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第163回 ゲンさんの新聞業界裏話
発行日 2011.7.22
■新聞の怪談 その3 嵐の夜の幽霊
暑い。
毎年同じことを言うてるようやけど、今年は特に暑い。暑く感じる。
気象庁の長期予想では昨年のような殺人的とも言える猛暑は、それほど続かないとのことや。
本来なら、去年よりかは数段マシな夏になっとるはずやった。
しかし、今年はどこに行っても暑い。暑く感じてしまう。
それには例の東日本大震災の影響で福島第一原発事故が大きく影響しとると思う。
現在、日本の原子力発電所は定期検査のために停止している所が多く、その再稼働ができんという事態になっている。
そのため、電力各社はしきりに夏場に電力不足に陥る懸念があるとして民間、企業共に「節電」をするよう要望し、世の中全体もそうせなあかんという風潮にある。
それにより、多くの企業や役所などのあらゆる職場、デパートやスーパー、コンビニなどの商業施設、店舗を中心に、「節電」のためと称して当たり前のようにエアコンの設定温度を軒並み上げている。
去年まで感じていた「冷房による寒さ感」、「ひんやり感」といったものは、ほとんどない。
それは公共、民間を問わずあらゆる施設でもそうで、今時、「節電」してない所を探す方が難しいくらいや。
電力会社が、「節電」を煽る背景には、是が非でも原発の再稼働、原発事業を推進したい、継続したいという目論見が見え隠れするさかい、本当に電力不足に陥るのかどうかは怪しい限りやが、その可能性があると言われれば、「節電」には公然と反対しにくい社会情勢にある。
それには、やむを得ずという側面があると同時に、節電することで経費を抑えられるという企業側の思惑とも一致しとるのやないかと思う。
いずれにしても、去年までやったら、勧誘していて暑くなれば、デパートやコンビニ、パチンコ屋などに飛び込んで涼を取っていたもんやが、今年はそれができにくいさかい体感的には、どうしても暑く感じてしまうということや。
そこで、今年も恒例とも言うべき「怪談話」をするので、身体の芯から震え上がって貰って、例え一時でも、この暑さを凌いで頂けたらと思う。
良う考えたら、昔から、こういった怪談話が延々と語り続けられとるのは、多分に暑さ対策という意味合いがあってのことやないかという気がする。
話を聞くだけで「寒く」なれるというのは、自然エネルギーすら必要としない、ある意味、究極のエコやさかいな。
そう理解して貰ったら、いくらかその恐怖も和らぐのやないかなと思う。
現在、「マーゴン」と名付けられた史上最大級とも言える超大型の台風6号が接近しているという。
もっとも、このメルマガが発行される時分には、多く地域では通り過ぎた後やろうが。
K新聞販売店の専業員ナオキは、それを知って憂鬱な気分になった。
「また、あんなことが起きるんやないやろうな」と。
2年前の2009年10月8日。
季節こそ違うが、そのときにも、「メーロー」と名付けられた超大型の台風18号が来ていた。
中心気圧は955ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は40メートル、最大瞬間風速は55メートル。
南東側200キロ以内と北西側170キロ以内は25メートル以上の暴風域やというのが、気象庁の発表やった。
一言で言えば、超大型の台風ということになる。それも、ここ10年で最大規模のものやという話やった。
現在、その10年で最大級と言われた台風18号の上をいく超大型の台風6号が接近しているという。
その台風18号では、肉体的にも精神的にも極限の恐怖をナオキは味わった。
その二の舞になりかねんと考えただけで気が滅入りそうになる。
ナオキはK新聞販売店に勤めて今年で5年になる。
その日は、配達前から風雨が強くなり始めていた。
雨合羽を着込み、ビニール包装機で新聞を一部ずつ包装し終わり、単車の荷台と前かごに新聞を積み、すべての準備を終えた。
車庫の外では、横殴りの雨と風が恐ろしげな咆吼(ほうこう)を上げながら荒れ狂っている。
普通の人の感覚なら、こんな日に単車を走らせることなど自殺行為に等しいと思うはずや。
バカかと。
しかし、新聞配達人はそうは考えん。どんな悪天候であろうと配達を中止するという発想がない。
いかなる状況下であっても新聞を配達するのは当たり前という気持ちをほとんどの者が持つ。
いかにして配り切るか、ただひたすらそれだけを考える。
そこには仕事への義務感、使命感、プライドなど様々な思いがある。
それが新聞配達人の誇りになっている。
ただ、その誇りのために不幸にして事故に遭われ亡くなられる方が、ほぼ毎年のように後を絶たんという現実があるのも、また事実や。
今更ながら、過酷な仕事やと言うしかない。
パンジージャンプの順番待ちでもしているかのように、その車庫から、次々に暴風雨の中へ新聞配達人たちが飛び出していく。
ナオキも意を決して飛び出した。
ナオキの配達区域に「サツキ山」という所がある。
もっとも、山とは言うても標高はせいぜい100メートル程度のもので、正確には丘、高台といった感じの所やけどな。
その山頂付近に「カゲウラ」という表札のかかった洋風の古い豪邸が一軒あり、ナオキは毎日、そこへ新聞を配達している。
その麓は公園になっている。
昼間の明るいときに訪れば、落ち着いた憩いの場という趣があるが、夜中、来るとその雰囲気は一変する。
公園には桜の木や柳の木が覆い茂り、今にも消えそうな薄暗いナトリウム灯の古い街灯が一つあるだけや。
夜の公園にはアベックが屯(たむろ)しているというのが定番になっているが、ここに来るアベックは皆無やという。
それには、この公園には夜な夜な「幽霊」が出るという噂があるからやと。
10年ほど前。
その公園で若い女性の首つり自殺があった。
その日を境に、白いワンピースを着た若い女の幽霊が出没するという噂が流れ、実際にも目撃したという人間が多いという。
中には、その幽霊と会話したという話まである。
ナオキも、配達を始めてすぐにそれを聞かされた。
確かに、その目で見れば、お世辞にも感じのええ場所とは言えん。幽霊が出るという噂があっても不思議ではないという雰囲気もする。
しかし、ナオキはそんな与太話は信じない。この世に幽霊など存在するはずがない。
そんなものは人の心が作り出した、ただの幻影にすぎんと思う。
怖い怖いと思うから、そう見えてしまうだけのことやと。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と昔から言われている。
ちなみに、「枯れ尾花」とはススキのことを指す。
幽霊やと思うて良く見ると、実は風に揺れる枯れたススキやったということや。
怖がっていると、そんなものまで幽霊に見えてしまうという愚を諭した言い伝えや。
そして、これが一番多いと思うのやが、その与太話をすることで怖がる人間がいとるのを喜ぶ輩がいとる。
その創作話が巷に広まる。
今回の話も、ナオキを怖がらせるために言うてるだけのことやと考えた。
相手にするのもバカらしい。
せやから、面白がってその話をする先輩には、「へえー、そうなんですか」と受け流しといた。
ただ、そんな幽霊は信じなくても、明かりのまったくない、車一台分がやっと通れるだけの狭い山道を走るのは、あまり気分のええもんやないのは確かやがな。
できれば、こんな所には配達したくない。
下世話な話やが、一軒の家に1ヶ月配達したとしても配達員が貰えるのは500円程度にしかならん。
それを考えたら、たった一軒のために、そんな思いまでして配達するのは割に合わんという気になる。
できれば止めてほしいというのが偽らざる気持ちや。
あるとき、ナオキは店長に、「カゲウラ邸に誰が集金に行っているのですか」と尋ねたことがある。
集金の人も大変やろうなと漠然と考えたからやった。
すると、「あそこは銀行引き落としになっとるから誰も集金には行っていない」という返事が返ってきた。
そのときは、それで納得した。
それに麓から、その「カゲウラ」邸までは5、6分程度の道程やから、慣れた今となっては、どうということはない。
それに配達人として、配達するのが面倒やからという理由だけで店に、「あの客を断ってくれ」とも言えんしな。
新聞配達人は、指定された家に遅滞なく配達することが最大の使命で、その場所が楽やとか、きついというワガママが通用する仕事やない。
それは十分すぎるほど分かっている。
それに、幽霊騒ぎのある場所の配達を断ってくれと言えば、「ええ格好言うてるけど、やっぱり幽霊が怖いのやないか」とバカにされそうなのが嫌やったということもある。
しかし、台風の最中となると、幽霊よりも崖崩れという現実的な危険の方がはるかに怖い。
実際、「こんな山道、大雨でも降ったら簡単に崩れるんやないか」と思いながらバイクで走っていたことでもあるしな。
そして、その日、その危惧が現実のものになった。
ナオキは風雨と悪戦苦闘しながらも何とか「カゲウラ」邸にたどり着き、留置場の鉄格子のような門扉に備え付けられている大型の郵便受けに新聞を落とし込んだ。
いつもならドサッという音が聞こえるのやが、この台風で、その音はかき消された。
Uターンして細い山道を下っていた刹那、地面が大きく揺れて流れるような感触が襲ってきた。
ナオキは不穏なものを感じバイクを急停止させたようと試みたが遅く、何かに当たって横転してしまった。
一瞬、意識が飛んだ。
気がつくと前方の道が消えていた。正しくは樹木の壁ができていたと言うた方がええやろうと思う。
ナオキのバイクは、それにぶつかった。
「崖崩れ……」
ナオキは、咄嗟に、それと察した。
何とかその樹木の壁を乗り越えられんものかと考えたが、夜中でしかも台風の暴風雨により、これだけ視界が悪いと、その崖崩れの状況を確かめることすら難しい。
それに、またいつ崩れるかも知れんという恐怖もあった。
一つ間違えば、その崖崩れに呑み込まれていた。そう考えると、さらに恐怖は倍加した。
取り敢えず、この場を離れた方が賢い。
ナオキはそう考え、倒れたバイクを起こし、「カゲウラ」邸のある方向へ戻った。
「カゲウラ」邸の前は、僅かながら平坦になっていた。そこにバイクを停めた。
ナオキは携帯電話を取り出して、販売店に連絡することにした。
今日は、台風ということで用心のため、いつもは出社していない部長が電話口で待機しとるとのことやった。
このままでは下へは下れそうもない。つまり、それはこれから先への配達ができんということを意味する。
夜が明け、この暴風雨も収まれば状況が分かるやろうが、それまでは待てない。
普通、新聞販売店では配達終了時間は午前6時までと決められている。それ以降は遅配扱いになるケースが多い。
実際には、客から「まだ新聞が入ってないで」という苦情が入るのは午前7時前後からやがな。
新聞配達人は、どういう状況になろうと、配達をその時間内に貫徹させることを最優先に考える。
自分ができそうもなければ、誰かにその応援を頼む。
どんなことがあろうと顧客に迷惑をかけてはならない。
そうすることが新聞販売店の鉄則であり、配達人の信義、誇りやった。
しかし、何度かけても携帯電話がつながらない。
「圏外か……」
携帯の画面表示には、そうある。
山中で圏外になるというのは良く聞く話やが、ここは山中とは言うても、高々標高100メートル程度の高台や。
地域的には「市内」になる。
バカなとは思うたが、現実に圏外表示になっていては、どうしようもない。
「お客に頼むか……」
この場合のお客に頼むというのは、「カゲウラ」邸の住人に状況を説明して電話を借りるということや。
腕時計を見ると、午前4時を少し過ぎている。
本来なら、こんな時間に押しかけるのは非常識やが、事情が事情やから仕方ない。
ナオキはそう考え、門扉の支柱にあるインターフォンを押して、しばらく待った。
「カゲウラ」邸は明治や大正時代にありがちな木造の古い洋館という趣の3階建ての豪邸やった。部屋数もかなりありそうや。
ナオキにはその築年数は分からない。分かるのは100年以上は悠に経っているやろうなということくらいや。
門扉から、その玄関までの距離は目測で30メートル程度。
そんなお屋敷の中でインターフォンの音を聞きつけた住人が起きて出てくるまでには時間がかかるやろうから、しばらくは待つしかない。
それにしても遅い。
ナオキは、もう一度、インターフォンを押した。
しばらく待つが誰も出て来ない。
怒られるのを承知で連打で押したが、それでも同じやった。
「留守なのか、それとも……」
この台風の中、出て行く気にはなれんし、誰かは知らんが、そのうちあきらめて帰るやろうから、ほっとけというつもりで居留守を使っているのかも知れんと、ナオキは勝手にそう考えた。
自分なら、こんな台風の深夜に胡散臭そうな男が門の外にいるのを確認したら、確実にそうするはずやからと。
あるいは、これだけ古い建物からすると、そのインターフォン自体、生きているのかどうかも怪しいから、それで住人には、ナオキの状況が分かっていないということも考えられる。
「カゲウラさん!! K新聞販売店の者です!! 夜分すみません!!」と必死になって大声を上げて呼びかけたが、それも無駄やった。
何の反応もない。
ナオキの住んでいるアパートあたりで、そんな真似をしたら、5軒離れている部屋からでも「やかましいわい」と怒鳴られるやろうが、ここではその声さえ届かんようや。
台風ということもあるやろうが、それ以上に距離が遠い。
「門扉を乗り越えるか……」と考えたが、その門扉の高さが2メートル以上もある上に、その先端には侵入防止用の「忍び返し」と呼ばれている槍先状の金具があるから、それも難しい。
ましてや、この暴風雨の中で、そうするというのは自殺行為になりかねん。ヘタするとモズの餌のようにその先端で串刺しになるさかいな。
ナオキは自身のその姿を想像して、その案は却下した。
無駄とは知りつつ、門扉を力一杯押してみた。
ギギィー。
錆びた嫌な音がしたが、僅かながらその鉄製の巨大な門扉が開いた。どうやら鍵はかかってないようや。
何とか、身体一つ通り抜けられる程度に開いた隙間から身体を中に滑り込ませた。
その直後、「ガシャーン」という大きな音がした。暴風雨の勢いで門扉が閉まった音やった。
「そうや!」
ナオキは、投函した新聞を郵便受けから取り出して持って行こうと考えた。
せっかく来たんやから新聞は直接渡せばええし、口実としても体裁としても、その方がええ。
「あれ?」
ナオキは、その郵便受けの裏蓋を開けて新聞が入ってないのに気がつき、少しばかり驚いた。
この台風の中、「カゲウラ」邸の住人は、ナオキが新聞を投函して引き返してくる十数分の間に、その新聞を取り込んだことになる。
だとすると住人が起きている確率は高い。
玄関には呼び鈴らしきものはなく、代わりに青錆びの浮いた真鍮製の「たたき」があった。
ライオン顔で叩く箇所が鼻輪になっているオーソドックスなものやった。
それを2、3回、強めに「コン、コン」と叩いた。
しばらく待ったが応答がない。
今度は、4、5回、これなら聞こえるやろうというくらいに強く叩いてみた。
それにも反応がない。
玄関ドアを恐る恐る引くと重いが開いた。
門扉といい、玄関といい、何と不用心な家なんやとは思うたが、正直、開いていたのは助かった。
「すみません!! カゲウラさん、おられますか? 夜分すみません。K新聞販売店の者です!! 誰かおられますか?」
そう言いながら、ナオキは中に入った。
暗い。
玄関扉から入ったすぐの場所が広いホールになっているというのは分かるが、漆黒の闇でほとんど何も見えない。
「崖崩れに遭って困っているんですが、誰かおられませんか?」
外の暴風雨の激しさと比べ、室内は恐ろしく静かやった。
誰もいないはずはない。現に誰かが新聞を取り込んどるのやさかいな。
しかし、誰も出て来ない。
念のため、携帯電話の画面を見たが、相変わらず圏外表示になっている。
ナオキは奥に進もうとして、すぐにあきらめた。
勝手に人の家の中を歩き回るのが憚(はばか)られるというのもあるが、どの方向に進めばええのか皆目見当がつかんからやった。
何より、このシチュエーションは、いくら幽霊の存在を信じていないナオキやと言うても不気味すぎる。
あまりにも、それらしい雰囲気に溢れとるさかいな。
迂闊に動くのはまずい。本能的にそう感じた。
もう2、3回呼んでみて誰も出て来なかったら、自力で山を降りようと考えた。
単車と積み荷の新聞を抱えて、あの崖崩れを越すことはできんやろうが、ナオキ一人なら、やってやれんことはない。
ここの家人は、その理由は分からんが相当な「人嫌い」なのかも知れんという気がする。
家人にはナオキの存在は知れてるはずや。
それでも出て来ない人間を気長に待つほどナオキには余裕がない。
崖崩れにあって足止めを喰らって配達ができんようになったのは不可抗力やから仕方ないにしても、この状況を一刻でも早く販売店に知らせて、配達の続きを誰かに頼まなあかん。
今のナオキにとって、それが最大の命題やった。
帰りかけようとしたナオキの耳に、地下から「コツ、コツ」という音が聞こえてきた。
誰かの足音? そんな感じやった。
その足音が止まった。
奥のドアがギイーと不気味に軋んだと思った次の瞬間、小さな火の玉がいきなり現れた。
「で、で、で……」
「出たー!!」と叫びたかったが、その声が出ない。
ナオキは身体が固まって卒倒しそうになった。
その小さな火の玉の後ろから、「どちら様?」という女性のか細い声がした。
よく見ると白い服装の若い女性が手にロウソクを持って、こちらに歩み寄って来ていた。
それを見たナオキはかろうじて気を取り直し、「か、勝手に入り込んですみません。実は……」と、まず自身の非礼を詫びた。
ナオキは、そのロウソクを手にした若い女性に事の次第を簡単に説明した。
「まあ、そうでしたの? それは大変でしたね。どうぞ、こちらへ」と、ナオキは誘われるままに中央の大きなテーブルのイスの一つに腰掛けた。
その若い女性を良く見ると色白の美人やった。女優の小雪に似ていると思った。ナオキの好みのタイプや。
いつもは、「こんなところにまで配達させやがって、止めてくれたらええのに」と願っていたが、こんな美人に配達していたのかと考えると何か無性に嬉しくなってきた。
「実は当家でも停電になって困っていたんですのよ」
その若い女性の話やと、停電になったから地下にある自家発電機を作動させようとしたが壊れていたので、あきらめたのやという。
それで仕方なくロウソクに火を灯していたのやと。
ここで、「僕がその自家発電機を直して上げましょう」と言えれば格好ええのやろうが、あいにく機械オンチのナオキにはどうしようもなかった。
「お気の毒ですけど、電話も使えません」
「そうですか。それでしたら仕方ありません」
もともと、ナオキは崖崩れを乗り越えてでも麓に行くつもりやったから、それを実行に移せばええだけの話や。
そのついでに、ここのカゲウラ邸が停電していることを電力会社に知らせたらええ。
すぐにでも行かなあかんというのは分かっていたが、こんな美人と知り合いになれるような幸運は滅多にない。
少なくとも、ナオキの人生において一度もなかったことや。せめて、少しの間だけでも話をしていたい。
後ろ髪が引かれる思いというのは、こういうことなんやと知った。
「ここへは、お一人で?」
「ええ、父や母は外国で暮らしていますので」
なるほど、ありそうな話や。
どこか寂しげでその憂いに満ちたその女性の横顔を見ていて、ナオキはあることに気がついた。
その女性の長い黒髪の隙間から首筋にかけて細長いアザのようなものが見えた。
どうやら何かの傷跡のようで、まだ生々しかった。
「おケガでもされたんですか?」
ナオトは、その地下にあるという自家発電機とやらを直しに行ったとき傷ついたのやないかと思った。
かなり無理をしたのやないかと。
「ああ、これですか」と言うと、その女性は、その長い黒髪を両手でたくし上げた。
そこには首筋に一本の線となった青アザがあった。
索状痕(さくじょうこん)。首つり死体によく浮き出るとされとるものや。
「実は自殺未遂したことがあるんです、私」
「い、いつ頃のことです?」
「まだつい最近です。今年の1999年ですから」
「1999年て……今は2009年ですよ」と言いかけてナオキは言葉を切った。
麓の公園で10年前に女性の首つり自殺があったと聞いていたのを思い出した。
確か、白いワンピースを着た若い女やったと。
目の前の若い女も、その白いワンピースを着ている。
しかも首には首つりした際にできると言われている索状痕(さくじょうこん)まである。
さすがに幽霊など信じないというナオキでも、目の前の現実を信じないわけにはいかない。
この女の幽霊は自分が死んでいるという事実を知らない。自殺未遂したと思い込んでいるようや。
そう考えると説得力が増す。と同時にその恐怖も頂点に達した。
「うわーっ!!」
ナオキは、転げるようにその場から一目散に逃げ出した。
停めてあったバイクに跨り、猛然と走らせた。
最早、ナオキには台風のただ中にいるという意識すらなくなっていた。
一刻も早く離れたい。あるのは、その思いだけやった。
「わっ!!」
いきなり目の前に障害物が立ちはだかった。
例の陰崩れの場所やと気がついたときには遅かった。
二度、その樹木の壁に衝突した。
また一瞬、意識が飛んだ。
しかし、今度は比較的早く気がつき、その場にバイクを残し、その崖崩れで埋もれた上をよじ登った。
上ると、以外に崖崩れは小規模やったというのが分かった。
難なく、その向こうに降り立ったナオキは、後ろを振り返らず駈け出した。
公園の横に出ても、そのスピードを緩めることはなかった。
ようやく、車の行き交う一般道に出た。
ここならと思い携帯電話を取り出した。
すでに圏外表示は消えていた。
販売店に電話した。部長が出た。
「が、崖崩れに遭って、幽霊に追われていて……」
ナオキの喘ぎながらの意味不明な説明に、「落ち着け、ナオキ。何がどうなっとんのや?」と部長。
少しずつ、冷静さを取り戻したナオキは、崖崩れにあって後の新聞が配達できんということだけはちゃんと伝えた。
それを聞いた部長は、店長らに指示して、その後の配達に関しては事なきを得た。
その直後はナオキも興奮していたということもあって、しきりに白い服の若い女の幽霊を見たと言ったが、誰からも相手にされんかった。
「お前は崖崩れに遭って気を失っとったんやろ? そのときに夢でも見たんと違うか?」ということにされてしまった。
ナオキはその件については黙ることにした。
冷静になって考えれば、確かに同じ場所で二度も気を失うということは考えにくい。
本当に一度めに失神した際、その夢を見たのかも知れない。ナオキ自身、同じ話を他人から聞かされれば、そう考える。
気持ちの中では怖がってなかったという自信はあるが、深層心理の底では気にしていた、怖がっていた可能性を否定することはできん。
それが夢となって現れた。あり得ることかも知れん。
時間の経過と共に、そんな気になっていた。
しかし、その日の午後、どうにも納得できんナオキは図書館にやってきた。
10年前の首つり自殺のことが何か分かるかも知れないと考えたからや。
すぐにそれらしい記事が見つかった。
そして、それに掲載されていた写真を見て驚いた。
その写真は、確かに夜中に見た、その白い服の女性やったからや。
夢やなかった。
その女性の名前は、カゲウラ・ケイコとあった。当時23歳。
つまり、あのカゲウラ邸の関係者と考えた方が自然や。
ナオキはその場から、カゲウラ邸に電話をした。
年輩の女性らしき声の人物が電話に出た。
「いつもお世話になっていますK新聞販売店の者です。昨日の台風でお宅からサツキ山公園までの道路で崖崩れが起きまして、役所から復旧には2、3日かかると言われているので、まことに申し訳ありませんが、それまで新聞が配達できなくなってしまいましたので」
これは、地域責任者として販売店から、顧客にそう連絡するようにと厳命されていたことや。
「分かりました。わざわざご丁寧にどうもありがとうございました」
「つかぬことをお尋ねしますが、そちらにケイコさんと言われるお嬢さんはおられますか?」
「いえ、いませんが……、それが何か?」
今まで穏やかやったその年輩の女性らしき人物の声が急に尖ったような感じになった。
「いえ、昨日、正確には今日の深夜、そちらのお宅でお会いしたものですから」と、ナオキは正直に答えた。
「変なことは仰らないでください。昨日の夜は誰もお見えになっていませんよ」
「でも、門扉と玄関には鍵がかかっていませんでしたけど」
「失礼な。私どもは毎日、ちゃんと戸締まりはしています」
「停電は?」
「……」
「確か、そちらには地下に自家発電装置がありますよね?」
「それをどうして?」
「昨日、ケイコさんから聞きました」
その白い服の女性がケイコかどうかは定かやないが、ここはそう言い切った方がええと判断した。
「……」
一瞬の間があった後、先方が一方的にその電話を切った。
何かあるのは確実やが、新聞販売店の従業員という立場のナオキには、それ以上、突っ込んだ話はできんかった。
警察でもないし、例え警察であっても「自殺」で処理されたことやから、どうなるもんでもない。
新聞紙面には自殺の原因については何も触れられてなかった。
どういった具合で、ああいった状況、場面になったのかは伺い知れんが、ひょっとするとケイコは自殺することになった理由をナオキに話したかったのやないかという気がしてきた。
ナオキがあのまま逃げ出さんかったら、おそらく、その理由を言うてたのやないかと。
とすると、そのケイコの霊はまだ成仏していないということになる。
2年近くが経って、そのことほとんど忘れかけていたのに、その「マーゴン」と名付けられた史上最大級とも言える超大型の台風6号の接近によって、そのことを思い出した。
それでナオキが憂鬱になっとるというわけや。
もう一度、同じようなことになるのやないかと考えて。そうならないという保証はどこにもない。
その話が寄せられて今日で3日になるが、ナオキからはまだ何の連絡もない。
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