メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー

第139回 ゲンさんの新聞業界裏話

発行日 2011.2. 4


■拡張の群像 その5 運の悪い拡張員の話


人間、誰しも「運が悪い」と思えるような出来事は起きとるもんや。

外出中、急に便意をもよおし、大急ぎで公衆便所を探して駆け込みコトが済んでホッとしてトイレットペーパーを見ると、紙がなくその芯だけしか残っていなかったり、

自動販売機に小銭を入れても缶コーヒーが出なくて金も返ってこなかったり、といったような運の悪さは頻度の差こそあれ、誰にでも経験のあることやと思う。

その程度のことなら笑って済ませられるが、シンイチの運の悪さというのは、そんなレベル話とは桁が外れていた。

何しろ、何にもしてないのに、たまたまそこに居合わせてたというだけで警察に逮捕されたんやさかいな。

ある日曜日の午後。

シンイチはある独身者専用の賃貸マンションで「白叩き」していた。

「白叩き」とは業界用語で、その新聞の客になったことのない新規の読者へ営業をかけることや。

たいていの新聞販売店では、その地域の詳細な市販の住宅地図というのを持っている。

多少値が張るが、表札を掲げてない家の名前まで書き込まれていることが多いから、新聞販売店にはなくてはならんアイテムの一つと言える。

その地図をコピーし、現読、契約済み、過去読者などの家々がすぐ分かるように色鉛筆やマーカーなどで色分けをしとるのが普通や。

白い部分は、それ以外の未契約の家ということになり、そこにかける営業ということで「白叩き」と呼ぶわけや。

ちなみに、新聞販売店が持っている詳細な住宅地図には、その賃貸マンションの部屋別に住民の氏名が記載されている。

もちろん、それはその住宅地図が発行される直前のものやけどな。

多くの賃貸マンションでは人の出入りがあるのが普通やから、5、6年もすると古くなって使い物にならんようになることが多い。

その点、その住宅地図は去年発行のものやから、まだ大丈夫や。

全50戸中、7軒が現読の顧客で赤塗りされていて、過去読者は3軒でオレンジ色、その他は白やった。

独身者専用のマンションでは、日曜日の午後が最も在宅率が高いとシンイチは経験的に知っていたさかい、その日は、そのマンションに狙いをつけることにした。

シンイチは、いつもの癖で、まず最上階にエレベーターで上がり、それから順番に下へ降りていくという方法を採っていた。

これは、特にそうせなあかんといった決まりのようなものは何もない。

その拡張員次第で、下から順番に叩い(訪問)て上がる者もいれば、シンイチのように上から降りてくる者もおる。

この拡張の仕事は、留守宅やったり、在宅していても断られたりすることの多い仕事やさかい、下から順番に上がって行った場合、何軒も留守とか、立て続けに断られ話すら聞いて貰えないという状況が続くと、嫌になって途中で止めてしまうことが多い。

そういう状態のときには階段を上がるのも苦痛になり、どうしてもそうなりやすい。

それやと、すべてを「白叩き」するということにはならず、中途半端に終わる確率が高い。

それはしたくない。何事も、やり始めたら最後までやらな気が済まん性格やさかいな。

その点、上からなら、例えそういった状態になっても惰性で続けられる。

この片っ端から叩く(訪問)のは、例えそれでまったく成果が上がらんかったとしても、良しとすることにしとるという。

少なくとも、シンイチにとって、そのマンションが「ダメやった」という結果は残る。

その事実が結構重要になる。

無駄も仕事のうちだと考えることにしとるからや。無駄の積み重ねが後で活きると信じていると。

ダメな場合でも、すべてを回り「つぶした」ことにより、次回からそのマンションでの勧誘を避ける、あるいは重要度の低い訪問先にすることで、そこにかける時間を減らせられると。

それを判断するために全戸叩くのやと。

上から攻めるのは、そういう意味がある。

もっとも、拡張の仕事というのは、それだけで訪問先の善し悪しを判断できるほど単純なものでもないがな。

たまたま叩いたときに留守やっというケースもあるし、在宅していても居留守を使ってたり、トイレや風呂に入っていてすぐ出られんかったりということがある。

あるいは若い人間やとゲームに夢中になっていたり、パソコンに没頭してたりということも多いやろう。

また、ヘッドホンで音楽を聴いているということもあれば、電話中で気がつかんということも多分に考えられる。

中には、恋人と……、ということもあるかも知れん。

そういった具合に客が玄関口に出て来んというのは、実にいろいろなケースが考えられるわけや。

せやから、別の日や異なった時間帯に叩くと、また違った結果になることも多い。

もちろん、表に出て来た客でも、勧誘員が違えば違う結果になることも当然ある。

本当は何度も訪れてからでないと、その確かなことは分からんというのが正しい答えになる。

まあ、そうは言うても、拡張員は限られた時間内で契約を上げな仕事にならんから、それぞれが独自の方法で、自分にとって有利な「訪問先」を効率よく見つけ出すしかないわけやけどな。

少なくとも、シンイチはそれを心掛けて日々勧誘の研究をしながら叩くことにしていた。

しかし、それで裏目に出ることがあるとは、そのときまで夢にも考えんかった。

そのマンションは築10年くらいの比較的新しく小綺麗な1R(ワンルーム・マンション)で、中央にエレベータと階段があり、両サイドに非常階段があった。

中央のエレベータを境に3軒、2軒と左右に部屋が別れている。

シンイチは、いつものようにエレベーターで10階の最上階に上がり、端から順番に叩き始めた。

10階には現読が一軒あるから、それは避け、残り4軒のインターフォンを押す。

最後の4軒目に学生らしき、若い男が出てきた。

「私、A新聞のノガミという者ですが、失礼ですが、オオイシさんですか?」

「そうですが、どうして僕の名前を?」

表札に名前を出してないのにと、そのオオイシという若い男が訝しがる。

もちろん、これは最新の住宅詳細地図に載っている、このマンションの部屋別の入居者情報をコピーして持っているだけの話やが、それは黙っていた。

「私ら、新聞販売店の者には、地域の人のことなら、たいていは分かっていますので」とだけ言う。

こう言えば、たいていそんなものかと思う。

このオオイシという若い男も、それ以上は何も突っ込まんかった。

「新聞販売店の人ということは新聞の勧誘?」

「ええ」

「新聞ならネットで見るから必要ありません」と、お決まりとも言える断りの一言が入る。

「オオイシさんは学生さんのようやけど何回生?」と、シンイチは、その断り文句を無視して、ソフトな感じで話を振る。

「今年から3年やけど」

「就職の準備は?」

「まだですけど」

「それでしたら、今からその準備をしておかれた方がいいと思いますよ」

今の大学生は、こう言われると、それを無視するということが簡単にはできんようや。

ちょっと前までは考えられんことやったけど、実際に今は3年生になると就職活動する学生が多いという。

それほど、就職氷河期と呼ばれとる現状に危機感を抱いている学生が多いということなのやろうと思う。

「それが、新聞を取るのと何か関係があるんですか?」と、今までやったら無視されていたのが、ここのところ、そう聞き返すケースが多くなっとるのが、それを裏付けていた。

そして、こう聞き返してきたらチャンスでもある。

「大いにありますね。オオイシさんはネットで新聞記事を読まれておられるようですけど、新聞紙面の記事と同じだと思っておられるんですか」

「ええ、そう思ってましたけど、違うんですか?」

「かなり違いますね」

ここまで話が進むと、シンイチは、旧メルマガの『第66回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■新聞の利点』(注1.巻末参考ページ参照)の一節をいつも引用して話すのやという。

その部分の抜粋や。


確かにWEBサイトに公開されとるニュースには、新聞紙面に掲載されとる主なものはある。

しかし、宅配される新聞紙面と同じ内容がすべて載っとるわけやない。

普通、新聞の情報量は、朝刊の場合、単純計算で400字詰め原稿用紙に換算して約500枚程度になる。B6版の書籍にして300ページ分ほどもある。ちょっとした単行本1冊分や。

その内容が、新聞紙面と同等と錯覚するわけや。単に情報量の比較は、WEBサイトのそれと比べても格段の違いがある。

「インターネットで新聞社のWEBサイトを見ているから、新聞は必要ない」という人間は、おそらく、それしか知らんのやろうから、そう言うわけや。

パソコンに馴染んどる人間には、有料ソフトの無料体験版がWEBサイトに該当すると言えば分かりやすいと思う。

無料の体験版でも、そのソフトの内容は分かる。

それを分からせて本ソフトを売るのが目的やから当然と言えば当然や。

但し、機能や情報は、本ソフトに比べて少ないし、制限もある。

WEBサイトで満足しとる人間は、その無料体験版で納得しとるようなもんやと思う。

もちろん、それが悪いということやない。それで、十分な人間にとっては、何も問題はないわけやからな。


と。

さらに、それに加えて、同じく旧メルマガの『第130回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■役立つ賢い新聞の読み方』(注2.巻末参考ページ参照)の引用も加えるという。


ワシは、若い人、特に学生さんあたりに新聞を勧める場合「あんたは、将来、どんな仕事につきたいんや」と尋ねることがある。

「営業関係」という返事があれば、熱を持ってそのために新聞を読むことの意義やメリットを説くようにしとる。

ワシは、拡張員になる前は建築屋の営業を長く続けとったが、その頃も、新聞は良う読んでたもんや。

新聞は、その名の通り、新しく聞く情報の塊なわけや。そして、実に多くの情報が、毎朝届けられる新聞には集約されとる。

一面から順に「総合」と呼ばれるその日のトップニュース、重要ニュースに始まり、社説や投書などが掲載された「主張」「解説」があり「政治」「国際」「経済」「商況」「学芸」「家庭」「社会」「地方」「スポーツ」「テレビ・ラジオ案内」と実に多くの情報が続く。

新聞により、若干、この列びは変わるかも知れんが、それほど大差はないはずや。専門紙はまた別やがな。

営業する上で、この新聞記事に書かれた内容を知っているのと知らんのとでは、えらい違いが生じることがある。

「今日、新聞に、刑事裁判で被害者、及び被害者の家族が独自に加害者へ求刑ができるようになると書いてましたなぁ」と顧客に話を向けられたとする。

その記事の内容を知っていれば「ええ、裁判で直接、被告人に尋問もできるようですね」と言える。

また、このことの意見として「今まで、犯罪被害者の家族は、裁判では蚊帳(かや)の外でしたからいいのではないでしょうか」とか「私は、被告人を犯人と断定したり報道に流された判断を下したりすることになって、冤罪を助長する結果にならないかと懸念します」と言って、その話題で盛り上がることができる。

ところが、この朝刊を見てなければ「いえ、知りませんでした」と言うことになる。

ヘタに話を合わせても、それと知られれば信用を落としかねんから迂闊なことも言えんしな。読んでないと、どうしてもボロが出やすい。

個人相手のワシらのような営業なら、それでもすぐ他の話題に切り替えられるが、企業相手、商売人相手やとそうもいかんことが多い。

「こいつは、新聞も読んどらんな」というレッテルを貼られかねんからな。

そういう所と営業せなあかん者にとっては、そんなレッテルを貼られるのは致命的とも言えることや。

年輩の経営者、重役連中は、未だに「新聞も読まん人間」イコール「バカな人間」と思い込んどる者が多いさかいな。

そういう人間は、必ずと言うてええほど、世間話を装うてその手の質問で探りを入れてくるもんや。

一種の人物鑑定テクニックやと思うてたらええ。ちなみに、この手を使う、企業の求人面接官も多いというのもついでやから言うとく。

これは、相手についての、その情報収集能力と分析力、考え方が瞬時に知れるから都合のええ方法でもあるわけや。

新聞を読む行為にそれが表れると思うとる。

そういう、海千山千の企業人を相手に営業しようと思えば、そういうレッテルは貼られん方がええわな。

ワシらが、ええ見本やが、一度、レッテルを貼られると生半可なことで、そのイメージを覆すことはできんさかいな。

「でも、新聞記事全部に目を通すとなると……」

新聞を読み慣れてない学生さんあたりやと、どうしても難しいことやと思い込んでしまう。

例え、それが必要なことやと理解しても敬遠したくもなるやろうと思う。

また、それなら、わざわざ新聞を買わんでも、インターネットのニュースサイトを見ても同じやないかという意見も当然出てくる。

個人の好みで見るのなら、それで十分や。しかし、少なくとも営業の仕事を志すのなら、それではあかん。

インターネットの利点は、自分の好きな情報を探せることにある。勢い、好きな情報、気にかかる情報しか見ないということにもなる。

クリック機能というのが、どうしてもそうなりやすいからな。

言えば、点としての記事だけを追いかけて見るということや。それらがつながったとしても線としての記事にしか目が行かんということになる。

掘り下げた情報を得るには、インターネットの方が新聞より優れているのは認める。

しかし、それが、インターネットの利点でもあり、落とし穴でもあると思う。

営業をかける相手の個性や性格を知り抜いとって、そのための情報を準備をして行くのなら別やが、自分の知っている情報や好みの質問だけを相手がすると限らんわけや。

本人は、様々な面に情報の網を張り巡らせとるつもりでも、知らんかった一つの質問に満足に答えられんかっただけで、相手から「何も知らん人間」というレッテルを貼られてしまうのが、人間の社会や。

特に、昔の人間ほど「一事が万事を語る」と信じとるさかいな。

それに対して新聞は違う。

新聞は、それを読む人間の意志に関係なく、すべての記事が面として視覚に飛び込んでくるという特性がある。

例え、興味のない記事でも、視覚的に飛び込んでくるわけや。これが、結構、重要な要素になる。

もちろん、それらをすべて読むというのは大変や。

普通、全国紙の情報量は、朝刊の場合、単純計算で400字詰め原稿用紙にして約500枚ほどもある。

B6版の書籍に換算すると300ページ分。厚めの書籍一冊分に匹敵する文書量がある。

当然やけど、これを全部読み切ろうと思うたらかなりの時間がかかる。

しかし、簡単な読み方というのがある。

新聞記事には、すべて見出しがついとる。朝刊で、およそ200前後の見出しがある。

一つの見出しは10字以内とされとるから、すべての見出しを読んでも原稿用紙5,6枚分程度やから10分〜15分ほどで読める量や。

それで、必要やと思える記事をチェックして、後からそれを念入りに読むようにすると効率的になる。

新聞記事は、重要な内容から先に書く。

最初の数行(リード)で事実関係と結論があり、後はそれを補足する内容が続く。

こういう書き方を逆ピラミッド型と言う。

つまり、記事のすべてを読まんでも最初の数行を読めば、ほとんどの内容を把握出来るように書かれとるわけや。

なぜ、こんなことをするのかというと、限られた紙面の編集をするには、その記事の内容の増減をしやすくしとかなあかんということがあるからや。

突発的な事件やビッグニュースなどで他の記事が増えれば、当該の記事を短くする必要があるし、なければ、適当に後で補足して紙面を埋めなあかん。

それらが比較的自由にできるようになっとるというわけや。

これが、分かっとれば、当然やけど読むのも早くなる。

せやけど、これは、取り立てて特別なことではなく、新聞を読み慣れとる人間なら、たいていが自然に、そうしとることやと思う。

営業のための情報収集であれば、その程度でええ。相手に話を合わせられるくらいでな。

要は、相手に「新聞くらいは読んでますよ」と伝えられれば、変なレッテルを貼られずに済むということや。

その記事の内容が、営業する商品と関係が深いことなら深く掘り下げて知っとく必要があるやろうが、相手が人物を値踏みする目的で聞いてくるような場合は、それで十分やと思う。

逆に、そのことに関して知識が豊富やとしても事情通ぶるのは嫌味に思われることがあるから、営業の世界では気をつけた方が無難や。

営業で使う雑談程度の情報は、広く浅くということやな。そのための新聞というのは、実にええツールやということになる。

営業以外でも、上司との会話などにおいて、新聞を読んどると思われるのは、プラスになってもマイナスになることはないと思う。

「新聞くらい読んどけよ」と言う者はおっても「新聞なんか読んでアホと違うか」と言う人間は少ないからな。

「そのためにも、今から新聞を読む癖はつけといた方がええと思うよ」と、ワシは、学生さんには、いつもそう説いとるんやけどな。


これは今から4年ほど前に話したことやが、具体的な事案とかニュースを現在のものと置き換えれば実践で結構役に立つという。

ちょっと前までは、こんな面倒な説明をしていると途中で、聞く耳を持たんという感じが大半やったが、今は、就職難という危機感があるのか、最後まで話を聞くケースが多くなったと。

その結果、今まで困難と思われていた無読の学生さんでさえ、説得できて成約になるケースも増えてきたと。

しかし、このオオイシという学生の場合は違った。

「それって、タダなんですか?」と、オオイシ。

「タダ?」

シンイチは何を言っているのかといった顔をしたが、心の中で、「もしかして」と嫌な予感がした。

販売店に入店する際、所長から、他の団の人間が、客に金を渡して契約したことが発覚して、しばらくその団の入店を禁止にしたと話していたのを思い出した。

「ええ、以前、勧誘員の人に無理矢理、お金を渡されて契約したことがあるんで」

「それ、うちの新聞?」

「ええA新聞でした」

その話が本当なら過去読者ということになる。それなら、この1005号室はオレンジ色に塗られてなあかんはずやが、白のままや。

もちろん、拡禁(拡張禁止)リストにもない。

もっとも、せやからこそ叩いたわけやがな。

おそらく塗り忘れたのやろうと思う。

「そうですか、それでしたら、オオイシさんから契約を貰うことはできませんね」とシンイチが言い放って、あきらめるしかなかった。

販売店の所長からの達しは、「一度でも、金を貰って契約した人間は断ってほしい」ということやった。

そういう客と付き合うと、後々ろくな事がないからと。

ここで、そのオオイシから契約を取っても調べればすぐ分かるから不良カードになる確率が高い。

それに、こういう一度でもタダで契約した人間は、次も同じことを要求する。

そんなバカげた要求をする人間と付き合う気はないから、シンイチとしては断るしかなかったわけや。

その後、「これだけ時間をかけて、これかよ」と運の悪さを嘆いたが仕方ない。

しかし、この仕事をしてれば、そういうこともあると割り切るしかない。

シンイチは、そう気を取りなして、また叩き始めた。

9階は全室、無反応やった。誰も出て来ない。

9階から非常階段で8階に下りたとき、中央の部屋、803号室の外から、ドアスコープに向かって中を覗き込んでいる野球帽を被った不審な男がいた。

シンイチは、思わず、「何してんねん」と声をかけた。

男は、非常階段から人が現れるのを予期してなかったのか、シンイチを見ると相当に驚いた素振りを見せて、エレベーターの方向に一目散に逃げた。

「泥棒にでも入ろうと思うたのやろか」と、シンイチは考えたが、その後を追いかけるまでの気にはならんかった。

その男が何をするつもりやったのは分からんが、シンイチには関係のないことや。

ややこしいことには関わらん方がええ。

格闘に自信があるわけやないから、ヘタに追いかけて怪我でもしたら、つまらんしな。

ただ、念のため、その部屋の主には、今のことを知らせよう考えた。

もっとも、それには、それを口実に勧誘の突破口を見出せるのやないかという下心もあったわけやけどな。

その部屋のインターホンに手をかけた直後やった。

「こら何をしとるか」と、エレベータから駈け出してきた警官二人にシンイチは、あっという間に取り押さえられた。

「な、何なんですか!!」

シンイチは何が何だか分からず、パニック状態になった。

「○月3日、午後4時5分。男の身柄を確保」

警官の一人がハンドマイクに向かってそう報告していた。

「ちょっと、待ってくださいよ。僕は怪しい者じゃありませんよ。仕事をしていただけで調べて貰えばすぐに分かりますよ。それに、今しがた、この部屋を覗いていた男を見ましたがエレベータの方に逃げて行きましたよ」と、シンイチは懸命になってそう訴える。

「でたらめを言うな。そんな男とは出会うてないで」と、その警官は取り合おうともしない。

「それでしたら、お宅らがエレベーターで上がって来ているのを知って階段で逃げたんじゃありませんか。それだと時間的に、まだ4、5階辺りにいるはずですから、そいつを捕まえてくださいよ」

「往生際の悪い奴やな。もうあきらめろ」と、警官。

「あっ、あの男や」

シンイチは、警官二人がかりで通路側の手すりに押さえられていた。

そのとき、マンションの出口から悠然と歩き去る野球帽を被った男が見えた。

先ほどの男に間違いがない。

「ええ加減にせい。お前の話やと、その不審な男というのは、まだ4、5階辺りにいるはずなんやろ。それが何で、そんな先を歩いとんねん」と、完全にバカにした口調で言う。

結局、シンイチの言うことは何も信じて貰えず、そのままパトカーに乗せられ警察署に連れて行かれた。

1階のフロアに着くと、その外には、いつの間にか大勢の野次馬が集まってきていて、シンイチはその連中の格好の見せ物になっていた。

これやったら、テレビで良く見かける凶悪犯が捕まった光景と同じやないかと。

「ああ、これで、この辺ではもう拡張できんな」と、なぜかそのことだけがシンイチの脳裏を横切った。

その後、警察署でいろいろと取り調べられた末、誤認逮捕やと分かった。

警察にその不審者の通報をしたのは、803号室の若い女性やった。

その若い女性によると、以前付き合っていた男につきまとわれ、困っていたという。

つまりストーカー被害に遭っていたということや。

そのときも、長時間部屋の外でインターフォンを押し続けるので怖くなって警察に電話したという。

ストーカー男というのが、例の野球帽を被った男やった。

シンイチがその男に声をかけ、驚いて逃げたとき、たまたま、その女性の通報で駆けつけた警官に、そのストーカー男と勘違いされたわけや。

そのとき、その被害者やという女性が現れていれば、すぐに間違いやと分かったんやが、肝心のその女性は恐怖で部屋に引きこもったまま出て来んかった。

そのシンイチの窮地を救ったのは、皮肉にも客になるのを断った10階の1005号室のオオイシやった。

シンイチは、その部屋の前に長時間いなかったと実証するために、その前に30分近く話していたオオイシのことを持ち出し、警察がその確認をしたところ容疑が晴れたという。

また、シンイチの身元をその警察署もよく知っている販売店の所長が保証したというのも大きかったと。

潔白が証明されたのはええが、シンイチには、その野球帽の男の行動がどうにも不思議で仕方なかったという。

あのとき、あの野球帽の男が逃げたのは、階段に間違いないはずや。

シンイチに追われるやろうということを真っ先に考えるから、エレベーターに乗り込もうとするはずがない。

しかし、その考えは警官に否定された。

階段で下りて逃げるのは不可能やったはずやと。

どういうことかというと、あのとき通報で現場に駆けつけたパトカーは3台で警官は2人だけやなく、6人いたという。

3人は現場に向かい、残りの3人は下にいた。

追われた被疑者が中央の階段、もしくは非常階段から逃げるやろうというのは警察も考えに入れていて、そのため、それぞれの階段の1階部分に待機して待ち構えていたということやった。

あのとき警官が、シンイチの言うことに一切耳を貸さんかった理由がそこにあったわけや。

シンイチが犯人に間違いないと判断して。

しかし、シンイチは犯人ではなかった。

そして、その犯人は、1階の警官3人に怪しまれず、悠然と歩いてその場を立ち去ったことになる。

それがあり、ワシらにその体験談を知らせると同時に、その謎についてどう考えるかということが知りたいと、シンイチが言ってきた。

それについては、ワシは、それほど難しいことやないやろうと答えた。

その犯人が階段で逃げたのはほぼ間違いない。

但し、それは下に向かってやなく、1階上の9階やったと思う。

犯人は、逃げる途中、下からエレベーターが上がって来ていることに当然気づいたはずや。

もっとも、それに警官が乗っていたとは知らんかったやろうがな。また、それが8階に止まるとも予測できんかったと思う。

普通階段で逃げる場合は、誰でも下に降りると考えがちで、犯人も追いかける人間がそう考えるはずやと考えた。

それなら、1階上に駆け上がりエレベーターを呼んで乗って降りた方が安全で早いと踏んだ。

昇ってくるエレベーターが9階に止まれば申し分ないし、それが8階や10階だったとしても降下ボタンを押せばすぐにくるから乗れる。

警察も階段で駆け下りる人間を待つことはできても、エレベーターで降下してくる者は、そのマンションの住人やと考えて見逃す確率が高い。

しかも、警官は、その犯人のいる8階に向かったわけやから、物理的にもエレベーターに乗れるわけがないと考えた。

その犯人は、下に降りたとき、警察を呼ばれたと知ったはずやが、そこで慌てた素振りを見せると疑われると判断して悠然と歩いて立ち去った。

そうワシは推理した。

その後、その事件がどうなったのか、シンイチには何も知らされなかったし、今のところ新聞記事にもなってないようやから、さっぱり分からんという。

ワシらの業界には、そういう不運に見舞われた人間に対して、優しく労るという者は皆無に近い。

それをネタに笑い飛ばす連中なら多い。当然のように、あっという間に業界内にその話が広まる。

さらに仲間内だけやなく客にネタとして話す者もいとる。

笑い者にされた人間は、それで不運が倍増する。

それにしても世の中、不運はいつどんな形で訪れるか分からんものやと、つくづく考えさせられる出来事やったと思う。

気ぃつけな明日は我が身かも知れんと。もっとも、何をどう気をつけたらええのかは分からんがな。



参考ページ

注1.第66回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■新聞の利点

注2.第130回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■役立つ賢い新聞の読み方


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