メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー

第268回 ゲンさんの新聞業界裏話

発行日 2013. 7.26


■新聞の怪談 その5 リバーサイド・マンションの怪


暑い。毎年、夏になると同じことを言うとるが、今年の夏は、ほんまにどうにもならんくらい暑い。

つい、一週間ほど前までは、2004年以来の記録的な猛暑日が続いているということやったが、一転して、今年の夏は低温多雨傾向にあると、気象庁が7月19日の1ヶ月予想で、そう発表した。

それが本当なら雨の降り具合にもよるが、暑さが和らぐ分、ワシらのような外回り専門の営業員は救われる。

ただ、それをアテにしてええもんか、どうかは迷うがな。

天気予報の的中率は当日、および翌日こそ90%を超えると言われているが、一週間後になると50%に激減するとのことや。

その常識、傾向からすれば、1ヶ月先の予報など真に受ける方がおかしいということになる。

もっとも、希望的観測を頼りに生きる方が、悲観的な予想で思い悩むより数段マシやがな。希望は絶望に勝る。そう信じたい。

その意味で言えば、過去最高の酷暑と言われた2004年ほどの夏やないというのは僅かながら救われた気になれる。

「2004年の夏か……」

2004年の夏と言えば、サイトを開設し、メルマガの発行を始めた頃や。もう9年以上になる。

ワシは、その頃の記憶を辿っていた。その記憶は、ある怪談話につながっている。

夏の怪談話は、このメルマガでは夏の定番になっているので、ええタイミングで思い出したと言える。

メルマガで初めて怪談話をしたのは、その2年後、2006年の夏、『第103回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■幽霊配達員の正体を暴け 前編』(注1.巻末参考ページ参照)やった。

それが殊(こと)の外、評判が良く、またその話に触発されて読者の方々から、いろいろな怪談話を持ち込んで頂いたということもあり、シリーズ化したという経緯がある。

それでは始める。

その年の2004年7月21日。山梨県甲府市では摂氏40.4度という日本の観測史上、最高の気温を記録したと報じられた。

ワシの当時のホームグランドやった東海でも摂氏35度を超える猛暑日が連日のように続いていた。

その日、マツシタ新聞販売店に入る日程が組まれていた。
 
ワシは入店手続きを済ませ、店から借りたバイクで「ナカガワ不動産株式会社」に向かった。得意先の一つである。
 
そのナカガワ不動産株式会社は駅の近くにある。昭和初期からそこに存在していたのではないかと思われるほど古びた木造2階建ての建物や。
 
正面に掲げている大きめのブリキ板の看板全体に錆が浮いて流れ、茶色くなっている。書かれている文字も薄くなって剥げかけていた。それが古臭い建物と妙にマッチしていた。
 
主に賃貸物件の斡旋と管理をしている不動産屋である。事務所1階のガラス窓には中が見えないくらい賃貸物件の案内ビラが、びっしりと貼り付けられている。

もっとも、いつ来ても、それを眺めている客はいないが。 

「毎度、社長は?」

事務所のドアを開けて中に入り、中年の女性事務員に向かって、いつものように満面の笑みを浮かべながら、そう声をかけた。
 
ワシが来る時は昼過ぎということもあるのか、事務所には、いつもこの女性事務員しかいない。

営業員は3人いるとのことやが、たいていは出払っていることが多い。見かけと違い、それなりに繁盛しているようや。

「上の社長室にいますけど、お呼びしましょうか?」

「いや、結構。御大を呼びつけたらバチが当たりますがな。ワシの方から行きますよってに」
 
ワシは、そう言いながら事務所の横の階段を上がり、「社長室」という小さな白いプレートのかかった部屋を軽くノックした。

「社長、ゲンです」

「おっ、ゲンさんか。待ってたで、入ってんか」と、部屋の中から社長のナカガワの声がした。

「失礼します」

ワシは、エアコンでガンガンに冷え切った社長室の中に入った。外の暑さを考えれば別天地、天国である。

その天国に肥満気味のナカガワが応接用のソファーに身を沈めていた。読書家らしく小説本を片手に持っている。

「社長、今日はこれだけですけど……」
 
ワシはそう言いながら、手提げカバンの中から10冊ほどの小説の単行本を取り出した。ナカガワの好きそうな推理小説で、ここに来る時は、手みやげとして、いつもその手の本を持って来る。

「いつも済まんな、ゲンさん」とナカガワの顔もほころぶ。

「お世話になっているのに、これくらいお安いご用ですよ」
 
ワシの常連客には、このナカガワのような不動産屋の社長とか賃貸物件を保有している大家が多い。

そういう人たちと懇意になると新しい入居者があった場合、いち早くその情報を教えてもらえる。当然のように、その大多数で契約につながることが多い。

10冊ほどの小説単行本というのは、そのためのお礼という意味が込められている。
 
ただ、普通にその本を調達すると、かなりの時間と金がかかる。ワシは、その手間とコストをかけなくても済むように、日頃から心やすい古紙問屋の人間に、その手の書籍を揃えてもらっている。
 
その古紙問屋には日々、相当数の新聞や雑誌、書籍が集まってくる。書籍だけでも一日で数十トンにもなるという。

その本の山を狙って多くの古本業者がやって来る。漫画本や小説本、情報本、ハウツー本などあらゆるジャンルの書籍がある。中には値打ち物の古文書の類が混ざっていることもある。

それらを選び出すという手間はいるが、極端に安く買えるから、少々手間暇をかけても損はないという。

ここでは、1冊いくらというのではなく10キログラム単位での販売になる。ちなみに10キログラムの本が100円ほどで買える。
 
古紙問屋では古紙回収業者から買い取る雑紙類の単価はキロ3円から5円程度というのが、その頃の相場やったから、それで売っても古紙問屋は儲かる計算になる。
 
古紙問屋の人間の中にはアルバイトとして古本業者の代わりに、それらの書籍を10キロ単位で詰め合わせて、500円程度で売る者がいる。 
 
心やすくなると、ほぼ要望どおりの本を入れてもらえるので探す手間を考えれば安い。言えば、それがワシなりの拡材ということになるわけや。
 
新聞勧誘時での拡材の景品サービスというと、その物量の多さや金銭の多寡で競うと考えられがちやが、それでしか勝負のできん者は弱い。
 
当然やが、それで競い合えばサービスのしすぎを招き、利益を失うケースが多くなる。
 
それでも、無理をして自腹を切ってまで契約を取ろうとする拡張員がいる。それで赤字になり、借金を抱えるバカな者も多い。

今回、ワシが持ってきた小説本10冊を、一般の書店で定価どおり買えば1万円以上はする。古本屋でも数千円程度はするものと思われる。

そのままの金額で書店や古本屋から仕入れると、契約時の景品付与の上限を制限している景品表示法に引っかかり違反になる可能性が高い。

しかし、それを安く仕入れたと言えば、その違反に問われることはない。

なぜなら、景品表示法では品物の定価で判断されることはなく、決められているのはあくまでも金銭の上限やからや。

それ以下で仕入れた拡材をサービス品にする分にはお咎めを受けることはない。同様の方法は他にいくらでもある。

「ところで、新しく入居者があったということでしたが……」
 
「ああ、リバーサイドの103号室や」と、ナカガワはワシの持ってきた小説本を次々に手に取りながら、そう答えた。

「えっ、また、103号室ですか?」

リバーサイド・マンションというのは、その年の3月に建てられたばかりの新しい5階建ての賃貸マンションや。

その103号室には、今まで2組の家族が入居していたが、そのいずれも、なぜかすぐに引っ越している。
 
今までは、たまたまやろうというくらいにしか考えていなかったが、さすがに3度目ともなると、何かおかしいと感じる。

もしかして、あの時ことが尾を引いているのか―。
 
ワシは過去の出来事が頭を過ぎったが、すぐに頭を振った。そんなバカなことがあるはずがないと。

「そうや。何でやろうな」と、ナカガワもさして気に留める風でもない。

不動産屋を30年以上も続けていると、そういうこともそれほど珍しくはないのかも知れんが。

そのリバーサイド・マンションというのは川沿いにある。川(リバー)の側(サイド)にあるということで、安直にそう命名されているわけやが、こういったネーミングのマンションは全国的にも多い。

「ゲンさんが今日行くというのは先方には伝えとるから」と、ナカガワ。
 
その103号室には昨日入居したということだった。本来なら、その引っ越し当日の昨日来るべきなのやが、今日がマツシタ新聞販売店の入店日になっていたということもあり、ナカガワに無理を言って今日の訪問ということにしてもらったわけや。

ナカガワは快く引き受けてくれた。サービスの小説本の効力には絶大なものがあるということかな。

「ありがとうございます」

本当に、こういうのは有り難い。後日に行くと言って了解を貰っているということは勧誘をするまでもなく成約が約束されとるのも同じやさかいな。

ワシは、折り込みチラシ入りの昨日と今日の朝刊、および拡材の商品券を持って、その103号室を訪れた。
 
インターフォンを押すと、「どちら?」と若い女性の声がした。

「ナカモトさんのお宅でしょうか。お約束していましたマツシタ新聞販売店のゲンという者です」と答えるとドアが開いた。
 
昨日、引っ越して来たばかりということやから、その片付けをしていたためなのか、いかにも寝不足といった感じだった。
 
ナカガワの話では、入居者はナカモトという20歳代の若夫婦だということやった。旦那がユウイチで奥さんがノリコやという。

契約書にサインをしてもらい、拡材の商品券を渡して帰ろうとした時、「あのう……」と、ノリコに呼び止められた。

「何でしょうか?」

「変なことをお尋ねしますが、この部屋か、マンションで以前、何かあったのでしょうか?」

「私は、このマンションが建ってからよく来ていますが、特に変わったことがあったとは聞いていませんが」

「そうですか……」

「何かあったんですか?」
 
「実は昨晩、寝ていた時、玄関口から変な声がしたんです」

「変な声?」

「ええ、しきりに甲高い声で『出て行け、出て行け』と言って」
 
旦那のユウイチは誰かが、いたずらか嫌がらせをしているのだと思い、玄関ドアを開けて怒鳴ろうとしたらしいが、表には誰もいなかったという。

それが二度、三度続いたと。開けると、やはりそこには誰もいなくて、その声もしないという。
 
あまりにも気持ちが悪いので、念のために新聞販売店の人だったら何か知っているかも知れないと考え、ワシが来るのを待って尋ねたのだという。

まさか―。

ワシには心当たりがあった。
 
しかし、それはないやろうという思いも一方ではする。ただ、このノリコが作り話をしているとも思えない。
 
やはり、あの時のことが尾を引いている。そう考えるしかないという気がする。

それは、そのリバーサイド・マンションが建てられる2年ほど前、2002年7月27日の出来事やった。

その日も今日と同じように、ワシはマツシタ新聞販売店に入店した。

「ゲンさん、ハラさんのことなんですけど……」と言いながら、店長のカワマタが近寄ってきた。

ハラというのは前回の入店日、6月25日にワシが契約を貰った客で、即入やったからすでに新聞を配達しているはずや。

「ハラさんが、どうかしたのか?」

「実は、昨日、自殺してはったのが見つかったんや」

「自殺?」

さすがに、これには驚いた。ワシが契約を貰うた客で、そういうのは初めてやったさかいな。

ハラはアパートで独り暮らしをしていた、どこにでもいるごく普通の初老の男で、とても自殺するようには見えなかった。

もっとも、自殺するように見える人間がどういう感じなのかは出会したことがないので、分からんがな。

ただ、少なくとも暗く陰湿な雰囲気の男やなかったことだけは確かやった。どちらかというと明るくて、ジョーク好きな気さくなところがあった。

「こんにちはハラさん、以前お世話になりました近所のマツシタ新聞販売店のゲンという者です」

これは、俗に言う「過去読」の客に対する一般的な声かけや。

「新聞屋さんか。また勧誘か?」

ハラは一瞬、面倒臭そうな表情をした。おそらく、何人もの勧誘員がやってきているのやろうと思う。

「過去読」の客には、そういうのが多い。当然のようにハラは断りの態勢になっている。

こういう場合は、相手の意表を衝いて、なるべくこちらのペースに巻き込むことが肝心や。

相手に合わせて「ええ、そのとおりです」と真正直に言えば速攻で「いらん」、「帰ってくれ」と言われるのがオチやさかいな。

そういう相手には、素早くユーモアで返す。

「ピンホーン。大正解です。おめでとうございます。ハワイ旅行が当たりました。というのは冗談ですが、店からハラさんは特別なお客様なのでサービスするように言われていますので、お話だけでも良いので聞いてください。前回のハラさんのサービスは○○でしたけど、今回は特別に○○のサービスをしますのでお願いします」と一気に捲し立てる。

すべてとは言わんが、こう言えば乗ってくる客もいる。少なくとも速攻での断りは少ないはずや。

ハラは、ありがちなジョークで切り返してきた。

「悪いな。うちは金がないんや。そのうち、銀行強盗でもして金が手に入ったら新聞を取るから、今日のところは帰ってんか」

「そうですか。分かりました。そうされる時は、ぜひ教えてください。お手伝いしますので」

ジョークにはジョークで返すというのが、営業員の基本やと思うてなあかん。

こう返されると、ジョークを言うた方も「お主、なかなかできるな」と思うさかい、親近感が湧いて成約になることも多い。

この「金がない」というのも、断り文句としては多い。ただ、これは額面どおりに受け取らん方がええ。

当たり前やが、「うちは金が余ってしゃあないねん」と言う人間なんかおらんからな。

取りあえず、断っておこうという定番みたいなもんやと心得とくことや。

それに「金がない」と言う客は、総じてサービスに弱いという側面があるから、攻めやすいと考えといてもええくらいや。

「そうかい。それじゃ、早速計画を練ろうか」

このケースは、「そうしましょう。どこの銀行にします? ○○銀行など手頃やと思うんですが……」といった調子の会話からお互い打ち解け、結果的に成約に持っていくことができた。

ジョーク好きな者は、心に余裕を持っているもんや。余裕のある人間に自殺者は少ない。

ワシは、そう思うてたさかい、よけいハラが自殺したというのが信じられんかったわけや。

「何で、ハラさんが自殺したと分かったんや?」

「実は配達の者から、ハラさんが新聞を取り込んでいないため新聞が溜まりすぎているという報告があったんで、そのアパートの大家にそれとなく訊いたんです」と、店長のカワマタ。

こういうのも結構ある。最も多いのが、どこかに旅行に出かけて販売店に休止の連絡を入れ忘れたというケースや。

長期間の旅行の場合やと、アパートの大家になら、その行く先と期間を告げていることが多い。

もちろん、誰にも告げていないというケースもあるが、念のための確認としては、そうするしかなかった。

翌日も新聞を取り込んでいなかったら、販売店の方で休止措置を執るつもりやったという。

親切心と万が一、夜逃げをしていた場合の両面の可能性を考えて。

ハラのケースは、そのいずれとも違った。

大家は新聞販売店からそう尋ねられたことが気になり、ハラの身内に連絡を入れ、その身内立ち会いのもとで部屋に入った。

そこで、首吊り自殺しているハラを発見したということや。

大家は急いで警察に連絡し、マツシタ新聞販売店の店長、カワマタにも連絡してきた。

「そうか……」

契約者が自殺した場合、その契約は履行されないから、不成立の契約カードとして貰った報奨金と成績は除外されるが、それは仕方ない。

新聞勧誘には、そういうリスクは常につきまとうさかいな。

ワシは、その足でハラの住んでいたアパートまで行った。アパートは古い2階建ての「文化住宅」と呼ばれている建物で、ハラの部屋は国道に面した1階にある。

まだ警察の調べが終わっていないのか、通称「規制線」、「ポリスライン」と呼ばれる「立ち入り禁止」と黄色に黒字で連続印刷されたテープが、必要以上の広範囲に渡り張り巡らされているのが見えた。

大仰に立ち入り禁止をアピールしているワリには、パトカーや警官の姿は見えなかったが。

ただ、少し離れた所でアパートの方を見ながら、何やら話し込んでいる3人の主婦がいた。こういう事件は、彼女たちの格好の井戸端会議のネタになる。当分、噂話に困ることはない。

「何かあったんですか?」

ワシは素知らぬ顔でその輪の外から、そう訊いた。

主婦たちは僅かに警戒した素振りを見せたが、ワシの自然な振る舞いに安心したのと、誰かに話さずにはいられないという欲求に抗(あがら)い切れなかったのか、即座に説明してくれた。

「あそこの部屋で首吊り自殺があったのよ」と小太りの主婦が口火を切った。

「えっ、首吊り自殺ですか?」と、ワシは驚いて見せた。

こういう場合は、知っていても知らない素振りをするに限る。そうすれば主婦たちの方で自主的に知りたい情報を教えてくれるからや。

「そうなのよ。あの部屋に、よく借金取りが来ていたわ」と、今度は細身の主婦。

「そうそう、酷い取り立てをしているのを見たわ」と、別の小柄な主婦。

その主婦たちのおかげで、どうやらハラは借金を苦に自殺したらしいということが分かった。警察もその線で結論づけていたと、後に知った。

ちなみに、ハラの自殺は事件性がないということで、どの新聞にも事件のことなど載っていなかった。

驚くべき情報収集力である。それを生業にしている新聞記者や雑誌記者というのなら分かるが、彼女らは、ただ集まって噂話をするだけで、いとも簡単にその結論を導き出したのである。

ワシは、そのことを熟知しとるから、何か事が起きた場合、なるべく、そういった感じで集まった主婦の輪の中に融け込むように心がけとる。

もちろん、噂話やから、どこまで信憑性が高いかは分からんが、そこから先、その件について調べるにしても方向性が分かっているだけ楽や。

ワシの調べたところ、やはりハラは地元のタチの悪い金融屋に追い込みをかけられていることが分かった。

連日、「死んで払え」とか「内臓を売ってでも払え」と、ヤクザ同然の脅しをかけていたという。

一般的には、債務者が自殺してしまうと取り立てができなくなり困るので、そこまでの追い込みはしないのが普通やが、タチの悪い金融屋は逆に自殺したくなるほどの取り立てを意図的にするのやと、その道の専門家に聞いたことがある。

但し、その場合は、自殺しても金融屋に金が返済されるように保険をかけさせた上でということや。もしくは金融屋が事前に金を貸す前に、そういった類の保険に強制的に加入させるわけや。

団体信用生命保険(通称「団信」)というのが、それや。

団信は一般的に住宅ローンなどで利用されとるものやが、数年前、ある大手の消費者金融でも借り主に強制的に加入させ、厳しい取り立てをしたために自殺者が多発したとして社会問題になったことがあった。

住宅ローンは高額で残った遺族にその借金の負担をせずに済むためということで始められたものやが、それを逆手に取る金融屋が増えてきたわけや。

ちなみに、その団信は債務者が死亡すると、直接、その金融会社に支払われるから回収不能になることがない。

つまり、払いの悪い人間には死んで貰うた方が、その金融屋にとってはありがたいという理屈になるわけや。そのため取り立てが、より激しく過酷になったと見る向きが多い。

ワシも、それによる犠牲者は多いやろうと思うとる。言い方は悪いかも知れんが、限りなく殺人行為に近いと思う。それと知って追い込んどるわけやさかいな。

結果的には大半が自殺で処理されて、そこで調べがストップしとるから、その実態は藪の中やがな。

ハラの場合も同じやったと考えられる。

それから、1ヶ月後、そのアパートで幽霊が出るとの噂が、まことしやかに囁かれるようになった。

夜な夜な、自殺したハラらしき男がハラの後の入居者に向かって玄関口で「出て行け、出て行け」と喚くのやという。

住民もその噂に怖がって次々に、そのアパートから逃げ出したという。

そして半年後、ついに誰も住まなくなったということで、そのアパートは取り壊され、その場所に新にリバーサイド・マンションが建てられたというわけや。

その103号室は、偶然にもハラの住んでいた部屋の真上やった。

もちろん、そんな話はノリコにはせんかったがな。

そもそもワシは幽霊など存在するとは思うてないから、よけいや。もし、それが事実なら、他の理由なり事情が必ずあると信じている。

幽霊というのは人間の霊魂が彷徨っているものだとされている。その中で、この世に恨みや未練の強い霊が悪霊と呼ばれ、人に害を為すのやという。
 
しかし、夜だけ出現するというのは不自然や。本当に幽霊が存在するのやったら、昼夜の区別なく、いつでも現れなければならない。

しかし、幽霊は夜更けになって、人が寝静まった時分に出ると相場が決まっている。それも夏に多い。
 
ワシが幽霊の存在そのものが嘘臭い、信じられないと言うのは、それがあるからや。

どう考えても幽霊という存在は、人を怖がらせるためだけに作り出されたとしか思えない。
 
人は暗闇を怖がる。お化け屋敷でも、本当に怖がらせたいのなら、真っ暗闇の空間を作ることが最も効果的だと言われている。実際、怖いと評判の「お化け屋敷」には必ずその区間が設けられている。
 
それは太古の昔から夜行性の肉食獣に襲われる恐怖が、人の遺伝子の中には深く刻みこまれているからやという。
 
せやから、人を怖がらせようとする場合には暗闇か夜の設定にすると効果が上がるのやと。

幽霊に限らず、魔物や妖怪変化の類は皆そうや。夜か暗闇にしか出ない。幽霊が夜、出現する理由は、それ以外には考えられない。

ワシは幽霊の正体について、ある仮説を立てていた。
 
その仮説をリバーサイド・マンションの103号室の住民である、ノリコに話した。

「深夜、誰かが玄関の外で話していたということですが、それはカラスの仕業ではないでしょうか」と。

「カラス? ですか……」と、紀子は怪訝な表情を浮かべた。信じられないといった顔つきである。

「ええ、実は昔から、この辺りにはカラスが多いんですよ……」

カラスの被害というのは、この辺りだけに限らず、全国的なもので、ありとあらゆる地域で深刻な問題になっている。
 
各地の行政もいろいろと手段を講じて、やっきになってカラスの駆除に乗り出している。

その甲斐もなく一進一退の状況が長く続いていて、これといった決定的な打開策、解決策がないのが実情である。
 
カラスと人間は共存共栄という関係にない。むしろ、歴史的にも敵対してきたと言える。
 
たいていの野生動物は人間を危険な存在として認識し怖がるから、よほどの事がない限り人里に近づくことはない。
 
しかし、カラスは何の躊躇も遠慮もなく人間の生活圏、領域に平気で踏み込んで来る。それを自らのテリトリーと重ねて長く生き抜いてきた。
 
人間に攻撃され続けていながら滅ぶことのなかった希有な生き物だと言える。

今後も、おそらくそれは変わらないだろうと思われる。生半可な相手ではない。
 
カラスの賢さは尋常ではない。人間を除くすべての動物中、最も賢いのがカラスだと主張する学者も多い。そうでなければ人間のテリトリーに侵入して生き永らえることなどできない。
 
その根拠として、カラスには食べ残した食料を穴や石の下など様々な所に隠す「貯食」という習性があるためだという。

それをするには何をどこに隠したかを脳にしっかり記憶しておく必要があり、その繰り返しがカラスの脳を発達させてきたのだと専門家は説く。
 
もし、カラスに人間と同じように自由に動かせる「手」があれば、間違いなく人類に匹敵していたか、凌駕していたはずだと。
 
「カラスが九官鳥のように物真似して人の言葉を話すというのを知っておられますか?」

「え? カラスが喋るんですか?」

驚いたノリコが、そう聞き返した。

「ええ……」
 
カラスは、分類上はスズメ目カラス科に属する鳥で、外見はムクドリ科の九官鳥に近い。

九官鳥が人の声や動物の鳴き真似をするというのは有名やが、それと同じことがカラスにもできると言われている。その実例報告も多い。

それからすれば、「出て行け、出て行け」というくらいは簡単に喋りそうに思える。

「本当ですか?」と、ノリコは訝しげに訊いた。
 
「その可能性はあります」

「そうですか。カラスですか。そんなこと考えてもみませんでした。でもそれが事実なら怖がることはありませんね」

少なくとも、次から同じようなことがあっても、それほど驚くに値しないという気にはなれる。
 
そう思って昨日のことを振り返ってみると、昨日はゴミの日だったのか、すぐ近くのゴミ出し場でカラスたちが生ゴミに群がっていたのを思い出した。

それを見ていた夫のユウイチが、そのカラスたちを追い払っていたから間違いない。
 
それで復讐されたのではないかと、ノリコは言う。

もちろん、ワシが仮説を立てた狙いは、そこにあったわけや。幽霊の噂話を打ち消し、広めないようにするために。
 
ただ、このカラスの仕業だとするワシの仮説にも問題がないわけではない。矛盾するところも多々ある。

「鳥目」というのがある。鳥類は夜、目が見えないと信じられていたところから、そう言われるようになったことやが、それは何の根拠もない説で、鳥は夜でも目が見える。
 
これは鳥類の大半が昼行性で夜は活動しないというところから「鳥は夜、目が見えない」と人間が勝手に勘違いしてそう言われ始めたにすぎない。

昼行性の動物が夜寝るのは、昼間に食料が確保できるためで、夜行性の動物のように、夜中に狩りをする必要がないからや。
 
動物学者は、必然性というのを重視する。動物の行動にはすべて必然性があると信じて疑わない。
 
犬猫などのペットは人間と似たような病状、症状が起きるケースが多い。同じような食環境のカラスの場合も、人間同様の病気に罹ったとしても不思議ではない。

つまり、夜寝られない不眠症の個体がいる可能性も考えられる。

そうだとした場合、不眠症のカラスが深夜に人間の声色を真似て「出て行け、出て行け」と喋ったということになる。
 
しかし、カラスは元来、集団を形成する生き物だから、単独行動をするというのは普通では考えにくい。

そのカラスが、夜中、いくら目が見えるとは言っても、そのマンションまで出向いて行って、わざわざ人間を脅かすものなのかという疑問が湧く。
 
団体でやって来ていたのなら、旦那のユウイチがドアを開けた時、誰もいないとは思わなかったはずだ。

少なくともカラスの群れは見ていたことになるから、その話くらいはしていなればならない。

カラスは人には慣れない。人を小馬鹿にした行動は取るが、それは安全な距離を確保した上でのことで、けっして人間への警戒を怠ることはない。
 
そのカラスにすれば、人間に対するというのは大きなリスクを伴うことだと言える。その危険を冒してまで、そこまでする理由が分からない。
 
ノリコの言うように、ユウイチに追い払われたことへの仕返しが狙いなら、群れでする方が効果的なはずだ。それがなぜ、一羽だけ、もしくはそれと気づかれないほどの少数なのか。

しかも、それはハラが自殺した当初から続いている現象で、その日、1日だけのことではない。そんなことを何年にも渡って延々とするカラスなどいるのか。
 
その疑問にはワシも答えられない。
 
実際のところ、人は何でも知ったつもりなっているが、身近なカラスのような生き物についてさえ、その正確な生態を知っているとは、とても言い難い。
 
その後、間もなく、そのナカモト夫婦は逃げる引っ越して行った。

理由は分からずじまいやが、ワシの想像を超えた何かがあるのかも知れない。

ワシは現実に起きたことには現実的な理由が必ず何かあると考えとるが、たいていの人は、こういう場合、幽霊の存在を信じることで納得しようとするのやと思う。

ナカガワも、その一人やった。

ナカガワは幽霊騒ぎによるリバーサイド・マンション全体の入居者の減少を恐れ、その後、103号室を貸すのを止めている。 

それから以降、現在に至るまで何事もなく過ぎているとは聞くが……。



参考ページ

注1.第103回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■幽霊配達員の正体を暴け 前編

第104回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■幽霊配達員の正体を暴け 後編


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