メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー

第212回 ゲンさんの新聞業界裏話

発行日 2012.6.29


■拡張の群像 その9 危険な美人新聞拡張員ハルカに恋して


ススムは新聞拡張員の仕事を選んで正解やと思った。

正直、求人広告にあった「S情報サービス株式会社」に面接に行くまでは迷っていた。

仕事内容は「新聞営業」ということだったが、ネットで調べているうちに、それが俗に「新聞拡張員」と呼ばれているあまり評判の良くない仕事だということが分かったからや。

ススムはまだ25歳になったばかりやが、なかなか仕事が決まらなかった。

これはと思う仕事には応募者が殺到する。たった1人の求人募集に2、30人もの人間が面接に訪れるというのは、それほど珍しい光景でもない。

ススムは数ヶ月前に勤めていた会社が倒産し、雇用保険の受給期間も終わり、焦っていた。

何とか早めに仕事を見つけなければ住んでいるマンションの家賃すら払えなくなり、追い出される。

ヘタをすればホームレスになりかねない。仕事を選り好みしている余裕はなかった。

ススムは意を決して「S情報サービス株式会社」に面接に行った。

面接場所に指定された会社に行くと、普通のビルの一室にある会社で、どこにでもあるような小綺麗な事務所という雰囲気の所やった。

当初、予想していたような胡散臭さは感じなかった。

面接時間が指定されていたためか、ススムが行った時には、他に面接希望者が1名いただけやった。

面接の結果は合格。条件は、最初の研修期間の3ヶ月間は、基本給15万円+歩合給+各種手当てがあるという。

会社の面接担当者の話やと、ススムと同じ年頃の者で、手取り30万円程度が平均的な給料とのことだった。悪くはない。

翌日から早速、現地での研修やという。

指導員にはハルカという、どう見ても20歳そこそこの若い女性がついた。

しかも、女優の黒木メイサ似の超美人やった。気の強そうな雰囲気もどことなく似ている。ススム好みのタイプやった。

それが、ススムが、新聞拡張員になることを選んで正解やと思った理由でもある。ほぼ一目惚れに近かった。

ススムが配属されたチームのタハラという主任が言うには、「彼女は社内でもトップクラスのセールス」ということやった。

そのためもあるのか、タハラという主任はハルカに対して、「それではハルカさん、よろしくお願いします」と妙に恐縮していて、まるで腫れ物に触っているかのような感じにススムには見えたという。

それに対して、ハルカは「分かりました」と、そっけなく答えただけやった。

ススムには、それすら格好よく映った。

本来、タハラの方がかなり年上で上司やから、もっと命令口調でもええはずやが、そうできない雰囲気、オーラのようなものをハルカはその身に漂わせていた。

後になってハルカという女性の正体を知って、それは当然、さもありなんとススムも納得することになる。

腫れ物に触るように接していたのやなく、本当に腫れ物そのものやったと。それも、この上もなく危険な腫れ物だったと。

事務所で朝礼が済むと、ススムはハルカの運転する乗用車で、今日の入店先、K新聞販売店に向かった。

今日1日はハルカと二人きりと知り、よけいススムは浮き浮きとした気分になっていた。まるでデートでもするかのように。 

目的地であるK新聞販売店には昼すぎに着いた。

「おはようございます」と、ハルカは如何にも慣れたという感じで店内に入って行った。

「おはよう、ハルカさん」

「入店準備できてます?」
 
入店準備とは新聞販売店が拡張員を迎え入れる際、やっていなくてはならないことである。
 
まず、人数分の契約帳の用意。拡張禁止などの通達事項の書類作成。入店する拡張員がバイクや自転車が必要だと言えば、販売店の責任で、ちゃんと整備したものを貸し与えなくてはならない。

ハルカたちの場合、今日は自家用車で廻るから、それは必要ないと断ってはいたが。

「できてますよ。拡材はビール券でいいですか」

全国紙の中には「金券禁止」ということで拡材にビール券を使わせない販売店もあるが、このK新聞販売店では、その規制は特になかった。

「いいわ」

「何軒分くらい必要?」
 
これは何軒の契約が取れるのかと尋ねているのと同じである。

「そうね。私は10軒分で、彼は初日だから5軒分ほどでいいわ」
 
ハルカは、さらっとそう答える。通常の拡張員で1日10本の契約を上げられる者は少ない。

もっとも、今日が初日のススムにとって、特にそれが凄いことだとは、この時には考えもしなかったが。

「はい、これが今日行ってもらうM団地の住宅地図」
 
店長のタケダがそう言って手渡したのは、コピーされた住宅詳細地図だった。

その住宅詳細地図には家の所有者の氏名がすべて載っていて、赤やらオレンジで色分けされていた。

赤で塗り込まれているのが「現読」で現在購読中の顧客。オレンジ色が「約入り」と呼ばれている契約済みの家。その両方には勧誘に行くなという印である。

それ以外の白い部分の家を叩け、訪問しろいう意味で、住宅詳細地図のコピーを渡しているわけである。

ちなみに白い部分を訪問勧誘することを業界では、「白叩き」と呼んでいる。

それで一応、入店手続きが終わった。拡張員は、指定された新聞販売店に赴いて入店手続きをした者しか、その日の営業ができない決まりになっている。

「ハルカさん、終わりは?」

「夜の七時にするわ」
 
拡張の終了時間というのは、拡張員および販売店の事情がそれぞれあるから決まった時間があるわけではない。

たいていは、その場の責任者の意向で決められることが多い。それもありハルカに打診したわけや。

K新聞販売店を出て目的のM団地に着いたのが午後1時前頃やった。

「食事の前に、団地の中を簡単に見て廻るわね」と、ハルカ。

「はい」と、ススムが答える。
  
M団地の外周は約五キロメートル。住宅数は二千戸余り。この辺りの住宅街としては平均的な広さと規模である。

道幅もそこそこ広く、きちんと整地されていて碁盤の目のように整然と住宅が建ち並んでいる。

所用時間15分余りで団地内を廻った。
 
その後、二人はM団地のメイン通りにある喫茶店に入った。

ハルカは、K新聞販売店のバンクに来ると、いつもここでピラフやカレーライスなどの軽い食事を摂るのだという。

ススムもハルカと同じピラフを注文した。

「どうススム君、団地内を見て廻って何か感じた?」
 
食事が来るまでの手持ち無沙汰もあったのか、ハルカがそう質問してきた。

「テントで囲まれた家が目立ちましたね」
 
10数戸ほど、テントで囲まれた家があった。それが多いのか少ないのかはススムには分からないが、目立ったのは確かやった。

「あれは外壁塗装工事中の家なのよ。他には?」

「意外と、どの家も新しくて綺麗でしたね」
 
この辺りの団地は20数年前に建てられた家が多いということやったが、多くの家は綺麗に手入れされていて、中には新築と変わらないように見える家が何軒もあった。

もっとも、新築の家も最終工程で同じような外壁塗装を施すわけやから、古い家でも同様の外壁塗装をすれば新築同然に見えるのは当然と言えば当然やが。

「そうね。それから何が分かる?」

「何が分かるかと言われても、普通のことだと……」

「持ち家を綺麗にするために外壁塗装をすることが普通だと考えているようでは駄目よ。それでは新聞勧誘のプロとしてやって行けないわよ」

「……」
 
ハルカが言いたいのは、なぜ、団地の住人たちが、まるで競うように外見を綺麗にしているのかという点やった。

見栄で外壁塗装しているというのは普通に考えられることだが、その見栄を引き出している連中がいる。

外壁塗装業者の営業マンたちが、そうや。
 
外壁塗装工事中の家が多いということは、取りも直さず彼らの勧誘営業に落ちた人間が多いということを意味する。

「つまり、ここには勧誘営業そのものに乗りやすい人たちが多いということよ。もっと言えば勧誘に弱い人たちってことになるわね」

「なるほど。ということは、テントで囲まれた外壁塗装工事中の家を攻めれば勧誘に弱いから契約が取りやすいということですか?」

「ピンポーン、正解と言いたいところだけど、少し違うわね」

「どういうことです?」

「外壁塗装工事中の家は吹き付けにコンプレッサーを使うから、発電機のエンジン音やコンプレッサーの音がうるさくてドアホンの音自体がお客に聞こえないこともあるから、訪問してもなかなか出て来ないのよ。それに工事中に行くのは匂いもするし、塗料が服に着くと汚れるから嫌よ」

「だったら、どうしてそんな話を先にするんですか?」 

「その話を先にすれば、他の狙いの家が分かるでしょ」

「あっ、そうか! 外壁塗装工事後の比較的綺麗な家を探して勧誘すればいいということですね」

「そのとおり。外壁工事だけではなくて、屋根工事でも車庫やベランダなどのエクステリア工事でも同じよ。殆どがリフォーム業者の勧誘でそうしている家ばかりだから」
 
そこまで考えていたのか。
 
ススムは、新聞の勧誘というのは胡散臭い「おっさん」たちのする仕事だとばかり思っていたが、なかなかどうして奥が深くて面白そうだと思った。

そして、俄然、やる気も出てきた。

「今日は水曜日だから、水曜日に休みの仕事って何かしら?」

「僕が知っているのは不動産屋くらいですが……」

「そうね。住宅展示場とかアパートの賃貸業者の多くが休みだからね。他には歯科医院などの個人病院、デパート関係や水産商品を扱っている会社、レストランなどの飲食店も休むケースが多いわね。それと水曜日限定ということじゃないけど、自営業者とか警察官、消防署員、サービス業や工場勤務などのシフトで休日にしているケースもあるわ。有給休暇を取っている場合とか、年金暮らしで無職という人も在宅しているわね。もちろん専業主婦もね」
 
それらのことから総合すると、このM団地で平日、最も在宅率が高いのが水曜日やという。全国的にも、その傾向が強いと。

新聞勧誘は当然だが、客が在宅していないと仕事にならない。そのためには地域の状況把握は欠かせないという。 

注文したピラフを平らげ、食後のコーヒーを飲んでから二人は仕事を開始することにした。ススムは武者震いしている自分自身を感じた。

「初めのうちは私のやり方を見ていて」

「一緒に行って後ろで黙って見ているんですね」

「それは駄目よ。新聞勧誘は一人で叩く(訪問)のが基本だから」
 
二人での勧誘は、対面営業では御法度だという。相手を用心させるだけにしかならないからと。

「でも、それでは、どうやってハルカさんのやり方を見るんです?」

「これよ」

「携帯電話?」

「そう。ススム君の携帯につないだままにしておくから、スピーカーホンにして私のやり方を聞いてて。録音しておけば後で勉強になるかもよ」

なるほど。そんな手があったのか。

「ただし、何があってもススム君は絶対に喋っちゃ駄目よ」

「分かってますよ」
 
そこまで子供扱いしないで欲しいと思ったが、ハルカがそう釘を刺したのにはわけがあった。

実際、ススムは何度も声を発しそうになったからや。こう言われていたことで、結果的に我慢することができたさかいな。
 
ハルカの指示で、目的の家から少し離れた所に車を停めて待機した。
 
ハルカが向かった家には乗用車が一台停まっている。離れた場所からでもリフォーム直後というのがわかる。

外塀がやけに光っていたからだ。それは塗料が渇いた後に仕上げに塗布するクリアコートのせいやった。

ハルカは外塀を指で軽く触った。

「塗装後、一週間以内といったところね」
 
ハルカの抑え気味な声がスピーカーホンから流れた。
 
ハルカは表札の名前を確認してから、インターホンを押した。
 
しばらくすると、50歳前後の体格の良い男が出てきた。旦那のようである。

「はじめまして、ヤマダさん。お忙しいところ、失礼します」
 
「リフォームの勧誘か。それだったら先週、外壁塗装を済ませたばかりだから無駄だ。1ヶ月前ならまだ間に合ったかも知れんがな」

「そうですか、それは残念……、なんて嘘です。私はリフォームの勧誘じゃありません。すぐ近くのK新聞販売店の者です」

「新聞屋?」
 
ヤマダは、ちょっと意外だという表情をした。建築リフォームの勧誘に若い女性勧誘員というのは多い。

このヤマダのように男が対応した場合、「後で詳しく説明しますのでご都合のよろしい時間を仰ってください」と言えば、アポイントメントが取りやすいからである。

こういうのを俗に「アポ穣」という。
 
ヤマダは、その類だと思った。前回のリフォーム工事もそれで、鼻の下を伸ばしたばかりに考えてもいない外壁塗装工事をする羽目になったという経緯がある。

「ええ。皆さんに、よく言われるんです。そんなに美人で若くて可愛いのに、なぜ新聞の勧誘員をしてるのかって」 
 
確かに、美人で若くて可愛いのは確かだが、そこまで自分で自慢げに言うかと、スピーカーホンから流れるハルカの声を聞いていてススムはあきれた。

「何でや?」と、ヤマダ。

「実は、父親が博打に手を出してヤクザな金融屋から多額の借金をしまして、その返済のために仕方なく無理矢理、働かされているんです」と、ハルカ。
 
スピーカーホンから、そんな話が聞こえてきてススムは耳を疑った。

声を出すなと言われているが、これでは本当に声が出ない。いくら何でも、こんなバカな作り話は誰も信じないだろうと思った。

「そうか、それは大変やな」
 
信じる人間がいた。それが信じられない。

「玄関先では何やから、中に入って。外は暑いし」

「それでは、お言葉に甘えてお邪魔します」
 
玄関の閉まる音がした。

「ちょっと上がって冷たいジュースでも飲むか?」 

「ありがとうございます。それでは遠慮なく戴きます」
 
ハルカは、玄関横の応接室に通された。

応接用のソファーに座って待つようにハルカに言ってから、ヤマダは台所に向かった。玄関前の廊下の突き当たりが、そうである。
 
ハルカは、室内を物色した。これは営業員としては必要なことで、家の中には客の情報が詰まっているから、チャンスがあれば、どんな些細なことでも見逃してはならない。
 
まずはブックスタンドの中の新聞を見た。他紙を購読しているというのは、販売店から渡された住宅詳細地図で、この家が白と確認していたので分かっていた。

再確認をしたにすぎない。万が一、販売店の人間が色を塗り忘れていて現読だった場合、無駄骨になるから、その確認は怠ってはならない。
 
応接用のソファーは革張り。小さめのセンターテーブルとコーナーテーブルも木製の高級品だというのが一目で分かる。

洋酒棚にはロイヤル・サルートやジェムソン、俗に「ジョニ金」と呼ばれるジョニーウォーカー・ゴールドラベルなどの高級ウイスキーやレミーマルタン、カミュ・ナポレオンといった高級ブランデーなどが見える。

「相当に見栄っ張りの警察官ね」と、ハルカは携帯の入ったショルダーバックに口を近づけて押し殺した声で、そう言った。

警察官? 何でそんなことがわかるのか。 
 
ハルカは、すぐにススムが疑問に思うであろうことに対する解説をした。 

「壁一面に、これ見よがしの警察の表彰状が、たくさんかけてあるわ。皆、署長名ばかりだから大したことはないけど、警察関係者以外の知人には自慢できるわね。ロクな男ではないけど、私たちにとってはいいカモよ」
 
警察官は長く勤めているだけで表彰状の類は多く貰えるという。

俗に「即賞」と呼ばれる警察署長名の表彰状がその最たるもので、かなり乱発されているということである。

「即賞」の多くは所属の幹部上司の推薦で決まるから「頑張っているのを認めてるよ」という思いを部下に示す意味合いが強い。

要するに部下を操るための警察のアイテムみたいなものである。実際、そのために職務に忠実な警察官もいるわけだから、それなりに効果的なものでもある。

ただ、その立派な賞状とは裏腹に副賞の報奨金は数百円程度しかないとのことやがな。  

ハルカがカモだと言うのは何となく分かる。

新聞の勧誘員と知ってジュースまで与えようというくらいだから、苦労しなくても契約できそうに思えるからや。

しかし、「ロクな男ではない」と言う意味がよく分からない。

「カモが帰って来たわ」
 
ハルカは廊下の跫音で、そう察知した。

「コーラしかなかったけど、いいかな?」
 
ヤマダは、そう言いながら応接室のドアを開けてグラスに氷の入ったコーラをハルカの前に置いた。

「十分です。ありがとうございます。この暑さですから、本当に助かります」
 
ハルカは半分ほど一気に飲んで続けた。 

「警察の方だったのですね。それにしても凄い数の表彰状ですね」
 
この手の賞状を飾り立てる人間の多くは、それを褒めて貰いたい、認めてもらいたいという思いが強いから、すかさずその希望に沿えなければ一流の営業員とは言えない。

「まあ、大したことやないがな」と、ヤマダはまんざらでもない様子で謙遜して見せる。

「それより、親父さんがヤクザな金融屋から多額の借金をして、その返済のために仕方なく無理矢理、働かされているというようなことを言っていたが、そのために新聞拡張団にでも売り飛ばされたのか?」

「なぜ、そんなことが分かるんですか?」

「俺は警察官だぜ。今まであこぎな新聞拡張団の連中は数多く見ているから、ヤクザ顔負けの奴がいるのも良く知っている。何なら、俺が何とかしてやろうか」
 
ヤマダは、そう言いながらハルカの横に座り手を握ってきた。

「何をするんです。奥さんが帰っていらしたら怒られますよ」

「心配いらん。家内は仕事で夜まで帰って来ないから」

「止めてください。こんなことをしたら立派な賞状に傷がつきますよ」

「そんなこと言わずに、いいじゃないか。別に減るもんじゃないし……」

ススムはハルカが襲われていると感じ車から飛び出そうとした。

その刹那、「い、痛っ、痛い! ま、参った、は、離してくれ」というヤマダの悲鳴がスピーカーホンから聞こえてきた。
 
ヤマダはハルカに右手首の関節を極められていた。相手が若い女だと鼻を伸ばしすぎたために何の警戒をすることもなく無造作に手を出してしまった。

その手が瞬時に捻られて極められた。

こうなると如何に屈強な男といえど、そう簡単に返せるものではない。力づくで無理に返そうとすれば自身の手首の骨が折れることになる。

ハルカがかけているのは、そういう類の技である。
 
ハルカは、この手の技を子供の頃から修練して会得していた。

祖母のヒサエが楊心流薙刀術の達人だったということもあり、幼い頃から、半強制的にそれに関する技を教え込まれていたのだという。
 
楊心流薙刀術というのは総合古武術の流派の一つで、流派名にある薙刀のほか、剣、半棒、鎖鎌、長槍、短槍、柔術など多岐に渡り、古来より戦場での殺人術として最強の格闘術と言われてきた。

日本古武道界で、その名を知らない者はいない。 

「女は強くなくては生きてはいけない」というのが祖母、ヒサエの信条でもあった。

ちなみに、祖母のヒサエはS情報サービス株式会社の前身、「S企画」の創始者で業界では女傑として名を馳せていた。

現在のS情報サービス株式会社の社長、マサヒコは、そのヒサエの長男でハルカの父親でもある。そして、マサヒコも業界では、凄腕のカリスマ団長として有名な存在だった。

ハルカが若いにもかかわらず、類希な勧誘営業力を身につけていたのも、幼い頃から英才教育を受けていたからだということもあった。

もちろん、血筋に裏打ちされた素養もあったわけやが。

そして、社内の人間がハルカに対して腫れ物に触るような対応をしていたのは、その能力を評価して気を遣っていただけではなく、本当に腫れ物やったわけや。

昔の拡張団には荒くれ者が多かった。祖母のヒサエがその連中を統率していけたのは最強の格闘術を身につけていたことも大きな要因やった。

口で言うても分からん人間は殴り飛ばしてでも従わせるしかない。それができん団長は能なしとさえ言われていた時代をヒサエは生きてきたわけである。

伊達に女傑と呼ばれていたわけやない。

その祖母ヒサエの厳しい修練のおかげでハルカは子供の頃から、大柄な相手であっても滅多に喧嘩で引けを取ることはなかったという。

特に手に武器を持たせれば無敵やった。
 
薙刀というのは女のたしなむ武芸、スポーツという見方が強いが、もともとは奈良時代から平安時代において寺院の僧兵の武器とされていたもので、鎌倉時代末から室町時代にかけては戦場の主武器になっていた。

中国の長柄武器である大刀が日本に伝わったという説が根強い。三国志で人気の高い英雄の一人、蜀の関羽が持っていたことで有名な武器、青龍偃月刀もその一つである。
 
江戸時代、江戸幕府は武士による薙刀の所持を禁止した。薙刀を持って反逆された場合、幕府にとって危険だということで。

薙刀の所持禁止令により一時は武術としての薙刀の術法そのものの存続が危ぶまれたが、結局、薙刀術は武家の女子の武芸ならば良いという事で存続が許可されるようになった。

その影響で女性専門の武術として発達してきたという経緯があるためか、あまり特筆された存在にはなっていないが、薙刀術自体は、けっして女性のままごと武芸などではない。

ある意味、最強の武術だったからこそ、女性だけに許されたと言える。

当時から女性の格闘能力は男性に比べて評価は著しく低かったが、中には女性といえども、並の男の武芸者では足下にもおよばないほどの能力を秘めた使い手がいる。

そんなDNAと技術がハルカにも引き継がれとるわけや。

「離したら、襲ってきませんか?」

こう聞いたのはヤマダの反撃が怖いということより、再度の攻撃に対してやり過ぎることへの恐れからやったと、後にハルカが語っていた。 

「わ、分かった約束する。何もしないから離してくれ」

「ヤマダさんは警察の方なんですから、若い女性を家に引き込んで乱暴してはいけませんよ」
 
「分かった。それにしても可愛い顔をして、お前、とんでもない女だな」

ヤマダはさすがにハルカの力量を察知したようや。

「幼い頃から古武術を習ってましたので」

「古武術? なるほどな。もういい、帰ってくれ」

「そうはいきません。新聞の契約をして頂きます」

「何を言うか。客にこんな真似をして新聞を取ってくれだと?」

「私は強姦されそうになった被害者ですから、出る所に出てもいいんですよ」

「そんな戯言、誰が信用するもんか。俺は警察官だぞ」

「警察の上司の方も含めて皆さん信用されますよ。証拠もありますので。そうよね、ススム君。返事をして」
 
いきなりススムは、そう振られて驚いた。しかし、返事をしろということなら返事をするしかない。

「はい、すべて聞いていました」と言うススムの声が携帯電話のスピーカーホンから流れた。

「お前、嵌めたのか?」と、ヤマダ。 

「そんな、嵌めただなんて、人聞きの悪いことは仰らないでください。これは部下に営業の指導するために、お客とのやり取りを聞かせていただけですから。それに嵌めるも何も、ヤマダさんさえ、こんなことをしなければ何の問題もなかったことではありませんか?」

「すると何か、新聞を契約せんかったら、このことをバラすということか」

「契約されるか、されないかはヤマダさん次第です。私は何も強要するつもりはありませんので」

「……、分かった。新聞の契約はする。せやけど、今すぐは無理やで、6ヶ月先まで他の新聞の契約が残っているからな」

「その新聞が終わった後の1年契約で結構ですので」
 
ヤマダがしぶしぶ契約カードにサインした後、規定のビール券を渡した。それで、めでたく「約入り契約」が獲得できたことになる。
 
ハルカは、「どうも、ごちそうさまでした」と、何事もなかったかのようにコーラを飲ませて貰った礼を言って、ヤマダ邸を後にした。

「危なかったですね」
 
ハルカが車に戻った時、真っ先にススムがそう言った。

「別に危なくも何ともないわよ。いつものことだから」

「いつもって? こんなことよくあるんですか?」

「私って美人で魅力的でしょ。狙われやすいのよ。仕方ないわね」

「……」

「でも、そのお陰で契約が取れているわけだから贅沢言ってるとバチが当たるかもね」

「でも、それって危険すぎないですか」

「大丈夫よ。鼻の下を伸ばした助平になんかに、やられたりしないから」

「すると、いつもあんな調子で?」

「いつもじゃないけど、ああいう助平は多いわね」

「でも今のやり方は良くないんじゃありませんか。僕には暴力で脅して契約を取っているようにしか見えませんでしたけど」

「何を甘いことを言っているの。拡張員はね、契約になると思えばどんなことでも利用するくらいの気持ちを持たないといけないのよ。相手の弱みにつけ込むことくらい当然よ」
 
拡張員は自分に備わった外観、雰囲気、能力のすべてを武器にしなければならないというのはワシが普段から言うてることや。

ハルカの場合、それが美貌だという。

こちらから非のない客を脅すのは絶対に駄目だが、良からぬ思いで襲ってくる人間に対しては遠慮することはない。

また、か弱そうな女性と侮って良からぬ行為に及ぼうとすれば痛い目に遭うということを知らせるのも、結果としてその客のためになる。

それに懲りれば、その後、か弱き女性を対象にした性犯罪行為を犯すことを躊躇するようになるからだ。

その抑止になれば、世のか弱い女性を守ることにもつながる。

そうハルカは力説する。
 
その理屈はこじつけにしかススムには思えなかった。自分に備わった武器というのは、そういうふうに使うべきではない。

どんなに正当性があっても実力行使で相手をねじ伏せるという発想はヤクザと何ら変わるところがないとススムは思う。
 
ススムには、ハルカが食虫花に見えた。

ムシトリスミレ・セトスというスミレの花に似た美しい花に擬態する食虫花がある。

如何にも清純そうな雰囲気を装い、虫たちをおびき寄せて一気に襲って食う。

ハルカにも自身の美貌を餌にして、それに惹かれてふらふらと集まった者たちは獲物にしても構わない。そんな残酷さが窺われる。

ヤマダとのことはスピーカーホン越しでしか分からなかったが、警察官で体格の良いヤマダが簡単にねじ伏せられたというのは間違いない。

どんな技を使ったにせよ、並の女性にできる芸当ではない。食虫花を人間にしたらハルカになる。そうススムは思った。

「ススム君も似たようなことになるかも知れないから、そんな中途半端な気持ちでは駄目よ」

「でも、僕は男ですから大丈夫ですよ」

「分からないわよ。ススム君は、自分をあまり知らないみたいだから言っておいてあげるけど、あなたは甘いマスクの韓流スターぽいから年上の奥さんたちには好かれやすいはずよ。誘惑されるかも知れないわよ。ホモっけのあるおじさんにも同じように誘惑されるかもね」

「へ、変なことを言って脅さないでくださいよ」

「そのうち、すぐに分かるわよ」
 
その後、ハルカは5軒ほど廻り、そのうち3軒から契約を取った。いずれも旦那が出てきた。

もっとも、それらではヤマダのようなことはなかったが、ハルカの言う美貌という武器を使ったのは間違いなかった。 

「どう、こんな感じよ、分かる?」

「はあ、でも僕には真似のしようがないような気がするんですけど」

「大丈夫よ。ススム君には、ススム君用のお客の所に行ってもらうから」

「僕用のお客?」

「そう、一度、あの家に行ってらっしゃい。あの家には30歳代後半くらいの細身の奥さんが一人でいるはずだから」
 
ハルカは、そういって前方の家を指し示した。車庫に軽自動車が停まっていること、干してある洗濯物の女性用の服で大凡の年格好、性格がある程度分かるという。

今までのハルカの観察眼からすると、それに間違いはなさそうだから、そうなのだとススムは思った。
 
行く前に、声のかけ方とか、契約書の記入方法などの基本的なことを教えられ送り出された。

ススムは目的の家に近づいた。すると、門扉の横の犬小屋から白い柴犬が吠えながら飛び出してきた。

門扉にはインターホンがなかったから玄関まで行かなければならないが、それだと柴犬のいる犬小屋の前を通る必要がある。

「困りました。無理に行けば犬に噛まれそうです」と、ウエストポーチの中に入れているスピーカーホンにしたままの携帯電話に向かってススムが、そう訴えた。

「チャンスじゃない。犬に噛まれそうなら噛まれなさいよ」

「そんな、無茶な……」

「大丈夫よ。その柴犬程度なら例え噛まれても大した怪我はしないから。それに金に噛まれたと思えば痛くもないわよ」

「……、契約を取るのと僕の身体と、どっちが大切なんです?」と、ススムはハルカの言い方に怒りを覚えて、そう抗議した。

「何をバカなこと言っているのよ。契約を上げる方が大事に決まっているでしょ。拡張員なんだから」

「……」
 
ススムはハルカには何を言っても無駄だと悟った。

ハルカは良い意味においても悪い意味においてもプロフェッショナルである。

まずは契約を上げることに全力を尽くせというタイプの人間や。犬に噛まれて契約が貰えるのなら、こんな美味しい話はない。喜んで噛ませろと。

拡張員なら、その程度の身体を張れなくてどうするというのがハルカの言い分である。
 
それを否定するのは自身の器の小ささを露呈することにしかならないと判断して、ススムは引き下がった。

「ごめんください。オオヤマさん」と、一応、ススムは可能な限りの声を張り上げた。犬の鳴き声とススムの声で気がついてくれるかも知れないと思ったからや。

「そんなの無駄よ。この暑さだとエアコンをガンガンに効かせて閉め切っているはずだから、外の音など殆ど聞こえないわよ。それに、この時間は、たいていの奥さん連中は人気の昼メロに夢中のはずだし」というハルカの声が聞こえてきた。
 
もっとも、その人気の昼メロは、もうすぐ終わるはずで、ススムを送り出すには絶好のタイミングになるとハルカは計算していたわけやが、そのことはススムには伝えなかった。

昼メロを見た後、ススムのようなイケメンタイプの若者を見れば必ずムラムラとくる。女のハルカにはそれが分かる。その心理を利用すれば黙っていても成約になるはずだと。
 
ススムに、そのことを説明しても、おそらく応じようとはしないだろう。

ススムは正義感が強いのは、まあ良いとしても融通性に欠けるのが頂けない。ハルカは出会ってすぐに、そのことを見抜いた。

正義感だけでは拡張の仕事はものにはできない。論より証拠。黙っていることが勉強になるはずだとハルカは考えた。
 
ススムは覚悟を決めた。ススムが門扉を押すと簡単に開いた。鍵がかかっていない。

吠える犬がいることで誰も入って来ないとタカを括っているというのが、それでよく分かる。

ただ、犬は吠えるから噛みつくとは限らない。むしろ逆で、吠えない犬ほど噛みつく確率が高い。

「おお、よしよし」と、ススムは吠える柴犬をあやすように腰を落としながら手を差し出した。すると柴犬はすぐに尻尾を振り始めた。

ススムは犬は嫌いではない。実家では雑種だが、似た白い犬を飼っている。名前を「タロウ」と言う。ススムはタロウと思って、その柴犬に手を差し出した。

柴犬はゆっくり近づいてススムの手を舐めた。しばらく頬や頭を撫でて安心させてから、ゆっくりと立ち上がって玄関に向かった。もう柴犬は吠えなくなっていた。まだ尻尾を振っている。

「なかなか、やるじゃない」と、ハルカ。

「僕は金に噛まれて怪我をするのは嫌ですからね」と、ススムは精一杯の皮肉を込めて言った。
 
玄関横のインターホンを押す。

「はーい……」と言って、ハルカが予想したとおり、30代後半と思われる主婦が出てきた。

もっと、おばさんといった感じの女性が出てくると思っていたが、意外に若くて綺麗な女性だと思った。

「突然、お邪魔して失礼します、オオヤマさん。僕は、○○新聞の○○ススムという者ですが、奥様は現在、どちらの新聞をご購読されておられます?」

「新聞の勧誘員さん?」
 
主婦は、なぜか不思議そうな顔をして、そう聞き返した。ススムのあまりにも丁寧な物言いが、日頃やって来る新聞の勧誘員とは違うという印象を与えたようや。

少なくとも嫌がっているようには見えなかった。

「ええ、そうですが」

「うちは他の新聞しか読まないけど……」

「それでしたら、当方の○○新聞をお願いできませんか。サービスしますので」

「そうねぇ……、どうしようかしら……」
 
ススムは、直感的にこの主婦は客になると判断した。

「ぜひ、お願いします!」
 
ススムは、初めての相手という緊張のためか、この言葉しか出てこなかった。

もっと軽いジョークやお世辞の一つも言えるという自信はあったが、実践ではなかなか思うようには言葉が出て来ないものだと痛感した。

「分かったわ。とにかく話を聞くから中に入って」

「失礼します」
 
ススムは在宅しているのはこの主婦だけだろうとは思ったが、一応、中に誰かいるものとして少し大きめな声で、もう一度、「失礼します」と声をかけながら、言われるままに中に入ってドアを閉めた。

「まだ、若そうね。幾つ?」
 
この時、ススムは主婦の妖しげな視線に気がついた。

同時に、ハルカの言った「誘惑されるかも知れないわよ」という言葉が脳裏を過ぎったが、「まさかな……」と、すぐにその思いは打ち消したが。

そんなバカなことがあるはずがないと。
 
しかし、主婦が、ススムに興味を示し好意的なのは間違いないとは感じた。

好意を寄せられると成約になる確率は高くなるとハルカに聞かされていたから、ここは一番、この主婦の気分を害さないようにして頑張るしかないと思った。

「25歳です」

「そう……、若いわね」

「今、当社新聞を契約していただければ、ビール券を……」と、ススムが言いかけたのをその主婦が遮った。

「いいわよ。取って上げるわ。だから、私の話も聞いてくれる?」

「ええ、僕で良ければ喜んで」
 
一方的に売り込むトークをすることばかりが営業ではない。客の話を聞くことも立派な営業である。そのこともハルカに言われていた。

「嬉しいわ。さあ、上がって。麦茶、それともコーヒーの方がいいかしら?」
「お茶の方が有り難いです。できれば、冷たいのが……」
 
この時、冷えた麦茶を頼んだことが、結果的に後で救われることになる。もっとも、ススムは純粋に喉が渇いていたから、そう頼んだだけの話だったが。
 
ススムは奥の居間に通された。ほどなく、主婦はガラスのコップに氷を入れた麦茶を持ってきた。ススムは一気に飲み干した。すると、すぐまたもう一杯、運ばれてきた。

「ところで、あなた、彼女はいるの?」

「いえ、いませんけど……」

「あら、そうなの? モテそうな感じなのに」

「いえ、僕なんか」

「あら、かわいい! ねぇ、私みたいな年上じゃだめ?」
 
主婦は、そう言いながらススムの目の前に顔を寄せてきた。

これは本物の誘惑だ。
 
ススムはそう思ったが、正直、どうしたら良いのか対処に困った。無下に拒否するようなことを言えば、せっかくの契約をフイにしかねない。

この状況を聞いているであろうハルカに指示を仰ぐこともできない。かと言って、ハルカが聞いている状況で主婦の誘惑に乗るのも憚られる。
 
その時、玄関ドアの開く音が聞こえた。瞬間、主婦の顔が強張った。間もなく、40歳くらいの中年の男が部屋に入ってきた。どうやら、旦那のようだ。
 
もちろん、ススムも焦った。
 
自分の妻と、得たいの知れない若い男が奥の居間で仲良く一緒にいるというのは、最も誤解しやすい絵になる。下手をすれば血の雨が降るかも知れない。

「どちらさま?」と、その旦那がススムに向かって声をかけてきた。

旦那は旦那で驚いたとは思うが、取りあえず、そう尋ねるしかなかったのだろうと思う。
 
ススムは、猛烈な勢いで頭をフル回転させた。

「○○新聞の者です。お邪魔しております。実は新聞の勧誘を奥様にさせて頂いていたところでして、奥様には旦那様じゃないとお返事できないと言われてたのですが、無理を言ってお願いするあまりに熱が入ってしまい、つい話し込んで喉が乾いてしまいましたので、あつかましくもお茶を一杯飲ませていただけるよう、お願いしてごちそうになっていたところでした」
 
必死の言い訳やったが、ススムは自分でも驚くほど流暢にその言葉が口をついて出てくるものだと思った。
 
主婦も、横でそうそうという感じで相づちを打っていた。
 
この時、麦茶だったから良かったが、これがコーヒーだと最初から長居をする予定だったと勘ぐられかねない。

後にハルカにそう指摘されて背筋に悪寒が奔った。実際、主婦はその気だったと考えられるから余計だった。

もっとも、喉が渇いて麦茶を飲ませて貰うために上に上がり込んでいたというのは、よくよく考えればおかしな言い訳になるが、ススムの必死さが、相手の旦那に伝わり、そうかと納得させられたようや。
 
ススムは、間髪を入れず「サービスしますので、ご契約のほどよろしくお願いします」と頭を深々と下げた。
 
まったく非がない、後ろめたさが一切なかったという態度が功を奏したのか、あるいは、まじめな好青年と映ったためなのか、旦那に好印象を持ってもらえたようや。快く契約に応じてくれたということやさかいな。

ススムにとっては初めての契約である。

それには、タイミングよく現在購読している新聞の契約が今月中に切れること、長期購読を続けていてサービスがあまりなかったということも幸いしていた。

ビール券を渡すと、その旦那も喜んでいた。ビール好きやというのも幸いしたようや。
 
危ない、危ない。

この時、ススムは初めての契約を上げたという喜びよりも、窮地を脱したという安堵感の方が強かった。

「おめでとう。素晴らしかったわよ」
 
車に戻ると、ハルカが手を差し出して握手を求めてきた。

「ありがとうございます」と言いながら、ススムはハルカの手を握った。

これは拡張に限らず営業の世界では当たり前のことで、仲間が契約を上げれば必ず握手を交わし合うというしきたりがある。

そうすると喜びが倍増して、さらにやる気が湧いてくる。事実、ススムはハルカと握手したことで、契約を上げたという喜びが一気に込み上げてきた。

ススムは、今までの人生においてこれほどの高揚感を感じたことがなかった。
 
営業の仕事というのは難しいが、その分、成約できた時に得られる達成感、喜びというのは半端ではない。

これは脳科学的にも実証されていることで脳内物質であるドーパミンやセロトニンが大量に分泌され至福感を得られるためだと言われている。
 
営業にのめり込む者は、単にそれにより利益が得られるというだけではなく、成約時の高揚感を得たいために頑張るケースが多い。

脳内物質であるドーパミンやセロトニンというのは麻薬と似た働きをするから、一度その喜びに囚われると病みつきになるのだという。
 
もちろん、精神的な作用で得られるものだから、本物の麻薬のように身体を蝕まれるようなことはない。

それどころか脳が活性化されるため、営業のできる者は総じて頭も賢くなると言われている。それが医学的にも証明されていると。

ただ、病みつきになる前に挫折してあきらめる者が大半を占めるという現実がある。そこに至るまでの厳しさ過酷さに耐えられないわけだ。
 
ちなみに、悪質な行為とか不法な手段で上げた契約からは、その脳内物質であるドーパミンやセロトニンなどは得られにくいと言われている。

それには苦労して得られたという達成感がないためである。悪質な行為とか不法な手段を使った場合、契約が取れて当たり前という気にしかならないからだと。

必然的に、それしかできない人間に賢い者は少ないという。バカが悪質な行為や不法な手段を用いるのではなく、悪質な行為とか不法な手段で拡張するからバカになるのだとハルカが解説する。

「へえー、そんなもんなんですか」と、ススム。

拡張で契約を取れば取るほど頭が賢くなるという話を聞いたのは初めてだが、そのことを知っていれば最高のモチベーションになるのではないかとススムは思った。

「一つ聞きたいのですが、今回はご主人が帰って来られたので、ああいった結末になりましたが、あのままだったら、どうしたら良かったんでしょうか?」

「誘惑されたらっていうこと?」

「ええ」

「ススム君はどうしたかったの?」

「できれば、お客を怒らせずに上手く契約だけしてもらって、その場を切り抜ければ良いなと思いますけど」

「誘惑に乗って、やっちゃったら?」

「やっちゃったらって、そんな……」
 
そんな言葉がハルカの口から出てくるとは思わなかった。

ハルカなら、自身がいつもその危険と隣り合わせで上手く切り抜けているから何か良いアドバイスをしてもらえるものとばかり思っていたのに。

「冗談よ。今のススム君には、適当にやっちゃうというのは難しいわね。何でも本気で考えるものね。大丈夫よ。ススム君さえ、その気にならなければ、そういう事にはならないわよ」
 
誘惑されてコトにおよびましたというのは男の身勝手な理屈で、誘惑されようが、どういう状況になろうが、結果として不倫するようなことになれば責任を負うしかない。

それが嫌なら逃げれば良いだけの話だ。逃げない者に不可抗力でしたという言い訳は通用しない。

「上手くその場を逃れるには、先に契約してもらってからお話をお聞きしますと言うことね。それで契約をしてもらったら適当に用事を思いつく。例えば、拡材のビール券が車の中にあるから取ってきますとか言って、一旦表に出ればいいわ」

「それで上手くごまかせるでしょうか?」

「車に行ってみるとビール券がなかったから、販売店まで取りに行きますと言っておいて、夕方、その家のご主人が帰った頃合いを見計らってビール券を持って行くことね。その時分なら、例えご主人がまだ帰って来ていなくても危険を冒してまで誘惑するような主婦はいないはずよ」

「なるほど」
 
その気になれば、そういう事態を避ける方法は他にいくらでもある。そうハルカに言われてススムは少し気が楽になった。

その後の研修期間の間、ススムは喜々としてハルカに従ったわけやが、当然のことながら悲劇とも喜劇とも言えない災難に見舞われることも数知れずあったという。

それらのエピソードについても後日、話せる時が来たら話そうとススムは考えている。



参考ページ

注1.NO.1052 将来的に新聞のセールスとしての仕事の需要はあるのでしょうか


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