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第18回 ゲンさんの新聞業界裏話
発行日 2008.10.10
■長かろうと短かろうと、それが人生
「ゲンさん、あれほど嫌っていた人間なのに、いざ死なれると複雑な気持ちになりますね」
ポツリとハカセがそう話す。
「それが身内というもんや」と、ワシは分かった風なことを言う。
もっとも、ハカセの場合は、そんなに簡単な話でもなかったが、友人としては、そう言うしか他にかける言葉はなかった。
先日、ハカセのお父さんが亡くなられた。
今年の5月の初め頃、末期の肝臓ガンで、お父さんの出身地でもある岡山の病院で入院していた。
最後は故郷で死にたいという、お父さんのたっての希望やったからやとハカセは言う。
葬儀もその岡山で執り行われた。
享年、78歳。
これが長いか短いかということになれば、普通は長いとたいていの人は言うはずや。
しかし、現在、日本男性の平均寿命が79歳やから、僅かながらそれよりも短いということになる。
「薄情なように思われるかも知れませんが、私が寂しいと言うのは、何も悲しいというのとは違いますよ……」
そう言いながら、ハカセは遠くを見つめていた。
お父さんの名前はヒロジと言う。
昭和5年。ヒロジは、岡山市西大寺という辺りの裕福な旧家の次男として生まれた。
家長制度の色濃いその頃は、長男が跡継ぎで重要視され、次男以下は親にそれほど期待もされてないのが普通やった。
しかし、長男のヒトシが太平洋戦争の末期、南方の戦地で戦死したことにより一転して、その跡継ぎに次男であるヒロジが指名された。
ヒロジは、それまでとは手のひらを返したような親の態度の豹変が嫌で、密かに、その頃あこがれていた松山海軍航空隊飛行予科練習生、通称、予科練に入隊して家を出ようと考えていた。
お国のためという大義名分がある以上、その予科練の試験に受かれば引き止められることはない。
そう考えた。
ところが、その入隊資格を得た14歳になったばかりの頃、終戦間際の学徒動員というやつで、近くの軍事工場で強制的に働かされることになり、そのまま終戦となって、その夢が潰(つい)えてしまった。
後年、父親のシゲゾウが予科練への入隊を阻止するために、ヒロジを軍事工場で働かせるよう画策したのやと思い込んだ。
その頃は、家長である父親は絶対的な存在で、例えそうであっても表立って文句を言うたり逆らったりすることは許されん時代やった。
ただ、その分、その思いは内面に鬱積(うっせき)していく。
ヒロジが19歳のとき、一つ年下のキヨミという女性と恋仲になったが、その結婚を反対されたため、二人は駆け落ちした。
駆け落ちした先が大阪の豊中市という所やった。
そこでハカセが生まれた。
その直後、ヒロジらの所在がシゲゾウに知れ、二人は強制的にそれぞれの親元である岡山に連れ帰られることになった。
当然のように離婚させられてしまった。
それを不服として、連れ帰られて間もなくヒロジは単身家を飛び出した。
シゲゾウは、ヒロジを勘当すると宣告した。
勘当というのは昔は頻繁に使われていた言葉やが、今はそういうのはほとんど聞くこともなくなった。
今の若い人間の仲には、勘当の意味すら知らん者もおるという。
要するに、親が子に縁を切るということや。
戦前の法律では民法や戸籍法では勘当に関する条文があり、親がそう宣言して手続きをすれば簡単にそれができた。
しかし、戦後の民法の改正により、現在の法律において戸籍上の親子の縁を切ることはできんようになった。
したがって、現在でも勘当という言葉は残っとるが法的な手続きとしては存在しないということになる。
相続廃除というのはあるが、それ相当の理由がなければ認められることはない。
今回のヒロジたちのように勝手に駆け落ちしたからという程度では弱い。
ただ、未成年の結婚には新民法でも親の許可が必要やというのは同じや。
強制的とは言え、連れ帰られたことに違法性はなく、その結婚を双方の親が認めんということであれば、現在であっても独立した戸籍(分籍)は持てんから、当時してはどうしようもなかったと思う。
加えて、この頃は民法が変わったというても、まだまだ戦前の風習が色濃くあった時代やから、どうしても、勘当を宣告されたというのは重いものがあった。
「もうお前とは、親でも子でもない」と正式に言い渡され、それが確定したと誰もがそう受け取った時代やったさかいな。
それを元に戻すには、シゲゾウが、ヒロジを許して勘当の解除宣言をするしかない。
ハカセは、当然のように祖父のシゲゾウに引き取られることになった。
祖父に引き取られるというと、何か甘やかされて育ったというイメージが普通やが、ハカセに関しては大きく違った。
シゲゾウは孫かわいさということを表面に出すような人間やなかった。
自分の息子以上に厳格にハカセを育てた。
シゲゾウは、ハカセに跡目を取らせるつもりで敢えてそうしていたのやという。
もっとも、このシゲゾウの判断が後日、ハカセに災いとして降りかかってくることになるのやがな。
とにかく、その英才教育ぶりは凄まじいの一語に尽きた。
ハカセは幼稚園に上がる前から、正座しての読み書きを教え込まれた。
例えば、「田」という漢字の練習をするとする。
その場合、その「田」という字を新聞紙の上に真っ黒になるまで鉛筆でただ延々と書かせ続けさせる。
最初の頃は「田」という字が書かれているというのは分かるが、それを繰り返しているうちに、ただ鉛筆で新聞を塗りたくっただけのような真っ黒な状態になる。
そこまですると、小さな子供の指にはすぐマメができ、それが破れて血が流れ落ちることもしばしばあった。
しかし、それでも止めることは許されんかったという。
せやから、4、5歳にして手刀の外の部分はいつも黒光りしていて指には子供のそれとは思えんほどのペンだこができていた。
それがあったためか、ハカセは後年、作家の道を志すようになっても単に書くことへの苦痛は何も感じることはなかったという。
余談やが、本を買う金もなかった学生時代、大学ノートを持って図書館に行き、ほしい本を丸写しするということを良くしていたらしい。
そうすることがまったく苦にならんかったと笑いながら話すことがあった。
武道も、シゲゾウが剣道の達人やったということもあり、ほぼ同じ頃から徹底的に叩き込まれた。
同じように手のひらには竹刀だこができ、それが石のように固くなっていた。
冬の寒い日でも裸足で走るのは当たり前のことやった。
ハカセの地声が大きいというのは、過去のメルマガでも良く言うてることやけど、それもこの剣道の修行中に身につけたものやという。
武道は技術もさることながら気合いのあるなしが勝敗に大きく影響する。
特に剣道にその傾向が強い。
その気合いを込めるもっとも有効な手段が大声、奇声を発することや。
これは、剣道の試合なんかを見ればある程度、見当がつくと思う。おとなしく竹刀を合わせる者はほとんどおらんさかいな。
大声を出せるようにするには、当然のように毎日、その発声練習を繰り返すしかない。
その練習中に少しでも声の出が悪ければ、容赦なく腹や背中に竹刀が飛んでくる。
今の時代やと、幼い子供にそんなことをしている場面を見られたら、いくら身内とはいえ、児童虐待やとか言うて通報され大変なことになるやろうけどな。
それがええか悪いかは別にして、少なくともハカセは、それがあったからこそ現在の自分があるのやと言う。
それについては、こうして文字で書き表すほど苦痛になるほどのことやなかったとも話す。
とにかく、そうまでしてシゲゾウは、ハカセを文武に秀でた男にしたかったのは確かなようや。
シゲゾウ自身も長男として親からそれに近い教育を受け、跡取り息子の長男ヒトシにもそれを当然のように行っていた。
しかし、そのヒトシは戦死した。
仕方なく、次男のヒロジを跡取りに据え、同じようにその教育をしようとしたが、それまで、次男としてほったらかしにして育てていて、その下地のまったくない13、4歳の子供に急遽、教え込むというのも無理があった。
何より、当のヒロジが積極的に覚えようとせんかったというのもある。
13、4歳というのは、俗にいう反抗期と呼ばれとる時期やから、素直さというのもほとんどなかったようや。
ただ、仕方なく、やらされているという感じがありありとしてた。それでは何をやっても身につくことはない。
シゲゾウにとって、ヒロジはまったく出来の悪い息子にしか映らんかったわけや。
親の思いは当然のことながら子供にも伝わる。
シゲゾウとヒロジの間に確執が生まれたのは、ある意味、自然な流れやったと言えんでもない。
ヒロジの駆け落ちを許すことはできんかったが、そこで男の子が生まれたのは、シゲゾウにとっては、ある意味、僥倖(ぎょうこう)であった。
即座に、ハカセをそのヒトシの代わりに育てることに決めた。
せやから、ヒロジが家を出て行った際、「勘当」することには何のためらい、躊躇もなかったと話す親戚縁者は多い。
もっとも、本当のところは当のシゲゾウにしか分からんことやろうがな。
とにかく子供の頃のハカセは必死になって、そのシゲゾウの期待に応えようとしたというのだけは確かやった。
それが当たり前のことやと思っていた。
小学2年生のとき、ハカセの書いた作文が、全国紙A紙主催のコンクールで金賞を取ったことがあった。
それが掲載された新聞をシゲゾウはかなり買い込み、親戚、知人に配り歩いたという。
厳しい祖父やったが、その喜び方も尋常やなかった。
子供は、その期待に応えられたら嬉しいもんや。
ハカセはその後も作文コンクールで常に上位入賞を果たすようになる。
ハカセの作家志望への下地は、この頃、すでにあったわけや。
剣道の腕も同じように上達し、県下で行われていた子供の大会で優勝したこともあった。
そのシゲゾウが、ハカセが小学5年生のときに、突然逝った。
享年、61歳。その当時としても早い死やった。
胸を押さえて蹲(うずくま)って、ふとんに横になりそのまま死んだ。
今やったら、ハカセも心筋梗塞の疑いを考え即座に救急車を呼ばなあかんというのは分かるが、そのときには「大丈夫や。寝てたらすぐ治る」というシゲゾウの言葉を誰もが信じた。
絶対的な権力者であった家長の死の影響は大きい。
跡継ぎはハカセとシゲゾウは広言していたが、いかんせん、まだ子供でその力はない。
それに、孫には遺言書の類でもなければ、直接の相続権がないというのもある。
妻、ハカセの祖母のフサと息子3人、娘2人の間で、世間にありがちな相続争いが起きた。
このとき、ハカセの父であるヒロジは、シゲゾウから「勘当」されていることを理由に、その相続争いからは除外された。
今なら、法的に相続排除の手続きが為されていなければ、他の兄弟たちと対等の権利を有するというのは常識やと思うが、その当時は、それが当たり前とされていた。
ただ、ヒロジもヒロジで、シゲゾウを憎んでいたから、シゲゾウの遺産などほしくもないと言って、その相続放棄には素直に従ったという。
しかし、子供であるハカセの引き取りには難色を示した。
そのときには、ヒロジはすでに大阪で再婚していた。
その再婚相手には二人の連れ子があり、ハカセを引き取れば関係が拙くなるというのが、その理由やった。
そんな環境に連れてくれば、ハカセ自身もかわいそうやと。
ヒロジの相続放棄の条件にはそれがあった。
それは、ハカセにとっては血のつながった親に捨てられるということを意味する。
子供心に、それだけは分かった。
加えて、このとき、シゲゾウの遺志ということもあり、遺産を相続する他の兄弟たちの間で、ハカセの面倒を交代で見ることになった。
その日から、ハカセはその兄弟たちの家庭を、一年毎に、たらい回しされることになる。
このとき、ハカセはシゲゾウから特別扱いされて育っていただけに、それを快く思っていなかった他の兄弟たちから、疎まれながらの生活を余儀なくされた。
最初に預けられた三男のミツオの所が、特に顕著やった。
ミツオは、長男のヒトシが戦死し、次男のヒロジを勘当にしたのやったら、当然、次の跡取りは三男である自分を指名せなあかんかったのやないかと考えていた。
そうしていたら、こんな相続争いなど起きずに、ほぼ財産を独り占めにできたという思いが少なからずあったようや。
ハカセは、この叔父のミツオには何かにつけ殴られていたという印象しか残っていなかった。
もちろん、それはシゲゾウの厳しさとは異質のものや。
良くテレビドラマなんかで、そういう仕打ちを受け、けなげに耐える主人公という設定があるが、実際にそういう境遇で育った人間には、そういうドラマを見ても共感するところはないとハカセは言い切る。
嫌な思い出がフラッシュバックするだけやと。
ただ、幸いというか、祖父のシゲゾウに異常なまでに厳しく育てられていたおかげで、身内のいじめとも言える仕打ちに耐えることができたと、ハカセは言う。
それでも、精神的な苦痛は相当なものがあったという。
地獄の日々。子供のハカセにとってはそれ以外の何ものでもなかったと話す。
ただ、その中身にまでは、ワシにも未だに触れようとはせんがな。
もちろん、ワシもそこまでは聞くつもりもない。おおよその想像くらいはつくがな。
そして、当然のように、父親のヒロジの薄情さを恨んだと言う。
叔父夫婦たちの顔色を窺い、いとこたちに気遣いしながらの生活が、その後、4年以上に渡り続いた。
ハカセは、一刻も早く、その境遇から脱することだけを願った。
ハカセ自身は、中学卒業と当時に働いて、誰の世話にもなりたくなかったのやが、その地域では名家と言われていた一族が体裁が悪いと、それも却下された。
そこで、ハカセは大阪の高校に受験したいと言い出した。
その頃、岡山から見れば大阪は大都会で、その高校に通うとなれば、岡山の田舎町ではそれなりに箔のつくことでもあった。
それに、名ばかりとはいえ、父親であるヒロジも大阪にいとるから、それなりに説得力もあった。
ただ、そのヒロジの家に転がり込むのも嫌やったので、叔母のタカコの援助を受けることにした。
ハカセが唯一、たらい回しされんかった先が、その叔母のタカコの所やった。
このタカコは、将来を誓った婚約者である医師が亡くなったため生涯独身を通すと決めた人で、その当時、ある病院の婦長をしていた。
住まいは、その病院内の敷地にある社宅やったため、外部の人間が入り込めんということもあったわけや。
一緒には住めんかったが、親戚で唯一、ハカセには優しく、良き理解者でもあった。
そのタカコから、その後、数年に渡り金銭的援助を受けることになる。
母親を知らんハカセは、心の中で、このタカコを本当の母のように慕っていた。
その関係は今も続いているという。
大阪の高校に入学が決まると、ハカセは学校の近くの下宿に入居して、そこから通学した。
その高校在学中、ヒロジが再婚相手と離婚したと聞かされた。
そして、一緒に住まんかとヒロジが言うてきた。
「あんたは、オレを捨てたんやろ? 何を今更、ムシのええ話をしてんねん」
ハカセは、そのとき本気で怒って、その申し出を拒否した。
このときは、まだハカセも若く、ヒロジが幼いハカセを置いて家を出た経緯というのは詳しく知らんかったし、理解もできんかった。
また、幼い頃から、尊敬する祖父のシゲゾウに、ヒロジのことについては悪い話しか聞かされてなかったからよけい恨みに思う気持ちが強かったこともあった。
何があろうと、自分の子供を捨てるような親は人間のクズやと。
子供の立場からすれば、それが偽りのない気持ちやった。
その次、ヒロジと会うたのは、10数年後、ハカセの結婚式の式場でやった。
それからまた15年間、会うこともなくすぎた。
お互い、名目だけの親子に徹していた。
1995年1月17日、午前5時46分52秒。
冬。まだ夜明け前で外は暗かった。
ドーンという轟音と共に、身体が宙に舞い、その衝撃で目覚めた。
家の中が上下に激しく波打ち、すぐ大きな横揺れに変わった。
ガタガタと家具たちが踊りはじめ、固定されていないほとんどの物が一気に倒れた。
家のあちこちから、バキッ、ボキッという柱の折れるような不気味な音が聞こえてきた。
「お父さん、助けてぇー!!」
ハカセの奥さんの悲鳴が聞こえた。断末魔に近い。
そのとき、ハカセは二階で寝ており、奥さんと4歳になったばかりの長男、シン君が一階で寝ていたという。
ハカセは、その声を聞き、必死で部屋を脱出して、大きくぐらつく階段をすべり落ちるように降り、妻子の部屋に飛び込んだ。
そのときは、何をどうすることもできず、親子3人、ただ抱き合っているしかなかった。
実際に揺れていたのは、数十秒間やったが、ハカセには、その時間はとてつもなく長く感じられたという。
「正直、あのときは、もうこれで最後やと思いましたわ」と話す。
時間が経ち、停電も復旧し、テレビを見て我が目を疑った。
いつも利用していた阪神高速道路が横倒しになっていた。近くの阪急伊丹駅が押しつぶされたというのもある。
橋が至るところで崩落していた、あるいは無数のビルが崩壊したと知った。
刻々とその被害状況がテレビに映り出されてくる。
最終的に公表された被害は、死者6437名、行方不明者3名、負傷者43792名。避難人数30万名以上。
住宅被害は、全壊104906棟、半壊144274棟、全半壊合計約25万棟(約46万世帯)、一部損壊39506棟。全焼6148棟、罹災世帯9017世帯。
被害道路10069箇所、橋梁の損傷320箇所、河川430箇所、崖崩れ378箇所で、その被害総額は10兆円規模に上ると試算された。
阪神・淡路大震災と名付けられた戦後未曾有の大地震やった。
テレビに火災現場が写し出されていた。
「親父……」
その当時、ヒロジは神戸の長田区長田天神一丁目にあるアパートに住んでいた。
目の前で巨大な炎と煙が立ち込めているのが、ちょうどその辺りやった。
ハカセは、すぐさま岡山の叔母、タカコに電話した。
「親父から、何か連絡あった?」
唯一の姉であるタカコにだけは頻繁に電話していたのを知っていたから、そう聞いた。
「まだ、何もないんじゃ。大丈夫じゃろうか……」
心配そうな声が聞こえてきた。
「オレ、今から探しに行ってくる。何か分かったら連絡するから」
そうタカコに言うて電話を切った。
そのとき、ハカセは何でそんな安請け合いをしたのか、自分でも不思議やった。
もちろん、父親のヒロジのためやなく、弟を気遣うタカコのために、その気になったのやないかと思うてた。
ただ、簡単に行くとは言うても、道路のほとんどが通行止めになっていて、とてもやないが神戸のしかも炎上中の長田区に車では入れそうもなかった。
そんなとき、知人から「バイクなら何とか行ける言うてたで」という話を聞き、取りあえず、バイクで現場に向かうことにした。
幹線道路は、ほぼ封鎖されていて立ち往生している車が多かったが、バイクならその規制を避けるように裏道に入れる。
但し、狭い裏道は倒壊した家のがれきや瓦などが散乱していて、とても道路と言える状況やなかった。
そんな障害物を乗り越えながら、道なき道を延々と走り続けた。
身軽なバイクやからこそ可能なことやった。
バイクで来たのは正解やった。というか、こういう災害時にはもっとも有効な移動手段やと実感した。
途中、斜めに倒れかけたビルの横や将棋倒しになっている家々を見るにつけ、その凄まじい地震の破壊力に、ただただ驚くしかなかった。
長田区天神町近くに辿り着いた。
その頃には火災はすでに下火になっていたが、辺りは焼け野原と化していた。
経験はないが、「戦時中の空襲後というのはこんなんやったんやろうな」という漠然とした思いに囚われた。
むせかえる煙と悪臭が辺り一面に漂っていた。念のためにと持ってきていた防寒用のマスクが結構、役に立った。
あちこちの公園に、災害救助の野営テントがあり、救急隊や自衛隊の制服を着た屈強な男たちが忙しく走り回っていた。
そのテントの一つに飛び込み、ヒロジの写真を見せて、その安否を尋ねる。
「父親なんですが、連絡が取れなくて」と。
「向こうのお寺の境内に行けば分かるのやないですか」と、そこの救急隊員が教えてくれた。
教えて貰った寺の境内でその係官らしき人物に同じことを聞く。
すると、面倒くさそうに「あっち」と指し示す。
言われた方向に行くと、そこら中一面にブルーシートで覆われた夥しい数の物体があった。
全部死体やという。
まだ、身元が判明しない死体が置かれていた。
その中から、捜せと言う。
さすがにハカセは躊躇したが、安否を確かめにきて、それはできませんとも言えなんだ。
合掌して、最初の死体と対面する。
半分焼けこげた中年の男性の死体やった。
ここでの詳しい描写は避けるが、その目はは未練たっぷりに虚空に向けられていた。
地獄絵図という形容があるが、このとき、まさしくそれやとハカセは思うた。
初めの数体は恐る恐る覗く込むという感じやったが、不謹慎を覚悟で言えば、人間はどんな状況、現場に接しても慣れるもんやというのをこのときに知ったとハカセは話す。
慣れに従い、どんなにむごい死体であっても、ほぼ冷静に見られるようになっていた自分自身に驚いていたという。
おそらく、今後のハカセの人生において、これほどの無惨な死体群を見ることは二度とないやろうと思われるほど、それらを見て廻った。
良くテレビなどでは、棺にすがる遺族の姿が写し出されていたが、当然のことながら、数百、数千の棺が瞬時にできるわけやない。
その死体の身元が確認され、役所やその遺族が用意できる棺の数にも限度があ
る。
野ざらしと言えば御幣があるが、ほんの一時とはいえ、そうせざるを得ないわけや。
さすがに、ブルーシートで覆われた死体群を写すというテレビ局やそんな描写の記事を載せる新聞はなかったが、それがかけねなしの実態なのやとハカセは痛感した。
結局、いくら捜してもヒロジは見つからんかった。
次に、ハカセは一縷の望みに賭け、避難民が身を寄せている小学校、中学校を探し廻った。
生きていたら連絡くらいするはずやから、それが未だにない状況では大した希望は持てんかったが、残された道はそうするしかなかった。
どこにも受付に名簿というのはあるが、次々に身を寄せてくる避難住民のすべての記載が追いついてないのが実状やという。
正しくは、自分で確かめるしかないということらしい。
ハカセの予想に反して、捜し始めて三つ目の小学校の体育館に、ヒロジはいた。
配給された布団の中に入って、ビールを飲みながら呑気に小説本を読んでいた。
安堵と腹立たしい感情が同時に襲ってきた。
「親父、生きとったんなら、せめてタカコ叔母ちゃんだけには電話くらいしとけよ。ものすご、心配してたで」
「そうか、電話しよう思うてたんやけど、電話はどこも塞がっててな。今列んでも30分以上はかかるから、もうちょっと後にしよう思うてたんや」と、いけしゃあしゃあと話す。
所詮、こんな程度の男やと思うと、よけいに腹が立ってきた。
その後、しばらくそこで避難生活を続けてから、ヒロジは神戸市の公団住宅への入居が決まった。
それからさらに4年後。
ハカセが心筋梗塞を起こし病院のICU(集中治療室)に担ぎ込まれ生死の境を彷徨っていたとき、ヒロジがその病院にかけつけてきたという。
もっとも、ハカセが意識を取り戻した頃には帰って行ったらしいがな。
ヒロジ曰く「ワシがおっては、気の短いあいつのことやから、せっかく落ち着いた心臓をまた悪うしかねんからな」ということやった。
それで、すべてを許したということでもないが、ハカセはいつまでも子供じみた恨みを持つのは止めようと考え始めたのは確かやった。
その後、ハカセが体調のええときには、たまに子供らを連れてヒロジの所に遊びに連れて行くこともあった。
もちろん、子供らにはヒロジとの間にあった確執は何も知らせてない。子供らの前では喧嘩や言い合いもせず、仲のええ親子を演じた。
そして、今年の5月、岡山の病院に急遽、入院することになったと聞かされた。
末期の肝臓ガンやった。
ガンはすでに数年前から分かっていて、治療は続けていたらしいが、ハカセには内緒にしといてくれと、タカコに頼んでいたため、ハカセがそれを知ったのはつい最近のことやった。
自分のことより、ハカセの病気の方を気遣ってということのようやった。
最後は、生まれ故郷の岡山で死を迎えたいとのヒロジのたっての願いで、タカコがそう手配したのやと言う。
明日をも知れんと医師に言われるようになって、ハカセは家族を連れて土日の二人の学校が休みのときを選んで、何度かその岡山の病院まで見舞いに行っていた。
先週、10月3日の午前10時31分。
ヒロジは眠るように逝ったということやった。
葬儀は10月5日の午前中、身内だけで行われた。
葬儀が終わって、タカコからある衝撃的な事実を知らされた。
「今まで絶対言うなと口止めされていたんじゃけど、お前が小さい頃から、お前のためにとヒロジは毎月仕送りをしてたんじゃ」と言う。
タカコからのハカセの援助金にはそれが含まれていたのやと。
「今更、何でそんなことを……」
ハカセは言葉に詰まった。
幼い頃から、父であるヒロジをずっと恨んできた。
今は、ハカセも人の親になり、世間の酸いも甘いも知り尽くした、ええおっさんになっとるから、ヒロジの行動はそれなりに理解もできる。
しかし、それでも親が子供をほったらかしにしたという事実は、どんな事情があるにせよ許されることやない。
その一点だけは、どこまでいっても譲歩できる問題やない。
そう思うてた。
それが根底から崩れた。
今まで恨んできた人間が、実はそんな人間やなかったと分かって、一体、今更どないせえと言うんや。
もちろん、そんなことを叔母のタカコに言えるわけはない。
心の中でそう自問するだけのことや。
それに対して返ってくる答はなかったが、何か、そうして生きてきたハカセ自身が、いかにも卑小な人間のように思われて仕方なかった。
ただ、最後に僅かでも父親に対してのわだかまりが溶け、誇りに思えるのは、ある意味、幸せやないのかとは気づいた。
このまま、父親を恨んだままというのも救われんことであったとも。
しかし、ハカセは、その心の整理がなかなかつかず、窓の外の降りしきる雨をいつまでも眺めて、ただ立ちつくしているだけやった。
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