがに、その原文をそのまま載せるだけの勇気も根性もなかったということや。

両方を知るワシとすれば、確かに毒は抜かれとるので安全運転気味やと言われればそうやとは思うが、それはそれなりに上手く調理されとるのやないかと感じたがな。

それはちょうど、トラフグを調理して危険のない美味しい料理として客に出す調理人のようなものやったと。

そうすることがワシらのメルマガの限界やとも思う。

傍目からは、ワシらのメルマガも十分好き勝手なことを書いとると思われとる人も多いようやが、さにあらず、書けん事、書いたらあかん事も結構多いわけや。

人の目に触れる活字になると書いた者も、それなりの責任が伴うさかいな。

表現の自由、言論の自由とは言うものの、それは自制の上に成り立つものやなかったらあかんと思う。

もっとも、ワシらにどこまで自制が働いているかという問題はあるがな。



参考ページ

注1.第47回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■映画『社葬』による新聞への負のイメージについて 前編

第48回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■映画『社葬』による新聞への負のイメージについて 後編


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