メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー

第300回 ゲンさんの新聞業界裏話


発行日  2014. 3. 7


■あれから3年、忘れてはならない東日本大震災の記憶


あれから3年になろうとしている。

2011年3月11日午後2時46分。

東北地方太平洋沖で日本の観測史上最大級の大地震が発生した。

震源地は三陸沖の牡鹿半島の東南東130キロ、仙台市の東方沖70キロメートルの地点。震源の深さは、その辺りの海底約10キロで比較的浅いとされていた。

その後、岩手県沖から茨城県沖までの南北約500キロメートル、東西約200キロメートルのおよそ10万平方キロメートルという広範囲が震源域と訂正された。

地震の規模を示すマグニチュードは9.0。阪神淡路大震災の約180倍の破壊力やったという。

気象庁の震度速報では宮城県北部で震度7、福島、茨城、栃木県などで震度6強、岩手、群馬、埼玉、千葉県で震度6弱を記録したと発表されている。

直後、岩手、宮城、福島県などの海岸を中心に広範囲に渡って津波が押し寄せた。

場所により10メートル超、最大遡上高40メートルの大津波が押し寄せ、道路が冠水、海岸数百メートルから数キロメートルの範囲で車や住宅が押し流され、火災が起きるなど、地獄絵図とも言える未曾有の被害が発生した。

直後の当メルマガ『第145回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■東北地方太平洋沖地震の悲劇の実態と今後の対策について』(注1.巻末参考ページ参照)で、その時の状況について話している。


絶句。

テレビに次々と映し出される津波の悲劇的な猛威を目の当たりにして言うべき言葉が見つからんかった。

車が家が船が電車が単なる漂流物として、いとも簡単に流されていく。中身の詰まった鉄のコンテナでさえ津波の前では木の葉同然に見えた。

自然の猛威と言うてしまえばそれまでやけど、その力の前では人間は無力な生き物でしかないという事実を、今更ながらに思い知らされた。

阪神淡路大震災を経験しているハカセも、「こんなに凄まじい光景を見るのは初めてですよ」と言う。

その阪神淡路大震災と、今回の地震を比べることはできん。

その地震の性質がまるで違う。

阪神淡路大震災の場合は内陸の直下型地震で多くのビルや高速道路、橋などの建造物が倒壊したことによる被害が大きかった。

しかし、その多くの被害は神戸とその周辺、大阪の一部に限定されていた。

今回は、建造物の倒壊というよりも東北地方の太平洋沿岸一帯の市や町が津波に呑み込まれたことによる被害が主になる。

中略。

この震災が今後の日本にもたらす影響は図り知れんくらい大きいものと思う。

極端なことを言えば、日本人の価値観、生活が根底から変わる可能性すらあると。

ええ意味においても悪い意味においても。


と。

当時、錯綜していた被害状況は、2014年1月10日の時点で、震災による死者、行方不明者は1万8,524人、建築物の全半壊は合わせて39万9,284戸。

震災発生直後のピーク時においては避難者は40万人以上、停電世帯は800万戸以上、断水世帯は180万戸以上だったことが分かった。

そして、2013年12月12日時点の復興庁の発表では実に27万4,088人もの人たちが3年近く経った今でも避難生活を余儀なくされておられるという。

その大きな原因の一つとなっているのが、震災直後の津波と停電による福島第一原発事故や。

その福島第一原発事故についても『第150回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■日本復興への提言 その1 原子力発電の廃止とその代替案について』(注2.巻末参考ページ参照)で、


東日本大震災から1ヶ月が過ぎたが、その爪痕は深く、その復興作業が遅々として進んでいない。

少なくとも、ワシにはそう見える。

大震災による津波被害で壊滅的な被害を被った市町村が多かったからというのは確かやが、それだけやない。

それだけなら、どんなに悲惨な状況であっても復興、修復は少しずつでも前進することはできる。

残念ながら失われた人命は戻って来ないが、後に残された者は、どんなに辛くても、その人たちの分も頑張って生きようと考えられる。

しかし、その思いに冷や水をぶっかけられているのが、福島第一原発事故やと思う。

確かに、事故そのものは、大震災と津波被害によるもので天災との見方もできるが、地震国日本で、その主張は許されない。

日本では「地震は必ず起きる」というのは常識や。すべての建造物は、それを前提として安全に建てる必要がある。

特に、原子力発電設備に関しては、その導入当時から賛否両論があり、万が一事故が起きた場合の危険性を指摘されていたにも関わらず、それを「絶対安全だから」と押し切って国策として作ったという経緯がある。

例え今回の地震の規模と津波の威力が「想定外」であったとしても、「絶対に安全だ」と主張し続けた限りは、その「想定外」を理由にするべきやない。

どんな事態が起きようと、すべてを「想定内」とし、「絶対に事故が起きてはならない」施設は、何があっても事故を起こしてはならんということや。

そして、現実に、こういった事故が起きたということは、その見込みが甘かった、悪かったという何よりの証になる。

「それは結果が最悪やったから言えることや」、「結果論で批判するのなら誰でもできる」という声が聞こえてきそうやが、長年に渡り「絶対」という言葉を使って、「原発不要論」、「原発危険論」を封じ込め、強引に原発を導入してきた限りは、それでは済まされん。

中略。

どんなに悲惨な状況であっても、その事が終われば、人は例え一からでも、マイナスからでも立ち上がって、やり直すことができる。

日本が、戦後、驚異的な復興を為し遂げられたのも、終戦時の状態が最悪で、それ以下がなかったからや。

今回のように家々が瓦礫と化し、焼け野原と化した状況が日本全体に点在していたという。

例え、そうであっても、それ以上は終戦ということで悪くなることがなかったさかい、人々は明日のために希望を持って頑張ることができた。

その頑張りにより、世界に類を見ないほどの驚異的な復興を成し遂げ、世界のトップクラスの国にまで昇り詰めたわけや。

しかし、福島第一原発事故には、その終わりが見えない。

原発事故の発生した当時から、事故そのものは大したことはない、すぐに収束すると政府や東電は言い続けてきたが、事態は日を追う毎に悪化していった。

その過小評価の発表の裏には、国民の原子力に対する無知につけ込み、実にええ加減な情報を流していたということがあった。

福島第一原発の設計に関わった元技術者たちの声が、そのええ証拠になる。

その報道の一部分を抜粋する。


「会社はコスト優先」 原発の元技術者ら ネットで自己批判
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/topic/280370.html より引用


「高台に建てたり、防水構造にしたりしていれば。想像力が足りなかった」

 60年代、国内に技術がなく、津波を想定しない米国の設計図をコピーして第1原発を設計した元東芝社員小倉志郎さん(69)は悔やむ。

 4号機の設計にかかわった元日立グループ社員で科学ライターの田中三彦さんは今回「政府や公共放送が危機を正しく国民に伝えていない」と感じている。

「格納容器内が8気圧になった時、普通は4気圧などと流していた。普通は約1気圧で、4気圧とは事故に備えた設計値だ。8気圧なら異常事態なのに、パニックにしないという配慮が多すぎる」


こういうありもしない事を「普通」と称して発表することを「捏造」と言う。

それは「誤報」の類やないかという意見もあるが、これは明らかに知ってそういう発表しとるわけやから、「捏造」と断言してもええと思う。

なぜ、そんなことをするのか。

「パニックを抑えるため」と説明するのやろうが、実際は原発廃止、またはその機運が盛り上がっては困る政府とその利権を欲する勢力の意向が働いたからやという気がしてならん。

これを正しく報道すると、


格納容器内の圧力は普通約1気圧で、4気圧というのは放射能を出さないための目標の数値。

それが、8気圧になったというのは設計の考慮をはるかに超えた状態で、危険な状況になったことを意味する。


ということになる。

これやと、誰でも「大変なことになっとるな」というのが、すぐに分かる。

実際にも、その後、どんどんと危険な状態になっていった。


と話した。

その後、地震による施設の損壊、電源確保の不備、東京電力の度重なる東京電力の虚言やごまかし、政府の対応のまずさなどが次々に発覚することにより、原発への信頼が一気に損なわれた。

そして、原発事故の深刻さに気づいた多くの国民が「脱原発」思考に傾いていった。

もっとも、未だに原発を利用しようという政府やその利権に群がる輩の暗躍が続いていて、原発の再稼働をしようと躍起になっとるようやがな。

原発の再稼働についての否定的な見解は当メルマガ誌上において、かなりの頻度で具体的な根拠と論証を交えて繰り返し訴えてきた((注3.巻末参考ページ参照))ので、ここでは控えるが、

その犠牲になって、今尚、帰宅難民者として3年近く経った今でも放射能汚染により避難生活を余儀なくされているという厳然たる事実があることだけは忘れてはならないと思う。

政府や電力会社、原発再稼働推進者たちの中には、そんな境遇を実感できる者は皆無やと断言してもええ。

避難生活を強いられている人たちの過酷さや痛みが分からず、また分かろうともせず、単に己の欲望、利益のためだけに原発を再稼働させようとしているとしかワシには見えん。

福島第一原発の事故は現時点においても、まだ何も終わっていない。いつ終わるのかという目処すら立っていない。

放射能汚染に至っては何の効果もない除染作業を繰り返すだけや。一部の悪徳業者が、それに群がっていると聞く。

汚染水の処理も限界に近づき、このままでは海に放出するということにもなりかねんという。

そんなことにでもなれば、日本は世界中から、非難を浴びることになるのは間違いないと思う。

日本政府が今全力でやり遂げなあかんことは、その福島第一原発の事故を正しく処理して終わらせ、今尚27万4,088人もおられるという避難生活者の方々の生活を1日でも早く解消することやと思う。

それやのに、安倍政権は原発再稼働に向け着々と歩を進めている。多くの国民の意志を無視して。

事故が完全に収束して完璧な安全対策が練られた上で国民に原発の是非を問うのが筋やと考えるがな。

順序がまるでなっていない。

確かに東日本大震災は地震、津波の規模とも未曾有の大災害やったが、それ以上に福島第一原発事故という人災にも等しい出来事があったがために、まったく先の見えない状況を生んでしもうたわけや。

それに政府や電力会社の愚策が輪をかけとる。これからもかけようとしとる。そんな連中に任せるわけにはいかん。

それについては、今後も何かあればメルマガ誌上で話そうと思う。

ただ、震災も悪い事ばかりではなかった。過去の大震災、大災害のすべてでそうやったように、そんな最悪な状況下で人と人との絆が生まれ、数多くの美談、感動話が誕生している。

その背景には仕事への「使命感」や「自己犠牲」、困っている人を助けたいという「思いやりの心」、「義侠心」、「ボランティア精神」といった感情、衝動にかられてというのが大半を占めるものと思う。

人は善を行う方が、悪を行うより数段、心の高揚と充実感、達成感、喜びを味合うことができるようになっている。

善を施すことのできる人は、ほぼ瞬間的にその行動を取る。理屈や打算が入り込む余地もなく、そうせずにはいられなくなるわけや。

場合によれば命すら投げ出す。

それが人の心を打つ。

危機に直面し究極の選択を迫られた場合、または窮地に置かれた場合、その人間の本性が分かる。

ワシは、今更ながらにそのことを痛感した。

これから、それらの事例について話す。

いずれも新聞やテレビで報道されていたものばかりや。


地域紙の記者4人による手書きの壁新聞


行方不明者が1万人にのぼるとされる宮城県石巻市では、地域紙「石巻日日新聞」が、被災直後の3月12日から5日間にわたって手書きの壁新聞を発行し続けた。

近江弘一社長は「ほしい情報はいま出さなければ意味がない。原点に立ち返り、壁新聞でいいじゃないかと思った」と語っている。

石巻日日新聞の記者4人が市内を駆け回り、道路の情報や被害の規模を油性ペンで書いた。掲示は市内の避難所など6カ所。

市立門脇中学校に避難しているHさんは、「1枚だけだけど、毎日欠かさず読んでいる。さすが地元紙本当にありがたい」と話している。

あるテレビ報道では、入社5ヶ月目で23歳になるという横井記者の奮闘ぶりにスポットが当てられていた。

その横井記者自身が被災者であるという過酷な状況にありながら、それと感じさせないひたむきな頑張りは多くの視聴者の心に響いたと思う。

もちろん彼一人が頑張っていたわけやない。

他の記者の中には、地震の取材に飛び出したまま安否の確認も取れていない方も何人かおられるという。

「石巻日日新聞」は、パートタイマーを含む総従業員30名ほどの小規模な夕刊専門紙とのことや。

電気もなく輪転機を動かせない状況でありながら、それでも被災者のために新聞社が、手書きの「壁新聞」を作って避難所に張り出すというのは、考えとるほど簡単なことやないと思う。

そんな話は過去にも聞いたことがないさかいな。

いくら規模が小さいとはいえ、新聞社としての誇りや体裁、葛藤も少なからずあったはずや。

それでも、近江弘一社長は「ほしい情報はいま出さなければ意味がない。原点に立ち返り、壁新聞でいいじゃないかと思った」と言い切って、それを実行に移しておられる。

『原点に立ち返り』とは、遠く江戸時代にまで遡った「瓦版」のことを言うてるのやと思う。

何も活字でなくても人々の望む情報、ニュースは伝えられる。

新聞には、そんな時代もあったと。

パソコンや携帯電話の電源を確保するために自動車のバッテリーから電源を取るなどの工夫を重ね、その壁新聞を続けたという。

その多くは「号外」という形で避難所に無償で配布されていた。


ラジオ石巻の取り組み


「無事でいますか?」「笑って会いますように」。

そう言ってラジオ石巻は市役所内から、昼夜を問わず安否情報を流し続けたという。

倒壊した家から出られず、釣りざおの糸の先に名前を書いた紙をぶらさげ、通行人に「ラジオ石巻で流してほしい」と託した人もいた。

フリーパーソナリティーの阿部沙織さんも被災し、局舎に寝泊まりする身。

「情報がないなか、ラジオが頼みの綱になっている。大変だなんて言っていられない」と話す。

地域密着のラジオ放送局というのも、その地域主体の情報が必要な人には重宝するものやと思う。

ラジオは電気がなくても電池でも聞こえるし、鉱石ラジオなら無電源でも聴くことが可能や。

案外、情報入手ツールとしては、このラジオというのが一番ええかも知れん。

『倒壊した家から出られず、釣りざおの糸の先に名前を書いた紙をぶらさげ、通行人に「ラジオ石巻で流してほしい」と託した人もいた』というエピソードには、ちょっとしたユーモラスな一面を感じた。

もちろん、やっている人は真剣で切実な行為やとは思うがな。

テレビやと取り上げて貰えるかどうかが分からず不安やけど、地元のラジオ局なら必ず取り上げてくれるからという思いを託す気持ちが、そこにあったのやろうな。


多賀城市広報課の取り組み


避難所では、回し読みの新聞はなかなか手元に回ってこない。

そこで、同県多賀城市地域コミュニティ課は市広報誌の号外を8千部つくり、18日に各避難所で配った。

「地震と津波が多賀城を襲う」という見出しで、被害状況を伝える写真を添え、インフラ情報や、市内の給水、道路の情報をまとめている。

片山達也同課長は「いちばん情報が必要なの被災地の住民に情報がいきわたっていない。今後も可能な限り2号、3号と発行していきたい」と話していた。

これはできそうで、なかなかできることやないと思う。

もっとも、そう感じたからこそ、報道の専門家である新聞社がわざわざ紙面を割いて、その記事を掲載しとるわけやけどな。

1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災でも、新聞や地域メディアが避難所を中心に活躍したが、それと同じことが自然発生的に起きとるということやと思う。


ツイッター 28歳、安否確認して連絡


「すみません。○○さんご存知ないですか?」

津波で甚大な被害を受けた仙台市若林区荒浜の避難者が多く集まる七郷小学校で、ノートを片手に廊下を走り回り、安否を尋ねる若い男性がいた。

同区の会社員、高山智行さん(28)。津波で家が半壊、自身も避難生活をおくる。

ノートに書いてあるのは、ツイッターで安否確認を依頼された100人以上の名前だ。

「ご友人やご家族とまだ連絡がとれていない方がいましたら、避難所にいる自分宛てまでレスください。探します!」

地震があった翌日の夜、高山さんは避難所からスマートフォンでブログやツイッターにそう書き込んだ。

反響は予想以上だった。ブログのアクセス数が、2日間で5千以上に。

ツイッターでは100以上の安否確認の依頼が寄せられた。避難所内を回った結果、約20人の安否を確認し、ツイッターで無事を知らせる事が出来た。 

「自衛隊のように誰かの命を救うことはできない。でも誰かの心が少しでも救えたなら、それで十分」と高山さんは話す。


新旧あらゆるメディア、通信方法を駆使して少しでも人の役に立ちたいという人たちがおられる。

今更やが、日本人は捨てたもんやない。この震災で日本人が取った行動に対して世界が絶賛するとおり、誇れる民族なのは間違いない。

そして、その記事を紙面で紹介した新聞社の存在、度量の大きさも立派やと思う。

ラジオや行政の取り組みを紹介するのは、ありがちなことやから特筆することでもないと思うが、他紙である「石巻日日新聞」や、普段は批判的なネット媒体まで褒め千切るというのは、正直、驚いた。

同時に、ええものはええ、多くの人に知らせるべきやという報道人の心意気と良心も感じた。

素晴らしい行いをする人が素晴らしいのは当然やが、それに匹敵するのは、その事実を知らせる行為やと考える。

当たり前やが、どんなに素晴らしい行いでも、それと知らされん限り、誰も気がつかんさかいな。

この外にも、まだまだ知られていない美談は数多くあったはずや。

3月11日が近づくにつれ震災に関連した映画やテレビドラマも多いので、そういったエピソードを知る機会もあると思う。

最後に、震災直後、


「それで、誰か一人でも連絡がついたんか」と、ワシ。

「いえ、地震の翌日からメールしているのですが、まだ誰も……」と、ハカセ。

ハカセは、過去サイトに情報を送って頂いたり、協力してくれたりしていた被災場所と目される東北各地の新聞販売店関係者、拡張団関係者の方たちに安否確認メールを送ったが、その返信はまだ誰からも届いていないという。

津波が襲ってきたと思われる午後3時〜4時頃となると新聞販売店では夕刊を配達し、拡張員はそのエリア内で活動しとる時間帯や。

このメルマガでも再三言うてきたが、新聞販売店の配達員はどんな災害時であろうと何が起ころうと、まず配達を最優先するということがある。

途中で配達を止めて切り上げるという発想にはなかなかなりにくい。

拡張員は、その点まだ幾分かの臨機応変さはあるが、東北地方の港町を勧誘する場合は、たいてい車を利用してというのが多いと聞くから、いざ逃げると判断してもその車に頼るものと予想される。

その車が……。

心配するなと言われても、どうしても心配せずにはいられん。

単に、通信の不具合、難しさだけの問題であってほしい。どこかに避難していてほしいと願うばかりや。

どうか皆さん無事であってほしいと。


と訴えたが、3年経った今でも、まだ何の連絡もない。

もっとも、それらの読者の方の中には3年以上経ってから、ひょっこり連絡されて来られることもあるし、その震災を機に販売店や新聞拡張団の仕事を辞められたということも考えられ、それで疎遠になったというケースもあるがな。

それならええのやが……。

悪いことはなるべく考えたくないのやが、どうしても不安な気持ちにならざるを得ない。

いつでもええので、被災地におられた新聞業界関係者の読者の方で、このメルマガを見られたら連絡して頂きたい。

ワシらが生きている間は、この東日本大震災のことを忘れることはないやろうが、時が経つにつれ記憶が薄れていくのが世の常やと思う。

しかし、絶対に風化させてはいけない。

日本人は悲惨な経験や記憶はもとより、この震災で培った人と人との信頼、絆から得られた教訓を後世に伝える必要があると思う。

少なくともワシらは、そう考えている。



参考ページ

注1.第145回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■東北地方太平洋沖地震の悲劇の実態と今後の対策について

注2.第150回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■日本復興への提言 その1 原子力発電の廃止とその代替案について

注3.第153回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■日本復興への提言 その2 原子力発電廃止の流れを止めるな

第182回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■報道のあり方 その2 消された「原発国民投票」CMについて

第202回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■日本復興への提言 その5 脱原発しか日本の生き残る道はない

第204回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■日本復興への提言 その6 危険な日本原子力村をなくせ

第210回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■日本復興への提言 その7 電力組織を変えない限り真の復興などあり得ない

第234回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■原発維持に固執する電力会社の懲りない陰謀、再

第263回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■自民党の危険な原発再稼働政策を阻止するには


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