メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー

第133回 ゲンさんの新聞業界裏話


発行日  2010.12.24


■クリスマスに永遠の命の話を


「クリスマス・イブか……」

タケルは、クリスマスが嫌いやった。

毎年、その日が来る度に気が滅入り、無性に死にたくなる。

生きていても仕方ないという気になる。

人生ほど不公平で不平等なものはない。

人は、生まれた時代、生まれた国、生まれた家庭など様々な環境や条件によって限られた生き方しかできない。

裕福な者や権力者はそうなるように、タケルのように貧乏で不運の連続しかない者は、最初からそうなるように決められている。

人はそれを「運命」とか「宿命」と言う。誰もそれから逃れることはできない。

唯一、平等やと言えるのは、生まれてきた事と死ぬ事だけや。それ以外にはない。

金持ちであろうが貧乏人であろうが、有名人であろうが、無名な人間であろうが、それはすべて同じや。

よほどの偉人、人物でもない限り、後世までその行い、足跡が人々の記憶に残ることなどない。

タケルがそう考えるのは、他人と比べてあまりにも恵まれていない、不幸ばかりの人生を送ってきたという思いが強いからで、これが裕福な家に生まれ何不自由なく生きてきていたら、その考えも違ってたはずや。

この世に生を受けて、もうすぐ20年。

これまでのタケルの人生に楽しいと言えることなど何もなかった。

クリスマスもその一つや。

タケルは生まれてから、今までロクなクリスマス・プレゼントを貰った覚えがない。

良くてスーパーで売っている千円程度の赤いサンタ靴に入った、菓子詰めを買って貰えるくらいやった。

子供に高価なクリスマスプレゼントを渡す習慣や豪華なクリスマスにケーキを食べるという風習は企業による陰謀、悪習だと聞かされ育ってきた。

その日に向けて大量に殺されることになる七面鳥やニワトリたちは可哀想な犠牲者やと。

それを食べるのは慈悲の心に欠ける行為やと。

キリスト教信者でもない者がクリスマスを祝うとバチが当たると。

そう教えられ、それに何の疑いも挟まず信じてきた。

そのため、友人たちが高価なクリスマス・プレゼントを貰ったとか、大きなクリスマス・ケーキを食ったという話をしていても、どこか醒めた目でそれを聞いていた。

それがどうもおかしいと思い始めたのは、タケルが小学校の高学年頃になってからやった。

友達が持っているゲーム機やソフトが欲しいと言えば、「ゲームは脳を破壊する」と脅かされ、学校で流行っているプージャー(プーマーのジャージ)が着たいと言えば、「ブランド物など見栄を張るためだけの物で何の値打ちもない」と一蹴された。

果ては、「松茸は毒キノコ」で「マグロのトロは身体に悪い」、「ハンバーグにはミミズが入っている」などと言われる始末やった。

当然のように、ファースト・フード店やファミリー・レストランにさえ連れて行って貰えなかった。

たまに回転寿司店に行ったことがあるくらいや。そのためか、すし屋というのは皿の回る店のことだと長い間、信じて疑わんかった。

世の中の高級品と言われる物に値段相応の値打ちのあるモノなどないということも無条件に信じた。

しかし、本当の理由は違う。単に貧乏やったからやと気づいた。

タケルは母親のマサコに育てられた。両親はタケルが生まれて間もなく離婚したという。

その後、しばらくマサコは新聞販売店で新聞配達と集金の仕事をしていたが、ある日の集金中、マサコが倒れ、近くの救急病院に搬送された。

最初は貧血やと気軽に考えていたのやが、検査の結果、乳ガンでかなり進行していると分かった。

即座に入院することになった。

しかし、貧乏やったということもあり保険にも入っていなかったから、入院代は疎か、今後必要になると思われる手術費や治療費を払うことも困難やった。

それを見かねた新聞販売店の店主が、友人の民生委員に相談したことで、生活保護を受けられるようになった。

それで、少なくとも病気が治るまでは治療費と最低限の生活の心配はなくなった。

マサコは早期に回復でき、また元気に働けると信じていたが、なかなかその兆しが見えず、治療が長引いた。

マサコは生活保護を受けているという負い目から、よけいに贅沢することはできんと考え、心を鬼にしてタケルにも、その考えを徹底させようとしたわけや。

タケルも気持ちの中では、母のマサコの考えは理解していたが、子供心に、「何で自分だけが、そうなんや」という思いをぬぐい去ることができんかった。

それで、マサコを困らせることもしばしばあったという。

そのマサコが2年前の2008年12月、長い闘病の末、逝った。

その翌年の2009年3月には、タケルは高校を卒業して、4月からは、2008年11月末の内定により、そこそこの企業に就職することが決まっていた。

そのことを知って殊(こと)の外、マサコは喜んでいた。

タケルも長年苦労をかけたという思いから、働いて稼ぎ、少しでも母親のマサコに楽させたかった。贅沢もさせたかった。

後僅かで、そのささやかな夢が実現する。その矢先の死やった。

マサコが「ごめんね。今年のクリスマスも何も買ってあげられなくて……」と最後に言い残した言葉が、タケルの耳に残って離れない。

そして、生まれながらに不幸を背負っている者には、最後まで幸せなど訪れないのやと改めて知った。

苦しむ者は、死ぬまで苦しむのやと。

頑張れば何とかなるというのはウソやと。

人にはそんな運命を変える力などないのやと。

不幸な人間はどこまでいっても不幸でしかないのやと。

タケルは、それから以降、クリスマスなど祝う気にはなれなかった。というより、そのクリスマスの祝い方自体が分からなかった。

タケルは、友人の一人、シンに電話した。

「今年のクリスマス、どうするんや?」

「今年はその日、夜勤やから、祝うのは休みの25日やな」と、シン。

シンもタケルと同じく、高校卒業して就職した口で、唯一、タケルが心を許せる友人やった。

そのシンは、大手の自動車系列会社に勤めていた。

自動車業界は一時の不況を乗り越え生産も上向きになったことで、しばらくなかった夜勤勤務が復活したのやという。

「そうか……」

タケルは、せめてクリスマスの夜にシンと語り合うことができたら、このブルーな気分も払拭できるのやないかと考えた。

そのアテが外れた。

「その休みの25日はどうするんや」と、タケル。

「オレは、もともとクリスマスは毎年、家族と一緒に祝うことにしとる。今年は、オレが夜勤ということで、25日の夜にすることになっとんのや」

クリスマスは、イエス・キリストの降誕(誕生)を祝うもので、12月24日の日没から12月25日の日没までとなっている。

これはユダヤ教の暦が日没から日没までを一日としているためで、その暦にあわせた12月24日の日没から朝までをクリスマス・イヴとして祝うことがメインとされているわけや。

それからすると、12月25日の夜では遅い、すでにクリスマスではないということになる。

「別にオレんとこはキリスト教信者でも何でもないから、そういうのは関係ないしな。それにオレ抜きでは両親も弟もクリスマスはせんと言うから、仕方ないんや」

タケルには、もう家族と呼べる者は誰もいない。正直、シンが羨ましかった。

「そうか……。ええ家族やな……」

「まあな。それより何や、タケル、ヤケに暗いな」

「別に……。悪かったな。それならええんや」

シンは、タケルの母親が2年前のクリスマスの前に死んだことを思い出した。

落ち込んでいて「死んでしまいたい」と洩らしていたこともあった。

そのときは、母親の死のショックからやと考えて、そっとしておいたが、それを今も引きずっているとなると、そうも言うてられんという気になる。

タケルは、何事においても考えすぎるようなところがある。その考えが、その「死んでしまいたい」というところに再度向いたら大変や。

実際、そのクリスマス・イブの夜に孤独感を募らせ自殺するケースが毎年多いと、何かの本で読んだことがある。

クリスマスは多くの人が楽しむ年中行事で、テレビなどでも殊更強調し、それに関連した番組が多い。

それらを観たとき、普段から孤独で不幸やと考えるタケルのような者は、他者の多くを幸せやと感じてしまいやすい。

それにより、よけいに自分不幸だと感じ、その思いがピークに達して、クリスマス・イブの夜に自殺するのやと。

もしかしたら、タケルは電話することで、そのサインを発しているのやないかと、そうシンは直感した。

危険な兆候やと。

「25日の昼間やったら、遊べるで。お前んとこに午後の1時頃行くから、待っていてくれ」と、シンは咄嗟にそう機転を働かせた。

シンは父親から、「自殺を仄めかす友達がいたら、取り敢えず何でもええから約束をさせろ」と聞かされたのを思い出した。

それで、実際に自殺を思い止まることが多いと。

「分かった」

「そのとき、お前に最高のクリスマス・プレゼントをやるから」

「何やそれ」

「永遠の命や」

「永遠の命? それは面白いな」

「ウソと違うで」

「そうか、分かった楽しみにしとく」

もちろん、タケルは、そんなことを真に受けたわけやない。

どうせダジャレ好きのシンのことやから、アントニオ猪木の写真でも持ってきて、「永遠のイノキ」とでもやるつもりなのやろうと考えた。

ただ、その気持ちは嬉しかった。

何もないが、友人だけは確かな人間を得られた。

タケルは、そう実感できたことで、そのブルーな思いも薄らいでいた。

しかし、当のシンの方は冗談でも何でもやなく、科学的根拠に基づいて本気でそう言うたつもりやった。

もっとも、正しくは「永遠の命をプレゼント」するのやなく、本来、人間とは「永遠の命」を有したものやということを話して、自ら命を落とす愚を諭としたかったわけやがな。

その教えは父親からの受け売りやった。

「……というわけなんや、父さん」

「そうか、それは上手いこと言うたな」と、ハカセ。

途中で気づかれた読者もおられたと思うが、シンとはハカセの長男のことや。

ワシが最初に出会った頃は、まだ中学生やったが、今では立派な社会人になって、来年の1月には成人式を迎えるという。

光陰矢のごとし。と言うが、本当に年月の経つのは早いもんやと今更ながらに、そう痛感せずにはいられない。

ハカセに似て理論的ではあるが、ハカセほど短気な性格やなく、優しく包容力があり人から好かれ頼りにされることの多い明るい性質の好青年や。

ラグビー好きの巨漢でもある。

ここで、シン君が、タケルに話すつもりやったという「永遠の命」の内容について説明しようと思う。

大半はハカセ独特の理論やけどな。

11年ほど前、シン君が、まだ小学生やった頃、その運動会で父兄リレーというのにハカセが出場して、走り終わった後、いきなり意識を失い倒れ、救急病院に搬送されるという事故が起きた。

急性心筋梗塞やった。

その折、集中治療室で、一時、心臓が停止していたと担当医師から聞かされた。

そのとき、ハカセは奇妙な体験をした。(注1.巻末参考ページ参照)

肉体は死んだように感じていたが、心は生きてる。そんな変な感覚があった。

しかも、信じられないことに、そのとき、ハカセは治療を受けていた自分自身の姿を上からはっきり見たという。

それまで、ハカセは死とは、夢を見ないで寝ている状態が永遠に続くものだと思っていた。

どうもそうではないらしい。そのときの状態は今でもはっきり覚えているという。

何かの明るい光に導かれ、ものすごい勢いで身体が引っ張り上げられた感覚があった。

気がつくと、そこは、のどかで落ち着いた草原のような所やったという。

それは、夢うつつというようなものではなく、現実感の強いものやったと。

そして、そのとき、身体が嘘のように軽く、気分が爽快やったことを覚えている。

その次の瞬間、いきなり、奈落の底に引き込まれるように落ちて行った。

気がつけば、病院のベッドの上やった。

ハカセは、そのときの体験が忘れられず、いろいろ書物を当たって調べているうちに、故丹波哲郎氏の書籍と出会った。

その書籍にあった、近似死体験者と言われる人たちの話と、ハカセのそれが酷似するものやったという事実に少なからず驚いた。

自分だけやなかったと。

その思いで氏の書籍や関連した本を読み耽(ふけ)った。

そして、死後の世界があることを信じた。

もっとも、その直後は、それはええ方に向かわず、命知らずな男になってしもうたのやがな。

医者から、ハカセの心臓病は完治することはないと聞かされたことで、先が短いということを自覚して半ば自棄気味やったというのもあるが、やはり、その体験が大きかったという。

死後の世界を体験したことで、「死んでも生きていられるから怖くない」と考えたと。

それもあり無謀にも、元ヤクザの拡張員相手に喧嘩まで吹っかけとったからな。

もっとも、ハカセの生い立ちや性格からすると、それがなくても、そうなっていたかも知れんがな。

ただ、常よりもブレーキの外れた状態だったのは確かやった。

ワシがハカセと知り合うたのは、そんなときやった。(注2.巻末参考ページ参照)

ただ、ハカセは、思い込んだら一直線というところがあって、その関連のことを、その後も徹底して調べたということや。

ハカセの常として、何かを調べる場合は偏った書籍、文献だけを盲信しないということがある。それを否定する資料にも必ず目を通す。

その両方を比較して、ハカセなりの判断を下す。その癖が身に染みついている。

その際、ある疑問が生まれたという。

それは、あのとき、本当に死んでいたのかという疑問やった。

確かに、心肺停止にはなっていた。

しかし、脳波は動いていた。現在の医学では、脳波の停止を持って死と認定するというのがある。

その意味では、死んではなかったことになる。

ハカセの調べたところによると、近似死体験と言われるケースには、心肺停止時に、そういう夢を見ることがあると書かれた文献があった。

しかも、それらの夢の内容が多くの人と非常に酷似している理由も説明できるという。

近似死体験者のほとんどは、死後の世界と思われる場所が、花畑であったり、美しい自然に囲まれた場所であったりすると証言していた。

一往に気分が爽快やったと。

脳内麻薬様物質(オピオイド) というのがある。

人体が精神的、肉体的な危機状態に陥ったときに、精神活動に重要な働きをするGABA神経系から分泌されるエンケファリン、エンドルフィンなどの物質がそれやという。

それの大量分泌により、精神活動の麻痺や感情鈍麻といった状態になる。

それが、快感を感じさせる。

マラソンをしているときに、ランナーズ・ハイになるというのは、広く知られたことやが、そのときに脳内にオピオイドが分泌されると言われている。

この症状の特徴として、離人症的な症状をもたらし、爽快感、現実感の喪失、自己と外界を隔てる透明な壁のある感じ、自分のことを遠くで自分が観察している感じ、自分の手足が消失する感じなどがあるという。

つまり、近似死体験者が見たという情景や気分が爽快やったというのは、そのオピオイドが分泌された結果やないかというものや。

あれから、日も経ち、その記憶が薄れるにつれ、ハカセも自分の体験が怪しく思えるようになったという。

その書籍の解説通りなのかもしれないと考えるようにもなったと。

もちろん、そのすべてが、それで説明され、解明されているわけやない。説明のつかんことも多い。

例えば、前世の記憶というものがそうや。

2、3歳児くらいまでの幼児に時折、そうとしか思えんことが起きるという。

遠く離れて行ったこともない土地のことを知っていたり、会ったこともない人の名前を言い当てたりする。

そして、何より、前世の人物しか知り得んことを知っているという。

そういう、事案の報告例があまりにも多い。テレビなどでも、その手の番組でよく取り上げられている。

「そんなものは、嘘や」と一蹴する向きもあるやろうが、すべてがそうやとは思えんし、言い切れんのやないかと思う。

例え大人がそう吹き込んでいたにしても、その事を何度問い正しても2、3歳の幼児が同じ答えを繰り返すというのは、いかにも考え辛い。

もし、そういうデマをでっち上げるのなら、何もそんな幼児でなくてもええわけや。

むしろ大人の方がええ。大人なら何とでも誤魔化せるし、取り繕えるさかいな。

しかし、実際にそれが現れるのは、たいていの場合、幼児期が多く、7、8歳になるとその記憶も薄れて忘れるのやという。

ワシには、その事実の方が信憑性が高いように感じる。

未発達の幼児の脳やからこそ、前世の記憶が入りやすいのやないかと。

もちろん、せやからと言うて、すべての幼児がそうなるわけやない。

すべての事象に例外があるように、ごく希にそれが起こるということやと。

そして、前世の記憶があるということは、取りも直さず生まれ変わりがあったという証拠にもなると考えられるわけや。

そうなると、死後の世界がないと理屈が合わんことになる。

死後の世界があれば、仏教などで言うところの輪廻転生というのが本当にあるということになる。

人は、良くも悪くも、そのサイクルの中で生き続けると。

もっとも、本当のところは、やはり死んだ後でないと分からんことやけどな。

旧メルマガの『第133回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■万物皆我に備わる』(注3.巻末参考ページ参照)では、その先まで突っ込んで話したことがある。

人体は、約60兆個とも言われる細胞からなり、酸素、炭素、水素、窒素、カルシウム、リンなどの元素から構成されている。

そして、体の実に70%ほどが水分でできている。

ここまでは、小中学校でも教える一般常識でもある。

これ以外にも、人体の構成、および、その活動になくてはならない有機質、無機質が存在する。

身体の構成に必要とされる金属物質には、 ナトリウム(Na)、カリウム(K)、マグネシウム(Mg)、カルシウム(Ca)、クロム( Cr)、モリブデン(Mo)、マンガン(Mn)、鉄(Fe)、銅(Cu)、亜鉛(Zn)、リン( P)、セレニウム(Se)などがある。

さらに、身体の維持に必要であろうと思われるミネラルも、リチウム(Li)、バナジウム(V)、コバルト(Co)、ニッケル(Ni)、ホウ素(B)、ゲルマニウム( Ge)、臭素(Br)、ヨウ素(I)など数多くの物質が存在する。

つまり、人間の体内には自然界に存在する多くの物質が内包していて、それが必要不可欠やということになる。

このとき、ハカセは、

「私はね、これを突き詰めて考えると、人間を含めた生物とされる動植物、あるいは無生物の水、岩石、金属も、すべてこの地球の一部にすぎない存在だと思い当たったわけです。だから、有機質として生きた私たちも死ねば無機質に還るのだと……」

と言うた。

ただ、ここまでの話は、死んだ後の結果にすぎんことや。

それが、なぜ「永遠の命」につながるのか。

シンがタケルに伝えようとしているのは、ここからや。

それには3通りの仮説がある。

1つは、人間の肉体そのものが根本の部分で滅ぶことがないという考え方や。

人体が約60兆個の細胞から成り立っているということは、人間は一個の生き物であると同時に、約60兆個の生命の集合体やとも言えるわけや。

細胞は、一つずつ、それ自体が生きている生命体と考えられとるさかいな。

しかも、それらの約60兆個の細胞の多くは常に細胞分裂による新陳代謝、つまり生死を繰り返している。

さすがに、その数まで調べた者はおらんようやが、人間が生まれてから死ぬまでの一生の間には膨大な数の細胞が生まれ、そして死んでいっているのは間違いない。

しかし、人間にとって、その細胞が最小単位やない。

細胞は分子の集まりで、分子は原子の集まりとされている。

その原子は元素の最小単位とされるが、それにしても原子核と電子からなり、「分割不可能な単位」というわけではない。

その原子は不思議な物質と言える。

それを分かりやすく説明するために、原子を中学校の体育館程度の大きさやと仮定する。

その場合、中心の原子核の大きさは、ハエほどの質量しかないという。

電子はその体育館の外周を飛び回っていて、その室内には何も存在しない空間があるだけやと。

原子核には、陽子、中性子があり、さらに小さな単位として素粒子がある。

現在の化学では、まだ判明していないが、それよりもさらに小さな構成単位があるのやないかと科学者の間では言われていて、その研究も進められている。

近いうちに、その存在が分かるという。

要するに、人類には極小である物質の確認が完全にはできていないということや。

化学が進めば進むほど、その謎が深まっていくのやないかという気がする。

それと同じようなことは広大な宇宙についても言える。

人間も含めすべての生物と水や岩石、マグマの集合体である地球は一個の惑星で、太陽系の一部にしかすぎず、太陽系は銀河系星団のホンの一部で、宇宙にはその銀河系星団、星雲のような星の集合体が数千億あると言われている。

現在、人類に分かっているのは、そこまでや。

ひょっとすると、その銀河星団のような星の集合体が何かの物質を構成している可能性も考えられると、ハカセは言う。

「私はこの無限とも思える宇宙そのものも何かの物質の構成単位にすぎず、他にも無数の宇宙があって、それらの集合体が何らかの物質を構成しているのではないかと考えています」と、途方もないことを言い出す。

つまり、極小も極大もどこまでいっても限りがないのではないかというわけや。

まあ、そこまで考え出すとキリがないので、ここでは酸素や水素といった物質の元素とされる原子に話を戻す。

原子の大きさは、どんなものか。

人の髪の毛と比較した場合、1本の髪の毛の厚みに、原子は実に30万個以上並ぶという。

人間の身体に存在するすべての原子の数は、約7千穣個にもなると言われている。

穣の単位というのは、億、兆、京(けい)、亥(がい)、秭(し)の次で、0が28個並ぶ、とんでもない数字や。

細胞が約60兆個あるというだけでも途方もない話やが、そこで止まっては、「永遠の命」は説明できん。

なぜなら、細胞は死ぬものやからや。人間が死ねば、その細胞のすべても死ぬ。

ところが原子は違う。

原子は、その結合次第で化学変化によって違う物質にはなるが、原子自体が消滅したり増えたりすることはない。不変なものや。

人が死ねば、その約7千穣個もあると言われている原子は人間という集合体を離脱する。

ある原子は二酸化炭素になり、カルシウム(Ca)になって、その形態を変える。

また人体にあるナトリウム(Na)、カリウム(K)、マグネシウム(Mg)などの原子は、そのまま金属原子に戻るといったことも起きる。

生きている細胞の構成が原子から成り立っているのは間違いなく、それであるなら原子そのものにも「命」があるという理屈になる。

その原子の段階になると、消滅することがないから、死という概念が存在せんということになるわけや。

すべての原子は結合と分離を永遠に繰り返す存在やさかいな。

人間の肉体から原子レベルの分離をするのならば、その逆の可能性、再結合ということも考えられる。

それが、死後すぐなのか何億年後なのかは分からんが、いつの日か、その原子が生命体に宿るということも考えられるということや。

もっとも、人間の原子は人間に宿る、戻ると信じたいが、そこまでは何とも言えん。

2つ目の考え方は、DNA(遺伝子)のリレーにある。

DNA(遺伝子)は、その人間が遺せる唯一のものやと思う。

同じ時期に生存する子供や孫に、その人間の自己が発現することはないやろうが、何代か後には、そうなる可能性は十分考えられる。

人間を含めて多くの生物に種の保存本能があり、そのために性行為が行われると言われているが、それは少し違うのやないかと思う。

種の保存というより、己自身の保存、復活を直感的に感じ取っているからやないのかという気がする。

そのため、自分の子供をかわいがり、その将来のことを気にかける。

財産も残そうとするし、子供のためなら自身の命すら投げ出しても惜しくないと考える。

なぜなら、そうすることが自分自身を守ることにもつながると無意識のうちに感じ取っているからやと。

その子供のためということが、回り回って自分のためにもなると。

親が子供を愛する、自身よりも大切、貴重な存在と考えるのは、そういうことやないのかと。

もちろん、親が自身の子供を愛する行為にそんな打算が働いてのことではないと考える。

また、そんな途方もないことを考えつくのはハカセくらいしかおらんやろうしな。

そのハカセにしても、子供であるシン君やコウ君をそんな風に見とるわけやない。シン君やコウ君に何かあれば命を賭けても守ろうとするのは間違いない。

親が子を想う感情に打算などが入り込む余地はないということや。

ただ、生物の多くが持つ種の保存本能には、どう見ても、そうとしか考えられんものがあるのは事実や。

その具体的な事例が、トンボの性行為に見られる。

トンボのオスはメスがすでに他のオスと交尾済みであっても交尾を強行しようとする。

後から交尾するオスはメスの身体から、先に射精されている他のオスの精液を体外に掻き出し、自身の精液だけをメスに射精する。

メスもそれを許す。

メスにとっては、どのオスの精子であっても産まれてくる子供が自身のDNAを引き継いでいるのは間違いないから、大した問題ではないわけや。

そのトンボの行為は特別なことでも何でもなく、ごく普通に行われていることやという。

これの意味するところは、トンボは種の保存よりも自身の子の保存を優先しているということに尽きると思う。

それ以外には考えられない。

もちろん、それが結果的には種の保存につながるわけやが、根本は種全体よりも個を優先しているということになる。

そして、それが生物の正直な営みやないかという気がする。

さすがに、人間の世界では、そこまでのことはないが、それでも男の多くは誰とでも気軽にセックスをする女を生理的に嫌がる傾向にある。

不倫が嫌悪されるのも、それに由来する。

それはモラルの問題というよりも、自身のDNAが確実に受け継がれているのかと不審に思う感情からやないかと思う。

多くの男は、確実に自分の血、DNAを残してくれる女性を愛する傾向にある。

人の愛の根源は、そこにあるのやないかと。

まあ、これについては異議を唱える人がおられるかも知れんがな。

最後の3つ目。

これは、そもそも、肉体と精神は別個のものという考え方や。

肉体自体は人体の一部である「目」で見えるが、「精神」とか「気」といったものは人間の目では見えない。

もっとも、人間の目で見ることのできる「可視範囲」というのは実は光全体からすれば、ごく一部の狭い部分でしかないわけやがな。

それを「自分の目で見える物しか信じない」と言う人が多い。目に見えない大部分には、目を向けない、向けようとはせずに。

「精神」は脳の一部と考えられているが、他方では、脳はその「精神」が活動しやすい環境のための単なる気管やという見方もある。

ある機関の調査によると、人が死ぬ瞬間に数十グラム程度体重が減少するという実験結果があるという。

それは、死によって「霊」と呼ばれる精神が肉体を離れることによる質量の変化やと言われている。

生まれ変わりや霊の存在を信じる人は、この説を好む。

これを分かりやすく説明するために、自動車を例にとる。

自動車の車体を人間の肉体に見立てる。

車体に欠陥がなければ、その自動車は確実に動く。そのエネルギーとなるのはガソリンや。人間で言えば食物に当たる。

ここで問題なのが、動くことに何ら支障のない完璧な構造の自動車であっても、ガソリンが満タンになっていても、それだけでは絶対に動かないということや。

ここで、人間という意志を持った存在がエンジンをかけ、目的を定めることで初めて自動車は動き出す。

つまり、人間という肉体を動かす意志が「霊」であり、「精神」、「気」やという考え方や。

人が死ねば、自動的に「霊」は肉体から離れる。壊れた自動車には乗れないという理屈でな。

その「霊」そのものは本来、目では見ることのできんものやが、中には、それを感じ取れる「霊能者」と呼ばれる人間が例外的に存在するという。

もっとも、その大半は、それを騙(かた)るだけの胡散臭い「ニセ霊能者」やと言うがな。

実際、その手の与太話はあまりにも多い。

ただ、数は極端に少ないが、中にはそうとしか思えんような人間が存在するのも事実やとは思う。

どのような経緯を経てかは分からんが、離脱した霊は新たな肉体を求めて生まれ変わるという。

それがある故に、ごく希ではあるが、前世の記憶を持った子供が現れるのやと。

この先、人類がどのように進化しようが、そのDNAのリレーが続く限り、ほぼ永遠と言える生が続くと。

これら3つの考え方は、すべて仮説や。

ただ、この仮説は、その話し方、説明次第では、かなり信憑性を帯びた話にはなると思う。

そして、この話を聞いた多くの人は、自身の悩みがいかに小さいかを悟るケースが多いという。

実際、ハカセはメールで自殺を仄めかす読者に、その手の話をすることで、その効果のほども実証済みでもあるしな。

たいていは、「小さなことを考えて悩んでいたのがバカらしくなりました」ということになると。

まあ、話自体が、それぞれ壮大すぎるさかい、それに圧倒されるのかも知れんがな。

今回のタケルのような、まだそれほど深刻な悩みに陥っていないと考えられる人間になら、おそらく効果的やろうと思われる。

あるアンケート調査によると、クリスマスを独りで過ごす人が43%もいて最も多いということや。

それからすると、タケルのように孤独なクリスマスを迎えるというのが、最早特別なことではなく、むしろ主流派ということになる。

何か、もの悲しい現象ではあるがな。

逆にシンのように家族と過ごすという方が、24%ほどやというから、その方が少数派ということになる。

ちなみに、恋人や配偶者と過ごすというのは14.5%に止まっているという。

クリスマスが恋人たちの最高のデート日と言われて久しいが、事実はそうでもないということになる。

そうだとすれば、何もクリスマスを特別な日と考えて落ち込む必要はないわけやが、実際には孤独な者にとっては、より孤独感を増す日に映るのやろうと思う。

「そんなわけで、25日の午後からタケルの家に行くから」

「そうか、分かった。もし、タケル君さえよければ、その後、家に遊びに来るように言うてあげたらどうや。ささやかなクリスマス・パーティーでもしようやと」

「ありがとう、父さん。タケルにそう言うてみる」

シンは、そう言いながら明るく笑って夜勤の仕事にでかけて行った。



参考ページ

注1.第115回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■死後の世界、あるやなしや

注2.新聞勧誘・拡張ショート・ショート・短編集 第2話 男の出会い

注3.第133回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■万物皆我に備わる


読後感想 同じような経験を2回しました

投稿者 Sさん  投稿日時 2010.12.24 AM 11:26


いつも、メルマガをありがとうございます。

今回の内容で、まったく同じような経験を2回しましたので、ご参考になれば、と送信します。

私の前妻は、もう30歳になる息子を産んでからずっと、病気でした。

腎臓の疾患、人工透析、骨ソショウ症、リウマチ、まるで、病気のデパートやな、なんて嫌味を言ったこともありました。

一度、かなり症状が悪化し、結果退院しましたが、そのあと、まるでお花畑のようなきれいなところに行ってきた、と。

そこで家内(前妻)のすでに他界した母親が、川の向こうにいて、こっちに来るなというそぶりをした、そういうハナシです。

冗談みたいな追加があります。

覚醒したら病院の天井に「ご苦労様」とネオンのように流れたとか。

大笑いしましたが、やがて数年後、あっちへ旅立ちました。

次に父親ですが、同じく大病し、かなり奇跡的に回復したあとすごくきれいな場所にいた。赤、黄、いろいろな花が咲いていたと、言ったのです。

父親もやがて、数年後他界しました。

身内の2人が、同じような臨死体験を語ったということは、私はこのような現象があり得るのでは、、、とも感じています。

今回の、メルマガの言葉の多くは、私が考えていること、いつも感じていることを代弁していただきました。

ありがとうございます。


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