メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー

第308回 ゲンさんの新聞業界裏話

発行日  2014. 5. 2


■新聞の実像……その9 誤報記事の真実について


すべての新聞に誤報記事は存在する。残念やが、それに異論を差し挟むことはできんやろうと思う。

ただ新聞により、多い少ないの差はあるがな。悪質性が高い低いというのもあるし、単純なミスの場合もある。

新聞に誤報記事が発覚すれば批判されるが、それは仕方ない。あってはならんことやさかいな。

しかし、なぜ誤報記事が掲載されるのかといった点については、一般ではあまり知られていない。理解もされない。

それは誤報に至った経緯について語られることが少ないからや。

誤報記事を書いた側が語れば言い訳に聞こえ、よけい批判が増幅するから黙ってしまう。

批判する者は鬼の首を取ったかのように責め立てることしかしない。その理由について考察するようなことは殆どしない。

新聞社は明らかな誤報や捏造に対しては謝罪記事を出すことで一刻でも早く収束しようとするし、批判する者は責め立てることで溜飲を下げようとする。

「盗人にも三分の理」と言われるように、何事においてもそうするには、そうするだけの事情と理由があるのやが、それについて語られ、あるいは議論されるようなことは殆どなかった。

もっとも、如何なる事情と理由があろうと、新聞に誤報記事はあってはならんがな。

ただ、やむを得ないものもあれば、意図的に行われる悪質なものあるという程度のことは、せめてこのメルマガの読者の方々には知っておいて欲しいと思う。

誤報にも、いろいろある。

最も多いのが誤字、脱字などの単純なミスや。

新聞に限らず、文書量の多い書物で誤字、脱字のないものはないと言えるくらい必ずどこかに、それがある。

書籍など発刊に余裕のある書物であれば、推敲と校正にそれなりの人員と時間をかけることができるさかい比較的、誤字、脱字は少ないが、それでも皆無ではない。

それが、締め切りに迫られ、降版ぎりぎりのタイミングまで書き続ける新聞や週刊誌になると推敲するための時間と人員が限られミスがそのまま掲載されやすいということがある。

特に現代では、多くの文章がパソコンのワープロソフトで書かれているということもあり、キーボードの打ち込みミス、変換ミスというのが結構目立つ。

「私もメルマガの執筆を予定期日の時間一杯まで書いていますので誤字、脱字は多い方だと思います。もっとも、書き手としては、それを言い訳にはできませんけどね」と、ハカセ。

誤字、脱字があると、読む人はその箇所で引っ掛かってしまう。読みにくいと感じる人も当然おられる。

中には、それで「この作者は、この程度の文章力しかないのかか」と思われ二度と読まれないこともある。ある意味、致命的なことになりかねない。

「私の場合は、発行後に誤字、脱字があった時に指摘してくれる読者がいますので、サイトに転載する際に直すことができますから、まだ救われていますけどね」

誤字、脱字はない方がええに決まっとるが、人である限り、それをすべてなくすのは難しい。というより無理や。

開き直っているわけやないが、誤字、脱字はあるものとして受け止め、できる限りの注意は払っていても、そのことにはあまり囚われないようにしているとハカセは言う。

そして、過去のメルマガの記事はあまり読み返さないのだと。読み返せば、誤字、脱字、表記のまずさが目につき校正せずにはいられなくなるからやと。

そうなれば、そこから先に進めなくなるらしい。書きっぱなしと言えば、そうなるが、敢えて読み返さず放置しているのやと。

個人の名前や企業、組織などの名称誤記というのもある。

これも殆どが単純なミスから起きることやが、深刻な問題に発展するケースがあるさかい、単に間違えましたでは済まん場合がある。

個人名の間違いは、それが犯罪に関する場合やと間違えられた人の人生さえ狂わせかねない事態も考えられるしな。

企業の場合やと、その会社の株価に大きく影響するケースもあり、その記事により深刻な影響をもたらしかねない。

住所や電話番号の誤記については、間違ってその住所に来訪されたり、間違い電話をかけられたりすることで、とんだ迷惑を被るといった被害が生じる。

外国語の翻訳の誤りというのもある。これなんかは、下手をすれば国際問題にもなりかねない重大なミスや。

ちょっと笑いを誘うのが年齢の誤記や。ある高名な女流作家の実年齢が新聞に掲載されたことがあった。

その女流作家は日頃、年齢を4、5歳若く吹聴していた。よくあることや。

隠していた年齢が、その新聞記事によりバレたということで、新聞社に抗議の電話をしたという。

傍から見れば単なる笑い話にしかならん程度の問題やが、当の高名な女流作家にとっては、それで済ますわけにはいかんかったようや。

抗議を受けた新聞社は平謝りに謝り、何とか事なきを得たらしい。

なぜ、そんな単純なミスが起こるのか?

取材相手の記憶違い、言い間違い、記者の聞き違い、メモの書き間違い、メモからの転記ミスなどいろいろ考えられる。

客観的には、そのくらいのことは仕方ないと言えそうやが、誤字、脱字、人名、企業名、電話番号、翻訳など、例え1字間違っても大変なことになる場合が往々にしてあるさかい、十分な注意を払う必要がある。

日本新聞協会によれば、こういった単純なミスによるものが誤報全体の70%におよぶという。

これをなくすには、一つの記事について記者だけやなく、デスク、編集者、校正などに多くの人員をかけて注意と確認作業を徹底するしかないが、新聞には締め切り時間まで間に合わせなあかんという制約があるから、口で言うほど簡単な話やないとは思う。

次に多いのが、取材先が誤った情報を流し、それをそのまま鵜呑みにして報道した、あるいは情報源が正しいと思って伝えた情報が誤っていた場合や。

これについては発信者側にも問題はあるが、誤った情報をもとに、あるいは鵜呑みにして記事にした新聞社の責任の方が大きいと考える。

情報提供者からの情報が正しいか、どうかの「裏取り」は新聞記者なら絶対に行わなければならない基本的なことやさかいな。

それをしない、できていないというのでは話にならない。

スクープ報道の危うさというのもある。

スクープ報道とは、どのライバル他紙よりも早く、世間が注目するニュースを報じることや。

新聞記者にとってスクープ記事(特ダネ)を書くことは最高の栄誉とされている。それにより新聞業界に燦然と、その名が残ると言われている。

新聞社で最も力を持っていると言われている編集部には「特ダネ至上主義」という考えが強い。

新聞記者経験のある読者から、サイトのQ&A『NO.241 新聞社が販売店を直轄化するという方向性についてどう思われますか』(注1.巻末参考ページ参照)
にスクープ記事(特ダネ)記事について寄せられた投稿がある。

その部分を抜粋する。


特ダネは何なのかといえば、「売る」ためにあるのではなく、ジャーナリストの本質に応え、その能力を磨くために求められているという感覚です。

販売に関してはというと、「あまり関心がない」という他ありません。

会社の根幹の部門が、収入面を第一に考えるというのは一般常識であって、「特ダネが売上に直結してると勘違いしてるのではないか」と考えられるのはもっともなわけですが、新聞編集は全く別の次元で動いているといえます。

日々行われる記事作成の主眼は、「紙面を埋めること」「間違えないこと」「他社とのネタ勝負に負けないこと」であって、「売上げを伸ばす=読まれる紙面を作る」という観点が飛んでいるのは否めません。

「特ダネを書かなきゃ紙が売れない」とか、「読者視点の記事の充実」なんて公には言ってますが、現場記者からすれば言い訳みたいなもんで、全く実情が伴っていません。

再販制度と販売の丸投げで上手く回っている以上、それでやっていけたわけです。

ただ、現場の記者(特に若手)はこれに疑問を感じることも少なくありません。

「どうせ仕事をするなら、多くの人に読んでもらいたい」という素朴な思いと、「このままでは紙媒体は廃れる」という危惧感が根底にあるのだと思います。

記者仲間で酒を飲むと時々でてくる言葉があります。それは、「特ダネはオナニーみたいなもんだ」というものです。

汗水たらして特ダネを書き上げたとしても、それを読む読者はわずか。

ましてや、それで新聞が売れるわけでもない。残るのは他社に勝ったという自己満足の世界。

気持ちいいのは一瞬だけで、次の日からは何事もなかったかのように業務が始まる。品のよい言葉ではありませんが、一言で言い表そうとしたら、これに尽きるのです。

逆に言えば、大都市の事件担当などは、日々の業務が相当過酷なので、システムの上で働く以上、そんな疑問を感じていたのでは仕事は続きません。馬鹿にならなければやっていけないのです。

特ダネを打てば会社から評価されますので、それをモチベーションにやっている人も多いかもしれませんが…。

特ダネを追いかけるという作業は非常に重要で、記者の根幹ではあるのですが、それは主に新聞の「公益性」を果たすためのものです。

一般紙の中身がつまらないというというご指摘がありましたが、私もその通りだと思います。

編集部門から「営利性」という要素がすっぽりと抜け落ちていることの現れです。

スポーツ紙や夕刊紙など駅売りメインの媒体は、TV視聴率のように日々成績が反映されますから、逆に「営利性」重視の中身(見出し)となり、一般紙に比べればまだ面白いわけです。

私から言わせれば、一般紙の編集というのは、「いいもの書いてる自信があるから、販売の方で読者に読ませといてくれ」と言ってるようなものです。

将来性のある業種ならともかく、先行きの暗い紙媒体でそんなことを言ってる余裕はないと思うのですがね。


というものや。

「特ダネ至上主義」という考えが誤報を生むという一面がよく説明されている。

スクープ報道はその性質上、秘密裡に掴んだ情報に頼らざるを得ないということがある。

裏付け調査により信憑性を得てから報道することが新聞記者としての責務ではあるが、誰も知らない情報では、そこまでする余裕がない。

勢い、当事者の確認が取れないまま推論に頼って見切り発車するケースがある。これを業界用語で「トバシ」と言う。

一旦報じられてしまえば、その後はオープンな調査が行える。確証はそれで得れば良いという考えになるのやと。

他紙に先んじて行われなければならないスクープ報道では、まずは記事にしなければ意味がないと考える記者、編集者が多いということや。

しかし、「トバシ」記事のような見切り発車は、一か八かの賭けみたいなものやさかい、外れれば必然的に誤報になる。

もちろん、情報源の信頼性、および記者自身の経験と勘から信憑性が高いと踏んで記事にするわけやから運任せではないにしても、不確かな要素のあるものは間違いも生じやすい。

情報は会話や文書から得るものやが、発信する側と受け手の理解が同じとは限らない。

特に情報源が一つの場合、発信者の表現と受け手の解釈との間にギャップが生じ、情報が誤った形で伝わることが往々にして起こる。

また、情報が錯綜している場合に誤った内容の記事が報道されてしまう場合もある。

新聞記者の専門分野に対する無知による誤報というのもある。

ある新聞報道に、個人情報を故意に漏洩させた事件で「情報」に財産性を認めて窃盗容疑で逮捕した、という記事があった。

しかし、形のない情報は窃盗罪の対象とならないため、窃盗では逮捕状の請求はできないはずだが、報道では「(情報漏洩に対して)県警は、窃盗容疑を適用することにした」として、情報窃盗罪という架空の罪名で被疑者の逮捕を断定的に伝えている。

このケースでは単に「個人情報保護法」違反で逮捕としておけば良かったのやが、日頃から情報には金銭的な価値があるという思い込みが記者、および編集者の根底にあったためそうなったのやろうと思う。

新聞記事には「予定稿」というのがある。

裁判やスポーツの試合、その他行事など「前もって予定されている出来事」、あるいは高齢の著名人の死亡のように「いつかは起こることが確実な出来事」というのがある。

その場合に備えて、新聞では詳細部分を追加、補足するだけで記事が完成するように原稿を事前に用意しておくという慣習がある。

白紙の状態から原稿を用意する場合に比べて時間が節約できる。また、記事のチェックを事前に余裕を持って行うことができるため、誤報を防ぐことができるというメリットもある。

しかし、この予定稿に不手際があると、却ってそうしたことが仇になって誤報につながる。

記憶に新しいところでは2013年10月10日のノーベル文学賞の受賞者発表でS新聞が、村上春樹氏を本来の受賞者であるアリス・マンロー氏を取り違えて受賞者として掲載したというケースがあった。

これなどは村上春樹氏が最有力やったという下馬評があったため「予定稿」として用意されていた記事が、そのまま掲載されてしもうた例やと思う。

犯罪報道の誤報。これが一般では最も多い誤報のように思われがちやが、実は数としては少ない。

少ないが、その誤報により犯人と間違われた人は、その後の人生を大きく狂わされるというケースが多いさかい、これが一番あってはならないものやと思う。

冤罪事件の裏には、必ずといってええほど新聞報道の段階で誤報記事が流されている。

それの最も有名なのが、「松本サリン事件」やと思う。

松本サリン事件とは、1994年6月27日。長野県松本市で、猛毒のサリンが散布され、死者8人、重軽傷者660人を出した事件のことや。

警察は6月28日、第一通報者の河野義行氏宅の家宅捜索を行ない、薬品類など数点を押収したと発表した。この段階では、その薬品の種類は公開されていない。

翌日の新聞記事には「除草剤を作ろうとして調合に失敗した」というありもしない警察のリークを真に受け、あたかも河野氏が犯人であるかのような報道記事が、ほぼすべての新聞で連日に渡って書き立てられた。

結局、犯行はオーム真理教の教祖、松本智津夫(麻原彰晃)の指示により幹部たちが行ったものであることが判明して、河野氏の嫌疑は晴れた。

事件の背景には、オウム真理教松本支部の立ち退きを周辺住民が求めていた裁判でオウム真理教側の敗訴の見込みが高まったことがあった。

この状況を打開するために、裁判を担当する判事を殺害する目的で、長野地方裁判所松本支部官舎に隣接する住宅街にサリンを散布したというのが真相やった。

新聞は、一部の専門家が「農薬からサリンを合成することなど不可能」と指摘していたにもかかわらず無視し続け、それに対して疑問を持つ論調すら当時はなかったという。

結果、オウム真理教が真犯人であると判明するまでの半年以上もの間、警察発表を鵜呑みにして河野氏を犯人と断定して報道し続けたわけや。

これほど重大な誤報が流された原因に、新聞やマスコミが、犯罪事件では捜査当局を最重要情報源にしているということが挙げられる。

当たり前やが、もとになる情報源から間違った情報を受け取って書けば、間違った報道にしかならんわな。

しかも、その多くが非公式な捜査関係者のリークを真に受けて記事にしたというさかい話にならない。

河野氏は警察に家宅捜査され、重要参考人として事情聴取はされていたが、実際に逮捕されたわけではない。つまり、容疑者、被疑者ですらなかったわけや。

警察の公式発表で、容疑者、被疑者とされていたのなら新聞やマスコミにも、それなりに正当性があったと思う。

警察発表をマスコミが恣意的に発表せずに黙殺したり内容を歪めたりして報道することの方が別の意味で大きな問題やさかいな。

警察発表は警察発表として、そのまま記事にしなければならない。

ところが、この事件に関しては憶測とそれによる誤報が増幅されただけになった。

ただ、このことで新聞、マスコミは一斉に「訂正」、「おわび」報道を出し反省したことだけは救いと言えば言える。

もっとも、一番早く「訂正」、「おわび」記事を発表したA新聞ですら、疑惑報道から10ヶ月後で、もっとも遅い週刊誌になると1年1ヶ月以上も経ってからということやったがな。

それにしても真犯人が判明したから、そうなっただけで、分からなければ、その後も長期間に渡り、延々と疑惑報道が続いていた可能性がある。

いずれにしても、この事件で新聞やマスコミは大きな教訓を得たはずやが、残念ながら今以て、この手の誤報は慎重になりこそすれ、なくなったとは言い難い。

おそらく、これからも完全になくなることは期待できんやろうと思う。

当メルマガ『第31回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■映画「クライマーズ・ハイ」に見る新聞報道の現場 前編』、および『第32回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■映画「クライマーズ・ハイ」に見る新聞報道の現場 後編』(注2.巻末参考ページ参照)の中で、

主人公の悠木(堤真一)が部下の佐山(堺雅人)に「生まれて初めて観た映画は新聞記者の話だった。その映画に、チェック・ダブルチェックという台詞があってね。それがとても印象的で格好良かった。その台詞が言いたくて、俺は新聞記者になったようなもんさ」と言った印象的なシーンがあった。

チェック・ダブルチェックとは、念には念を押して調べろということや。不確かなことは記事にはしないという戒めで、業界で使われる場合が多いという。

そういう信念の新聞記者が数多くいれば、あるいはそういった誤報はなくなるかも知れんがな。

ただ、新聞記者で慎重な者は評価されんということがあるさかい、どこまでチェック・ダブルチェックに徹することができるのかとなると、はなはだ怪しいと言うしかない。

間違いが許されないというのは正論やが、正論では評価されない、飯が食えないと考える者がいるのも事実なわけや。

新聞に誤報が生じる背景には、そうした事情があるということや。理解できるようなら理解して欲しいと思う。

もっとも、理解と容認は違うさかい、誤報についての批判を止めてくれとは言わん。

如何なる事情と理由があろうとも誤報は誤報でしかないさかい、間違いが正当化されることは絶対にないしな。



参考ページ

注1.NO.241 新聞社が販売店を直轄化するという方向性についてどう思われますか

注2.第31回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■映画「クライマーズ・ハイ」に見る新聞報道の現場 前編

第32回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■映画「クライマーズ・ハイ」に見る新聞報道の現場 後編


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