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第338回 ゲンさんの新聞業界裏話
発行日 2014.11.28
■美人拡張員アイちゃんのセールス奮闘記 その1 大津邂逅(かいこう)編
「あなた、そんなバカことやってたら、利益なんか出ないでしょ」
「は、はい……」
まだ20歳代前半と思われる若い新聞拡張員は、その主婦に完全に呑まれていた。
「タダにするから、新聞取ってくれて何やの。その新聞代はあなたが払うの?」
「ええ、そのつもりです。絶対にご迷惑はかけませんので」
「そんなの無理。すぐにパンクして飛ぶ(逃げる)のが関の山だわ。そういう新聞セールスは大勢いるから。悪いことは言わないわ。そんなバカなセールスは止めとき」
「あのー、おばさん……」
「おばさん?」
その主婦、アイは若い拡張員を険しい目つきで睨みつけた。その目力(めじから)は半端ではない。
元宝塚歌劇団出身の女優、天海祐希がCMで子供に「おばさん」と呼ばれた時、一瞬見せる険しい目つきを想像して貰えたら分かりやすいと思う。
ちなみにアイは、その天海祐希より5、6歳は若い。全体としての雰囲気、容姿はそれほど変わらないが。
その昔、脅してきた元ヤクザの拡張員を相手に一歩も引かなかったという自信に裏打ちされた迫力が備わっている。
タチの悪いセールスマンや押し売りがやって来ても、撃退してきた自信もある。
もっとも、セールスマンや押し売り自体が少なくなった昨今、その機会は殆どなく、もっぱらその目力(めじから)は旦那に向かうことの方が多くなってはいるが。
「あ、いえ、間違えました。お、お姉さんでした。申し訳ありません」と、その若い拡張員は慌てて訂正した。
「よろしい」
「お姉さんは、新聞のセールスに詳しいんですか? 僕はこの仕事をやり出してまだ1ヶ月ほどしか経ってないもんで、よく分からないのですが……」
「あなたネットに『新聞拡張員ゲンさんの嘆き』というサイトがあるのを知ってる?」
「いえ、知りませんけど……」
「だったら、そのサイトを見たら良いわよ。素人の私にも新聞セールスのことがよく分かるように書いてあるから」
アイは、とっさにそうウソをついた。本当は昔、新聞拡張員をしていたことがある。
しかし、そのことを近所の人間に知られるのは、まずい。
新聞拡張員にそんなことを話すと、アッという間に広まってしまう。口から先に生まれたような拡張員に、そんなコアな情報を黙っていろと言う方が無理だからだ。
必ず他で喋る。拡張員仲間に、その事実が知れたら救いはない。ねずみ算的にその媒介が増える。その伝播力は半端やないさかいな。
昨日喋った話が、明日には隣の町の噂になっているケースはいくらでもある。迂闊なことは言えない。
アイは、それを経験則として知っていた。
職業に貴賎はないというのはウソで、職業差別は現実に存在する。その中でも新聞勧誘員は評判の悪さという点では最下位に位置する仕事や。
過去に、新聞セールスの経験があると近所の主婦たちに知られるだけで、どんな色眼鏡で見られるか、噂話の対象にされるか知れたもんやない。
今ならネットで晒されることまで考えなくてはならない。
もちろん、そんな噂話に好意的なものは考えられない。おそらく危険人物と見なされるだろう。その噂が飛び火して子供が学校でいじめに遭うかも知れない。
アイは、それを恐れた。
「はあ……」
「だったら、そのサイトをよく見ておきなさい。勉強になるから」
実際、ワシらのサイトやメルマガをよく見ているという熱心な読者の方で、新聞業界の事情通になられたという一般の方も多いさかい、そう言うておけば間違いない。
「はい……」
話を少し前に戻す。
玄関のインターホンが鳴ってアイが応対に出ると、その若い拡張員が立っていた。
「失礼ですけど今どちらの新聞を読まれていますか?」と、その若い拡張員が勢い込んで訊いたきた。
「Y新聞だけど」とアイが答えると、「それでしたら今、A新聞を取って貰えれば1ヶ月無料サービスになっているんですが、その後の2ヶ月も特別にサービスしますので、ぜひお願いします」と必死にトークしてきた。
「つまり、3ヶ月契約が、タダになるってこと?」
「はい」
「それを契約書に書けるの? 3ヶ月無料にするって」
「それは……」
「書けないのね」
「1ヶ月サービスでしたら『試読』という形で書けますが、後の2ヶ月は僕個人のサービスなんで無理です。新聞の集金前には必ず僕がお金を持って来ますので、それで販売店の方に新聞代を支払ってください」
1ヶ月の『試読』サービスというのは分かる。
現在、A新聞は誤報問題(注1.巻末参考ページ参照)
http://www3.ocn.ne.jp/~siratuka/newpage19-334.html で窮地に立たされていることもあって新聞社自体が、掟破りとも言える「1ヶ月試読サービス」をすることで客の確保をするよう指令を下しているからや。
業界の決まりとして「1週間の試読サービス」というのは認められている。A新聞は、それを拡大解釈して「1ヶ月試読サービス」にしているわけや。
先の不祥事による部数の減少を防ぎたいという意図のもとに。
これについては業界内で大きな問題になるかと思いきや、Y新聞も同じようなことをやっていたのが分かったさかい、おそらくうやむやになるのやないかと思う。
「1週間の試読サービス」の業界のルールが、いつの間にか「1ヶ月試読サービス」に変わることも十分あり得る。
それについての詳しいことはサイトの『NO.1304 Y新聞も無料配布をしています』(注2.巻末参考ページ参照)http://www3.ocn.ne.jp/~siratuka/newpage10-1304.html
を見て頂ければ分かると思うので、ここでは割愛させて貰う。
「あなたの言うことを信用しろと言うの?」
「絶対に大丈夫ですから」
その若い拡張員は尚も必死に食い下がってきたが、アイは取り合うつもりはなかった。結果が見えているからだ。
「誰に教わったのか知らないけど、最初からそんな勧誘トークをしてたらダメ。ロクなことにならないわよ」と言った続きが冒頭の台詞につながる。
「自信がなくて、どうしてもそんなトークを続けるつもりなら、一つだけ良い方法を教えてあげるわ」
「お願いします」
「あなた、3ヶ月契約でいくら貰えるの?」
「それは……」
若い拡張員は言いにくそうにした。拡張の報酬金について一般の人間には言えない。そのくらいの分別はあるようや。
「この辺りの相場では4千円くらいでしょ。1ヶ月の試読サービスがあるといっても、その1ヶ月は契約のうちには入らないから除外することになるでしょ。普通に3ヶ月契約をする場合、その新聞代をすべて自腹で負担していたら1万2千円近い持ち出しになるわね」
「……」
「そんなことを続けていたら赤字になって借金を作るのが関の山よ。もっとも、そんな約束など守るつもりがなければ関係ないでしょうけどね」
実際、契約さえ貰って報酬を受け取れば、それっきりで約束を守らんケースが多い。Q&Aには、そんな事例が腐るほどある。
当然、店と客との間で集金時にトラブるが、その頃にはその拡張員はいなくなっているか、客の勘違いやと言うて逃げを打つかのどちらかや。
もしくは、そうなったらなったで、その時のことやと開き直っている者もいる。今さえ凌げれば、それで良いと。
そんなことをする連中の末路は悲惨や。借金地獄に喘ぐか、各地を転々と逃げ回るくらいしかない。同じことを繰り返して。
そして、いつしか年老いて人生の落伍者になる。そういう輩は巨万(ごまん)といる。アイ自身もその手の男を数多く見てきた。
アイは、お節介とは思うたが、まだ前途がありそうな若者に、そんな連中と同じ轍を踏ませたくなかった。
「そんな場合はね、4千円の新聞代を3千円にしますと言うのよ。もっとも、その程度ではウンと言う人は少ないかも知れないけど、その時、先に3千円分の商品券を渡すの。もちろん、今の時代、その3千円分の商品券は自腹で用意するしかないわね」
「……」
「そして、3千円に千円ずつ足して集金の時に払ってと言うのよ。3千円にするのは、そういう意味だと言って」
「そんなことで納得して契約してくれますか?」
「皆ではないけど納得する人はいるはずよ。特に主婦は、目の前にすぐ使える商品券を出されると弱いものなのよ。特に給料日が近くなってくるとね。
わざさわざ新しく新聞を取るのだったら、そんな話には乗らないでしょうけど、3ヶ月だけ他の新聞に替えるだけで、その商品券が手に入ると思えば、そうする主婦はいると思うわ」
現在、多くの販売店で「正常化の流れ」とかでサービス品に商品券が使えなくなっているため、結構効果のある方法と言えるかも知れない。
「そうすれば、例え千円でも利益が出るし、少なくても赤字にはならないで済むわ」
実際、アイはその昔、それと似た方法でカード(契約)を量産したことがあった。もっとも、アイの場合は自腹など切らずに、すべて販売店の負担でしていたことだったが。
「それも、そのサイトに書いてあったんですか?」
「そうよ。どこだったか忘れたけど……」
そんなことは、サイトのどこにも書いていない。アイとしては、とっさにそう言うしかなかった。
アイは、あくまでも「タダにするから取ってくれ」といった勧誘を止めさせるためのやり方の一つとして提案したにすぎん。少しでもゲガが小さくて済むようにとの思いを込めて。
ワシらとしては、そんなことを勧めるつもりは毛頭ないから、当然サイトに記載しているわけがない。
しかし、ワシらのサイトは300ページの書籍に換算して悠に百冊を超える文書量が存在するさかい、アイの言ったことが載っているか、どうかの真偽を確認するのは物理的に難しい、というより調べようとする者すらおらんやろうから、それがウソと分かることはまずないとは思うがな。
「分かったら出直して来なさい」
結局、それでその若い拡張員を追い返した格好になった。
その若い拡張員が、どこまでアイの言うことを真剣に受け止めたのかは分からないが、少なくともチャンスは与えた。警告もした。後は本人次第や。
アイは、その若い拡張員が帰った後、改めてパソコンで『新聞拡張員ゲンさんの嘆き』のページを見て、自身が拡張していた頃の昔を懐かしく思い出していた。
アイが拡張をやり始めたのは、もう20年近くも前のことになる。アイの意識は、その頃に飛んでいた。
滋賀県大津市にファミリー・レストラン「ロイヤル・ホスト」浜大津店がある。店の前には大津草津線と呼ばれる県道18号線が東西に走っている。
店からは広大な琵琶湖が見える。日本最大の淡水瑚で外周が241キロメートルもある。
車で1周すると交通事情にもよるが7、8時間はかかると言われている。かかる時間だけなら大阪から東京間に匹敵する。
もっとも、実際に車で琵琶湖を1周したというアホな話は聞かんから、その真偽のほどは定かではないがな。
琵琶湖は滋賀県の面積の半分近くを占めていると思っている人が多い。地図の上では、そう見える。
しかし、滋賀県全体に占める琵琶湖の面積比率は17%ほどで約6分の1程度にすぎない。それにしても巨大な湖であることには変わらないがな。
午後1時過ぎ。
その日、アイたちの班の5名は入店手続きを済ませ、昼食を兼ねた作戦会議のため、そのファミリー・レストラン「ロイヤル・ホスト」浜大津店にやって来た。
ここのバンク(新聞販売店の営業エリア)に入ると必ず立ち寄る店や。
1階の駐車場に車を停め、2階に上がり、北側の琵琶湖が一望できる窓際の席に陣取った。指定席である。
平日のこの時間帯は比較的空いている。周りに客はいない。後から来た客も他に空いている席があれば、敢えて近くに座ろうとはしない。
アイ以外は、柄の悪い胡散臭そうな連中にしか見えんさかい、無理もないがな。
しかし、アイには優しい「お兄様」、「おじ様」たちやった。侠気(おとこぎ)に溢れた男たちで、いつも守ってくれていた。気の良い愛すべき人たちである。
アイは団のアイドル的存在やった。まだ20歳という若さもあるが、アイドル・タレント顔負けの愛くるしい容姿の女の子やったから、よけいそうなった。
加えて、当時は女性の拡張員自体が珍しいというのもあった。それで得をしたことも多い。
アイを可愛がったのは団員たちだけではなく入店先の販売店の人間も、それは同じやった。
アイが入店することが分かると、その店の店主や店長が優先的に美味しい客を回してくれた。
ご丁寧にそのリストまで作って。アイ専用の地図というのまであって、ほぼ確実と思われる客の家に赤丸で印を入れているのである。
そんなところは、たいてい男性客が多く、アイが行くだけで目尻を下げ、話をよく聞いてくれた。簡単にカード(契約)になることが多かった。それだけで1日、5、6万円程度稼げることはザラにあった。
それらの販売店がそうするには、そうするだけの理由があった。
アイが来ることで、そのバンク内が一気に華やぎ、客からの評判も高まるからだ。あの販売店には美人の勧誘員がいると。
男性客は言うに及ばず、女性客でも安心して話が聞けると言われることが多いというのが、それを証明していた。
単に店の宣伝効果を考えただけでもアイに対して、そうするくらいのことは、むしろ安上がりだった。
もっとも、販売店の店主たちが鼻の下を伸ばしてという側面も否定はできんがな。
当然のように、アイに入店して欲しいと願う販売店は多かった。そのためアイに気持ちよく仕事をして数多く入店して貰うために、こぞって競争していたのである。
サービスのしすぎがあってもアイに限っては少々のことは大目に見て貰えたし、他の拡張員には出し渋る映画の無料チケットを多めに持たせてくれたことも度々あった。
アイは短期間のうちに団でトップクラスの成績を上げるようになった。
最初は、そういった幸運に助けられた面もあったが、徐々に本当の意味での実力が備わるようになっていった。
人は成功体験があればあるほど自信をつける。その自信がさらなる好結果を呼び込むのである。
できると目される拡張員が口を揃えて「客と会って話さえできれば落とす自信がある」とよく言うが、そういう心境になると本当に、そうなるのである。
思い込みの強さというやつや。人は思い込むことで、とんでもない力を発揮する。アイが、そうやった。
気がつけばアイは、その界隈では「凄腕の美人拡張員」として有名な存在になっていた。アイが叩いた後にはペンペン草も生えないと言われるほどやった。
ペンペン草は三味線のバチに似た葉を持つアブラナ科ナズナ属の越年草で、日本中、至るところに生えている雑草や。
そのペンペン草すら生えないほどの不毛な地になったという意味で、使われている慣用句である。
味方にすれば頼もしいが、ライバル他紙の拡張員にすれば、これほど目障りな存在もない。
当然のように潰しにかかる者もいた。あらゆる手を使って。
最初は正面きっての脅しやった。
ライバル紙の拡張団にゴンダという元ヤクザとの触れ込みの拡張員がいた。外見も如何にも、ヤクザに見える男やった。出で立ちもワザとそうしているようにしか見えない。
アイが叩いている最中、そのゴンダが声をかけてきた。
「お姉ちゃんが○○団のアイちゃんか?」
「そうですけど」
「ここらで、あんまり調子に乗ったらあかんで」
ゴンダがドスの効いた声で、そう言って脅してきた。
「どういう意味です?」
アイは、そのゴンダの顔を正面から見据えて、そう返した。
言いがかりをつけているのは分かっている。おそらく、ちょっと脅せば泣いて逃げるとでも思っているのだろう。
バカにするな。アイは女だということで舐められたと思い、怖さより腹立たしさの方が先に立っていた。
「調子に乗っていたら痛い目に遭うかも知れんて言うてんのや」
「暴力でも振るおうと言うの? やれるもんなら、やってみなさいよ」
「何やて?」
ゴンダはアイの意外な反撃に戸惑った。男でもゴンダにここまで正面切って言い返した者はいない。
もっとも、言い返せそうもない気弱な相手しか脅していなかったのやろうがな。
この手の輩は自分より強そうな人間には何も言わない。弱そうな人間だけを狙う。
「あなたに、そうする根性があるのならね」
アイはゴンダの目を睨みつけた。本当に襲われたら勝ち目はない。しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。アイにも意地がある。
「私も団の名前を背負って拡張している」という思いが強かった。
ゴンダがアイの迫力に怯んだ。
アイはすかさず「もう、あっちに行きなさい。こんなことをしてると戦争になるわよ。あんたにその覚悟があるの!!」と一喝した。
旗色が悪いと思ったのか、ゴンダは「これで済んだと思うなよ」というチンピラ定番の捨て台詞を残して、その場を立ち去った。
その時の思いをアイはメールで、
そんな時は絶対弱気にならず引きません。それがコツなんです。
すると私が強気なのをみて、きっと凄いバックがいるに違いないと勝手に想像して逃げます。
本当です。気の弱い人が凄みます。
と、ワシらに知らせてきた。
凄い女性や。理屈で分かっていても実戦でなかなか、そんな対応のできる者は少ない。例え男であってもや。
ヤクザは脅せると思うからこそ、脅すわけで、脅せない相手にはどうすることもできんのが実情である。
怖がる方は暴力に怯えるが、ヤクザはヤクザで一々暴力に訴えるようなバカな真似はしない。やるぞ、やるぞと見せかけるだけや。それでないと脅しにはならない。
実際に手を出せば傷害罪で逮捕されるリスクを背負うことになるしな。
せやから、アイのように毅然と対峙すれば、たいていの輩なら退けることができる。
ただ、中には理屈の通用せんバカもおって何をしでかすか分からんから、素人さんは真似をせん方がええと言うとく。
身の安全を計るのなら、やはり相手をせず逃げるのが一番やさかいな。
この件が業界内に知れ渡り、アイは一躍名を売った。凄い女の拡張員がいると。
ただ、ゴンダのような輩は正面から攻めてもあかんとなったら、とんでもないことを裏で画策するから始末に悪い。
ある時、アイはいつものように住宅街を叩いていた。
すると、一人の女性が物凄い剣幕で「この泥棒猫が」と言いながら近寄って来て、いきなり掴みかかってきたことがあった。
アイは訳が分からず防戦一方やったが、何とかその女性を落ち着かせ、その理由を尋ねた。女性は近所の主婦やった。
前日に、その主婦が留守の時に、その旦那とアイが浮気をしていたと思い込んでいるということが分かった。
もちろん、そんな事実はない。
確かに、昨日その主婦の家に勧誘に行った。その時には旦那しかいなかった。
いつものように「新聞屋です。この地区の担当になりましたので、みなさんに粗品を配ってます」と言うと、簡単に玄関の中に入れてくれた。
特段、珍しいことやない。アイにはよくあることやった。
その旦那はアイが美人ということもあってか目尻を下げっぱなしで話を聞いてくれた。
結局、その旦那はライバル他紙の長期購読者やったが、簡単にアイの勧誘する新聞に鞍替えした。
アイにとっては、これも日常のことである。
その直後にライバル他紙が留め押し(継続依頼)に行ったところ、その旦那に「他の新聞と契約したから、お前のところの新聞は、もういらん」と言われ追い返されたという。
翌日、その販売店に入店したゴンダは、長期購読者の旦那を落としたのがアイだと知り、以前の復讐も兼ねて一計を案じた。
その主婦の家に行き、アイが夫を色仕掛けでたらし込み、長期で読んでいた新聞を替えさせたのだと吹き込んだ。
夫は、その新聞が好きで今まで心変わりをすることなど一度もなかった。他紙を購読したことなどない。
過去に主婦が「新聞を替えると得をするから替えたい」と言っただけで猛烈に反対して怒ったことがあった。
そのため「他紙の若い女の拡張員が、ご主人に色仕掛けで迫ったからこそ新聞を替えたのですよ」と言うゴンダの言葉を、その主婦は信じた。
夫が浮気をしたから新聞を替えたのだと、その主婦は思い込んだのである。
そして、ゴンダがアイの居場所を教えたため件(くだん)の騒動になった。
主婦の誤解はすぐに解けた。何もないのだから当たり前である。
その旦那が新聞を替えたのは、若くて美人のアイに惹かれたことも多少影響していたが、それは話を聞く取っ掛かりになった程度に過ぎなかった。
決め手は他にあった。話が進むうちにアイの勧める新聞の方が、今まで購読していた新聞より数段サービスが良いと旦那が知ったことが大きな理由やった。
こういうのはありがちなことで、長期購読者というのは総じてあまり良いサービスを受けていない。
それに不満を持たせられるか、気づかせることができれば意外と簡単に翻意させることができる。
それができないのは、長期購読者の多くが拡張員の話に耳を傾けず、門前払いをすることが多いからやと思う。
今回のアイのケースは話をじっくり聞いて貰うことができたさかい上手くいったわけや。
その主婦の誤解が解けたのはええが、収まらんのはアイやった。身体と引き換えに契約を取ったと思われただけで腹が立つ。我慢できない。
直接、脅しをかけるてくるのなら、まだマシや。脅す方にもリスクを伴うさかいな。
しかし、陰に隠れて、こそこそとありもしないことをあるように吹聴するのは許せない。やり方があまりにも汚い。
こういうのをほっとくと必ず噂になる。噂になってから打ち消しても遅い。噂というのは、尾鰭がついて勝手に一人歩きするからだ。
そうならないためには、噂のもとであるゴンダを早期に叩くしかない。叩いて謝罪させる。
それは、団長や団員たちも同じ思いやった。団長は、相手の団長に掛け合った。ゴンダに謝罪させろと。さもないと戦争も辞さないぞと。
結局、ゴンダは怖くなったのか、その団から飛んだ(逃げた)。
そのことがあってから、アイへのガードが堅くなった。必ず仲間が、その近くに張り付き一人にすることはなかった。
それくらい団の仲間は皆、アイのことを思ってくれていたのである。
それは、今日の作戦会議にも表れていた。
「姫、今日は店から、どこの地図を貰った?」と、班長のカタヤマが訊く。
「皇子が丘団地と大津京駅周辺ですけど」と、アイ。
「そうか、あの辺が得意なのは、クロダとアカイシやったな。お前ら二人で姫のガードも兼ねてくれ」
クロダとアカイシという体格の良い男たちが、それぞれ「はい」、「了解」と応えて肯いた。
ただ、クロダが「その前に一件片付けなあかん事がありますんで、それが終わってから合流しますさかい」と言った。
クロダの先に片付けたい事というのは、契約した客が新聞代を払わないため、景品として渡した洗濯機の引き上げに行かなあかんからやった。
当時の滋賀県では半年契約で洗剤セット、ビール、トースターなど。1年契約なら掃除機やアイロン、炊飯器、布団乾燥機などが景品としてよく使われていた。
それらの景品は、ライバル他紙の動向次第でその都度、変わる。最盛期にはテレビやクーラー、ステレオというのまであったという。
今ならパンフレットを持参して、その中から客に景品である商品を選ばせるのが主流やが、その当時は拡張員が各自で簡易的に景品の写真を持ち歩いていて、そこから客に選ばせていた。
アイは、クロダの話を聞いて景品に洗濯機を使うのは止めた。面倒だからだ。
他にも思い出せばキリがないくらいいろいろなことがあった。
アイは拡張の仕事で相当稼げたし、おもしろかったから結局、結婚するまで十数年もの長くに渡り続けた。
店主以下、ほぼ全員が本物のヤクザやったとか、とんでもない方法で「てんぷら(架空契約)」をした拡張員、電車に乗って電車賃を払わないキセル常習犯の拡張員たちの話などいろいろな出来事が、アイの脳裏に甦ってくる。
拡張した地域も滋賀県だけでも彦根や野洲、草津などいろいろある。関西一円は殆ど廻った。最も遠い所になると福井県というのもあったという。
それぞれでおもしろいエピソードがあるとのことや。
アイは、それらを思い出す度にメールでワシらに送ってくれるというので、今後もシリーズ化していこうと思う。
参考ページ
注1.第334回 ゲンさんの新聞業界裏話 ■ネット上に拡がるA新聞の無料配布問題について
http://www3.ocn.ne.jp/~siratuka/newpage19-334.html
注2.NO.1304 Y新聞も無料配布をしています
http://www3.ocn.ne.jp/~siratuka/newpage10-1304.html
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