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第14回 ゲンさんの新聞業界裏話
     

発行日  2008.9.12


■狙われた新聞配達員


「うわっ!! 危ない!!」

シンゴは、後ろから猛スピードで迫ってきた大型トラックとの接触を避けるため、咄嗟(とっさ)に乗っていたバイクを歩道に乗り入れた。

間一髪のところで事なきを得た。

「糞ったれ、うどん屋のボケェーッ!!」

走り去ったその大型トラック、正確には箱形の2トン保冷車やったが、その後ろからシンゴはそう毒づいた。

その保冷車の後部面には大きく○○食品株式会社と社名が表示されていた。左右の側面にも同じものがある。

この当たりでは、そこそこ有名な製麺会社や。

シンゴは新聞配達の途中やった。

午前5時頃。

車の通行量が少ないということもあるのやろうが、この近辺では特に暴走トラックというのが多い。

スピードオーバーや信号無視は、半ば当たり前という雰囲気になっている。

危ない目に遭うたのは、これが初めてやない。過去に何度もあった。

新聞配達員と仕事の時間帯が被るのは大型トラックなどのような運送業が多い。

その理由の一つには、日中の混んでいる時間帯を通行するより、深夜から早朝にかけての方がスムーズに走れて早いというのがある。

それもその時間帯は金のかかる高速道路を走る必要もないということで、よけいそうする。

中央市場のトラック配送も同じような時間帯に忙しく走り廻る。それに関連した加工会社のトラックも多い。

さらに、この○○食品株式会社のように深夜すぎから製麺や弁当などを作って、それをスーパーやコンビニに配送している業界のトラックもある。

当然やが、その中で一番弱いのが新聞配達のバイクであり自転車や。

張り合うても物理的に勝てるわけはないから、そういう暴走トラックが迫って来たら、シンゴがしたように避けて逃げるしか手がない。

奴さんらの方でも、そうするもんやと思い込んどるのか、新聞配達のバイクと接触しそうになってもスピードを緩めるというような心遣いを見せる運転手は極端に少ない。

酷(ひど)いのになると、まるで「どかんかい」とでも言いたげにクラクションを連打して煽ることすらある。

さすがに住宅街や裏通りではそういうことはないが、国道や幹線道路などの大通りを走らなあかんときには、そういうのは日常茶飯事やから細心の用心と注意が必要になる。

例え青信号であっても左右を確認してからやないと渡るのは危険や。

大型トラックの進行方向が赤やから止まるやろうという甘い期待をしたらあかん。

それで事故に遭うた仲間の新聞配達員を知っている。即死やった。

死んでしもうたら、相手が悪い云々など言うてもどうにもならん。それで、ジ・エンドやさかいな。

加害者の方は、どんなに最悪な状況になっても数年ほど刑務所に入ったらそれで済む。

あるいは死人に口なしで、加害者の言い分だけが通り、大したお咎めもなしということさえあると聞く。

そうなったら、まったくの死に損や。

ええ悪いに関係なく危険を感じたら、ただひたすら逃げるしか、シンゴら新聞配達員に手はない。

しかし、逃げるにしても、新聞を満載したバイクはスピードも遅く、今回のように上手く歩道側に逃げ切れるという保証はない。

危険と隣り合わせ。それが新聞配達の仕事でもある。

シンゴは、どのみち、あと30メートルほど行ったら、その国道沿いの客宅に配るのやからと思い、そのまま歩道を走った。

すると、それまで前方の対抗車線に停まっていた乗用車のヘッドライトが、急に点灯し、屋根の赤色灯が回転し始めた。

パトカーやった。

「あかん」と思うたが遅かった。

いつもは、注意深く警戒を怠らんのやが、あの暴走保冷車から逃げるのに必死で、前方に停まっているパトカーの存在にまで気が廻らんかった。

迂闊(うかつ)やった。

「そこのバイク止まりなさい」

マイクでそう指示された。

仕方なくシンゴはバイクをその場で止めた。

そのパトカーは、大きくその場でUターンして、シンゴの真横に停まった。

しかし、注意か小言程度で済むと、シンゴはタカをくくっていた。

過去にも、そういう経験は何度かあった。

たいていは「今後は歩道を走行しないでくださいよ」で終わっていた。

そのパトカーの助手席側のドアが開き、シンゴと同年代の20歳代後半くらいに見える比較的若い警察官と年輩の警官の二人が降りてきた。

「免許証をみせて」と、その若い警察官の方が命令口調気味にそう言う。

シンゴは、少しカチンときたが、それには逆らわずジーンズの後ろポケットから免許証を取り出して渡した。

「単車の歩道走行が禁止というのは知ってますね」

そう言いながら青キップを取り出し記入し始めた。

「ちょっ、ちょっと、待ってくださいよ」

注意される程度やとばかり思うてたから、これには慌てた。

「あんたらは、そこに停まってたんやから、今のを見てましたやろ?」

「何を?」

「オレは、暴走トラックに煽られて仕方なく歩道に緊急避難しただけなんやで」

必死でそう訴えた。冗談やないでと。

「そのトラックと接触でもされたんですか?」

「いや、咄嗟に逃げたから……」

「事故やなかったら、こちらではどうすることもできませんね」

「そんな、アホな。あんな暴走運転は取り締まってくださいよ」

「そのトラックが違反したら言われんでもそうする。それより、キミが現在、止まっているのはどこや?」

その若い警察官は、シンゴが言い逃れに終始しとると思うたのか、少しいらつき気味にそう言うた。

敬語が消え、詰問調になっていた。

「……」

「こっちは、お宅が歩道をバイクで走行しとる現場を見とんのやで。手を焼かさんといてや」

その後、さらにシンゴは食い下がってはみたが、結局、キップを切られる羽目になった。

通行区分違反。原付バイクの場合、2点減点、罰金6000円。渡された反則キップと振り込み用紙にそう記載されていた。

運が悪かったと言えばそれまでやが、シンゴにとっては「違反を取るか、命を差し出すか」の選択やないかという思いが強かった。

やってられん。

そう考えると、無性に腹が立ってきた。

警察もそうやが、それ以上に、あの暴走保冷車に対して怒りが込み上げてくる。

配達終了後の午前6時半頃。

シンゴは、その○○食品株式会社に電話した。

「はい、○○食品株式会社です」

声の感じから年輩らしき人間が出た。

こんな時間帯に事務員が出勤している会社というのは普通なら考えにくいから、おそらく、現場責任者なのやろうと思う。

「僕は、○○新聞販売店で新聞配達してる者やけど、今朝の午前5時頃、○○町三丁目の国道沿いで、お宅の大型保冷車の無茶な運転に煽られて、もうちょっとで死ぬところでしたんや」

「事故でも起こしたということでしょうか」

「いや、幸い逃げたから事故にはなってないけど、間一髪やった」

「それが当社の者だったと?」

「ああ、車体に大きくそう書いてありました。それで今、電話してますねん。警察にもそう言うといたさかい、二度とこんなことがないように気ぃつけてほしいんやけど」

「それは、どうも。運転手にはきつく注意しときますので」

「分かって貰えたら、それでよろしいわ。くれぐれも頼んますよ」

シンゴは、それだけを言うとその電話を切った。

それで溜飲が下がり、気分も少しは収まった。

おそらく、その運転手は、その責任者らしき人間から小言の一つも言われるはずや。

それで、あの無謀運転がなくなれば、結果的にもその運転手のためにもなる。

シンゴはそう考えて、その事はそれであきらめることにした。

翌日、いつものようにシンゴは配達に出た。

そして、例の国道に出た。

シンゴは左端に停めてあった大型保冷車の横をすり抜けた。

車体には「○○食品株式会社」とある。

昨日の今日や。忘れるはずもない。

一瞬、シンゴはバイクを停めて文句を言うてやろうかと思うたが、止めた。

○○食品株式会社というのは、そこそこ大きな会社や。そこのトラックは何台もある。

そのナンバープレートを確認したわけでも、その運転手の顔を見たわけでもないから、ヘタに文句を言えばヤブヘビになるおそれもある。

「ま、ええか」

シンゴはそう思うてその大型保冷車の前に出た。

すると、その直後、その大型保冷車のヘッドランプが点灯し、ゆっくりと動き始めたのが、バイクのサイドミラーで確認できた。

「何や、文句があるのは向こうか……」

おそらく、シンゴが昨日、その○○食品株式会社に電話したことで、会社から叱責されたのやろうと思う。

それで、文句を言うためか、もしくは喧嘩を売るために待っていたことになる。

逆恨みというやつや。ということは、運転手は昨日の奴に間違いない。

それなら、受けて立ってやってもええ。

シンゴは、その大型保冷車から止まれという何らかの合図があると思うてた。

そう考えながら、振り返ると、その大型保冷車はいきなりアクセルを吹かせて迫ってきた。

ぶつける気や!!

即座にそう判断した。

シンゴはまたもや、歩道に逃げた。

すると、あろうことか、その大型保冷車も歩道に乗り上げて突っ込んできた。

少し広めの歩道とはいえ、その2トン保冷車がギリギリ通れる程度の幅しかない。

殺す気か!?

ここまでするからには、それしか考えられん。

普通の神経の人間やない。

シンゴは前方を見た。

昨日のパトカーが停まってないかと期待したが、今日はそれらしき車影は見当たらん。

「ほんま、役に立たんポリ(警察官)らやで」

もっとも、こんな緊迫した状況では、そんなことをぼやいている暇はない。

その大型保冷車のバンパーがバイクの後部に接触しそうな勢いで迫っている。

新聞を積載したバイクは遅い。普通なら間違いなく撥ね飛ばされている。

しかし、その歩道の狭さとガードレールの存在が幸いしたのか、その保冷車もそれ以上スピードを上げられずにいるようや。

ガガガーッ。

保冷車がガードレールをこすった音が聞こえた。

火花が飛んでいた。

保冷車のスピードが若干落ちた。

しめた!!

シンゴは、その隙にスピードを上げ僅かながら引き離すことができた。

しかし、それでも保冷車の追撃は止まない。

シンゴは、最初に見えた脇道を左に曲がった。

保冷車は、その巨体を急には操れず、そのまま直進して行った。

裏道に逃げ込めばこちらのものや。特に、この辺りは配達区域内やから自分の庭のようなもんや。

シンゴはわざと4、5回右左折を繰り返した。

その都度、後方や前方を確認したが、例の保冷車の姿はなかった。

どうやらあきらめたようや。

逃げ切った。

シンゴは、そう考え、ほっとしたと同時に怒りが込み上げてきた。

何をさらしてくれんねんと。これは、あきらかな殺人未遂やないかと。

今の事を警察に通報しようと考えた。

ただ、そのとき昨日の警察官の「事故やなかったら、こちらではどうすることもできませんね」という言葉を思い出した。

僅かでも接触してたら無謀運転による事故を理由に通報できるが、結果的に追突などの具体的な被害はない。

しかも、この時間帯ということもあり車の通行量も少なく、大型保冷車が歩道に乗り上げての追尾も僅か数10メートルにすぎんかったから、その目撃者を探すのも難しいやろうと思う。

例え、それを見ていた人間がいてたとしても結果として事故になってないのやから、その目撃者が警察に連絡したり名乗り出たりするのも考えにくい。

また、事故でもない事案で警察がその目撃者を捜すとも思えん。

どうするか?

シンゴはこのままにするつもりはなかったが、今は取りあえず配達を済ませる方が先決やと考えた。

新聞配達員にとって、それが最優先事項やさかいな。

ただ、この近辺は、まだあの偏執狂とも言える保冷車の運転手が彷徨(うろつ)いてる可能性があるから、いつもの配達順路を変更することにした。 

「ランダム配り」というのがある。

シンゴは日頃から、ちょくちょく配達順路を変更する癖がついていた。

配達区域の250部すべての家を覚えいている。まあ、その程度は配達員とすれば常識やけどな。

シンゴは、それだけやなく、どこから配り始めても、必ず間違えずにすべてを配達することができた。

トランプをどれだけシャッフルしても、そのカードのありかを正確に言い当てることのできる凄腕のディーラーに似ている。

シンゴの頭の中には、配達先のエリアが、鳥瞰図(ちょうかんず)のようにインプットされとるから、どこの家に投函して、どこに投函していないかが常に把握できている。

シンゴは、その自信もあって日頃から、そのランダム配りを頻繁にしているわけや。

もちろん、単なる気分転換の退屈しのぎだけが目的やなく、それなりの理由もあってのことやけどな。

シンゴの配達順路には狭い路地裏が多く、ごくまれにトラックや乗用車がその道をふさいでいる場合がある。

それを回避するというのが一つ。

こちらの配達先を知ろうとするライバル店のバイクや自転車を避けるためというのが、その理由の二つめ。

昨日は、たまたま不覚を取ってしもうたが、一瞬の歩道通行などをパトカーの目から逃れるために、その姿を見かけた場合、迂回するというのが、その三つめ。

突然の雨による水濡れや破れ、汚れなどで、一旦、店に新聞を取りに戻るためというのが、その四。

細かなことでせこいと思われるかも知れんが、赤信号を避けるために迂回するというのが、その五つめということになる。

それらの理由でルートを変更したとしても、その直後から、ただちに最短ルートを弾き出すことができる。

それでいて配達終了時間に大した変わりはない。

もちろん、それによるミスもほとんどない。ここ数年の不配や誤配などのミスも、1、2度あるかないかや。

もっとも、そのくらいの実績と自信がなければ、こんな真似はできんがな。

それから約40分後、例の国道沿い周辺の配達だけが残っていたので、そこに向かった。

まさかとは思うたが、シンゴは念のため用心深く周囲を見回した。

あの保冷車の男は、間違いなく偏執狂や。どこかに潜んでこちらを窺っている可能性がある。

しかし、時間も午前6時近くになって車の通行もかなり増えてきていた。

いくら、あの男が変質者やと言うても衆目の中で、さっきみたいな真似はできんやろ。

シンゴはそう安心して、国道沿いの顧客の家まで国道を走り、素早く歩道に乗り上げポストに新聞を落とし込んだ。

シンゴは可能な限り、この「落とし込み」というのをする。

「落とし込み」というのは、ポストから新聞が見えなくなるまで入れ込むことや。

こうしておけば、急な雨でも新聞が濡れることもなく、他紙の配達員に引き抜かれるおそれもない。

また、信じられんかも知れんが、ごくまれに、散歩中か、たまたまその前を通っただけの人間が引き抜いて行くこともある。

「落とし込み」をしていれば、そういう被害からも防げるということや。

シンゴは、そこから国道に出るために右後方を見て驚愕した。

あの保冷車が猛スピードで迫っていたからや。

殺される!!

瞬時にそう悟った。

せやなかったら、ここまで執拗につけ狙うことはない。

歩道にバイクを向け直す余裕はない。

そうしている間に、あの偏執狂は躊躇なく、前と同じように歩道に乗り上げてくるはずや。

シンゴは、そのまま強引に左折してアクセルを目一杯吹かせた。

今は、さっきと違い新聞が少ないからスピードは出る。

すぐに左折できる裏道がある。

そこまで逃げ切れれば助かる。

それだけを考えた。

裏道が見えた。

シンゴは迷いもなくそのままのスピードで左折した。

目の前に白い乗用車があった。

危ない!!

それを声に出したのかどうかまでは覚えていない。

その白い乗用車に追突したのは分かった。

身体が宙に舞い、スローモーション映像を見ているようにゆっくりと、その白い乗用車の上をはるか後方に向かって飛んでいるのが分かった。

それから、ゆっくりアスファルトの道路が顔面に近づいているのも、しっかり認識できた。

そして、このとき、なぜか「この後の配達、迷惑をかけるやろな」ということだけが気になっていた。

ランダム配りというのは、あくまでもシンゴにしか分からんことで、配達人が事故を起こして配達不能になれば、その配達を引き継ぐ人間は、順路帳という正規の配達順路にしたがって、その場から配達を再開する。

ランダム配りやと当然のことながら、その正規の配達順路では正確な配達先はシンゴ以外誰にも分からん。

それがこのやり方の唯一とも言える欠点やった。

自身の命が風前の灯火かも知れんという状況にあっても、尚、そのことを考えていた。

新聞配達人の哀しい性。

そう言うてしまえば、それまでのことやが、新聞配達人は、いついかなる状況にあろうとも、その配達を全うすることしか考えん。

少なくともシンゴがそうやった。

シンゴの映像はそこで途切れた。

再び意識を取り戻したのは、病院のベッドの上やった。

「痛い!!」

いきなり全身に激痛が奔った。

「気がついたか」

「所長……、ここは……」

別途の傍らに所長のオオタがいた。

「病院や」

「そうですか……」

どうやら、助かったようや。

と言うても、右足と左肩骨折、および全身打撲の全治2ヶ月の重傷という診断やから、これで助かったと言えるのかどうかは分からんけどな。

「せやけど、お前があんな事故を起こすとは思いもせんかったな。何で、あんなアホなことをしたんや」

所長のオオタがシンゴにそう問いかけた。

オオタの話によると、シンゴは信号無視をして一方通行の進入禁止の道を左折し、停まっていた乗用車に正面追突したということや。

この事故に関して言えば、100%、誰が見てもシンゴが悪いとなる。

「実は……」

シンゴは、オオタに昨日から今朝にかけての出来事をすべて話した。

「何やて? それは、ほんまか?」

「ええ」

「それやったら、殺人未遂やないか。ふざけくさって!!」

オオタは、かなり憤慨していた。

シンゴは、事故の責任逃れにそんな作り話をするような男やない。

真実にほぼ間違いはない。

せやとしたら、その○○食品株式会社の保冷車の運転手を許すことはできん。

オオタはそう考えた。

「何か、それを証明する証拠はあるか?」

「証明と言われても……」

ここで、また、あの若い警察官に言われた「事故やなかったら、こちらではどうすることもできませんね」という言葉が頭をよぎった。

追いかけられたのは事実やが、実際には何の接触もない。おそらくそのときの目撃者も現れんやろうと思う。

「お恐れながら」と、警察に訴え出ても門前払いされるが関の山やという気がする。

「あっ、そうや!!」

シンゴは、保冷車が歩道に乗り上げて追いかけてくるとき、ガードレールにこすった音を聞いた。

おそらく、その保冷車の右側面にそのキズがあるはずや。

そのキズとガードレールのキズを合わせれば一致するはずやから、それが証拠に使えるのやないかとシンゴが訴えた。

「それや。それを確認して警察に通報するさかい、心配するな」

オオタは、そう言い残すと病室を後にした。

もちろん、それが証明されたからと言うて、信号無視、および一方通行の進入禁止道路に侵入して信号待ちで停まっていた乗用車に追突したことが許されるわけやない。

ただ、その後、乗用車の運転手に怪我もなく、早期に示談交渉して話がまとまったので、警察の方からは大したお咎めはないやろうと、オオタから聞かされたのが救いと言えば言えた。

入院費や休業手当も労災で賄われるから心配するなとも言われた。

翌日。

所長のオオタが浮かん顔をして病室を訪れた。

開口一番、「難しいな……」とため息まじりに呟(つぶや)いた。

「……」

オオタは、昨日、○○食品株式会社に行った。

そこの工場長が応対に出た。

シンゴから一昨日、無謀運転されたという苦情については、そこの工場長が直接電話を受けたから知っていた。

その工場長は、当然のようにその運転手に、そのことを注意したという。

「今日は、その運転手の人は?」

「もう退社していますが」

「念のため、その運転手の乗っていたトラックを見せて頂けませんか?」

「いいですよ」

案内された駐車場に10台ほど停まっていた中の一台を工場長が指し示した。

案の定、右側のサイドバンパーにかなりのキズと凹みが確認できた。

オオタは、念のため、ここに来る前に、シンゴから聞いていた場所に行って、そのキズの位置を計っていた。

ついでにデジタルカメラで写真も撮っていた。

それと、保冷車のサイドバンパーのキズの位置とが一致した。

その事を、その工場長に伝えると驚いて、すぐ電話で、その運転手を呼び出した。

「確かに居眠りして間違って歩道に乗り上げてちょっとガードレールにこすった覚えはあるけど、今言われたような真似はしとらん。そっちが勝手に事故ったことで変な言いがかりはつけんといてくれ」

会社の駐車場までやって来たミヤナガというその運転手は、そう言うて開き直った。

一筋縄で落とせる相手やない。オオタはそう直感した。

痩せ形で背がひょろ高く、陰湿そうな感じの30代後半くらいの男やったという。

オオタは、その保冷車のサイドバンパー部分の写真とキズのついた箇所を地面から計って「一応、警察に届けさせて貰う」と言って、その足で管轄の警察署に向かった。

交通課の刑事に、その事情を説明した。

しかし、「実際に接触事故でも起こしてない限り、事故扱いにして調べることはできませんね」と、その刑事は冷たくそう言い放つ。

それが警察なんやとでも言いたげやったと、オオタがぼやく。

確かに客観的に見れば、その運転手の言うとおり、居眠り運転で歩道に乗り上げてガードレールに接触したというのも考えられん話やない。

このケースやと、その運転手に問えても、器物損壊までが精一杯やという。

オオタは「是非そうしてくれ」と言い残して警察署を後にした。

もっとも、現行犯でもないこういう事案は本人の自首でもない限り、本当に警察がそうするかどうかは定かやない。

おそらく期待は持てそうもないやろうと思う。

オオタには、その無力感があった。

「すまんな」

「仕方ないですよ」

シンゴは、そこまで駆けずり回ってくれた所長のオオタにむしろ感謝したかった。

ただ、こんな目に遭わされた思いが、それで癒やされたわけやない。

この恨みは、怪我が治って退院したら必ず晴らす。

今度は、こちらがつけ狙ってやる。

シンゴはそう心に誓った。

しかし、その願いが叶えられることはなかった。

1ヶ月後。

病室に見舞いに来たオオタから「あの、ミヤナガという運転手な、事故で死んだそうやで」と聞かされた。

「死んだ……」

あんな無謀な運転を続けていたら、いつかは事故に遭う。それで命を落としたとしても不思議やない。

また、それで死んだと聞かされても心の痛痒は何もない。自業自得や。

その事故の状況は知らんが、おそらくその責任の大半はミヤナガにあるのやろうと想像もできる。

ただ、そうなると、シンゴの事故に救いがなくなる。

オレは悪くない。それが証明できんようになったわけや。

所長のオオタや店の仲間たちが信じてくれているから良さそうなもんやが、形の上では、シンゴの事故は無謀運転の何ものでもないという結果になっている。

警察の事故調書にもそうある。

当のミヤナガが死んだということは、シンゴの正当性を証明する術がなくなったことを意味する。

「死んでしもうたら、どうにもならんやん」

誰に言うともなく、小さくそう洩らした。

シンゴは、その運転手への多少の哀れみと自身の運のなさとが入り混じった言いようのない虚しさに襲われていた。


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