メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー
第283回 ゲンさんの新聞業界裏話
発行日 2013.11. 8
■書籍『蟻地獄の底から』……数奇な運命に翻弄されたある女性の生涯
みずほ出版から一冊の本がハカセのもとに送られてきた。最後の1冊やという。
その最後の1冊が、なぜハカセのもとに送り届けられたのか。
事の起こりは、当メルマガ『第272回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■みずほ出版営業1課金子の奮戦記……自費出版無料相談会の人間模様』(注1.巻末参考ページ参照)で話したことからやった。
みずほ出版さんには、ワシらの書籍『新聞拡張員ゲンさんの新聞勧誘問題なんでもQ&A選集』および『ゲンさんの新聞勧誘問題なんでもQ&A選集 電子書籍版パート1』を出版する際、いろいろとお世話になったということもあり、『自費出版無料相談会』の告知を、このメルマガ誌上でさせて貰った。
その時、ハカセは、
過去、そちらで扱われた自主出版本の中で、当サイトの読者のためになるような面白い書籍がありましたら、教えて頂けませんか。
そのような書籍がありましたら、一度読ませて頂き、私の方で紹介できると思ったものについて、作者の了解を得た上で、メルマガ誌上で紹介したいと思いますので。
と提案した。
ハカセは経験上、世に知られていなくても面白い書籍が埋もれていることを知っているので、そういうものがあれば純粋に読んでみたいと思ったという。
また、どんな人たちが自主出版本の依頼をされているのかを知りたかったというのもあると。
その候補として、幾つかの書籍のリストが届けられた。
ハカセは、その中の1冊の紹介文に、
小学校の卒業を待たずに織物工女として働き始めるが、だまされてダンスホール兼ホテルの接客婦として売られてしまった青春、前借金に縛られた過酷な生活の中で、運命の人に出会い「足抜け」して結ばれますが、まもなく夫は輸送船の機関士として戦場へ・・・・
戦死の知らせを受け取った著者は、夫の最期を知りたい一心で軍隊に志願します。
「女子軍属」として、上海に渡りそこで見聞したこと、敗戦による捕虜生活、「蟹工船」を思わせるような復員船の状況、さらには終戦後の闇市の様子など、著者の稀有な体験をまとめた自分史です。
貧乏と戦争にもてあそばれ、まさしく「蟻地獄」のようであった人生を、卒寿をむかえる著者が、鮮明な記憶から紡ぎ出しています。
時代の証言として、貴重な一冊です。
とあるのに興味を覚えたと言う。
それが、書籍『蟻地獄の底から』やった。
ハカセは、早速、その本を送って欲しいと、みずほ出版の担当者である金子氏に打診したが、
「蟻地獄の底から」については、現在在庫を確認させていただいております。
この本は、著者の方がご高齢ということで、編集をされているご友人が窓口として弊社とやりとりをしてくださっていました。
私も著者様ご本人にお会いしたことはなく、その方は2010年に他界されました。
その後も本の販売については、編集者様とやりとりをしておりました。
編集者様も、できればなるべくたくさんの人に読んでもらいたい、と熱い想いを語っておられましたので、候補に入れさせていただいた次第です。
ただ、今回のことで久しぶりにお電話したところ、編集者様も昨年お亡くなりになられたことがわかりました。
在庫については、編集者様のご家族がお送りくださるとのことです。
探すのに少し時間がかかるとおっしゃっていましたので、お送りできるのは来週以降になりそうです。
恐れ入りますが、ご了承ください。
との返事があり、その3週間後、金子氏から、
「蟻地獄の底から」について、編集者様のご家族からご連絡いただけましたの
で、ご報告いたします。
今回、せっかくの機会でしたので、編集者様のご自宅に行ってご仏前にお参りしてきました。
奥様からいろいろお話を伺ったのですが、この本の編集以外でも、たくさん文章(エッセイのようなものが多かったようです)を書かれていて、もしか したら自分でも本を出したかったかもしれませんね、とおっしゃっていました。
在庫は少量残っていましたが、汚れているものが多かったそうで、きれいなものは1冊だけだったとのことです。
そのため、実質今回お送りするものが最後の一冊ということになります。
ということで、その最後の1冊がハカセのもとに送られて来たというわけや。
誰でも自身の生き様を書けば1冊の本ができると言われている。私小説、自分史と呼ばれているものの大半がそうや。
その意味で言えば送られてきた書籍『蟻地獄の底から(著者松本つな、編集中村呑海)発行、みずほ出版』も私小説、自分史の部類に入る。
ハカセと違って、ワシは普段、漫画本以外の本はあまり読まない。
まあ、時折、このメルマガ誌上で書籍の紹介をすることがあるさかい、多少読むようにはなったがな。
ハカセが推薦しているということもあるが、今までこのメルマガで書評した書籍は、それぞれ面白かった。あるいはためになるものが多かった。(注2.巻末参考ページ参照)
もっとも、それやからこそ紹介したわけやけどな。読者のためになると判断して。
今回の書籍『蟻地獄の底から』も紹介するに値する1冊であることには間違いない。
著者の目を通して、貧しかった頃の日本の戦前、戦中、戦後の社会情勢や人々の生活が事細かく語られていて、歴史的な資料価値も高い。
また、この著者は女性の身でありながら、夫の戦死した理由を解明するために女子軍属として軍隊に飛び込むという普通では考えられない行動力を示されている。
その折りに見聞きされた事象や出来事は証拠資料としても有意義なものやと思う。
後にストーリーを追いながら詳しく話すつもりやが、昨今何かと話題になっている「従軍慰安婦問題」に関する文書の存在などの記述は、実に興味深いものやった。
著者が、この作品を書くためにされた努力には頭が下がるという趣旨のことを、この著書を編集された中村呑海氏が「あとがき」で言っておられる。
小学校の卒業を待たずに幼くして働きに出なくてはならなかったため、満足な教育を受けておられないにもかかわらず、原稿は、旧仮名遣いであることを除けば、その殆どが正確な漢字で記されてあったという。
中村呑海氏が「文章をどのようにして学ばれたのか」と尋ねると「新聞や婦人雑誌をよく読んでいたのと、後年、尼寺での修業の際、経文から漢字を会得した」と答えられている。
ちなみに、当時の婦人雑誌には、ほぼすべての漢字に振り仮名がふられていたとのことや。
全体としては、女性の文体らしく、です、ます調で綴られている。
前置きは、このくらいにして、そろそろ始めさせて頂く。
尚、登場人物の名前に関しては現在も関係者のご家族が生存されておられることを考慮して、カタカナ表記にさせて頂いた。
ヒサコが生まれたのは大正8年(1919年)12月6日。
ヒサコが小学3年生の頃、父親の経営していた店が従兄弟の裏切りにより経営難に陥ったことで、給料を支払って貰えない使用人たちが怒り出し、家財道具のすべてを奪われてしまう。
子供たちが飼っていたニワトリ10羽をことごとく殺して食い、正月用の餅まで持って行き、残ったのは二組の布団だけやったという。
両親は、ヒサコを含めた子供4人と「親子心中するしか仕方ない」というところまで追い込まれる。その時は、近所の善意によって助けられた。
その後、一家は、使用人たちの再訪を恐れ、名古屋市から蒲郡市に移り住むが、そこでも不幸は続いた。
父親が働いていた会社が倒産したのである。それを知った米屋、八百屋、味噌屋が売掛金の「金を返せ」と毎日押しかけてくるようになった。
そんな日が2、3日続いた頃、ヒサコが通っている小学校の校長が家に訪れ「こんなに困っているんじゃ、岡崎の芸者屋を紹介してあげよう」と言ってきた。
ヒサコを芸者屋に身売りしろということや。その小学校の校長にすれば、善意で持ちかけたつもりだったようだが、とんでもない話である。
しかし、この時代には生活に困って娘を身売りする親がいたのは事実で、それ自体は珍しくはなかった。
ヒサコの父親は「ワシは無学だが、いやしくも教育者たるものが、教え子を芸者に売る話を持ってくるとは何事だ」と怒って追い返した。
ただ、小学6年生になったヒサコは、その生活苦のため自らの意思で「働こうと思っているから、使ってくれるところを探して欲しい」と親に訴えたという。
それで、当時、蒲郡駅前にあった織物工場で働くことになった。
織物工場で働く女性工員の労働環境は劣悪を極めた。薄給の上に、午前4時半〜午後8時頃まで、食事時間の15分以外は、ぶっ続けで働かされたという。
ヒサコはその仕事が嫌で辞め、好条件の職場を求め転々とした。
人絹(レーヨン)と呼ばれる化学繊維を扱う工場で仕事をしていた時、ヒサコは正体不明の病気になりダウンする。
人絹(レーヨン)は絹に似せて作った再生繊維で、パルプやコットンリンターなどのセルロースを水酸化ナトリウムなどのアルカリと二硫化炭素に溶かしてビスコースにし、酸の中で紡糸して(湿式紡糸)製造する。
ポリエステルなど石油を原料とした化学繊維と違い、加工処理した後に埋めると土に還る。
そのため、人絹(レーヨン)自体は環境に負荷をかけない繊維とされているが、製造時に出る二硫化炭素の毒性や、強度が低いことなどが問題となって、その後、製造が中止されている。
ヒサコも他の人間から身体によくないとは聞いていたが、条件と待遇が良いということで続けていた。
今なら、公害病に認定されるだろうが、その当時には、そういうものはなかった。
その後、身体も回復して、そろそろ仕事をしようと考えていたある日、工場勤めをしていた時の知人から「横浜に良い仕事がある。女中さんだが、工場の仕事よりお金になるから行かないか」と誘われ、それに乗ってしまった。
行った先は、高級ダンスホール『シカゴ』だった。そこのダンサー、踊り子として連れて来られた。
洋風、和風の違いはあるが、芸者屋に売られたようなものと考えれば分かりやすいと思う。
つまり、半分騙されて連れて来られたわけである。親たちには適当なことを言ってごまかして金を渡していた。親たちは、それで黙った。
ヒサコは、その間の辛い出来事や事情にはあまり触れず、綺麗に着飾ったことや仲間との楽しかったことばかりを振り返っているが、場合によれば性を売り物にすることもあっただろうと思われ、女性には耐え難い過酷な状況ではなかったかと想像できる。
もっとも、だからこそ詳しく記述することを躊躇(ためら)われたのやろうとは思うがな。
この章のエピソードを語る際に、「蟻地獄との出会い」というサブタイトルをつけていることからも、その苦悩を推し量ることができる。
『シカゴ』に船舶会社に勤め、輸送船の機関士をしているマツモトという船員がやって来た。当時、船員は船乗りといって粋な仕事だと世間では認識されていた。
マツモトはヒサコを気に入り足繁く通うようになり、ヒサコもマツモトを慕うようになる。
マツモトの「僕は君を大切にしていく。今すぐにどうすることもできないが、必ず本当のお嫁さんにする」という言葉を信じて、ただひたすら、その日が来るのを待った。
当時の高級ダンスホール『シカゴ』のようにダンサー(踊り子)に半ば売春を強要して稼いでいる所では当然のことだったかも知れないが、働けども働けども借金は減らない仕組みになっていた。
むしろ膨らんでいくケースの方が多かった。ステージ衣装や装飾品は、すべてダンサー(踊り子)の借金になっていたからや。
加えて、ヒサコからの仕送りをアテにして暮らしていた両親と兄弟たちに毎月金を送っていたということもあった。
新聞拡張員も仕事のできる者ほど多くの借金をさせて縛るケースがあるが、それと似ている。
借金で身動きを取れなくするという手法は、多くの業界で昔から行われてきたことや。
もっとも、ヒサコのそれは拡張員とは比べものにならんほど精神的にも肉体的にも過酷なものやったろうがな。
昭和16年(1941年)12月8日の日本帝国海軍による真珠湾攻撃から、日本は太平洋戦争に突入する。
昭和17年(1941年)の正月。
高級ダンスホール『シカゴ』には上流階級の客が多く、世の中は真珠湾攻撃の大勝に浮かれていたが、彼らは異口同音に「日本は戦争をするべきではない。今に負け戦だ」と言っていたという。
確かな情報を入手できる立場の富裕層には、的確な状況分析ができたということやろうと思う。
もっとも、「遊ぶのも今のうち」と言ってたというから、何のための状況分析かは分からんがな。
ちなみに、当時、軍の命令で輸送船に乗っていたマツモトは、以前ほどその行く先を告げることはなく、またいつ来るかも分からない状態になっていた。
当時、アメリカなどの連合軍によるスパイ活動が活発で、軍から情報を漏らすなと厳命されていたということもある。
何かの弾みで情報を漏らしたことが発覚し、ヒサコに害がおよぶことをマツモトは恐れた。
そういうこともあって、しばらくの間、マツモトとの音信が途絶えた。
そんな時、ヒサコは「足抜け」をした。要するに逃げ出したわけや。『シカゴ』に来て5年、24歳の時やった。
踊り子が『シカゴ』のような店から「足抜け」をすると、当時はヤクザなどを使って徹底的に行方を追うのが当然とされていた。何年でも追い続けることもあるという。
そのため、「足抜け」をした者は、その事実をひた隠しに隠す。ヒサコのように、その事実を後年とはいえ明かす者の方が圧倒的に少ない。
ヒサコは当時の客で、ヒサコに好意を持っていた大学生のシマノの所に身を寄せた。シマノは神戸の灘にある大手酒造会社の御曹司だった。
結局、シマノは『シカゴ』の要求どおり、ヒサコの借金として126円を支払って身請けした格好にした。当時としては、かなりの大金である。
もっとも、借金を払ったからといって「足抜け」の事実が消えるわけではない。
通常、借金は倍返しした上で、関係のあった料理屋などに「ご祝儀」を支払って初めて業界から縁を切ることができる。そうして初めて正式な身請けが成立するのである。
シマノのように借金だけ支払って踊り子を連れて逃げると、「足抜け」したという扱いを受ける。
店によれば再度、捕まえて、捜し代を借金に乗せ遠くへ売り飛ばしてしまうのが、当時の掟のようになっていた。
その点では、ヒサコのケースは幸運やったと言える。
それには戦時中のことで、ヤクザも若い連中は徴兵に取られて捜す者も少なく、また同じような理由から店に遊びに来る若者も極端に減って商売を続けていけない状況にあったからやと思われる。
ただ、いつ追っ手に捕まるかも知れないと考えたヒサコは、そのことには長い間、口を閉ざしていた。
通常、身請けというのは愛人になることを意味するが、シマノはヒサコに指一本触れなかったという。
周囲には妹ということにし、ヒサコのためにアパートを借り、いろいろと生活の面倒を見た。
ヒサコも甘えてばかりはいけないと考え働こうとするが、「どこにも働きに行かなくても良い」と言ったという。
この本の中では、シマノのヒサコに対する恋心には触れられていないが、その思いは伝わってくる。
シマノはヒサコとマツモトのことは聞いて知っていた。すべてを知った上で、ヒサコが幸せになることを望んだ。ただ見守ることだけに徹して。
こういうのを「無償の愛」というのやが、今の若い人たちには理解しにくいことかも知れんな。
相手の女性がどのような境遇にいようと純粋に愛せる人がいる。
相手が振り返ってくれないと承知していても、その人のために徹底的に尽くす。純愛と呼ばれているものが、そうや。
もちろん、ヒサコが、それだけ魅力的な女性だったということもあったわけやけどな。文脈から、相当な美人やったようや。
戦争が深まるにつれ、シマノの通う大学でも軍事教育が多くなった。卒業すると軍隊に行かなければならない。
そうなるとヒサコが一人になり不憫だと思ったシマノは、マツモトを探して頼るようにと言う。
ヒサコは、『シカゴ』から正式に身請けされた同僚のユキコに会い、そのことを伝えると、直接『シカゴ』に行けないヒサコの代わりに、それとなく探りを入れてくれた。
ユキコの話によると、ヒサコが足抜けをして行方をくらました後、マツモトが『シカゴ』を訪れ、ヒサコがいないことに激怒したという。
その際、大学生のシマノがヒサコを連れて逃げたということを聞かされ、失意のあまり深酒をして、それっきり『シカゴ』には来なくなったと。
ヒサコは、その話を聞いて横浜にあるマツモトの勤めていた会社に行った。
その会社の人事課で、現在、マツモトは下船していて大阪の泉大津にいるということが分かり、急いで向かった。
教えられた住所を尋ねると、マツモトが出て来た。マツモトはヒサコを見て喜んだ。マツモトはヒサコに駅で待つようにと言う。
たまたまマツモトの両親は外出中だったから良かったが、ヒサコがいるとまずいことになるところだった。
ヒサコがいなくなったことで絶望していたマツモトは、両親の薦めで見合いをして結婚が決まっていた。今夜がその結納の日やったという。
つまり、ぎりぎりのタイミングで会うことができたわけや。
マツモトは、両親に見合い相手への破談の意思を書き記した手紙を残し、家を出てヒサコの待つ駅に向かった。
そのまま、二人は伊勢方面に新婚旅行のつもりで旅をする。その時に、ヒサコは今までの経緯をすべてマツモトに話した。マツモトは理解してくれた。
その後、ヒサコはマツモトの指示もあり、一旦、横浜のシマノのもとに帰る。シマノは、ヒサコがマツモトに会えたことを素直に喜んだ。
ヒサコはマツモトと結婚した。その頃、マツモトは以前にも増して軍関係の輸送船に頻繁に乗るようになっていた。
マツモトは「今の戦争は船と船との戦いではない。飛行機と潜水艦との戦いだから、日本が勝つのは無理だ。日本に潜水艦と飛行機がたくさんあれば勝ち戦だが、日本の主力は未だに戦艦だからな」と言っていた。
そして、「いつ死ぬか分からないからヒサコを置いて行くのは嫌だが、行くことを拒めば殺されるから仕方がない。俺はお前のもとに必ず帰ってくる。万が一、俺が死んでも後追い自殺してはならないぞ」と言い添え、広島の呉港から出港して行った。
その前夜、マツモトと過ごした広島の夜が最後の思い出になった。
その半年後の昭和19年(1944年)4月、マツモトが戦死したという電報が届いた。
ヒサコは、東京の本社まで行き、夫が戦死した時の状況を問い質したが、軍の機密ということで何も話してくれなかった。
納得できないヒサコは夫が、どんな死に方をしたのか、どこの海で死んだのかが知りたくて、海軍の女子軍属になって戦場に行こうと思い立ち、応募して採用される。
ヒサコは、上海中支派遣軍第十三方面司令部に配属された。つまり、中国大陸にまでやってきたわけである。
軍属というのは、軍人(武官または徴兵)以外で軍隊に所属する者のことをいう。
主に事務仕事に携わる文官が多い。軍では事務仕事をする者を「筆生」と呼んでいた。
ヒサコの夫、マツモトの階級が海軍予備中尉であったことから、下士官である曹長の階級が与えられた。実質的には将校と同じ扱いやったという。
ヒサコは司令部の管理課に配属されたということもあり、軍のマル秘情報や資料などを見ることができた。
ある日、ヒサコは従軍慰安婦についての書類を目にした。大学ノートくらいの大きさの書類の束で、右肩に慰安婦の写真が貼ってあった。
それには氏名、国籍、住所、本籍、生年月日、親の氏名が縦書きで記されていたという。
ヒサコは、今頃になって「従軍慰安婦は軍の命令ではなかった」などという人がいるが、軍と関係がなければ、司令部の管理課にそんな書類があるはずがないと主張する。
軍は、兵士の間に広がる性病と戦地での強姦を防ぐために従軍慰安婦を管理していた。また、敵スパイを監視する目的でも慰安婦を手なづけていたと。
戦地での戦闘が終わると「宣撫班」というのが出向き、それに従軍慰安婦が連れて行かれたという。
慰安婦の多くは朝鮮半島の人たちだったが、日本人もいた。その多くが女郎屋から連れて来られていたようや。
戦争が激しくなると徴兵により日本国内に若者がいなくなってしまい、女郎屋の経営が成り立たなくなっていた。
従軍慰安婦に参加すれば、客に困らないということで、女郎屋の経営者たちが積極的に参加していたわけである。
朝鮮半島の人たちが軍により従軍慰安婦として強制的に連行されたケースがあるのかどうかまではヒサコには分からなかった。
しかし、司令部の管理課にあった書類に氏名、国籍、住所、本籍、生年月日、親の氏名が記されていたというところからすると、少なくとも身元の確かな人間だけに限定して集めていたのは確かだったと言える。
その頃、日本国内の状況から、半ば占領されていた朝鮮半島の人たちの生活も楽ではなかったと推測できる。
そのため、家族の生活のために自ら進んで参加した女性もいたのやないかと推測する。むろん、強制的に連行されたというケースも否定はしない。
ヒサコの聞いた話では、女郎屋の経営者たちが朝鮮半島や中国大陸のあちこちに出向き、現地の女性たちに「戦地に行けば金になる。貯金もできる」といった甘い言葉で誘って騙して連れて来たケースもあったということや。
どんな事情、名文を掲げようが、そこに人権を無視した行いがあったとすれば許されることやない。
もっとも、戦争というのは、そうした悲劇を数多く生むものではあるがな。通常の常識や道徳などは通用しない。狂気のなせる所業やさかいな。
昭和20年(1945年)8月15日、終戦を迎えた。
この書籍の紹介ページに『敗戦による捕虜生活、「蟹工船」を思わせるような復員船の状況』とあるように、他の多くの引き揚げ者と同様に過酷な経験をしながらヒサコも帰国の帰途についている。
ヒサコは中国からの引き揚げ船に乗り、鹿児島の加治木港に着き、それから列車に乗って名古屋に向かった。
途中、汽車が広島駅に停車した時、窓の外を見てヒサコは、思わず立ち上がり「これが広島なの」と叫んでいた。
ヒサコの知っていた広島の町の面影はどこにもなく、広大な焼け跡には黒い棒がまばらに立っていて、鉄が飴のように曲がっていた。
8月6日、アメリカによって投下された原子爆弾のために。
最後に夫を見送りに来た際に泊まっていた博多屋旅館があった場所には何もなく、思い出の詰まった広島の町が消えていたのである。
名古屋も焼け野原だった。焼け野原の日本に帰ってきた人たちには、住む家はない、食べ物はない、働き口はないという、ナイナイづくしやったとヒサコは回顧している。
特にヒサコのように志願して軍隊に入った者の扱いは最悪やったと。
兵隊の中には、戦争中、あこぎなことをした覚えのある者などは捕まって裁判にかけられることを恐れ、山中などに隠れ住んでいたという。
最も悲惨なのは戦災孤児たちで、食べる物もなく垢まみれで着ている服もボロボロやったという。見ていられなかったと。
その後、ヒサコは闇市で商売を始めるが身体を壊して辞め、世の中に絶望し、横浜の尼寺に行って尼さんになり、夫の供養をしようと考えた。
しかし、それも1年で辞めた。
理由は二つ。
一つは、本格的な尼さんになるには得度式というものをしなければならず、そのために大金が必要だったのと檀家にも相応の記念の品を配らなければならず、それにも金がかなり必要やったからや。
金のないヒサコには、どうにもできない。ヒサコは、世間から離れたいと思って仏の道にすがったのに、ここでも金がついて回るという現実にがっかりしたという。
もう一つの理由は、もっと決定的だった。
ヒサコは、朝の勤行(ごんぎょう)が終わった後、本堂を掃除をするため、住職の座布団をめくった。
座布団の下には、男性の写真が置いてあり、その写真に無数の針が刺してあったのを見て驚いた。写真は住職のかつての夫のようだった。
ヒサコは、仏に仕える身で、檀家から尊敬されている住職ですら、この世の恨みを捨てきれないでいる事実に愕然として、「宗教は私を救ってくれない」と考え、寺を出ることにした。
しかし、寺で修業した1年は無駄ではなかった。小学校もまともに出ていないヒサコが、経文を読むことで難しい漢字を覚えることができたからだ。
また、新聞と婦人雑誌をよく読んでいたということもあった。それがあったために、この本の原稿が書けたのだと言う。
寺を出たヒサコは、その後、家政婦や肉屋、病院の付添婦などをして生計を立てて暮らした。
生涯、独身を通して。マツモトへの貞節を守るためだったのか、単に出会いがなかっただけなのかについて、ヒサコは何も語っていないので分からない。
晩年、ヒサコは貧乏と戦争にもてあそばれ、無我夢中で生きてきた、これまでの人生を振り返りながら、この本の原稿を書いたという。
1日おきのデイサービスに出かけ、猫の世話をしながら。
最後に、ヒサコは「新聞を読んだり、テレビのニュースを見たりして感じることは、日本はどんどん悪い方向に行ってしまうのではないかということです。
戦争を体験した年代が消えていった後のことを想像すると、空恐ろしくなります」と結んでいる。
『戦争を体験した年代が消えていった後のことを想像すると、空恐ろしくなります』と言った著者の言葉言葉が現実のものになろうとしている。
このメルマガでも何度か話したが、自民党が画策している『自民党憲法改正案』
(注3.巻末参考ページ参照)などが、まさしくそれで、戦争をしやすくするために憲法まで変えようとしとるのやさかいな。
今の若い人たちにとって、太平洋戦争は、すでに過去の出来事、歴史の教科書の1ページでしかないのやろうと思う。
ワシらの子供の頃は、実際に戦争を体験された人たちから、戦時中の悲惨な話を数多く聞かされて育ったということもあり、戦争に対する現実感と嫌悪感が強かった。
戦争が、まだ身近やったわけや。そのため、筆者の言いたいことがよく分かる。
当時の若者にとって反戦歌を歌うことが流行のようになっていた。取り立てて反戦運動をするまでのこともなく、戦争放棄が当たり前の時代やった。
しかし、戦争を歴史としてしか捉えていない今の若い人たちの中には、戦争を肯定するかのようなブログやツイッターでの発言や掲示板などへの書き込みが目立つようになっている。
加えて、現在、秘密保護法案とやらが国会で審議されとるが、これなどが成立してしまえば、戦前の日本に逆戻りになるのやないかと危惧する。
これについては、次回のメルマガで詳しく話そうと思うとるので、ここではこれ以上の言及は止めとくがな。
この書籍『蟻地獄の底から』の編集者、中村呑海氏が「あとがき」で、
こうした希有な体験を冊子にまとめ、残していくことに意義があると考え、殆ど1年がかりでやっと出版にこぎつけました。
小生の母親にあたる世代の記録を次の世代にリレーできたらと考えております。
と結んでおられるが、ワシらもそのとおりやと思う。
何でもそうやが、怖いのは、その出来事が忘れ去られた時やと思う。人は哀しいかな、悲惨な状況に遭遇しなければ分からないことが多い。
阪神大震災や東日本大震災が、そうであるように、その悲惨な状況に出会した人間、またそれを見聞した人間の責任として、後世に役立つ教訓を残していかなあかんと思う。
現在でも、中東などの戦争行為ののニュースは伝わってくるが、実際の惨状はテレビなどで見る映像の数十倍は悲惨なものや。放送倫理とかで放映できんだけの話でな。
多くの日本人は、それらの悲惨な戦争を対岸の火事くらいにしか考えてないようやが、このまま戦争を是認する風潮が強くなれば、日本がその渦に巻き込まれる日も、そう遠くはないやろうと思う。
そうなってからでは遅い。
平和を望むのなら、戦争をしないことに尽きる。そんな当たり前の事が、当たり前の事として長く受け継がれていって欲しいものやと思う。
いつもは、こういった書籍を紹介する時には、是非読んで欲しいと勧めるのやが、如何せん、ハカセに届けられたのが最後の一冊とのことやさかい、それはできそうにない。
著者の松本つな氏は2010年1月13日に他界されている。享年91歳。編集者の中村呑海氏も去年、2012年3月17日に亡くなられたということや。
ハカセも実際にお二方にお会いして、いろいろ話を聞きたかったようやが、今となっては、それも叶わない。
この書籍の存在を知ったのが、如何にも遅すぎた。
ただ、最後の書籍を送って頂き、その内容を知り得ることができたというのも、ご両名の引き合わせ、何かの縁と考え、微力ながらできうる限り、お二方のご意思を引き継いでいきたいと考えている。
最後に、すでに他界された著者の松本つな氏、編集者の中村呑海氏のご両名に対してこの場を借りて、心より哀悼の意を表したいと思う。合掌。
参考ページ
注1.第272回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■みずほ出版営業1課金子の奮戦記……自費出版無料相談会の人間模様
注2.第43回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■たかがマンガ、されど漫画……。
第124回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■真っ赤なお鼻のトナカイさんの話
第57回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■『ヤンキー、弁護士になる』から学ぶ、真の強さとは
第96回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■ボクは新聞配達員になるのが夢なんだ……ヘンリーくんの挑戦
第193回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■新聞販売店漫画「かなめも」とは?
第221回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■新聞営業専門書『セールスの生現場は新聞屋に学べ』について
第241回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■書籍『世界の子供たちに夢を~タツノコプロ創始者 天才・吉田竜夫の軌跡~』について
第273回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■漫画「はだしのゲン」の学校図書制限問題について
第280回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■桜塚やっくんの小説『美女♂menZ』……ハカセの後悔
注3.第254回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■自民党憲法改正案の是非 その1 憲法第96条、および第9条の改正について
第255回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■自民党憲法改正案の是非 その2 基本的人権が危ない
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