メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー

第20回 ゲンさんの新聞業界裏話
     

発行日 2008.10.24


■午前3時の招かざる訪問者


深夜、午前3時頃。

枕元から、いきなり「世にも奇妙な物語」のテーマ曲が流れた。

ワシの携帯電話の呼び出し音や。

ただの洒落で設定したものやが、これから起きる出来事を何か暗示しとるような曲でもあった。

「はい、もし、もし……」

その携帯を耳元に近づけながら、半分、寝ぼけ気味にそう答える。

「ゲ、ゲンさんですか? た、助けてください!!」

聞き覚えのない女性の声がした。

それも尋常やない。かなり逼迫(ひっぱく)した悲鳴に近い怯えた声やった。

素早く携帯の画面に目を向けると、オオサキと表示されている。

オオサキ? ああ、あの客か……。

そのオオサキというのは、一週間ほど前に契約した、この近くの公団住宅に住む、ワシと同年配くらいの男やった。

その男と意気投合し、話込んだことを思い出した。

すべての客にというわけやないが、気に入った人間に対しては、たまにこちらの携帯の番号を教えることがある。

オオサキも、その一人やった。

電話の相手は、その奥さんなのやろうと瞬時に理解した。

「何があったんです?」

「い、家の中に知らない人が入り込んでいるんです……」

その奥さんらしき女性は震えながらそう言う。

「オオサキさんは?」

「主人は、今、その男と玄関先で包丁を手にして睨み合っています」

「警察へは?」

「先ほど、電話しましたが、まだ来なくて……。それで、主人がゲンさんに電話しろと……」

『こらっ!! そこを動くな、動いたらぶっ殺すで!! ケイコ、電話を代われ!!』

電話の近くで、聞き覚えのあるオオサキの怒鳴り声がした。

そして、すぐにそのオオサキが電話に出た。

「ゲンさん、大変、申し訳ありませんが、今すぐ助けに来て頂けませんか」

「分かりました。今すぐ行きます」

ワシは元来、助けてくれという言葉には無条件に弱い。

また、こういう緊迫した状況になると血が騒ぐというやっかいな性格の男でもある。

その公団住宅は、ワシの住んどる所からは、車でほんの1、2分の距離にある。

「どういう状況なのか、簡単にで結構ですから教えて頂けませんか?」

一応、それくらいは知っておきたい。

助けに駆けつけるにしても、闇雲に明らかに危険と分かっているところに突っ込むわけにはいかんさかいな。

「ええ、実は……」

そこは15棟ほどある、五階建てのごく一般的な公団住宅やった。

深夜、鉄製の玄関扉辺りから「ガチャ、ガチャ」という物音が聞こえ、オオサキは目覚めた。

時計を見ると、まだ午前3時前やった。

最初は、新聞配達員が新聞を玄関ポストに投函しとる音かとも思うたが、それにしては執拗(しつよう)で長すぎる。

オオサキは、「一体、何しとんねん」と思いながら布団から出て、その玄関口の見える廊下に出た。

「な、何や!! お前は誰や!!」

照明もない玄関口に、白い半袖シャツを着た痩せた長身の男が、まるで幽鬼のような雰囲気を漂わせて突っ立っているのが見えた。

瞬間、オオサキは「押し込み強盗」やと思うたという。

それ以外に、鍵をこじ開けて入ってくる人間などいるはずがない。

オオサキは、即座にそう判断して台所に駆け込み、文化包丁を手にして再度、廊下に出た。

そのとき、その男は土足のまま上がろうとしていた。

「下がれ!! それ以上、こっちに来たら、刺し殺すで!!」

オオサキは、必死になって、その包丁を突きつけながらそう喚いた。

そして、実際に、その男が向かって来たら刺すつもりやった。

そうしなければ、こちらが殺されるかも知れんと考えた。

そのオオサキの気迫に気圧されたのか、その男は僅かに後ずさった。

「殺されたなかったら、今すぐ出ていけ!!」

その男には、オオサキが包丁を手に持っているのが見えとるはずや。

単なる押し込み強盗なら、そういう状況になったら一目散に逃げると思うのやが、なぜかその男は不気味に立ちつくしているだけやった。

暗闇に目が慣れるに従い、どうやらその男が日本人ではなさそうやというのが分かってきた。

南米系、それもブラジル人らしい感じのする若い男やと、オオサキは見た。

その彫りの深い瞳の焦点が合っていない。どこを見とるのか分からん虚(うつ)ろな目や。  

酔っぱらっとるのか、何かクスリでもやっているのか分からんが、そんな風に見えた。

それが、よけい不気味さを醸し出していた。

いずれにしても、これでは何を言うても言葉が通じそうにないし、男は突っ立ったまま動こうともせんから、どうしようもない。

埒があかんと思うたオオサキは、奥さんに「すぐ警察に電話しろ!!」と怒鳴った。

奥さんは震える手で携帯電話から警察に電話した。

その間も、オオサキは、そのブラジル人らしき男を正面から見据えていた。

油断すると、いつ襲いかかってくるか分からんという危惧がある。

見た目には武器を携帯しとる風はないが、こんな真似をするくらいやから、ナイフくらいは隠し持っているはずや。

そう考えて用心してなあかん。

変な素振りを見せたり、襲ってきたりしたら躊躇(ちゅうちょ)なく刺す。それくらいの思い切りがないと、やられるのはこっちや。

また、普段から、万が一のときには、それくらいの心づもりもできとるつもりやった。

しかし、そう考えれば考えるほど、心臓の鼓動が激しくなり、額からねばっこい嫌な汗が噴き出てくる。

オオサキ自身、刃物を持ってそれを人に突きつけた経験など、未だかつてない。

昨今、簡単に人を殺傷するという事件のニュースを目にすることが多いが、普通の人間はこのオオサキのように、そんなことは考えてもなかなかできるもんやない。

例え、このオオサキのように状況的には正当防衛が成立する要件があってもや。

人が人を殺傷するというのは、する側も相当の覚悟がいるし、恐怖も伴う。

できたらそんな風な事にはなりなくない。それが、普通の人間やと思う。

一週間前。

その公団住宅の近くの公園で休憩しようとしていたとき、剣道着をまとった一人の中年の男が竹刀で熱心に素振りをしているのを見かけた。

「ご精が出ますね」

ワシは、いつもそうであるように、その男にもそう言うて気軽に声をかけた。

それがオオサキやった。

営業員としての性(さが)と言うてしまえば、それまでやが、誰にでもそうするのが癖のようになっとるわけや。

「ええ、最近、あまりやってなかったので、身体がなまっているものですから」

そのオオサキも気軽な感じでそう返してきた。

ワシが、近くのベンチに腰を下ろすと、そのオオサキも疲れたのか、タオルを取り出しながら、その隣に座った。

ワシもその昔、柔道をやっていたので、ちょっとした武道談義に花が咲いた。

というても、お互いええ歳のおっさんやから、どうしても過去の話になりがちやがな。

それも、その本人が絶頂期の頃のな。

オオサキは、学生時代、剣道の全日本選手権にも何度か出場したこともあり、上位入賞したこともあるという。

「へえーっ、それは凄いですね」

これも、営業員の性で瞬時に、ヨイショする癖がついとる。というか、ほぼ条件反射みたいにその言葉が口をついて出る。

こういうことを言う人間は、間違いなく自慢したいから、このヨイショするというのは極めて効果的なわけや。

「私らのように町道場に通っただけとはえらい違いですわ」と、こちらを卑下することを言えばさらに、この手のタイプは気を良くする。

間違っても、「実は私も講道館の二段の免状を持っていて、高校時分、インターハイで準優勝したこともあるんですわ」などと、調子に乗って張り合うようなことを言わん方がええ。

例え、それが真実であったとしてもな。

事、営業する上での自慢話は何の役にも立たんと知っておくべきや。ヘタをすれば反感を買い、逆効果になる場合が多い。

この場合、ベストなのは、その自慢したい相手にとことん自慢させてやることや。

また、あえてそう言いやすい雰囲気を作ることも必要や。

それができれば、後は、ゆっくりその話を聞くだけでええ。それだけで、かなりの高確率で成約にまで漕ぎつけられる。

実際、このときもそうなったしな。

拡張員は、一歩でも町内を廻るときは、常に営業のスイッチをオンにしとく必要がある。

特にワシは、各家庭を廻っての勧誘には拘(こだわ)ってないから、よけいその気持ちが強い。

むしろ、それとなく接することができるのなら、そうすることの方に重点を置くように常に心がけとる。

その相手と世間話や雑談を交わして人間関係を作ることに、まず専念する。

それで様子を見て、客になると判断すれば勧誘するわけや。

その方が、各家庭を廻り「新聞屋ですが」と言うより成約率が高いというのを経験的に知っとる。

特に新聞営業にそれが言える。

たいていの人間は新聞くらい読むから、その目で見れば行き交う人すべてがその客となり得る可能性があるわけや。

営業とは、すべての状況、条件を生かし切ることやと常に思うとる。

それが、ワシの基本的な営業の考え方なわけや。

「ゲンさんは、最近あった無差別通り魔殺傷事件についてどう思われます?」と、オオサキが言い出した。

世間話としては、こういうのは多い。

「どうて、あんなのは無茶苦茶ですわな」と、ワシも一般的やが、素直にその感想を言う。

「私らの子供の頃には、考えられんかったような事件が最近多いですね」

「ええ、確かに」

「そういう通り魔が狙うのは、決まって、子供とか女性といった自分より弱い相手と相場が決まっています」

このオオサキというのは、相当な正義感の持ち主なのか、その言葉に怒気すら含まれていた。

「しかも、事件を起こしてから、『誰でも良かった』みたいなことを言って裁判の場で精神喪失を主張する輩には反吐が出ますよ」

「まったく、同感ですね」

ワシも、子供や女性、老人といった明らかな弱者を狙うという殺人犯は許せんという点では、このオオサキと同意見や。

過去、子供や女性を狙った卑劣な犯行については、旧メルマガの『第70回 新聞拡張員ゲンさんの裏話  ■くり返される悲劇!!広島小1女児殺害事件の現場では……』(注1.巻末参考ページ参照)や『第160回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■ネット世界の闇とそれに関わった拡張員』(注2.巻末参考ページ参照)で取り上げた事がある。

老人に関しても同じく『第118回 新聞拡張員ゲンさんの裏話  ■四国、新聞配達員、殺害事件について』(注3.巻末参考ページ参照)で言及した。

また、サイトのQ&Aにも『NO.56  小1女児誘拐殺人事件について』(注4.巻末参考ページ参照)で話したことがある。

それらの事件に共通しとるのは、その犯罪を実行する犯人自身が絶対の安全圏にいてて、それを実行しとるという点や。

彼らは口を揃えて「誰でも良かった」と言うが、それは「反撃して来ない相手なら」という枕詞があってのことやと思う。

本当に、世の中が嫌になって自分自身もどうなってもええのやったら、どこかのヤクザの組事務所にでも単身「殴り込み」でもかければ、「誰でも良かった」と言うのも、まんざら嘘やないとは思うが、そういうのは皆無やし、これからもないやろうと思う。

人を殺すことには何の躊躇もないが、自分にその危険がおよぶ、またやられるかも知れんという事は極力避けたいわけや。

そういう冷徹な判断や計画性のある人間が、自分のしていることが分からんほど精神が喪失しているはずはないと、個人的には思う。

もっとも、そういう犯罪を犯すこと自体、精神を病んでいるのは確かなのやが、それを理由にそういう輩を許していたら、社会の秩序は崩壊する。

「でも、日本の法律では、そんな殺人犯でも死刑になることは少ないでしょう?」

「そうですね……」

誰が決めたのか、一人の殺人は有期刑もしくは無期刑で、二人以上殺して初めて死刑の可能性があると、まことしやかに語られている。

また実際にも、それに則した判決を目にすることが多い。

卑劣な犯罪で人の命を奪う輩は生きている資格はない。というより、その時点で、すでに人ですらないわけや。

しかし、そんな人間にも人権があるという。法によって守られるべきだと主張する法律家や人権擁護団体も存在する。

それが、どうにも納得ができん。

ワシとオオサキは、そう言い合い、すっかり意気投合した。

「もし、もしもの話ですけど、そういう通り魔が目の前に現れたとして、その犯行を阻止するために、その犯人と格闘になって誤って殺してしまったら、いったいどうなると思います?」と、オオサキ。

「その状況にもよるでしょうが、たいていの場合、日本の法律では過剰防衛による傷害致死ということになる可能性が高いのではないでしょうか」

一般論としては、そうなるはずや。

「しかし、相手が何らかの武器を持っていて、子供や女性が襲われる寸前に、そうなったというのであれば、過剰防衛であっても、その勇気ある人間には杓子定規(しゃくじょうぎ)に罪を科せるべきではないと個人的には思いますけどね」

「まったく同感です。私が、今こうして竹刀で素振りの練習を再開しているのも、そういう、もしものときのためにと考えてのことなんですよ」

目の前でそういうことが行われそうになっていたとしたら、迷わず助けに入るとオオサキは言う。

その万が一のとき、いくら腕に覚えがあっても鍛錬不足では、その役に立たないからということらしい。

「鞘の中の刀は常に磨いておかなければ役に立たないということですよ。ただ、錆びてしまったかも知れない刀をいくら磨いても難しいかも知れませんけどね」と、オオサキは笑いながら言う。

このオオサキの考えには賛否両論あるとは思うが、そういう人間もいとるのやと広く世間に知らせるのも、ある意味、必要なことやないのかなとは思う。

自分は絶対に安全やと思うとる通り魔事件を実行しようとする人間も、そういうオオサキのような考えの人間と遭遇する可能性があるというのを知ることにより、一つ間違えば自身にも命の危険があると考えれば、その犯罪を思い止めさせることができるかも知れんしな。

ライオンが近くにおるかもと考えれば、キツネもウサギを襲う危険を冒さんのやないかと。

自分の身の安全を考えるような卑劣な通り魔には、それが抑止力になるのやないかというのが、ワシらの一致した結論やった。

結局、そのオオサキとは、その後、一時間ほど話が弾んだ。

そのオオサキからかかってきた、この緊迫した電話を無視するわけにはいかんかったわけや。

ただ、読者の中には、すでに警察にも通報しとるのに、何でワシにもこんな電話をかけてきたのかという疑問を持たれた人もおられると思う。

一つには、オオサキの奥さんが警察に電話して、数分後に催促の電話を再度したのやが、そのときその電話に出た警察の担当者から「今向かっていますが、何分、空を飛んでは行けませんので、もうしばらく待ってください」と返ってきた言葉がひどく冷たく聞こえたからやという。

人はこういう緊迫した状況下で助けを待つというのは、その時間が数倍にも感じられて精神的にも辛いものがある。

誰でもええから連絡できるところにはそうしたいという意識が働く。掴めるワラなら何でもええという気にもなるわけや。

そのワラがたまたまワシやったということになる。

さらに、オオサキは夜中とはいえ、そこら中に聞こえるほどの大声を半ばそれと承知して出しているのにも関わらず、この団地内の近所からは誰も助けに現れるどころか、様子すら見に来ようとせんという現実に、周りが一切、アテにできんと感じたというのもある。

オオサキは、どんなに周りに人がいていようが、最終的に頼れるのは自分自身しかないというのを、このとき嫌というほど思い知ったという。

都会に住み、周りに人が多いから大丈夫やという根拠は何もないのやと。

今回のようなケースで一番有効なかけ声は「火事やー!!」と喚くことなんやが、そこまでは、さすがに頭が回らんかったとオオサキは言う。

「それに、相手が外人と分かったので、ゲンさんなら話ができるのやないかなと思いまして」というのが、ワシを呼び出すことにした最大の理由やったと話す。

そのオオサキと意気投合したとき、ブラジル人などの外国人からも契約を貰うことがあり、簡単なあいさつ程度の言葉なら交わせるとワシが言うてたのを思い出したのやという。

旧メルマガ『第59回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■ 運動会はサンバのリズムに乗って』(注5.巻末参考ページ参照)の中でも、それに言及した話がある。

新聞拡張員というと、世間からは低俗な人間と見られやすいが、これはこれで結構、いろいろ勉強せなあかんことも多い仕事なんやで。

外国人といえども、日本にいる限りは日本の情報をほしがる人は多い。それの最も手っ取り早い情報ツールが新聞なわけや。

当然、日本の勉強を新聞でするという外国人も少なくない。

そんな外国人に新聞を売り込むには、その国の言葉を覚えて勧誘する方が圧倒的に有利やと思う。

例えばブラジル人の大半はポルトガル語を話すが、そのポルトガル語で話しかけるだけで、相手に与える印象度がまるで違うわけや。

日本人にとって、ポルトガル語というのは馴染みの薄い言語やさかい、それで話しかけられるとそれだけで相手を感動させることすらある。

もちろん、日本の新聞を読もうかというほどの外国人は、日常の会話くらいはできるから、別に日本語で勧誘しても良さそうなもんやが、そこは考え方の相違やな。

営業の仕事というのは相手の懐、特に心に飛び込んでいく姿勢がないとあかん。

そのためには、言葉が最大の武器となる。それが分かっとれば、自然とその外国語を覚えるということや。

もっとも、中には不純な考えでそうしとる者がおるのも否定はできんがな。

「エスクレーヴァ オ セウ ノメ、ポール ファヴォール」

これは、ポルトガル語で「あなたの名前を書いてください。お願いします」という意味の言葉になる。

これを言うて、日本に来てまだ間もないような日本語も満足に話せず、新聞も読むこともできんブラジル人に契約書を差し出しサインさせとった拡張員がいてたわけや。

完全に騙しや。もっとも、ビール券や洗剤を押しつけてやから、その場は何とかごまかせとったようやがな。

拡張員の中には、それをするために、必死にこういう片言のポルトガル語を覚えようとする者も少なくなかった。

そういう背景もあり、単に外国語が話せるというだけでは威張って自慢もできんが、純粋に営業のためだけに言葉を覚えようとする拡張員がおるのも事実なわけや。

一概に拡張員は低俗やと決めつけとんてほしいという思いがそこにある。それなりに勉強しとる者もおるのやさかいな。

オオサキの部屋の前に着いた。

中から、オオサキの話し声が聞こえる。

「ニホンでは、こんなこと、しては、だめよ」という妙な訛(なま)りと共に。

笑い話みたいやが、外人と話しとると、ついついこうなる日本人も多い。もっとも、今はそれを笑えるような場面やないがな。

オオサキは、どうやら、その男を説得することに方針を転換したようや。

ワシは、そっと扉のノブを回す。

鍵はかかってない。

一気に扉を開ける。

その玄関口には、オオサキが電話で説明したとおりの痩せた若い男が、きょとんとした顔で突っ立っていた。

ワシは、すかさずその男の腕を取り、素早く関節を極(き)めた。

男は、予想に反して抵抗らしき抵抗は一切せんかった。されるがままやった。

もっとも、こういう体勢になってしまえば、少々抵抗しても無駄やがな。

かなり酒臭い。酔っているというのはすぐに分かった。

さて、どうしたもんかと考える暇(いとま)もなく、5、6人の警察官が階段を駆け上がって来た。

「その男が侵入者です」

まだ、包丁を手にしたままのオオサキが、パンツ一丁の姿のまま玄関口からそう言う。

「あんたは?」

その男の腕をねじ上げとるワシに、駆けつけた警察官の一人がそう尋ねる。

「近所の者です」

「そうですか」

そう言いながら、警察官が二人、両側から抱えるように、その若い男の両腕を押さえた。

「おい、お前の名前は?」と、年輩の警察官が聞くが、その若い男は「ニホンゴ、ダメ」としか言わん。

「おい、誰か言葉の分かるやつ、おるか」

その警察官が、部下らしき若い警察官に向かって話すが、聞かれた方は首を横に振るばかりやった。

「あの、少しくらいでしたら……」と、ワシ。

「お願いできますか?」

「ええ、簡単な話くらいなら」

「それではお願いします」

「Quem é você? (あなたは誰?)」と、ポルトガル語で聞く。

すると、「Disculpe、Disculpe(すみません、すみません)」というスペイン語が返ってきた。

もっとも、そのスペイン語も酔っていて呂律(ろれつ)が回ってないから、その他の言うてる言葉の意味はほとんど分からんかったがな。

ただ、この男なりに大変な状況になったというのだけは理解したようやった。

「酔っているようで、今、この彼と話しても無駄ですね。酔いが醒めたとき、誰かスペイン語のできる通訳の方に話をしてもらった方がいいと思いますよ」と、ワシ。

「そうですか、ご協力感謝します」と、ワシに言ってから、その警察官はおもむろに時計を覗き込む。

「午前、3時27分。外国人男性1名、住居不法侵入により身柄を確保」と、ハンドマイクに向かって言う。

横で、それを記録しとる警察官もいてた。

その後、3台駆けつけたパトカーの一台に、その男を乗せて行った。

その後を追うように、事情聴取が必要やとのことでオオサキも一緒に警察に向かった。

後日、その全容が分かった。

男の名前は、ホセ。20歳。出身国はボリビア。日本に来て、まだ数ヶ月しか経ってないという。

親は、オオサキと同じ団地の別棟に5年前から住んでいて、その親から日本に呼ばれて来たということらしい。

その日、同年代の同郷の仲間数人とビールを7、8本飲んで、酔ってしまい、間違ってオオサキの部屋に入り込んだと、ホセは警察に説明した。

その説明に、オオサキは、「鍵はどんな方法を使って開けたと言うてるです?」と警察の担当者に詰め寄った。

オオサキ夫婦は絶対に鍵はしていた。というか、部屋の出入りには必ず鍵をする癖がついていたから、施錠せずに寝ることなどあり得ないと話す。

事実、その鍵をこじ開ける音でオオサキは目覚めたわけや。

すると、「持っていた自室の鍵をオオサキさんの部屋の鍵穴に突っ込んで何度か回したら開いたということのようです」と、担当者は言う。

「そんなアホな!!」

そんな簡単なことで鍵が開くとは、オオサキにはどうしても信じられんかった。

確かに、同じ団地内に住んでいるのなら、同じタイプの鍵を持っていたというのは頷けるが、それを突っ込んで簡単に開いたというのなら、鍵の意味がないやないかと思う。

「失礼ですが、鍵が完全に施錠されてなかったのでないでしょうか」と、その警察の担当者が言う。

こういった公団などでは良く、間違って他の部屋を開け、それで問題になって揉めて警察に通報してくるケースも多いという。

その場合は鍵をちゃんとしてなかったというのがほとんどらしい。

ピッキング(不法解錠)というのも考えられるが、それやとある程度、道具が必要になる。

ホセは、自室の鍵と財布以外は何も身に着けてなかっという。

鍵をちゃんとしてなかったと言われれば、オオサキの方でも「絶対した」とまでは言い切れんかった。

鍵をかけたのは確かやが、それが不十分やった可能性はある。

ホセの言うとおり、鍵穴に自室の鍵を突っ込んで開かんかったから何度もそれを繰り返したら開いたというのも、それなりに筋も通り説得力もある。

確かに、あのときも執拗に「ガチャ、ガチャ」とドアノブを回していた音が聞こえていたさかいな。

しかし、単に間違って入ったのやとすると、およそ30分近くもそのまま居座り続けたというのが疑問として残る。

泥酔しきっていて、前後不覚になった人間にしては、立っていた姿そのものはしっかりしてた。酔っぱらい特有のフラフラした様子もなかった。

ただ、オオサキが突きつけた包丁に動揺するとか、恐怖心を示すことなく、虚(うつ)ろに突っ立ってはいたがな。

そのホセの両親がやって来て謝罪したいということやったので、その警察署内で応じた。

オオサキも、その両親という人間は、団地の草刈り作業などで何度か会って話したこともあり知っていた。

日本語を流暢(りゅうちょう)に話し、まじめで勤勉そうやという印象が強くあったという。

それもあり、同じ団地内に住んでいてこれ以上、問題をこじらせるのも得策やないと考え「二度とこういうことのないようにしてくださいよ」と言って、オオサキはこの件を幕引きにすることにした。

今回、結果的には何の被害もなかったということで、警察の方でも、できればあまり事件化したくないという意図も感じられた。

それとなく、オオサキの告訴がなければ事件として扱わん趣旨のことを言われたさかいな。

オオサキにしても事を荒立てて得られるものは何もない。

それにしても、まさか、こんなことが自身の身に起きるとはオオサキは予想だにしていなかった。

しかし、今回の事によりいろいろ分かったことも多い。

結果から言えば、言葉の喋れん酔っぱらった外国人が間違えて部屋に侵入してきたというだけのことなんやが、それが、人に与える恐怖や緊迫感というのは相当なものがあると知った。

人は今回のような、ふいの訪問者というか闖入者(ちんにゅうしゃ)などに対して、普段からそれと用心することはまずないから、パニック状態になるもんやと。

相手の目的と正体が分からず、いきなりそういう状況に置かれるのやさかいな。

平時に考えられるものと咄嗟(とっさ)のそれとは大きく違うわけや。ヘタをすればその対応を間違えるケースも考えられる。

実際、怒りと恐怖から、オオサキはその侵入者を刺し殺すことを真っ先に考えたというさかいな。

冷静さを失っていたら、本当にそうしていたかも知れんと考えるだけで自分自身が怖かったとオオサキは後に話していた。

しかし、同時に相手次第ではやむを得んことやと思うとも。

その相手が本当に強盗目的で侵入した場合、家人に気づかれると殺害行為におよぶということも十分考えられ、あり得ることや。

そのときには、一瞬の躊躇が、自身のみならず家族の生死をも分けることになる。

ただ、いずれにしても、そうしてしまえば、その瞬間から、平穏な人生が一変するのは間違いない。

大々的なニュースにもなるやろうし、警察の取り調べや場合によったら裁判を受けるということにもなる。

事情が事情やから大した罪にはならんかも知れんが、それで人を殺せば、その事実はこれからのオオサキの人生に重くのしかかる。

また、そうなった場合、世間からどう見られるかという恐れもある。

あるいは、その結果、相手を傷つけただけの場合、それを恨みに思い復讐されるかも知れんというのも考えとかなあかん。

そういうことを避けるには、やはりしっかりした戸締まりが必要になる。

鍵の施錠は当然としても、ドアチェーンの徹底や補助キーの設置も考える必要がある。

洋画などを見ていると、三つも四つも部屋に鍵をかけて厳重すぎるほどの用心をしとる場面を良く見かけることがあるが、今のオオサキにはそれを笑うことはできん。

日本も間違いなく、そういう用心をせなあかん時代になったと認識しといた方がええのやないかと。

昔に比べて国際的になったのはええとしても、その分、外国人居住者の比率も増え、それに伴う犯罪の多様化や増加というのもある。

犯罪を犯す人間が一番悪いのは確かやが、細心の用心、注意を怠った方にも責任がある。

そういう認識を持たな、これからはこの日本でも生きていかれへんのやないかと思う。

しかも、こういう事件が起きても、いくら大声で周りに助けを呼ぼうが、喚(わめ)こうが、助けに来て貰える確率は極端に低いと思うてなあかんという寂しさもある。

昔の日本の至るところにあった村意識、長屋の助け合いといった古き良き時代の風情はすでになくなった、少なくなったと考えるしかない。

それなら仕方ないのかというと、必ずしもそうやないとは思う。

それは、日々の暮らし方、考え方一つで違うてくる。

隣近所との付き合いが希薄になったというのであれば、近所づきあいや連帯感を大事にすればかなり違うはずや。

もしくは、万が一のために駆けつけてくれる友人を近くに持つというのもええ。

もっとも、駆けつける方も危険が伴い躊躇するのは無理のないことやから、過度の期待はせん方がええけどな。

助けを求める方は、「何で来てくれへんのや、助けてくれへんのや」と思いがちやが、助ける側も危険を伴うわけやから、無理な期待はせん方がええ。

ましてや、それを恨みに思うべきやない。その人の善意に任せるしかないことやさかいな。

前回のメルマガでも触れたが、新聞販売店によれば、地域の安全のために仕事中でのパトロールを心がけとる所もあるから、そういう所と懇意にするも安心感を得るという意味ではええと思う。

実際、新聞配達員は夜中に新聞を配達するわけやから、新聞を購読しとれば、そういった不審者からの危険を避けられる可能性が、例え僅かであってもあるわけや。

無読に徹し、隣近所との閉鎖的な付き合いをするというのは、その人次第やから、それに対してどうこう言うつもりも脅すつもりもないが、そうすることの危険もあるのやというのを、この事で知ってほしいとは思う。

人は自分だけの力では生きていかれへん生き物やということをな。

せやからこそ人は集団で群れて生活しとるわけや。その集団の中で孤立するというのは、どう考えても得策やないわな。

それから1ヶ月後。

携帯からいつもの「世にも奇妙な物語」のテーマ曲が流れた。

オオサキからやった。

あれから間もなく、ホセとその家族は団地から引っ越して行ったという。

オオサキは、それがなぜなのか未だに良く分からんと訝(いぶか)しがっていた。

事件のことは、オオサキは隣近所に何も話してないし、団地内で話題になったという話も聞いていない。

オオサキ自ら、それを話題にすれば、「あれだけ大騒ぎしていたのに何で誰も助けに来てくれなかったのか」という不満を口にすることになる。

そうなれば、必ずしも良好とは言えん隣近所との付き合いが、さらにぎくしゃくする恐れがあると考えた。

それもあり、ホセの家族があの事件の影響で居たたまれず引っ越ししたというのは考えにくい。

理由はそれ以外にあるはずや。

あの事件にはワシらには分からん何か隠れた理由、事情が隠されとるのかも知れんという気はする。

彼らの引っ越しが、あの事件と、まったくの無関係とも思えんさかいな。

オオサキも、あのときのホセは本当にただ酒に酔っていただけなのかという思いがずっとしていたという。

もっとも、今となっては、すべてが憶測の域を出ることはないから何を言うても無駄とは承知しとるがな。



参考ページ

注1.第70回 新聞拡張員ゲンさんの裏話  ■くり返される悲劇!!広島小1女児殺害事件の現場では……
http://www3.ocn.ne.jp/~siratuka/newpage13-70.html

注2.第160回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■ネット世界の闇とそれに関わった拡張員
http://www3.ocn.ne.jp/~siratuka/newpage13-160.html

注3.第118回 新聞拡張員ゲンさんの裏話  ■四国、新聞配達員、殺害事件について
http://www3.ocn.ne.jp/~siratuka/newpage13-118.html

注4.NO.56  小1女児誘拐殺人事件について
http://www3.ocn.ne.jp/~siratuka/newpage10-56.html


ある読者の方から貴重なご意見、提案をして頂いたので、それを掲載する。


提案 こんなアイデアはどうでしょうか?

投稿者 Jさん 元新聞配達員  投稿日時 2008.10.24 AM 10:10


私が朝刊を配達していた頃、その配達中に、「呼び鈴を押すべきか否か」で悩んだことが数回あります。

例えば、経験は1回だけですが、鍵がささったままの玄関ドアを目にしたときがありました。

そのときは、たまたまドアポストがある集合住宅だったので、そこに鍵を落とし込んでおきました。(そこには、クルマの鍵など、複数の他の鍵がついていました。)

あと、駐車中のクルマの車内灯が点きっ放しというのも、意外に多いです。ひとたびバッテリーが上がると、たいへんな手間と出費を伴うことを知っていますので、「これは大変だ」と思うのが常です。

しかしその際、午前4時前後という、誰もが寝静まっている時間帯にインターホンや呼び鈴を押して家人を起こすというのは、やはり非常識だよなと考えてしまい、結局、放置してばかりでした。

ただ、私はそれを逆手にとって、これを販売店のサービスに変えたら喜ばれるのではないかと考えたこともあります。

たとえば、上記のような具体例を挙げて、「お客様の家の外でこのような異常事態を見かけましたら、直ちにお知らせするサービスを展開中です。その際、深夜ではありますが、呼び鈴を押すか、または販売店から電話をかけさせていただくことでお知らせいたしますが。」ということを事前にお客様に伝えるのです。

それによって新聞の付加価値を高めるという営業戦略です。

異常な事態というものは滅多には起こらないので、たとえこういったサービスを始めたとしても、配達員にそれほど負荷は掛からないはずです。(せいぜい、その場から店長に携帯で連絡を取るくらい。)

一度、お知り合いの販売店さんに、このアイディアの是非を聞かれてみてはいかがでしょうか?

また、その店独自のPRチラシを製作しておけば、拡張員にとっても、そのサービスの説明が、拡材を配るのと同じような効果をもたらすのでは? と期待するのですが。


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