メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー
第335回 ゲンさんの新聞業界裏話
発行日 2014.11. 7
■ネットの危険 その3 加速するネット社会の私刑化について
ここのところネット上で、新聞批判に関する記事が、以前にも増して多くなっている。
そこまで言うか、書くかというものが多い。
最も顕著なのはA新聞の誤報騒動やが、酷いのになると「国賊ものだ」とか「廃刊しろ」という記事を著名人と称する人たちが平気で記事にしている。
それに追随した記事、コメントを発しているブロガーたちの何と多いことか。
そうするにはそれなりの理由があるのは分かっていても、寄って集(たか)って叩く行為に底知れない不気味さと悪意を感じる。
その人たちにとっては普通のことでも、ワシから見れば異常な光景に映る。
それが、なぜなのか分かった気がした。
日本人の美徳として備わっていた寛容の精神が失われつつあるからやということが。
批判をするのは構わない。自由や。しかし、そうすることで自らの心が荒(すさ)んでいく危険について考えて欲しいと願わずにはいられない。
今回は、そんな話をしたい。
ワシの個人的な意見やが、新聞を批判するネットの方が数倍、いや数十、数百倍、それ以上かも知れんが間違いも多く悪質性の高い媒体やと思う。
新聞の比どころの騒ぎやない。
新聞にも誤報記事や捏造記事はある。しかし、それは新聞全体からしたら、ホンの一握りの事象でしかない。
手に掬(すく)った砂の中から一粒の米粒を見つけるより難しく、人が交通事故に遭う確率よりも遙かに少ないやろうと思う。
日本において一般紙と呼ばれる全国紙、ブロック紙、地方紙の総数は111紙。
一般紙の平均的な朝刊の記事は約200。1日で約2万2千。1年で約803万以上もの記事が存在することになる。
新聞と呼ばれるものには、これに夕刊やスポーツ紙、夕刊専門紙、業界紙、機関紙などが加わるから、その総数は、さらに増える。
しかし、問題となって騒がれる新聞の誤報記事や捏造記事は1年に1度もない。せいぜい数年に1度あるかないかのペースや。
人は間違いやミスを犯す生き物や。個人は言うにおよばず、人の関わっている事で間違いのないことなど、人間の世界、組織、業界などには絶対にあり得ない。
もちろん、それやから堪忍したってくれ、見逃して欲しいと言うつもりはない。
例え万に一つ、数百万に一つの間違いであっても新聞に、それがあるのは許されんというのは分かる。ワシも同意見やさかいな。
ただ、裏を返せば、それだけ新聞が信用されていることへの証明にもなるわけや。絶対に間違いのないものやからこそ、ミスを犯した時の反響が大きいと。
もっと裏読みすれば、新聞を批判する人のおかげで、新聞の価値が再認識されるとも言えるわけやけどな。
新聞社も間違いがあってはいけないというのは、よく知っている。たった一つのミスであっても許されない世界で仕事をしているということも。
そのため誤報記事や捏造記事が発覚した場合、世間に向かって、読者に向かって謝罪するしかないということも。
そして、実際にA新聞社の社長が謝罪会見まで開き、新聞紙面で大々的にその非を公開した。
ワシもA新聞のやったことに対して、いろいろと意見を言うてきたが、その姿勢だけは素直に評価したいと思う。潔かったと。
それでもネット上では新聞はクソミソに叩かれ、吊るし上げられ、果ては不買運動まで起こされているわけや。
果たして、ネットに、そこまで新聞をこき下ろすだけの資格があるのやろうかと疑問に思う。
新聞に比べ、ネット上のHPやブログ、ツイッター、SNS、掲示板サイトへの書き込みといったものの中には日々計測不能なほどの間違った情報、悪意のある偽情報が垂れ流しにされているのが実情や。
誤報、捏造の洪水と言うてもええほど、手のつけられん酷い状態になっている。
もちろん、ネットにも信頼できる情報、まともな意見を発信しているHPやブログ、ツイッター、SNSが数多く存在しているのは確かや。
すべてが悪いというわけやない。
しかし、その割合となると途端に怪しく心許なくなる。極端に少ない。
週刊誌の内容も誤報や捏造が多く、巷では話半分と言われているくらい信用度は低いが、それでもまだネットに比べるとマシな方や。
週刊誌に載った記事が発端となって大事件に発展したというケースは無数にあるさかい、それなりに社会に役立っている媒体やと言える。
反対に、ネットでの記事がもとで大事件に発展したというケースは驚くほど少ない。
現在、ネットにはHPやブログ、ツイッター、SNS、掲示板サイトへの書き込みなどが日本だけで数十億ページもあると言われている。
ネットが始まってから今までの過去20年の総数となると、それこそ天文学的な数字になるのやないかと思う。
そんな中で、ネットユーザーによる発信がもとで大騒ぎになったのは、ワシらの知る限り、『東芝クレーマー事件』くらいなものやないかと思う。
東芝クレーマー事件 ウィキペディア より引用
東芝クレーマー事件(とうしばクレーマーじけん)は、1999年に起きた東芝のクレーム処理に関する事件。「東芝ユーザーサポート事件(問題)」と称されることもある。
マスメディアを介さずとも一般人がインターネットを使って世論を喚起できることを示した。
一方、企業側にとってはクレーマーが世界に向けて情報を発信できるというインターネットの時代におけるクレーマー対応の大きな教訓となった。
表面化までのあらまし
1998年12月、福岡市内の家電量販店ベスト電器で東芝のビデオテープレコーダを購入[2]したハンドルネーム「Akky」(以降「ユーザー」と表記)が、購入直後に製品の点検・修理の依頼をしたところ、
勝手に改造されたうえに、購入した販売店、東芝系列のサービスマン、そして東芝本社に交渉相手が変わり、たらい回しされたあげく、東芝の「渉外管理室」担当者が暴言を吐くなど暴力団まがいの応対を行ったとして、
経緯や電話応答を秘密録音した音声を「東芝のアフターサービスについて(修理を依頼し、東芝本社社員から暴言を浴びるまで)」と題する自身のウェブサイトにてリアルオーディオ形式の配信で公開した。
録音されて公開されたテープの中で、ユーザー側が2点目の要求をするときに、「あなたも含めてですが、○○さんとかのお言葉遣いが悪過ぎる為、無礼を詫びて下さい」とあることから、暴言を吐いたのは「渉外管理室」担当者だけではないことがわかる。
音声が公開されるまでに、複数の担当者が不適切な対応をし、ユーザー側の感情を害していた。
1999年当時はまだ常時接続は試験サービスしか提供されておらず、ダイヤルアップ接続等の従量制しかないインターネットで接続しているユーザーが多数派だったため、当初はネットにおいてのみ認知されていた。
その後、徐々に問題のウェブサイトへのアクセス数は増えるが、急増したのは、東芝が仮処分申請を出したのを受けて旧来型の大手マスコミが取り上げ世間に知らしめたためである。
一気にアクセス数が急増し、1999年秋に閉鎖されるまでの間には1000万アクセスを超えた。
熱心なインターネットユーザー以外にも、大手マスコミを通じて事件のことが周知され、東芝不買運動へと発展した。
特に1999年2月28日にユーザーと東芝側の会話の中で出た東芝側担当者のこの発言は頻繁に取り上げられ、「クレーマー」という言葉を広めるきっかけにもなった。
また東芝はユーザーが対話に応じないために司法判断に委ねるとして、ウェブページの一部差止めを求める仮処分を申請したが、これが「消費者への恫喝」「言論弾圧」と多くのネットユーザーに受け取られ、更に批判が強まり、不買運動を加速させた。
一方、解決の見えない要求を続ける同ユーザーに対する非難も多く寄せられたが、最初はユーザーに好意的な報道を行ったマスメディアがほとんどで、ユーザーに批判的な報道を行ったのは『週刊文春』(文藝春秋)のみであった。
当初は『週刊文春』も好意的な報道をしていたものの、東芝の当時の副社長とユーザーがマスコミ同席の元で対談した結果が物別れに終わった直後、
「東芝に謝罪させた男は名うての「苦情屋」(クレーマー)だった!」と題する記事を掲載した『週刊文春』1999年8月26日号の記事が一連の報道の締めくくりとなり、その後の続報がほとんどなくなってしまう。
『週刊文春』は、このユーザーがこれまでも他の製品で販売店に様々なクレームを付けており、総額253万円の返金を行わせたと報道したが、問題のユーザーは明確にこれを否定している。
記事中で“返品の対象とされた販売店”も事件当時から記事の内容を否定しており、事件から9年目となる2008年初頭に『週刊ダイヤモンド』(ダイヤモンド社)がクレームに関する特集記事を組んだ際にも、
記者からの販売店に対する問い合わせに対して「過去からお買い上げいただいているよいお客様で、返品・交換を繰り返していたという報告は受けていない」と回答している。
よって、当時の『週刊文春』と2008年の『週刊ダイヤモンド』の記事はまったく異なる内容となっている。
ユーザーは2000年に『週刊文春』を名誉毀損で福岡地方検察庁に刑事告訴したが、その2年半後に東京地方検察庁が不起訴の判断を下している
というものや。
この事件が、キッカケになって各企業がネットでの評判を気にするようになり、窓口で迂闊な対応はできないと考え、苦情に対するマニュアルが作られるようになった。
文中にもあるとおり「クレーマー」という言葉は、この事件から言われるようになった。
英語のクーマーは「要求者」「請求者」という意味なのやが、現在の「クレーマー」には無理難題を言う者というマイナスのイメージしかない。
本来なら、こういった事例が星の数ほどとまではいかなくても、数多くなければならないが、現在ネットに残っているネットユーザーの発信による比較的大きな出来事に発展したケースは、この事案くらいしかネット上で見つけることはできんかった。
もちろん、他にもいくつかあるやろうとは思うが、分母が巨大な割に少ないのは確かやと思う。
もっとも、自らの失言や失態をネット上に公開して物議を醸し、墓穴を掘った者は、それこそ星の数ほど無数に存在するがな。
一般的にネットに文章を書く、あるいは写真をアップする場合、誰しも注目してほしいという願望が働く。それは仕方ない。
ただ、その思いが強くなりすぎると、こんなことを書けば面白いやろう、注目を浴びるはずやと考えるあまりに、つい話を作る、ウソを書くということが起きてしまうのやないかと思う。
そういうのが、あまりにも多い。しかし、その殆どは問題にすらならない。
たいていは無名の素人が書いているということで間違いやウソの内容であってもスルーされることの方が多いからや。
これが有名人のブログなどで、そういうことが発覚すると、そうはいかん。たいていは炎上する。
それで済むうちは、まだ救われる。バカなことをしているなで終わるさかいな。
現在、ネット私刑(リンチ)というのが流行っとるとのことやが、そうなったら人間終いや。救いようがなくなる。
つい最近、ネット私刑(リンチ)についての興味深い記事を見つけた。
これは大きな話題になった事案が発端になっているので、知っている方も多いものと思う。
その記事を紹介する。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140822-00000012-wordleaf-soci&p=1 より引用
ネットで増える“私刑”は許されるのか?
中古品やマンガ本を販売する「まんだらけ」(東京都中野区)が、万引き犯人の顔写真の公開を予告し、話題になった。
今回に限らず、このところネットで「悪い人」を懲らしめようとする動きが相次いでいるようだ。このような行為は、いったい何が問題なのだろうか?
かつてアメリカで「私刑」が公然と行われていた時代がある。中日新聞(2011年3月11日)によると、18世紀のバージニア州で、ある人物の一味が私設の法廷を開設した。
彼らは次々と「悪い人」を捕らえて裁き、絞首台送りにしていった。
その人物の名は、ウイリアム・リンチ大佐。彼の名「リンチ」がやがて、「私刑」「集団による制裁」をそのまま意味するようになる。
だが、近代の法治国家では、「私刑」は認められていない。
日本大通り法律事務所(横浜市)の喜多英博弁護士は「日本は法治国家ですから、人を罰するときは、警察が捜査をし、裁判所が証拠を見て犯罪事実の有無を認定します。
これを一市民がやろうとすると、個人的な恨みから、罪のない人を罰したり、軽い罪の人に重過ぎる罰を与えたりするケースが頻発するでしょう。
罰を受けた方も納得がいかず罰した人を非難して逆に罰しようとするかもしれません。酷い社会になります」と説明する。
まんだらけの事件は8月上旬に発生。同社は1体25万円のブリキ製人形が万引きされた被害を受け、防犯カメラに映った犯人の顔写真の画像を「1週間以内に返しに来なければ、公開する」とネット上で宣言。
これが「やりすぎではないか」と物議を醸した。結局、警察側からの要請を受け入れる形で、公開を中止。警視庁は19日に千葉市の男性(50)を逮捕した。
このケースでは、「私刑」は実行されず解決されたが、過去にもツイッターなどで「拡散希望 この人が犯人」などと、写真などの個人情報が発信されるケースが散見される。
今年7月には、男性の顔写真付きで「痴漢にあいましたが、逃げられました。必ず見つけて訴えたいので拡散お願いします」というツイッターの投稿があった。
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このようにネット上で“悪人”を追及する動きは珍しくない。
サイト「現代ビジネス」の記事(2012年10月17日)では、ブロガーのイケダハヤトさんが、悪事を働いたとされる人物の個人情報を暴くことで処罰を図る「ネット自警団」と呼ばれる人たちの存在を紹介。
記事によると、過去の事例として
・ツイッター上で悪事(飲酒運転、喫煙)自慢をした19歳の女子短大生の個人情報を暴き、ミクシィ、ツイッターを退会に追い込んだ(2011年)
・ホームレスをいじめたことをミクシィ上で自慢した大学生を内定取り消しにした(2009年)
・虚偽の申告でサイゼリヤから3000円の返金を得たことを自慢した男子高校生の、自宅の電話番号、学校名を暴き、自宅と学校に嫌がらせの電話を殺到させた(2008年)
これらのケースを紹介。
そのうえで、イケダさんはネットでの私刑について、「勘違い・人違いという初歩的なミスが発生しうる」「憂さ晴らしの域を出ない」などとして、否定的な見解を示している。
それでも、ネット上では、「犯人がプライバシーで守られるのも変な話」「万引き被害者の心情としたら(顔写真公開も)理解できる」「悪い人を追及するのがなぜいけないのか意味が分からない」などと、肯定的な意見も少なくない。
著名人の中にもそうした意見はある。タレントの中川翔子さんも、自身のブログで「された側がされた損になる世の中じゃ嫌だな。意識的に窃盗してる犯人甘やかすことない。盗むって最低。犯罪なんだから」と述べ、顔写真公開にも理解を示す姿勢を見せた。
タレントの加藤浩次さんも「万引きで警察が、現行犯じゃなくて動くっていうのはあまりない」と指摘した上で、今回の騒動について「まんだらけさん的には、これはうまいことやった」と、テレビ番組で評価するコメントをしたと報道されている。
ただ、作家の芥川龍之介は、警句集「侏儒の言葉」で、「輿論(よろん)は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。たといピストルを用うる代りに新聞の記事を用いたとしても」とつづっている。
「新聞の記事」を「ネット」に置き換えれば、現代にもそのまま当てはまりそうな指摘だ。
被害を受けた当事者はともかく、そうでない第三者が“私刑”に走るのは、芥川に言わせれば「娯楽」なのだろう。
前出の喜多弁護士は「私たちは、罰し合うのではなく、お互いに話をよく聞いて相手を尊重することにエネルギーを使った方が良い社会を作れるのではないでしょうか」と話している。
と。
この記事の文中に、
ネット上では、「犯人がプライバシーで守られるのも変な話」「万引き被害者の心情としたら(顔写真公開も)理解できる」「悪い人を追及するのがなぜいけないのか意味が分からない」などと、肯定的な意見も少なくない。
と、あることについて共感を覚える読者の方もおられると思う。
犯罪を起こした者を晒して何が悪いのかと。そうすることで犯罪の抑止力になるのやないかと。
現在、ネット上で個人が自由に発信できるということもあり、犯罪行為をした人間を晒して責める人たちが増えている。
その犯罪者の個人情報を入手して公開している者も多い。
そうすることのリスク、危険について深く考えることもなく、犯罪者を晒すことが正義だと考え、錯覚する者が増えているように思えてならない。
この記事の中に、
だが、近代の法治国家では、「私刑」は認められていない。
日本大通り法律事務所(横浜市)の喜多英博弁護士は「日本は法治国家ですから、人を罰するときは、警察が捜査をし、裁判所が証拠を見て犯罪事実の有無を認定します。
これを一市民がやろうとすると、個人的な恨みから、罪のない人を罰したり、軽い罪の人に重過ぎる罰を与えたりするケースが頻発するでしょう。
罰を受けた方も納得がいかず罰した人を非難して逆に罰しようとするかもしれません。酷い社会になります」と説明する。
とあるが、そのとおりやと思う。
日本は法治国家やが、このままやとネット上は無法地帯と化しかねない。
時代の最先端のはずのネットが、15世紀頃のヨーロッパ中世でフェーデやアハトと呼ばれていた私刑、
また記事にあるように18世紀のアメリカ・バージニア州でウイリアム・リンチ大佐の私刑が行われていたように時代に逆行することになるのやないかと。
それらの時代に共通した教訓として「私刑(リンチ)」はあかんさかい止めようということになったわけや。
民主的な法律が整備されたのは、その事があったからやと言うても過言やないしな。
法律を犯した者や犯罪者を取り締まるのは警察で、司法がその罪の是非を判断することになっている。一般市民は、それらの機関に委ねるしかない。
それが民主主義国家、法治国家というものや。
いくら悪質な犯罪者がいようと、「悪いやっちゃな」と考える程度にして、具体的な制裁をするような行動を起こしたらあかん。
個人的な制裁は私刑になり、そのこと自体が犯罪になることも多い。犯罪者を責めて自らが犯罪に手を染めるほど馬鹿げたことはないさかいな。
しかし、そんな単純なことが分かっていない者が、ネットの世界には、あまりにも多い。
記事には、作家の芥川龍之介の『輿論(よろん)は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である』という言葉が紹介されているが、まさに言い得て妙やと思う。
世論は私刑を好み、それを娯楽としていると。
その意味では、悪は許せないとは言うてるものの、それは表向きにしか過ぎず、実際のところは単に面白がっているだけのことやと言うしかない。
そうすることの危険を何も知らず、また考えもせず、というところやな。
『ツイッター上で悪事(飲酒運転、喫煙)自慢をした19歳の女子短大生の個人情報を暴き、ミクシィ、ツイッターを退会に追い込んだ』というケースで、万が一、その『19歳の女子短大生』が、そうされたことにより悲観して自殺したような場合、どうなるか。
『19歳の女子短大生』の身内の人は悲しむと同時に激怒するやろうと思う。
その『19歳の女子短大生』の個人情報を暴いた者を恨むことは容易に想像できる。その恨みが復讐という形になって表れないとも限らない。
復讐をされた本人、およびその身内が、さらに復讐に走るということもあり得る。
その結果は、それぞれで想像して貰うしかないが、私刑は「目には目を、歯には歯を」の際限のない争いを誘発しかねんわけや。
また犯罪者であってもそれは同じや。個人情報をネットで公開されたら、それをした人間を恨みに思う者がいても不思議ではない。
「まんだらけ」の万引き犯の場合、その罪は、おそらく罰金刑止まりやろうと思う。
結果的には万引き犯は警察に逮捕され、新聞やテレビで実名を報道されたわけやが、これがもし、警察の警告を無視して店側が顔写真の公開をしていたら、どうなったややろうか。
万引き犯の性質次第やが、犯罪者の心理として、「この程度でそこまでされなあかんのか」と恨みに思う者も中にはおるやろうと思う。
その結果、店や店主個人に報復するケースは十分考えられる。
万引きは許せないという気持ちは、よく分かるが、結果として万引き、窃盗どころではない大きな事件が起きる可能性もあったわけや。
結果的には、警察の警告を受け容れて店側は何もせんかったから、良かったとは思う。このケースであれば犯人は自身のしたことを悔いるだけやと考えるしな。
今から5年8ヶ月前のメルマガ『第39回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■ある拡張員が語る刑務所残酷物語』(注1.巻末参考ページ参照)での取材で、刑務所に服役した経験のある者から聞いた話やが、
犯罪者の中には、誰かのせいでこうなったと執念深く恨みを持ったままの人間が結構多いということやった。
そういった連中は、少しでも早く出所するために模範囚になり、出所してすぐに復讐を果たすことしか考えていないという。
犯罪者が出所後、恨みを抱いていた人間に復讐したという事件は結構多い。
ワシはそんな事件を耳にする都度、その男の話を思い出していた。
犯罪者、とりわけ刑務所に服役している人間の視野は狭い。置かれた環境もあって多くのことを考えられんわけや。一つのことだけに固執しやすい。それが執念と化すことも多い。
脅すつもりはないが、私刑まがいのことをするのなら、その相手に復讐されても仕方がないくらいの覚悟を持ってやって欲しいと思う。
まあ、ネットで面白がってやっている人間に、そんな覚悟などないやろうがな。
本格的にネットが始まって、まだ20年ほどやが、その間、信じられんほどのスピードで人の心が荒廃していっているように感じているのはワシだけやろうかと思う。
大袈裟かも知れんが、このままやと人類の存続そのものまで危うくなるような気がするんやけどな。
ネツトでの私刑は果てしない人の心の荒廃を生むものでしかない。そして、人の心の荒廃は、人そのものを滅ぼすかも知れないと。
一刻も早く、その事の愚を分かって欲しいと願わずにはいられない。
参考ページ
注1.第39回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■ある拡張員が語る刑務所残酷物語
http://www3.ocn.ne.jp/~siratuka/newpage19-39.html
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