メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー
第205回 ゲンさんの新聞業界裏話
発行日 2012.5.11
■新聞とは何か その2 新聞の理念と使命、存在意義について
前々回のメルマガ『第203回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■新聞とは何か その1 報道の裏側に見え隠れするもの』(注1.巻末参考ページ参照)で、新聞に対して批判的な論調に終始していたという印象を読者の方々に与えたようや。
そう受け取られても仕方のないものやったと思う。
しかし、それでも尚、ワシらは新聞が有意義で必要なものであることには違いないと考えていると、ここではっきりと言うておく。
そう信じているからこそ、新聞社には道を誤って欲しくないという思いを込めて敢えて批判的なコメントをしたわけや。
最後に『もともとの新聞の素晴らしい理念と意義だけはなくして貰いたくないと』と言うたのは、そんな気持ちの表れで新聞を貶めるつもりからではない。
ワシはその新聞を売っている身やから、新聞を貶めても何の益もないさかいな。
新聞勧誘は訪問販売に分類されるが、その存在意義、功績、商品の確かさなど、どれをとっても胡散臭いと言われがちな訪問販売の他の商品と比べて、最も間違いのないもので、社会に貢献してきたものやと確信しとる。
訪問販売が主体の販売形態で、新聞に匹敵する他の商品はないと考える。
ただ、その販売方法については一部の悪質な拡張員、販売店の従業員たちによる無法な行為があるのは事実や。
あってはならんことやがな。
その気持ちがあるからこそ、このメルマガやサイトのQ&Aで悪質な勧誘に対して批判して、その対策を数多く提示してきたわけや。
少しでも、そういうのを減らしたいという思いで。
これからも、その姿勢に変わりはない。
新聞の理念、使命とは何か。
これについても前々回同様、そもそも論になるが話しておきたいと思う。
世間一般にはあまり知られていないようやさかいな。
どうも新聞は、ええ事も悪い事も自らに関する情報を報道する力に欠けとるようや。
日本新聞協会が提唱する「新聞倫理綱領」(注2.巻末参考ページ参照)というのがある。
国民の「知る権利」は民主主義社会をささえる普遍の原理である。この権利は、言論・表現の自由のもと、高い倫理意識を備え、あらゆる権力から独立したメディアが存在して初めて保障される。
新聞はそれにもっともふさわしい担い手であり続けたい。
おびただしい量の情報が飛びかう社会では、なにが真実か、どれを選ぶべきか、的確で迅速な判断が強く求められている。
新聞の責務は、正確で公正な記事と責任ある論評によってこうした要望にこたえ、公共的、文化的使命を果たすことである。
編集、制作、広告、販売などすべての新聞人は、その責務をまっとうするため、また読者との信頼関係をゆるぎないものにするため、言論・表現の自由を守り抜くと同時に、自らを厳しく律し、品格を重んじなければならない。
自由と責任
表現の自由は人間の基本的権利であり、新聞は報道・論評の完全な自由を有する。
それだけに行使にあたっては重い責任を自覚し、公共の利益を害することのないよう、十分に配慮しなければならない。
正確と公正
新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追究である。報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。論評は世におもねらず、所信を貫くべきである。
独立と寛容
新聞は公正な言論のために独立を確保する。あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない。
他方、新聞は、自らと異なる意見であっても、正確・公正で責任ある言論には、すすんで紙面を提供する。
人権の尊重
新聞は人間の尊厳に最高の敬意を払い、個人の名誉を重んじプライバシーに配慮する。
報道を誤ったときはすみやかに訂正し、正当な理由もなく相手の名誉を傷つけたと判断したときは、反論の機会を提供するなど、適切な措置を講じる。
品格と節度
公共的、文化的使命を果たすべき新聞は、いつでも、どこでも、だれもが、等しく読めるものでなければならない。
記事、広告とも表現には品格を保つことが必要である。また、販売にあたっては節度と良識をもって人びとと接すべきである。
この「新聞倫理綱領」について理念だけは素晴らしいとケチをつけるのは簡単やが、何事も理念がなかったら話にならんさかい、これはこれで評価したいと思う。
ただ、理念や理想を貫くのは難しい。それをそれと伝えることもや。
見る人の角度、立ち位置次第でええようにも悪いようにも受け取れるさかいな。
新聞もその辺りはよく心得ていて『新聞はそれにもっともふさわしい担い手であり続けたい』、『なにが真実か、どれを選ぶべきか、的確で迅速な判断が強く求められている』と、新聞にも間違いがあるかも知れないと予防線を張っとるわけや。
暗に理念どおりに行かないこともあると仄めかして。
世の中には絶対とか確実といったものはあり得ないから、ある意味、致し方ないかも知れないが、別の見方をすれば自信のなさが見え隠れしとるようにも思う。
『表現の自由は人間の基本的権利であり、新聞は報道・論評の完全な自由を有する』というのは、一言で言えば「報道の自由」を認めろということになる。
それが新聞各社にとって一番言いたい、守りたいことやと思う。
新聞各社は普段はライバル関係にあるためか、時折主張において意見が異なることもあるが、「報道の自由」が脅かされる事態になると一致団結する。
2006年に勃発した「新聞特殊指定の見直し問題」(注3.巻末参考ページ参照)では新聞各社が総力を挙げて反対のキャンペーンを張って運動しとったのが、そのええ例や。
その時には読者の方々からも多数の意見が寄せられた。(注4.巻末参考ページ参照)
その中に今回の話題に関して、一般読者の方から頂いた非常に興味深い意見があるので、改めてここでその紹介をしたいと思う。
その19 一般読者 Tさん
「ゲンさんの嘆き」は以前から見ておりますが、とてもすばらしいサイトだと思います。
私も、新聞拡張員の人やその他の件で複数回、販売店とトラブルになったことがあり、新聞業界には不審な印象を持っていましたが、「ゲンさんの嘆き」を見て、今までとは違った見方も持つようになりました。
私は、ゲンさんのような、興味深い意見を持ち、印象的な人物が、この一般社会に一般人として自分の身近にいるということに、とても感動しました。
そして、一般人の、その当人にとっては普通のことでも、他の人からすると、とてもめずらしかったり、面白い事柄であることを汲み取り、ゲンさんを多くの人に知らしめたハカセさんの見識に敬服いたします。
このサイト、メルマガが一回でも多く発行されることを願っています!
私は強引な新聞勧誘が起こる原因は再販制度にあると思います。新聞社、及びマスコミの究極的な本質は『営利』だと思います。(その事が悪いというのではありません)
再販制度は、新聞社が最も経費のかからず、最も最大の収益が上がることを目的に考えたものだと思います。
再販制度維持のためには一定数以上の購読数が必要→販売店に一方的な販売目標(押し紙)→積極的(時として強引な)セールス→それでも処理しきれず大量の残紙→損失は販売店に押し付け。
このような流れで、特に道義的におかしいと思うのは、普段社会正義を唱える大新聞社が、押し紙については知らん振りをきめつけることです。
これは、学校のクラスのなかでいじめが行われていて、みんなもそれをわかっているのに、いじめをやってるひとが口裏あわせなどをして、建前的に、いじめはなかったなどと主張するのと非常に似ていると思います。
このような事柄は、新聞社が、自らを営利企業であるという充分な自覚のもとに、最小の経費で最大の利益を上げるための方策として再販制度を維持しているのに、マスコミの公共性、文化の伝達などの美名を掲げて、再販制度という特権を手放さないように必死にもがき、そのために公正取引委員会が手を付けずにいた、しわ寄せだと思います。
新聞社が一般の営利企業ではなく、国民の知る権利を擁護する存在であると本当に主張するのであれば、押し紙や強引な勧誘の問題を自らの紙面において検証し、二度とそのような事が起きないように対策を講じ、世間に公表すべきでしょう。
それをやらない以上、新聞社は通常の営利企業であり、そうであるならば、再販制度という特権を剥奪して、その上で、誰に批判されることもなく堂々と営利活動をすべきでしょう。
もしくは今までの紙面に本当に自信があり、宅配制度にも購読者がその価値をを認めてきたというならば、必ず、今まで通りかそれに近い数の購読者が確保できるはずですし、宅配制度も実需がある限り必ず支持されるはずですので(特にコンビニや駅の売店がない地域では)、そもそも新聞社が憂慮することではないことだと思います。
このような単純な正論が実現できないとするならば、結局のところ、新聞社、および新聞業界は社会正義を唱えながら、弱いものいじめに酷似したシステムのうえに成り立っている矛盾の多い産業だと見ざるを得ませんし、実際に再販制度廃止を容認する社会の声も高まって行くことでしょう。
これは6年も前に寄せられたご意見やが、現在の新聞社に対しての警鐘にもなるのやないかと思う。
新聞は好むと好まざるに関わらず、それ自体に力がある。人の考え、社会の進む道を左右するほどの力と言うてもええ。
それは、ええ方向にも悪い方向にも導ける力があるということや。
それを十分に心して欲しいと思う。
『新聞は歴史の記録者であり』というのは、まったくそのとおりで異論はない。
ワシは、この一事だけを取っても新聞は意義深く、価値のあるものやと考えとる。
少なくとも新聞が広く汎用されるようになった明治以降の日本の歴史を語る上で、新聞はなくてはならないものやと思う。
『記者の任務は真実の追究である』というのは、そうあって欲しいし、多くの新聞記者さんたちはそうやと信じとる。
ワシは現場主義者で現場しか知らんさかい、よけいそんな気持ちになるが、現場で走り回られている記者さんたちのご苦労には相当なものがあるやろうなというのは、それなりに分かるつもりや。
新聞記事にするには何より真実が必要になる。また、それが要求される。
ただ、現場の記者さんたちが苦労して集められた記事がそのまますべて報道されるわけではない。
記者さんたちが、いくら必要と考え真実に迫った記事を送ったとしてもボツにされることはいくらでもあると聞く。
それには紙面の都合というのもあるし、編集部の考えや裁量というのもある。
新聞紙面に意見や主張が反映されるのは、主に記事を編集、取捨選択する編集部にあると。
それにより報道のスタンスが決まると。
それがために『報道は正確かつ公正でなければならず』ということに疑問を呈する人もおられるわけや。
人には、それぞれの考え方、意見、主義主張というものがある。それを特定の人間の考えや裁量に任せて大丈夫なのかと。
『あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない』や『新聞は、自らと異なる意見であっても、正確・公正で責任ある言論には、すすんで紙面を提供する』という新聞の理念どおりにはなっていないのではないかと。
正直、ワシらも最近の新聞報道を見ていると、疑念を挟みたくなるような記事を見かけることが増えたように思う。
震災後の政府や電力会社のええ加減な情報をそのまま一方的に記事にしていたのもそうやし、小沢一郎氏のえん罪に等しい虚偽記載報道についてもそうや。
多くの人が、その新聞報道に流されているように思えてならん。
つい先日も、サイトのQ&Aに『NO.1128 貴兄が小沢一郎を擁護する根拠が知りたい』(注5.巻末参考ページ参照)というのがあった。
かなりの年輩と思われる高圧的な人からのものやったが、その人を責める気にはとてもなれない。
おそらくは、その人にとっての情報源は新聞が主体で、その報道を信じるあまり、たまたま何かでワシらのメルマガを見られて言わずにはおられなかったのやろうと思う。
新聞報道にもおかしな点があるということが分かって欲しくていろいろ言うたが、どこまで通じているのかは定かやない。
ワシらがいくら正論を吐いたつもりでいても世間は新聞紙面に書かれている事の方を信用するさかいな。
新聞報道にも間違いはある。理屈では分かっていても、なかなかそう理解するまでにはいかんのやろうと思う。
事ほどさように、今以て新聞の影響力は大きいと言わざるを得ないということやな。
ただ、救いはある。
それはネットでの新聞記事は一定の期間がすぎると消えるが、ワシらの記事はサイトを閉じない限り残るという点や。
例えば小沢氏の件に関しても、今は新聞の論調を信じとる人でも何年か後に、ワシらのメルマガの内容を見られた場合、「ああ、そういうことやったのか」と気づかれることも期待できる。
小沢氏の無罪判決が出ることは2年前から疑わんかったさかいメルマガでもそう言い続けてきた。
小沢氏を快く思っていない連中が小沢氏の政治力を弱めるためだけの目的で控訴するよう仕向けるやろうということも想像できた。
本当はもうこの問題に終止符を打ちたいのやが、将来的には小沢氏への報道が必ずや新聞の汚点になると確信しとるので、警鐘を鳴らす意味でも、この問題を事ある事に語っていくしかないと考えとる。
一刻も早く、その愚に気づいて欲しいという思いで。
おそらく、それは現時点においては巨大ダムに開いたアリの一穴程度のものかも知れんが、存在し続けることで確実にその穴は広がるし、目立つ。
事実、何年も前にメルマガで話したことに対する感想が未だに届くさかいな。
ついでやから、「新聞倫理綱領」と同じページ記載されている「新聞販売綱領」についても触れとく。
新聞販売綱領
販売人の責務
新聞が国民の「知る権利」にこたえ、公共的・文化的な使命を果たすためには、広く人々に読まれることが不可欠である。
新聞販売に携わるすべての人々は、それぞれの仕事を通じ、民主主義社会の発展に貢献する責務を担う。
戸別配達の堅持
新聞は読者のもとに届けられてはじめて、その役割を果たすことができる。
新聞がいつでも、どこでも、だれもが、等しく読めるものであるために、われわれは戸別配達を堅持し、常に迅速・確実な配達を行う。
ルールの順守
新聞販売に携わるすべての人々は、言論・表現の自由を守るために、それぞれの経営の独立に寄与する責任を負っている。
販売活動においては、自らを厳しく律し、ルールを順守して節度と良識ある競争のなかで、読者の信頼と理解を得るよう努める。
読者とともに
新聞は読者の信頼があってこそ、その使命をまっとうできる。販売に携わるすべての人々は、読者の期待にこたえつつ、環境への配慮や地域貢献など、新しい時代にふさわしい自己変革への努力を続ける。
この中に『販売活動においては、自らを厳しく律し、ルールを順守して節度と良識ある競争のなかで、読者の信頼と理解を得るよう努める』ということがサラッと記されているが、現実問題としてそうあることには難しい部分が多い。
言うてることは、そのとおりなんやが、『良識ある競争』というのが、どの程度のことを言うてるのかというのは個人差もあり、かなり捉え方が違うと思う。
基本的には勧誘で人に迷惑をかけないということになるのやろうが、その迷惑というのも人によりそれぞれや。
訪問して悪態をついたり、トラブルになったりするのは論外やが、単に新聞勧誘に訪れたというだけで迷惑やと思われるケースもあるわけで、それではどうしようもない。
新聞勧誘はそうする以外方法はないさかいな。訪問営業が禁止という法律でも作られん限り、ただひたすら訪問するしかない。
新聞は売り込まん限り売れんというのは現実やさかいな。ただ待つだけの営業になったら、ほぼ間違いなく新聞は廃れる。
考えてみて欲しいが、駅売りやコンビニの店頭販売で売れている新聞は全体の5、6%しかないんやで。
それも駅売りやコンビニの店頭に配達された部数で実売部数となると、かなり低いものになる。その確かな数字までは分からんがな。
新聞の電子版においては、まだ始まって間がないということがあるのかも知れんが、新聞の発行部数の1%にも満たんのが現実で、今後も伸びる可能性は限りなく低い。
誰かが理想だけでは飯は食えんというようなことを言うてたが、いくら立派な理念を掲げていても、それだけではあかんということや。
新聞の理想と理念を実現するためには、とにかく訪問販売、勧誘で売り続けるしか手はない。
それが現実であり、事実やと思う。
もっとも、訪問営業が全面禁止ということにでもなったら新聞に限らず日本の企業の多くがやっていけんようになると予想されるがな。
経済そのものが立ち行かんようになるやろうから、その心配はまずないやろうと思う。
参考ページ
注1.第203回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■新聞とは何か その1 報道の裏側に見え隠れするもの
注2.新聞倫理綱領
注3.第85回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■新聞特殊指定について
注4.ゲンさんのお役立ち情報 その4 新聞特殊指定についてのアンケート結果情報
注5.NO.1128 貴兄が小沢一郎を擁護する根拠が知りたい
ゲンさんの新聞勧誘問題なんでもQ&A選集 電子書籍版パート1
2011.4.28 販売開始 販売価格350円
書籍販売コーナー 『新聞拡張員ゲンさんの新聞勧誘問題なんでもQ&A選集』好評販売中