メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー

第262回 ゲンさんの新聞業界裏話


発行日 2013. 6.14


■継続は力なりと信じられるか……目標と目的について


「継続は力なり」とは言い古された言葉やが、その意味は深い。

物事を続けるというのは口で言うほど簡単なことやない。それもプレッシャーの伴う事を「やり続けなあかん」と考えるのは苦痛を伴うさかい、よけいや。

人は惰性でなら続けられる。幼稚園から小学校、中学校に通うのは義務教育として、日本では当然とされている。

それについては誰しも特に続けなあかんという意識などしていないと思う。それに疑問を挟む者も少ない。

高校や大学に進学するのですら、義務教育の延長として惰性で進学する者も多いという。

それを続けるというのなら、それほど難しくはない。ほぼ誰でもできるし、している。

しかし、自らの意志で目標や目的を立てて、何かを続けようとすると人は途端に怪しくなる。計画どおり続けられる者の方が少ない。

そのためか、昔から「石の上にも3年」ということわざがある。

同じ事を辛抱強くやり続けていれば、いつかは成し遂げられるという意味で使われている。

この場合の「3年」というのは、「それほどの長い期間」と解した方が正しい。きっちり3年続ければ良いというのとは少し違う。

とにかく、どんな事でもええから長く続けていれば慣れるさかい、続けてみろということやな。

そんなことわざがあるくらい物事を継続することには困難が伴うと、昔から考えられていたわけや。

拡張の仕事にもそれが言える。拡張員の世界は出入りが激しい。おそらく、すべての職業中、辞めていく者の多さでは最右翼やないかと思う。

「最初の1ヶ月以内に半分が辞め、3ヶ月持つ者は2割ほど。1年続けられる奴は1割もおらん。1年以上続けられる拡張員はエリート」やと、その昔、このメルマガやサイトを始めた頃に良う言うてた。

現在、その状況はより深刻さを増しとる。その時分と今とでは拡張員の数そのものが半減しているという事実が、それを如実に示しているさかいな。

最早、自分の意思だけでは続けるに続けられんというところまで、この業界が追いつめられとると言うても過言やないほどに、そういった悲観論が蔓延している。

もちろん、どんな状況になろうとも道は残されとるがな。絶望したり、あきらめたりせんかったら方法は必ず見つかる。

もっとも、絶望するほどでもないという見方もできるがな。

新聞が衰退しているとはいうても、最盛期に比べて7、8割程度になったにすぎん。

人は減ったその2、3割を大きく捉えて問題にしがちやが、まだ7、8割の人に支持されていると考えることができれば、そう悲観したものでもないと気づくはずや。

新聞がある限り拡張員は必要とされるのは間違いない。新聞は売り込まん限り絶対に売れんという真理があるさかいな。

今は新聞など必要としないという論調がネット上では支配的やが、新聞を必要とする人たちが多いというのも、また事実なわけや。

おかしな話やが、新聞など必要ないと声を大にして批判している者こそ新聞を必要としているという大きな矛盾がある。

新聞があるからこそ、新聞を読むことで、その記事なり論調なりの批判ができるわけやさかいな。

実は新聞がなくなって本当に困るのは、その彼らやないかという気さえする。そうなれば彼らは攻撃の対象を失うわけやさかいな。

新聞を必要とする人たちは、新聞を否定的に捉えている人たちほど声を上げることがない。

サイレント・マジョリティ(物言わぬ多数派)と言われる人たちの多くが、そうやと思う。

物事はマイナス面だけに囚われると、それしか見えんようになる。ネガティブな情報に接すればするほど、それだけを信じるようになってしまう。

それでは物事の本質など見えるはずがない。

新聞業界で言えば、今以て、新聞の発行部数は5千万部近くあり、全国に約2万店舗の新聞販売店が存在し、数百の新聞拡張団とその拡張員が約1万人いるというのが実態なわけや。

その事実が、新聞が必要とされている何よりの証やないかと思う。

そこで生きるには、それなりの道がある。当たり前のことやわな。そして、そこで生き残るには生き続けるしかない。それも当たり前のことや。

まあ、それでも業界の中にいれば周りは皆、同類というか仲間やから、まだ続けるという点では救われる。頑張ろうと思えば頑張ることができる。孤独やないさかいな。

その点、ハカセは違う。

ハカセがサイトを開設した当時、類似したものは皆無やった。新聞拡張員という存在に対しては批判的、否定的なページが大半を占めていた。新聞についてもネガティブな論調が目立っていた。

「中には、ええ拡張員もいてまっせ」てなことを大まじめに語るサイトなど存在しなかった。

中立的な立場で新聞や新聞販売の実態を報じるサイトも皆無に近い。必ず、どちらかに偏った論調になっている。是々非々で語るページすら少ない。

ネット上では新聞は不必要なもので、新聞拡張員は悪でなければあかんらしい。

このメルマガの読者や世間一般の認識では、おかしなことでもネット上ではそういう論調が大勢を占めているわけや。

それに対して異を唱え続けてきたのは、新聞社でもなければ業界関係者でもない。

ワシらだけや。そして、その構図は9年経った今もそれほど変わっていない。

ワシらは新聞社や業界関係者に苦言を呈することも多く、心得違いをしておられる一般読者の方に対して叱咤するケースも珍しくない。

その理由の大半は、業界のため、あるいはその読者のためを考えて言うてるつもりなのやが、それと受け取って貰えるケースは少ない。

支持してくれる人も多い反面、嫌らっている人も多いというのは一見良さそうな事のように思える。

しかし、支持してくれる人の多くはサイレント・マジョリティの方々で、嫌らっている人の大半は声を上げるということがあるため、その攻撃に晒されるケースが多い。常に標的にされるという感覚になる。

多くのHPやブログでは味方の方が多い。それは、その立ち位置が一方に偏っているからや。それに賛同する人たちが、そういったHPやブログに集まる。

新聞社や業界関係者に与する発言ばかりすれば、その支持を受けやすくなり、新聞不要論に味方する言論に終始すれば、その仲間が増えるといった具合や。

しかし、両方の悪いところを平気で突けば、両方から嫌われ孤立するのは当然や。どっちつかずと思われやすい。

その孤独とも言える環境の中で、なぜ9年間もこのメルマガやサイトを続けられ、これから先も死ぬまで続けようとする気になれるのか。

もちろん、それには、それなりの理由がある。

個人のHPやブログが5年以上に渡って続けられているケースは極端に少ないという。

それには、アクセス数が少ない。コメントやメールが少ない。更新が面倒臭い。飽きてしまった。ネタがなくなった。批判的なコメントばかりが多く嫌になった。HPやブログでは稼げない、といった理由が大半を占めているようや。

中には、「自分を高めることができなかった」とか「自分の考えが世間に受け入れられなかった」といったものまである。

止める理由は、いくらでも思いつく。続けるよりも止める方が楽やさかいな。

それを批判するつもりはない。それぞれに事情のあることでもあるしな。大きなお世話やと言われれば、そのとおりや。

その点、ワシらはアクセス数はまずまずで、日々寄せられるメールやコメントの数も多い。

更新もハカセは特に面倒臭がっているわけでもない。情報に関してはサイト上にアップするよりも入ってくる方が圧倒的に多いさかい、ネタ切れなど起きるはずもない。

そのため飽きることもない。批判的なコメントばかりが多いというのも、ワシらは、むしろその方が有り難いと考えとるくらいやから、嫌がるようなことはない。

HPやブログでは稼げないというのも、もともとそんなことなど考えてもいない。損得勘定で言えば、これほど労力に見合わず、ワリに合わんものは他にないさかいな。

「自分を高めることができなかった」というのも修行僧のような感覚でやっているわけやないから、そうなる気持ち自体が良う分からん。

もちろん、そうなれれば言うことはないのやろうが、ワシもハカセもサイトをやる前と今とは、それほど変わったところはない。

ハカセは相変わらず気が短いし、ワシは屁理屈ばかりこねる、どこにでもおる、ただの偏屈なおっさんや。

そういうのは普通は嫌がられるが、なぜか、このメルマガやサイトでは好意的に捉えてくださる読者の方が多い。有り難いことや。

変わったところと言えば、お互い歳を食って、僅かにあった髪の生命力が完全に途絶えたくらいなことや。無惨なこと、この上ないほどに。

もっともハカセは「現在の人類が数十万年の昔に比べて髪や体毛が薄くなったは進化している証しで、そうなっているのはむしろ誇らしいくらいですよ」と、ワケの分からんことを言うてスキンヘッドを自慢げに見せびらかせとるがな。

まあ、何でもそうやが、恥ずかしいと考えれば格好悪いとなるし、堂々としとれば、それが個性となって光り輝くもんや。文字どおりに。

要は、その人それぞれの考え方一つで世界は違うて見えるということやな。他人がどう思うかやなく、自分がどう考えるかやと。

実際、人は他人の姿形、格好など気にすることなど少ないさかいな。たいていは関係ないと終わる。

他人の姿形、格好を見て笑う者もおるかも知れんが、そういう人間こそ真に笑われ、軽蔑の対象になっている。それに気づかん者が多いがな。

「自分の考えが世間に受け入れられなかった」については、そんなことなど気にしたこともなく、言いたい放題言うてきた。

意見や主張は人それぞれで違うというのが、ワシらの根本的な考えやさかい、世間に受け入れられるか、どうかなど一々気にしても仕方ない。

読む人の主観で、いくらでも変わることやさかいな。

もっとも、HPやブログ上では言うてもええ事とあかん事の分別をつける必要があるがな。それさえ分かっていれば問題はない。

こう考えてみるとワシらは恵まれているというのが、よく分かる。止める理由らしきものが見つからんさかいな。

しかし、先にも言うたように、人は止める理由なら、いくらでも見つけられる。言い訳や正当化も、そうしようと思えばナンボでもできる。

極端な話、明日止めようと思えば止められるさかいな。

しかし、ハカセは止めんと言う。止められんと。

なぜか。

ワシらも当初は、いつまで続けられるのかと思うてた。いつかは限界にきて止める日がくるやろうと。

それが違った。その一番の理由は、人から必要とされていると気がついたことやった。

そのもとは、サイトのQ&Aにあった。ここには数多くの悩みを抱えた人が相談に来られる。その一つ一つに回答することで感謝して頂き、喜んで貰えた。

当たり前と言うてしまえば、それまでかも知れんが、ワシらにとって数多くの人たちから感謝されるというのは、それまでの人生では考えられんことやった。

このメルマガにしても「読んで良かった」、「面白くためになった」と言うて貰えるケースが回を追う毎に年々増えてきた。

人は必要とされることで生き甲斐を感じるものやというのは理屈では知っていたが、実際にその気持ちになるとは考えもせんかった。

悪くはない。悪くはないが、それ故、止めるに止められんようになったとハカセは言う。

もちろん、それは悪い意味やない。ええ意味で、残りの人生を賭しても悔いがないと思えるようになったと。

人はよく目標と目的を持つべきやというが、それだけでは何事も続けていくのは難しい。

人には挫折が必ずある。失敗や後悔に苛まされることもある。そんなとき心が折れ、萎えて自信をなくし、自暴自棄にもなる。何も手が着かず、やる気も失せる。

掲げた目標や目的を達せられれば、そんなことにはならんとは思うが、ワシらを含めて、多くの者にとって、そうなるのは難しいと言う外はない。

その目標と目的が高ければ高いほど、その難しさが増していくさかいな。

もっとも、今日は最低でも1本の契約を上げるといった小さな目標なら、ワシら拡張員は、ほぼ毎日のように立てて実行しとるがな。

ハカセなら、1日の文字量を原稿用紙に換算して50枚ほど書くのが目標やという。

ワシに言わせると「そんなアホのこと良うやるな」やが、奴さんらの世界では取り立てて特別なことでも何でもないらしい。

物書きを自称するのなら、せめてそのくらいはできんと話にならんと。

ともあれ、それぞれが手の届く範囲の目標なら誰でも立てられ実行できるが、それが継続するためのモチベーションになるかどうかとなると、何とも言えんのやないかと思う。

続けることが苦にならず、それに生き甲斐を見出せることが肝心になる。

それが、「継続は力なり」につながると信じる。

逆も真なりで、継続することで生き甲斐を見出せ、続けることが苦ではなくなるということもある。

いずれにしても、続けることによって道が開かれ、物事が好転していくケースが世の中には多い。成功者と呼ばれる人たちの大半がそうや。

あきらめたり、止めてしまったりすれば、そこですべて終わる。

続けることの先にあるものは、それを見ようとせん限り、絶対に目の前に現れることなどないと思う。


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