メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー

第28回 ゲンさんの新聞業界裏話     

発行日 2008.12.19 


■クリスマスソングが歌いたい


昭和39年12月24日。

クリスマスの夜、少年は死ぬつもりで家出した。

もっとも家出したと言うても、少年にとって最早、帰るべき家がどこにもないと感じていたから、それが果たして本当の意味での家出と呼べるのかどうかは疑わしかったがな。

親に見放されて捨てられたも同然の子供にとって、その日がクリスマスというのも何の意味もなかった。

それまで少年にとって最大の庇護者であり唯一の拠り所であった祖父が、先月死んだ。

享年、61歳。あまりにも早すぎた死やった。

その死により、少年の生活は一変した。

祖父とは言うても、一般に多い、おじいちゃん子というのやなく、少年にとっては厳しい人やった。

甘やかされた覚えなど一度もない。

祖父は、ある剣道の道場を経営している地元の名士でもあった。

少年の父親は、その祖父に勘当されていた。

今時、勘当と言うてもピンとくる人の方が少ないと思うが、要するに親が子に対して、親子の縁を切ると宣言することや。

戦前の民法や戸籍法では勘当に関する条文があり、それが法的にも認められていた。

親がそう宣言して手続きをすれば簡単にそれができる。

しかし、戦後の民法改正により、戸籍上の親子の縁を切ることはできんようになった。

したがって、勘当という概念は残っとるが法的な手続きとしては存在せんということになる。

母親の所在は分からない。

少年の父親と母親は、双方の親の反対を押し切り、大阪に駆け落ちしていた。

そこで少年は生まれた。

その直後、父親の所在を祖父に知られ強制的に連れ戻された。

その際、母親も実家に連れ帰られ、少年とはそのままになっていたから、少年はその母親の存在はおろか顔すら知らなんだ。

写真一枚も残っていない。

幼いときから祖父には、母親は死んだと聞かされて育った。

また、父親のことも、悪い面ばかり教え込まれていたから、どうしようもない人間、くだらない男としか認識していなかった。

祖父は、少年を自身の後継者として育てた。

行く行くは、道場を継がせる。

そのため、物心つくと同時に剣道の修行をさせられていた。

少年の幼い頃からのオモチャは、竹刀であり木剣やった。

真冬でも裸足で走らされ、血豆ができるまで素振りを繰り返し、竹刀による生傷の絶え間がなかった。

しかし、少年はそれを厳しいとか辛いと思ったことは一度もなかった。むしろ、当たり前なことやと捉えていた。

少年にとって祖父は絶対無二の存在やった。

父親が勘当されて、11年後にその祖父が死んだ。

本来なら、少年は父親か母親に引き取られるのが筋やが、父親はそれを拒否した。

その頃には、父親はすでに大阪で再婚していて、その再婚相手には二人の連れ子があったため、少年を引き取れば関係が拙くなるというのが、その理由やった。

父親は、祖父の相続放棄を条件に、少年を兄弟たちに押しつけた。

それから、少年は、その兄弟、つまり、少年にとって叔父、叔母の家々を転々とすることになる。

まず、始めに預けられた先が、父親のすぐ下のミツオという叔父の所やった。

ミツオは、最初から少年を嫌っていた。

少年の父親が、祖父に勘当されたのは、その後継者に指名されて、それを拒んだためやった。

本来なら後継者は、順番から言えば、そのミツオがなるのが筋やが、祖父はミツオやなく少年を選んだ。

ミツオには、それが面白くない。

結果的に、祖父が死に、兄が財産放棄をしたことで、財産の大半が手に入って、実質的な後継者になったが、その不満は捨て切れなんだ。

子供だけ押しつけやがって……。

時折、少年に聞こえるようにそう言うことさえあった。

虫の居所が悪いと、その鬱憤(うっぷん)晴らしに道場に少年を連れ出し、修行と称して竹刀で打ち据えることも多々あった。

ミツオは、剣道の達人である祖父の子供だけあって、4段の腕前をもつ実力者やった。

しかし、少年の目には大して強いとは映らなんだ。

その当時、その叔父のミツオは30歳とそこそこ若かったが、剣の実力は61歳の祖父の足下にも及ばんかった。

あるとき、ミツオは鷹揚(おうよう)に構えていて「どこからでも打ち込んで来い」と言うので、少年が得意としている小手打ちを見舞うと、それがあっけなく極まった。

それで、ミツオの腕が腫れ上がったことがあった。

ミツオは烈火の如く怒り、さらに少年を打ち据えた。

少年は黙ってそれに耐えた。

それ以後、少年はミツオに本気で打ち込むことはなくなった。

僅か11歳の少年が、30歳の剣道4段の有段者に対して手加減していたことになる。

少年が強すぎたのか、ミツオに額面どおりの実力がなかったのかは定かやないが、祖父がミツオを後継者に指名せんかった理由が何となく少年には分かるような気がした。

少年は、ときたま、そうすることがアホらしいと思うこともあったが、何の後ろ盾もない子供が生きていくためには我慢するしかなかった。

幸い、打ち据えられると言うても、祖父のそれに比べれば打ち込み自体は鈍く、適当に急所を外すこともできたから見た目ほど過激なものでも痛みを伴うものでもなかったがな。

痛いのは、その心やった。

ミツオの妻、ヤエは、そのさらに上を行く仕打ちを少年に加えていた。

心を閉ざしていた少年は、彼らに甘えることはなかった。子供らしく笑いかけることもない。

それが、ヤエの癇(かん)に障(さわ)った。

いくら義理の叔母になるとはいえ、夫の兄弟の子など他人と一緒という感覚でしかない。

「何でわたしが、可愛げもない、こんな子の面倒を見ないといけないのよ」と言うのが、ヤエの口癖やった。

何か気に入らないことがあると、すぐ少年を殴った。

そうされても少年は、痛いと喚くわけでも泣くわけでもない。

ただ、されるがままや。

それが少年なりの抵抗やった。

少年が泣いて許しを請えば、ヤエは勝ち誇った気になるのは目に見えていた。

あるいは、それでヤエの気が収まり、その虐待の程度が和らぐのかも知れん。

しかし、祖父から「男は痛いとか辛いときに泣くもんやない」と教えられて育ってきた。

少年には、その男としての矜持(きょうじ)があった。

それが、ヤエの嗜虐的(しぎゃくてき)な性格に拍車をかけ、あからさまな虐待を加えるまでエスカレートするようになった。

ある冬の寒い日、ヤエは板の間に少年を正座させた。

理由は特にない。

もっとも、ヤエなりの怒りとか、理由はあったのやろうが、少なくとも少年には、いつもの癇癪によるものとしか考えられんかった。

幼い頃から、祖父の厳しい修行を日課としてきた少年にとって、例え、板の間の上とはいえ、ものの一時間程度の正座など苦痛のうちには入らない。

しかし、寒さからくる生理的なものは別や。

板の間の正座というのは、その痛さはまだしも、冷えによる尿意を我慢する苦痛には耐えられんものがある。

たまらず、便所に行きたいと訴えると、ヤエは少し考えるような素振りをして、どこからか一升瓶を持ってきて、「この中にしろ」と冷たく言い放った。

そのヤエの顔が醜く歪んで笑っていた。

鬼の顔。

その顔は、そうとしか表現できんかった。

「おに」という字は、古代の日本では「醜男」あるいは「醜女」と書かれていた。

つまり、昔の人は、人間の内なる醜さが「鬼」となるのを知っていたわけや。

人はここまで、その残酷な本性を現せることができるのだというのを少年は、このとき初めて知った。

少年は、半ば意地になって我慢した。

しかし、人はどんなに強靱な意志、精神力があっても生理的な欲求には勝てんもんや。

正座したまま、小便を垂れ流そうかと思ったが、それはあまりにも情けない。

また、そうすれば、このヤエは間違いなく「ションベン垂れ」と囃(はや)し立てるに違いない。

親戚中に、小便を廊下に垂れ流したという事実だけを言いふらす危惧が大やと思うた。

いずれにしても、少年にとって屈辱が待っている。

少年は、その一升瓶を取って、その中に小便をした。

少年の小さな身体のどこにそれだけの液体が入っていたのかというほど、その一升瓶の中は尿でほぼ満杯になった。

ヤエは、その一升瓶を取り上げると、ガラスのコップにその中身を注ぎ、少年の前に置いて「それを飲め」と言う。

「それを飲んだら許してやる」と。

少年は無視した。

すると、ヤエはそのコップを持ち上げ、少年の口をこじあけて流し込もうとした。

少年は嫌がり渾身の力でそれをはねのけた。

その拍子に、そのガラスが板の間に落ちて割れた。

そこに、ヤエが倒れ込み、足の踵(かかと)付近をその破片で切った。

流れ出た血にヤエは動揺し、少年に殺されると喚いて病院に駆け込んだ。

3針を縫うゲガやった。

それを知ったミツオに、顔が変形するほど殴られた。

もちろん、ヤエは、それに至る事実など言わず、少年が、いきなりガラスのコップを投げつけたと告げた。

少年は言い訳をせんかった。

もっとも、言うても無駄やと思うてたというのもあったがな。

少年は生まれて初めてと言うてええくらい、凄まじい憎悪に囚われた。

二人とも殺してやりたかった。

祖父愛用の真剣を持ち出して斬りつければ終いや。

少年は、祖父からその真剣の扱いも厳しく伝授されていた。

やってやれんことはない。

しかし、そこまで考えて、少年は自分自身に恐怖した。

そして、祖父の言葉をまた思い出した。

「剣は私怨のために使ってはならん。己の心を磨くため、人を助けるために使うものや」

少年は家を出る決心をした。

そして、死を選ぶつもりやった。

このままやと、いつかは叔父夫婦を殺めることになりかねん。

人を殺めれば畜生道に落ちると祖父に教えられていた。

そんなことを考える人間が生きていても仕方ない。

そうなったら天国なんかには行けんやろうし、祖父を裏切ることになる。

それが何より、少年にとっては耐えられんことやった。

その数日後、少年は祖父から貰った形見とも言える小太刀の木剣と、貯めていた千円ほどの小銭を持って家を出た。

ちなみに、その当時の千円というのは、今よりはるかに値打ちがあった。

何しろ、かけうどん一杯50円、手紙は10円で出せたし、ハガキも5円の時代やったさかいな。

それが、クリスマスの夜やった。

生まれて初めて夜の繁華街を少年は彷徨(うろつ)いていた。

その年は、東京、神戸間を新幹線が開通し、東京オリンピックが盛大に行われ、街は好景気に沸いていた。

少年と祖父が好きやった、阪神タイガースがセ・リーグ優勝したのもこの年やった。

もっとも、日本シリーズには南海(現、ダイエー・ホークス)に3勝4敗で負けたがな。

余談やが、その阪神タイガースは、その後21年の長きに渡って優勝から見放されることになる。

繁華街ではジングルベルの音楽が、そこかしこから賑やかに流れていた。

サンタクロースに扮したサンドイッチマンやチンドン屋も、今が稼ぎどきとばかり懸命に動き廻っている。

ケーキ屋の前には、箱詰めのケーキが山積みされていた。

酔っぱらいのサラリーマンたちが居酒屋へ何やら喚きながら出入りしている。

流しのギター弾きもいてた。

少年にとって、その喧噪の一つ一つが新鮮に映った。

少年は、ふと、路地裏で誰かが揉めているような気配がして、そちらに目を向けた。

どうやら、若い女の人が、チンピラ風の男に絡まれとるようやった。

「なあ、ねえちゃん、ええやないか、そんなツンツンせずに俺と付き合えや」

その若いチンピラは、そう言いながら、肩に手を回そうとしてた。

その若い女の人は懸命に、その手を振り払っていた。明らかに嫌がっている。

その若いチンピラが、少年の視線に気がついた。

「こら、何、見とんのじゃ。あっちへ行け、糞ガキが!!」

「お姉さんが嫌がってるやないか。止めろよ」

そう言いながら、少年は竹刀袋に収めたままの小太刀の木剣をその若いチンピラに向けた。

助けるつもりやった。

「おじいちゃん、これは人助けやから、ええじゃろ」

少年は、心の中でそう呟いた。

「何や、赤胴鈴の助か、面白い、ちょっと遊んでやるか」

赤胴鈴の助というのは、その当時の5、6年前に流行った少年剣士が主人公の人気テレビドラマやった。

そのチンピラは、少年が小太刀を構えるのを見て、それを連想して茶化したわけや。

チンピラは、にやつきながらズボンのポケットから、おもむろにジャックナイフを取り出した。

それに少年は動じることはなかった。

刃物を向けられるのは、祖父との修行中に日本刀を良く突きつけられていて慣れていたから、その恐怖心は微塵もない。

底光りのする日本刀の迫力に比べれば、大型ナイフとはいえ、少年にとってはオモチャにも等しいものやったさかいな。

しかも相手は、祖父のような剣の達人とは違うて、剣の心得などないド素人や。

「ほらっ、ほらっ」と、チンピラは起用にジャックナイフを左右の手に振りながら、半ばバカにした仕草で近づいてきた。

少年は、自分の間合いに入るのを、じっと待った。

「えいやーっ!!」

少年の奇声が発せられると同時に「痛っ!!」とチンピラが呻いた。

少年の得意の小手打ちが極まり、ジャックナイフが地面に転がった。

「この糞ガキがぁ!!」

怒りで我を忘れたチンピラは両手を広げ掴みかかってきた。

少年は素早く体を躱(かわ)しながら、チンピラの向こう脛(ずね)、俗に言う弁慶の泣き所を打った。

「ぎゃーっ!!」

チンピラが絶叫を放って転がった。

手応えがあった。完全骨折、少なくとも骨にヒビくらいは入っているはずや。

少年の持っている木剣は本黒檀といって当時でも珍しい高級品で、祖父が少年のために一流の木刀職人に作らせたものやった。

本黒檀は木材の中で、もっとも堅い木で、それで作られた木剣の破壊力には凄まじいものがあるとされていた。

少年の力でも脳天に打ち下ろせば死ぬ危険すらある。

少年は、そう聞かされていたから、敢えて、腕や足を狙ったわけや。

「お姉ちゃん、こっち」

少年は、その彼女の手を無理矢理引いて走り出した。

そのチンピラの仲間が近くにいるかも知れん。

一人、二人なら何とかなりそうやが、子供ではいくら剣の心得があると言うても限度がある。

ここは、逃げるしかない。

少年は、走りながら、チラッとその彼女を見た。

相変わらず、無口やった。

「ありがとう」の一言すらない。

一瞬、少年は、とんでもない間違いを犯したのやないかと考えた。

あのチンピラは、この彼女の彼氏か知人やなかったのかと。

しかし、その少年の視線に気づいた彼女が、頭をペコリと下げ微笑んだのを見て、そうではないと知りすぐに安心した。

「ここまで来れば、もう大丈夫じゃろ……」

少年は、肩で大きく息をしながら、その彼女と自分自身に向けて、そう呟いた。

そこは住宅街の中にある小さな公園で、繁華街からは相当離れている。

公園に人影はなく、静まり返っていた。

ふたりはベンチに腰を下ろした。

少年は、彼女を見た。

美人やった。大きな瞳がきらきらと輝いて見えた。

最初に見たときは、もっと大人かと思っていたが、意外に若そうやった。

もっとも、少年よりかは、かなり年上なのは間違いないがな。

少年に見つめられた、その彼女は少し戸惑ったような表情を浮かべながら、近くで小枝を見つけると、地面に字を書き始めた。

……ありがとう。強いのね。

少年は、即座に、その彼女が、無口というのやなく、喋れないのやと気づいた。

……あなたの名前は?

……ヒロシ。

少年もすぐに小枝を拾い上げ、そう書いた。

……私は、エリコ。

それが彼女の名前やという。

後で知ったことやが、健常者と聾唖(ろうあ)者の間で交わすコミュニケーションとしては、この筆談が最適なのやという。

少年の声は、そのエリコと名乗った彼女には届かず、逆に聾唖者の手話は、健常者の少年には分からない。

つまり、この筆談というのが、お互い一歩ずつ歩み寄れる最良の方法ということになる。

……あなた、いくつ?

……11。おねぇさんは?

……私は15。

15歳と言えば、まだ少女やが、11歳の少年には大人に近い女性に見えた。

……あなたのような子が何であんなところにいたの?

……家出したんや。

おそらく、少年は、このエリコ以外の人間に同じ質問をされたら、こうは答えてなかったと思う。ごまかしていたはずや。

少年は、なぜか、このエリコの前では素直になれた。

……そう。

……おねぇさんは、なぜ?

……私も家出したの。

お互いの目と目が合い、一瞬の沈黙の後、どちらからともなく吹き出すように笑った。

その後も、しばらく筆談は続いた。

少年は、エリコには隠さず、すべてを語った。

もっとも、さすがに死ぬつもりやとまでは言えなんだがな。

エリコは、現在、孤児院の施設にいるという。

本当の両親は存在しとるのやが、そのいずれもエリコを引き取るのを拒否しとると話す。

その点では、少年も同じような境遇と言えた。

……孤児院という所は辛いの?

……そんなことはないよ、先生たちはやさしいし、友達も多いよ。

……じゃあ、どうして?

……私、クリスマスソングが歌いたいの。

「えっ、でも……」

少年は、言葉に窮した。

正確には、筆談で何も書けなかった、やがな。

耳が聞こえなくて話せないのやから、そのクリスマスソング自体が、どんなものか分からんはずや。

少年は、そこまで考えて、あの繁華街の喧噪から音が消滅した状態を想像してみた。

それは、ある意味、恐ろしい光景やった。

今まで想像もしたことがないような世界がそこにある。

しかも、エリコにとって、それが現実であり日常なわけや。

……あそこにいると、そのクリスマスソングが分かると思って。

エリコの言うには、耳で聞こえなくても、感覚でそれと分かるという。

それを感じ取りたいためだけに、あの場所にいたのやと話す。

それも、クリスマスの日でないと意味がないから、黙って施設を抜け出したということらしい。

少年は、ふと、あることを思いつき、エリコの手を取って、鉄棒のところまで連れて行った。

……この鉄棒を握ってみて。

エリコは少年の言うとおり、鉄棒を握った。

少年は、木剣でその鉄棒を叩いた。

……分かる?

少年は、音は分からなくても振動は伝わるはずやと思うた。

……分かるわ。

……じゃあ、ジングルベル、いくね。

少年は、そう言うと、その鉄棒の端をジングルベルのリズムを刻みながら叩き始めた。

……すごい、すごいわ。

エリコは、すっかり興奮していた。

叩き始めてしばらくすると、エリコの口もとから「う、う、う」と声が発せられてくるようになった。

聾唖の人は耳が聞こえなくても、声帯は健常者と変わりはない。

ただ、声を出すことはできても、それが言葉にまでならんから黙っているだけの話や。

その「う、う、う」という唸り声が、次第にリズムを刻むようになってきた。

しかも、それは、聞きようによってはジングルベルに聞こえる。

「すごい、すごい。すごいよ、おねぇさん」

少年も夢中になって、鉄棒を叩き続けた。

どのくらいの時が経ったか定かやないが、エリコの口元から発せられる声のリズムは紛(まご)うことなく、ジングルベルのそれになっていた。

……ありがとう、ヒロシ君。もういいよ。

「でも……」

まだ、叩けると少年は言いたかったが、エリコも辛そうだったので止めた。

おそらく、エリコもこんなに長時間、唸り声を上げたことなどなかったはずや。

疲れて当然やと、少年は思った。

……ヒロシ君、死んじゃだめよ。

「……」

エリコに少年の心の中を見透かされていた。

同時に、心底すごい人やと思うた。

……ヒロシ君は、剣道以外に何か好きなことがあるの?

……本を読んで、作文を書くことくらいかな。

本を読むのは以前から好きやったが、今は、現実逃避のために、その物語の架空世界に飛び込みたくて読んでいる。

作文は、これも幼いときからの祖父による英才教育の一環で、良く字を書かされていて、その延長で書いていた。

小学2年生のとき、少年の書いた作文が、全国紙A紙主催のコンクールで金賞を取ったことがあった。

それが掲載された新聞を祖父はかなり買い込み、親戚、知人に配り歩いたという。

厳しい祖父やったが、その喜び方も尋常やなかった。

子供は、その期待に応えられたら嬉しいもんや。

少年は、それをきっかけに作文を書くことが好きになった。

……すごいじゃないの。将来、それを活かして作家さんになりなさいよ。

……作家さん?

少年は考えもしないことを言われた。

……それで、いつの日にか、その叔父さんや叔母さんたちを見返してやりなさいよ。

……そうだね。

……私は、聾の歌手になるのが夢なのよ。人は絶対無理だと言うけどね。

……そんなことないよ、おねぇさんなら絶対なれるよ。

少年は、本気でそう思った。

……そうと決まったら、私、そろそろ帰るわ。施設の先生や友達が心配しているから。

……僕も帰る。

少年には、もう死にたいという気持ちはカケラも残っていなかった。

少年が過酷やと思うてた生活は、エリコのそれと比べれば取るに足らんものに思えた。

それも修行と思えば耐えられる。

……おねぇさん、また会える?

……会えるよ、また。

エリコは、そう書き残すと、「う、う、う」とジングルベルのリズムを唸りながら、少年に笑いかけ、小走りに去って行った。

少年は、その後ろ姿を見送りながら、なぜか、心が切なくなってきて仕方なかった。

後年、それが少年にとっての初恋やったと気づいた。

少年の名は、白塚ヒロシ。つまり、ハカセのことや。

「ハカセ、ええのか、かなり赤裸々な身の上話になっとるようやけど」

「いいですよ。別に隠すことでも恥ずかしいことでもありませんし。もっとも、自慢するような話でもありませんけどね。それに……去年は、ゲンさんだって」

去年、旧メルマガ『第176回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■天国からのクリスマスプレゼント』(注2.巻末参考ページ参照)で、ワシの子供の頃の、ちょっとした奇跡めいた話をしたことがあったが、ハカセが言うてるのは、そのことや。

毎年、クリスマス直前の金曜日にその話をするのが、メルマガの恒例となっていて、4年続いていた。

今回で5回めになる。

「今回は、ハカセの奇跡の話というわけやな」

「いえ、本当の奇跡的な話はこの後です。しかも、それは現在、存在している奇跡でもあります」

今年の10月10日、金曜日。

ハカセは、この日の早朝、いつものメルマガの発行手続きを済ませ、遅めの朝食を採りながら、朝のニュース番組を見ていた。

そのニュース番組、テレビ朝日「スーパーモーニング」の中で特集されていた「女優は元ホームレス半生を語る」というのを見て、思わず手に持っていた箸を落とした。

その刹那、実に44年前の古い記憶が鮮明に甦ってきた。

テレビに映し出されていた女優と、あのときのエリコが重なった。

といっても、44年の時が過ぎているわけやから同一人物やないのは明らかやがな。

それに美人ということまでは思い出せるが、その顔の実体となるとぼやけ、靄(もや)がかかっていて鮮明さがない。

それにしても……。

良く似ている。似すぎている。

そう思わずにはいられなかった。

その女優の名は、岡田絵里香。1983年3月14日生まれの25歳やと紹介されていた。

聾唖(ろうあ)の人というのも同じなら、あのきらきらと輝いていた大きな瞳まで同じや。

エリコと絵里香。名前まで似ている。

その放送の中で、語られていた境遇も、あの日、エリコから聞かされた話とそっくりやった。

こんな偶然があるのかと思った。

くしくも、その日、ハカセが発行したばかりのメルマガ『第18回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■長かろうと短かろうと、それが人生』(注2.巻末参考ページ参照)は、その数日前に亡くなったお父さんを偲んでのものやった。

その中で、ハカセはサイトやメルマガを始めて4年以上になるが、初めて自身の生い立ちについて触れた。

それは、子供のハカセにとって地獄の日々以外の何ものでもなかったという。

ただ、そのときでさえ、今回のようにその中身にまでは触れようとはせんかった。

しかし、その彼女、岡田絵里香は、多くの人が見るであろうテレビ放送にも関わらず、その過酷な体験を堂々と語っていた。

その放送の中で、彼女は、両親の離婚により、両方の親から疎まれ行き場を失い、小学5年生でホームレス生活を経験したという。

そのとき、あまりの喉の渇きから雨で溜まった泥水をすすったという話までしていた。

それを見ていてハカセは「私は自分自身がとても卑小な存在に思え恥ずかしくなりました」と言う。

そして、その彼女の存在を知り、どんな体験も恥ずべきものはないと知った。

恥ずべきは、それを恥とする心やと。

自身に疚(やま)しい行いがなければ、堂々としとればええ。

生まれや育ちは、その人にとっては、生きてきた証でもあるわけやから、それを卑屈に考える必要はどこにもない。

そのことを、ハカセは30歳ほども若い、その彼女に教えられた。

年五十にして四十九年の非を知る。という故事があるが、まさにその心境そのままやったという。

岡田絵里香は、現在、聾唖者であっても一流の女優になれると信じて努力した結果、その実力が各方面で認められつつあり、その人気も確実に高まってきている。

このメルマガの読者の方にも、そのファンがおられることと思う。

近い将来、本当に一流の女優になるものと、ハカセは信じている。

人はどんなハンデがあろうと夢をなくさなければ、それが叶うというのを具現化しとる存在やと言える。

ワシも、男女年齢の壁を越えて、素直に尊敬できる人やと思う。

彼女のオフィシャルブログサイトに「ロンリーバタフライ」(注3.巻末参考ページ参照)というのがある。

そこで、彼女は自伝の映画を作る夢に対して、広く寄付を呼びかけている。

ハカセは、それが実現すれば多くの人に勇気と希望を与えられるということで、微力ながら協力を申し出たという。

そうすることで、どこかで力強く生きておられるであろう、エリコさんもきっと喜ぶものと信じて。

読者の方で、それに賛同してもええと言う人がおられたら、是非、協力してあげて頂きたいと思う。

もうすぐ、今年もまたクリスマスがやってくる。

ハカセの心の中には、今でもエリコさんのジングルベルの歌が聴こえてくるのやと言う。

そして、それはこれからもずっと変わることはないと。



参考ページ

注1.第176回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■天国からのクリスマスプレ
ゼント
http://www3.ocn.ne.jp/~siratuka/newpage13-176.html

注2.第18回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■長かろうと短かろうと、それが
人生
http://www3.ocn.ne.jp/~siratuka/newpage19-18.html

注3.岡田絵里香オフィシャルブログサイト「ロンリーバタフライ」
http://ameblo.jp/okadaerica/

注4.メールマガジン・新聞拡張員ゲンさんの裏話・バックナンバー
http://www3.ocn.ne.jp/~siratuka/newpage13.html


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