メールマガジン・ゲンさんの新聞業界裏話・バックナンバー
第46回 ゲンさんの新聞業界裏話
発行日 2009. 4.24
■新聞販売店物語 その1 集金持ち逃げ男の末路
「そこを何とか助けると思ってお願いしますよ」
ユウイチは、店主のオイカワに必死にそう訴えかけた。
「もう、今月だけでも20万の貸しや。先月の残金が5万残っとるから、合わせて25万あるんやで。これ以上は無理やな」
オイカワが「無理やな」と言うのは、専業のユウイチの手取りの給料は25万円ほどで、全額を返済に充てたとしてもトントンになるから、これ以上の借金はさせられんという意味や。
オイカワは、新聞販売店の経営者になって10年になる。
過去、信頼していた従業員に金を貸した挙げ句、飛ばれた(逃げられた)という苦い経験があった。
いずれは店長に据えるつもりの男やったという。
それもあって、その男にはあまりうるさく言うこともなかったのやが、いつしかその借金が50万円を越すまでになっていた。
それでも、オイカワは「毎月少しずつ返済すればええから」と、温情を見せた。
ただ、それまでは言われるままに借金させていたのやが、さすがにそれ以上はできんと難色を見せ、「取り敢えず、借金を半分に減らすまで辛抱しろ」と言うて金を貸すのを制限した。
「そうなってから、また考えてやる」と。
すると、その翌日、その男は集金した金、30万円ほどを持って逃げた。
一応、警察に被害届けは出したが、その程度では本腰を入れて捜査し、追いかけてまで逮捕するようなことは、ほとんど期待できん。
しかも、このとき、オイカワは借金の50万円の方が気になって、そのことばかりを重点的に話していたから、よけいそうなってしもうた。
借金のトラブルは、あくまでも民事事件で、民事には警察は関与したがらない。
借金のことを持ち出さず、集金した金を持ち逃げしたことによる業務横領だけを強調しての告訴なら、警察署によれば動くということも考えられたがな。
もっとも、例え、詐欺罪や業務横領罪でその人間を捕まえたとしても、「返すつもりやった」と言い張れば、単に民事上の債務不履行ということにしかならんケースもある。
民事不介入の原則のある警察からすれば、間尺(ましゃく)に合わん事件やとなる。苦労のしがいがない。
案の定、その男の行方も、結局そのまま分からず終いやったさかいな。
その苦い経験が、人情味の厚いオイカワを頑(かたく)なにしていた。
従業員に金を貸すのは、ほどほどにしておこうと。
加えて、このときには、ユウイチが信用ならん男やということを、うすうす感じ始めていたというのもあった。
ユウイチは、2ヶ月前に新聞に入れていた自前の求人募集の折り込みチラシを見て応募してきた。
夫婦二人でアパート住まいしとる30歳の男やという。
業界で仕事した経験はないとのことやが、人手不足ということもあり、即日、雇うことにした。
ユウイチは、素人なりに頑張って仕事していた。真面目そうな男やった。
オイカワにはそう見えた。
正しくは「見せかけていた」と、今になってみればそう思うが、そのときには、それを見破ることはできんかった。
2週間をすぎた頃、休みの日にユウイチが所有している自家用車で「おカマを掘って(追突事故)しまったんですけど、相手の車の修理費、10万円が払えなくて困っているんです。申し訳ありませんが、給料から全額差し引いて貰っても構いませんので、貸してくれませんか」と言うてきた。
オイカワは、そのときには、それほど疑いもせず、「そうか」と言って、その10万円を貸した。
すると、また一週間後、「すんません、うちの家内が急に腹痛で昨日病院に連れていったんですけど、国民健康保険料を滞納していて、その支払いをしないと保険が使えず、この後の治療が困るんです」と言うて、その支払いにと、さらに10万円貸してくれと言うてきた。
オイカワの店は、名目だけは株式会社やが、社会保険には加入してなかった。
この業界には、昔から、病気とケガは自分持ちという考えが根強くある。
オイカワもそう教えられてやってきたということもあり、保険は従業員個人でかけるものと考えていた。
このときも、オイカワは、「それは大変やな。すぐ、その滞納分を払って奥さんを安心させてやりや」と言って、何の疑いもなく、その10万円を貸した。
この業界には、切羽詰まった事情を持って飛び込んでくる人間が多い。
それを一々、詮索する経営者は少ない。また、それをしてたんでは人は集まらんと考える。
オイカワもそうやった。そのときには、そういうこともあると信じた。
新聞販売店の仕事は一般に比べて、かなり過酷な仕事や。
その拘束時間が長いということもあるが、深夜2時頃の起床と睡眠時間を一度に取ることができんというのが慣れてない者にとっては辛い。
休みも、名目として週に1回はあるものの、ときとして、それがなくなることも往々にしてある。
アルバイトの配達員が何らかの理由で一人でも休めば、たちまちその穴埋めに駆り出される。
それが、それほど珍しいことでもない。
安心して休めるのは、月1の朝刊休刊日か、正月2日の朝刊休刊日くらいなものや。
しかも、悪天候や自然災害が発生してですら、配達を中止するという発想が新聞販売店にはない。
何とかその配達を全うしようと無理をして、それで亡くなられる方がいとる。
加えて、早朝は交通法規など守って走る車両の方が珍しく、信号無視やスピード違反車が当たり前のように往来を行き交う。
その中での新聞配達は、当然のように事故に遭う確率が他の仕事より数段高くなる。
そんな過酷で危険な仕事を続けられるというのは、従業員各自にそれなりの覚悟と事情があるからこそとも言える。
大した事情、思いのない者は、その過酷さに耐え切れず辞めるケースが多い。
それが、いつの時代にも慢性的な人手不足に悩まされている業界の大きな課題でもある。
もっとも、中には性格的に仕事に打ち込める者や慣れによりそれが苦にならんという人間も皆無やないが、比率にすれば少ない。
せやからこそ、新聞販売店の経営者からすれば、頑張って仕事をする従業員はよけいに大事にしたいと考えるわけや。
それがために、頼まれるとついつい借金をさせてしまう。その温情が徒(あだ)となって逃げられる。
その愚を繰り返さんために、借金させるのを制限してたのやが、奥さんのためというのを、非情に徹して「前に借金させているから今回は無理や」とは、オイカワには言えなんだ。
これが、他の理由なら、まだ入社1ヶ月めということもあり、そう言うてたかも知れんがな。
むしろ、その気持ちがあるということで、よけいにそのユウイチを信用したのやと、オイカワは言う。
結局、手取りの給料25万円のうち、その借金分20万円を差し引くと5万円しか残らず、それでは生活もままならんやろうと考え、その給料日にオイカワは、余分に5万円貸し付けるということにした。
ユウイチも、そのオイカワの心遣いに感謝していた。少なくとも、オイカワにはそう見えた。
それがあったため、借金の申込みに冒頭の「先月の残金が5万残っとる」と言うたわけや。
それに、そのときには、すでにユウイチの言うてた理由に疑念を抱き始めていたというのもあった。
その給料日の翌朝、深夜の午前2時頃。
ユウイチは、紙受け(新聞搬入)の時間になっても出て来ず、携帯電話にも応答がなかったので、オイカワは店から近いということもあり、直接、呼びに行った。
そのアパートの自室前の駐車場にユウイチの自家用車が停まっていた。
「これでカマを掘ったのか」と、その車の前部を何気なく見た。
外灯で明るく照らし出されたバンパーには、それらしい凹みが見当たらん。
追突して、相手が10万円の修理費を要求するくらいやから、ユウイチの車の方にもそれ相応のキズがなかったらあかんはずやが、それらしき形跡がない。
あれほど、金に困っていると言うてたから修理したとは考えにくい。
嘘やったのか。
そのとき、オイカワは初めて、ユウイチに対して疑念を抱いたという。
その直後、折しも他の専業たちの他愛もない会話の中で、ユウイチが頻繁にパチンコ店に出入りしているようやというのを知った。
それ自体は良くあることで、仕事に支障がない限りは個人の趣味やと考え、大目に見ていた。
しかし、一度疑念を抱き始めると、それすら穿った見方になってしまう。
金に困っとるのは、そういうことやないのかと。
それから4日後。
またもや、ユウイチから「今日中に家賃を払わないと出て行かないといけなくなる」からという理由で、家賃分6万円プラス賃貸契約の更新料2万円の合わせて8万円を貸してほしいという申し入れがあった。
それまで、何度か家賃の滞納があったのやが、今月は更新月ということもあって、待ってくれとは言えんのやという。
家主から「今日中に払えんのなら、即刻、出ていって貰う」と、最後通告をつきつけられたと。
「そんな無茶な話はないはずや。次の給料日まで待って貰え」と、オイカワ。
オイカワ自身、社員寮として3室ほどアパートを借りとるから、多少なりとも賃貸契約のことに関しては知っとるつもりやが、そんな話は聞いたことがない。
今までやったら、その話も信じていたかも知れんが、今のオイカワには、とてもそれができんかった。
とにかく、何を言われようと、前借りは、その働いた分までが限度やと決めていた。
冒頭のやりとりが、それや。
「何なら、オレがその家主に待って貰えるように掛け合ってやろうか」
勤め先の社長の言う話なら、たいていの家主はその程度は待つはずやと。
「いえ、それでしたら僕がもう一度、家主さんに頼んでみますので」と、力なくユウイチが、そう言った。
それで、その場は終わった。
「やはり、ええ加減な話やったな」と、オイカワはさらに意を強くした。
それが、本当なら「ぜひお願いします」と言うのが普通やさかいな。
その後、ユウイチはあきらめたのか、二度と借金の話はせんかったという。
月末の29日の午後9時過ぎ。
ユウイチから店に待機していたオイカワに電話がかかってきた。
「ユウイチか、集金の進み具合はどうや?」
新聞販売店の多くは、月末の25日から月初めの5日頃にかけて集金に回る。
集金は主に専業員の仕事で、販売店により専門の集金人を雇っているケースもある。
オイカワの店では、5人の専業員をそれぞれ区域担当者にして、それを振り分けていた。一人の受け持ちが250人前後になる。
月末の25日から集金を始めるのは、単に一般サラリーマンの給料日で集金しやすいというだけのことで、それ以外に大した理由はない。
それに合わせて、たいていの販売店では月末の30日に新聞社に対して、仕入れ代金の納付を義務づけられとる。
また、給料の支払いやガソリン代など諸々の経費の支払いもその日に設定しとる店が多い。
最低限度、その代金分の集金は、それまでの5日間で確保しとく必要がある。
そのため、30日までに受け持ち区域の集金が80パーセントを超えると、報奨金の出る所が多い。
逆に、集金率が極端に悪い者へは、そのペルナルティとして罰金を科す販売店もあるという。
オイカワの店もそうしていた。
そのため、多くの新聞販売店の集金担当者にとっては、十分な睡眠も取れんほどの過酷な時期ということになる。
特に、通常の販売店の就業終了時間とされている午後8時頃までに独身者と会える確率は極端に低いから、その集金率を上げようとすれば、勢い夜遅くまでその帰りを待って訪問するしかない。
その時間が遅ければ遅いほど就寝時間も短くなるということや。
集金業務に関することは、旧メルマガ『第189回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■新聞販売店員奮闘記 その1 集金秘話』や『第195回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■店長はつらいよ Part4 恋と集金……そして、店舗荒らし』に詳しく描写しとるから、それを見て貰うたら分かると思う。
半端やないということが。
「何や、えらいにぎやかなところから電話しとんな。そこは、パチンコ屋か?」
「ええ、じ、実は、た、大変なことに……」
ユウイチの声が震えていた。
「どうしたんや? 何かあったんか?」
「し、集金をカバンごと、盗まれてしまいました……」
「何やて? カバンを盗まれたぁ?」
「ええ……」
「一体、どういうことや?」
「実は……」
集金の最中、ユウイチは急に猛烈な腹痛を伴う便意をもよおしたという。
トイレを探そうとして、いつも出入りしているパチンコ店が近所にあったのを思い出し、その店のトイレに飛び込んだ。
用を足して、表に停めてあったバイクまで戻ったときに、集金カバンをトイレ内に置き忘れたのを思い出し、急いで戻ったが、そのときにはすでに、その集金カバンは消えていた。
その間、僅か2、3分のことやという。
その短い時間の間に誰かが、ユウイチの入ったトイレの個室に入り、そのカバンを見つけて持ち逃げした。
そういう説明やった。
嘘かも知れん。咄嗟にその思いが頭を過(よ)ぎった。
「今すぐ、警察に通報しろ!!」と、オイカワはユウイチに命じて、そのパチンコ店に向かった。
嘘なら、すぐ分かる。
また、それが本当やとしても、業務中のことなら店でかけとる盗難保険で、ある程度は返ってくるはずや。
そのためにも、警察に通報しとく必要がある。
オイカワが、そのパチンコ店に着いたときには、店の前にはすでにパトカーが停まっていた。
警察官が二人、店内の隅でユウイチに事情聴取していた。
その警察官たちの調べで、どうやら本当に置き引きに遭ったらしいと分かった。
少なくとも、警察官たちは、そう信じたようや。
それは、ユウイチがそのパチンコ店に入ったとき、集金カバンを肩からかけていたのを見ていた二人の目撃者がいたからやった。
一人は、その店のカウンターにいた女店員で、「ユウイチさん、何か苦しそうにおなかを押さえていらして、『トイレを借りる』と仰って、入って行かれました」と、証言した。
ちなみに、その店のトイレは、そのカウンターのすぐ近くにあった。
もう一人は、常連のユウイチとはパチンコ仲間で、いかにも遊び人という感じの男やった。
「ああ、ユウイチの奴となら、便所に入る前にすれ違うたが、そのとき確かにカバンを肩から提(さ)げとったな。何や、仕事中にパチンコか、と言うて、からこうたさかいな」と。
ユウイチは、大便をするため肩からかけていたカバンを外して小さな棚の上に置いた。
それを忘れた。
話としては、一応、筋は通っている。
但し、それは一般の納得する話で、集金の最中、その集金カバンを置き忘れるというのは、業界の人間とすれば信じ難いことではある。
そんなアホな話は聞いたこともないさかいな。
もっとも、ユウイチは、それが初めての集金業務やったということもあり、絶対にないとまでは言えんがな。
ただ、それを証言した二人も、ユウイチがトイレから出て行ったところまでは見てなかったようや。
つまり、出てきたときに、そのカバンを提げていたかどうかは分かってないということになる。
それを疑えば疑える。
しかし、ユウイチが「カバンを盗られた」と騒ぎ出したのは、トイレに入って10分後くらいやったと分かったから、警察官も信用して、置き引き事案として処理することになったという。
これには、オイカワも、一応、本当に盗られたものと認めんわけにはいかんかった。
それに、ユウイチが怪しいと警察に言うたところで、その証拠がないと話がややこしくなるだけで、ヘタしたら盗難保険も使えんようになるという思いが働いたというのもある。
心証としては、限りなくクロに近いグレーやが、ここはユウイチを信用しとく方が得策やと考えた。
その後、オイカワとユウイチは警察署に行き簡単な事情聴取を受け、被害届けを出した。
但し、その確かな被害金額は、帰って帳簿と付き合わせてからでないと分からんから、分かり次第すぐに知らせるということで、その警察署を後にした。
ユウイチの話やと、約150軒分、60万円ほどやという。
「これは、お前の不注意やさかい、その責任は取って貰うで」
「責任?」
「その損害分は弁償して貰うということや。もちろん、いっぺんには無理やろうから、給料から毎月、ナンボかずつでも返してくれたらええがな」
「そんな……、でも、それは会社の盗難保険で返ってくるんでしょ」
「いや、それはまだ分からん。もし、返ってきたら、そのときに免除する分も考えてやるさかい」
このとき、オイカワは暗に、その不注意に対するペナルティとしての罰金を科すつもりやと仄(ほの)めかしたことになる。
従業員の明らかな不注意で会社に損害を与えた場合、相応の範囲内において経営者が罰金を科す行為は法律でも許されている。
もっとも、このケースは第三者による犯罪絡みという側面があるから、そうするには微妙なところがあるがな。
ただ、このときのオイカワは、他の者への示しのためにも、そうするべきやと考えたわけや。
「そうすると、明日の給料は?」
「一度全額、給料を差し引いて、総額の借金顎を出してから、月々いくらずつ返済したらええかを決める。それでええやろ?」
「ええ、分かりました……」
渋々という感じやが、それで一応、ユウイチは納得したようやった。
取り敢えず、保険金が出るまでの暫定処置として、その被害金額60万円プラス今までの貸付金25万円を合わせて85万円。そこから、今月分だけ10万円を差し引き、残り75万円を貸付金の総額とする。
ユウイチの希望を取り入れ来月分の給料から毎月3万円ずつを返済する。保険金が出たらその90パーセントは、その段階で免除する。10パーセントは罰金とする。
それらの返済が終わるまで新たな貸し付けは一切しない。
そう記した「覚え書き」を作った。
翌日、ユウイチの集金カバンが派出所に届けられたと連絡が入った。
それを届けた人の話によると、そのカバンは公園のベンチに無造作に置かれていたという。
案の定、その中の金はすべて抜き取られていた。
但し、証券(請求書兼領収書)は残っていた。
それで、ユウイチが集金したのは、申告に近い152軒分というのが分かった。
予想通り、約60万円分の損害やった。
ユウイチは、気を取り直したように、その残りの証券を持って集金を再開した。
それがすべて終わったと、翌月の6日にユウイチからオイカワの携帯に連絡が入った。
その集金総額は、残りの約100軒分、30万円弱ほどになる。
「今日は折り入って社長にお尋ねしたいことがあるんですが」と、そう切り出したユウイチの口調が、いつもと違っていた。
どこか詰問調になっていて、しかも落ち着き払っている感じがしたことに不穏なものを察知したオイカワは、思わず「何や?」と気色ばんで聞き返した。
「社長は労働基準法を知っていますか? 本人の同意なく給料から賠償金を引くことは禁じられています。労働の対価として先に給料を支払うのが経営者としての義務で、それを天引きで全額差し引く行為は労働基準法で禁じられているんですよ」
矢継ぎ早に、そうまくし立てた。
「どういうことや? 何が言いたいねん!!」
ユウイチの物言いに、オイカワも気分を害し、声を荒げた。
「つまり、社長がしたことは労働基準法違反になりますので、給料の全額支払いを要求するということです」
ユウイチに怯む様子はない。こういうことは慣れている。そんな感じやった。
「今更、何を眠たいこと言うてんねん。お前も納得したことやないか。それに天引きと言うてるけど、まだその天引きなんかしてへんで」
「いえ、納得なんかしていません。強要されて仕方なく応じたまでです。それに今月分の給料として15万円しか貰ってないのが、それに当たります」
「分かった。電話でぐだぐた言うててもラチがあかんさかい、とにかく一度、集金だけは持って帰って来い。それから、ゆっくり落ち着いて話し合おう。悪いようにはせんから」
「そうは行きません。僕もバカじゃないですから、保険で返ってくると分かっている損害分の負担なんかすることはできませんので、先月の給料の足らず分を先に支払うと約束して、賠償金のことは撤回してください」
「それはできん相談や」
「それでしたら、これから労働基準監督署に行って訴え出るしかありません。このことは新聞社にも通報するつもりですので、覚悟しておいてください。それと、集金した分は、この話が済むまで僕の給料分の預かりとさせて貰いますから」
ユウイチは、それだけを言うと、一方的に電話を切った。
オイカワは、何度もリダイヤルでかけ直したが、その後、ユウイチが電話に出ることはなかった。
その後、すぐユウイチのアパートにも行ったが、会えず終いやった。
労働基準監督署……。オイカワは少なからず不安を覚えた。
大丈夫やろかと。
「そういうわけなんやが、ゲンさんはどう思う?」
たまたま、その日、その販売店に入店したワシに、オイカワがそう言うてきた。
以前、何度か、客とのトラブルを解決したことがあって、オイカワはワシをそのエキスパートやと思い込んどるようや。
もっとも、前職で建築屋のトラブル処理を日常的にやってた経験があると伝えてたから、よけいそう思うたわけやがな。
「そのユウイチとかいう専業の言うとおり、労働基準法で本人の同意なく給料から賠償金を全額引く行為は禁じられとる。給料は給料、借金は借金として別けて考えなあかんのが法律やというのは確かや」
オイカワが示した「覚え書き」には、一旦、給料を全額差し引いて、その借金顎を決めたとある。
加えて、警察で盗難として処理された損害分を弁償として、その従業員に請求するのも、労働法で禁じられとる行為になる。
しかも、9分9厘保険で補われると分かってそうするのは、労働行為のペナルティとしての罰金がいくら認められとると言うても、金額的に度が過ぎとると判断される可能性の方が高い。
この場合の、オイカワの正しい対処は、給料は給料として一旦、その全額を支払い、それから、その場でユウイチの意志で借金の返済をさせるという形にするべきやった。
天引きの上限は20パーセントまでと決められとるから、今月分の10万円差し引いたというのはそれに引っかかるおそれがある。
しかも、その天引きをするにも事前の通告が必要になる。
後の毎月3万円ずつというのは問題ないやろうが、いずれにしても、その「覚え書き」を残しとるのは法的な争いにでもなったら確実に立場が弱くなる。
「どうすれば?」
「まず、そのユウイチという専業に、その『覚え書き』を一旦、破棄すると伝えることやな」
盗難の被害金については不問にし、純粋に借金の返済だけを求める。
天引きするにしても、労働法で認められた範囲内の給料の20パーセントまでなら問題はないから、改めてそう取り決めることや。
もちろん、その場合も、相手側にはちゃんと了承して貰うとく必要がある。
「分かりました。そうします」
そこへ、タイミングよくと言うべきなのか、○○労働基準局の係官と名乗る男から電話が入った。
「今、お宅の従業員のユウイチという方が来られているのですが、不当に解雇された上、給料を一切支払ってくれないと訴えられていますが、事実ですか?」
「何やて? そんなアホな!! 解雇やなんて、そんな話はしてませんで」
「そうですか。ユウイチさんのお話ですと、今日、いきなり解雇を言われたとかで、相談に見えられてますけど、解雇をした覚えはないと仰るわけですね」
「そうです。そんな話は一切していません」
「そうですか。ちょっとお待ちください」
その係官と、側にいるユウイチとの間で何やら小声で一言、二言会話が交わされていた。
しばらくして、「お待たせしました。どうも、訴えの内容がもう一つはっきりしませんので、申し訳ありませんが、社長さんのご意見をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「いいですよ」
そう言うと、オイカワは一連の流れをその係官に細かく伝えた。
「その『覚え書き』については、こちらとしては破棄しようと思っています。損害分もなしでいいから、とにかく集金を持って今すぐ帰ってきてほしいと、そこにいるユウイチに伝えて貰えませんか」
「分かりました。しばらくお待ちください。後ほど、こちらから、お電話致しますので」
労働基準局へ駆け込んで訴えれば、その主張がすべて認められると考える労働者がいとるようやが、それはない。
実際には、今回の係官のように双方の言い分を公平に聞こうとする場合の方が多い。
片方の一方的な訴えだけで動くことはまずないということや。
これは、消費者センターなどの相談にも同じことが言える。
ワシらのやっているQ&Aでもそうやが、相談者の言うことが100パーセント正しいとは限らんさかいな。
誰でも自分の都合のええ話しかせんもんやというのが、根底にある。
それを頭に入れておいて、おかしなこと、間違っていることには、はっきりとそう指摘する。
それが相談窓口の担当者の役目であり、仕事でもある。
特に、行政機関でのそれは法律を重視した慎重な対応を求めれるケースが多いから、自然にそうなる。
今回のケースでは、オイカワの嘘偽りない経緯の説明により話の信憑性が高いと思われるやろうということ、「覚え書き」の撤回を指導される前にしたということで、その係官にはかなりの好印象をアピールできたはずや。
しばらくして、再度、その係官から電話がかかってきた。
「どうも、解雇についてはユウイチさんが、そうしたいということのようでした」
「そうなんですか」
まあ、ここまで問題をこじらせたのやから、ハナからそのつもりやったのやろうというのは分かる。
それもあり、「突然、解雇された」と訴えた方が有利になると判断したのやろうと思う。
しかし、それを労働基準局の係官に信用されず裏目に出た。
「まず、先にその集金されたお金を店に返されてから、ユウイチさんには、もう一度、社長さんと良く話をされてはどうですかと言っておきましたので」と、係官。
それと、前借については、「常識として、辞めるなら全額返さないといけないのじゃないですか」とも諭したという。
さらに、「それができないなら、きちんとそれを社長さんに伝えて、その後の返済の話をしてみられたらどうですか。それでも話にならないようなら、もう一度来てください」と伝えたとのことや。
それで、ユウイチは「分かりました」と言うて帰って行ったという。
「それが、一般的な労働基準局の対応やわな」と、ワシ。
給料は給料、借金は借金で別やというのは、法律上ではそのとおりで、別々に処理されなあかんとされていることや。
借金があるからという理由で、その仕事を辞められずに縛られることはないさかいな。
しかし、法律を抜きにすれば、その借金を払ってから辞めるのが筋やと考える人は多い。
実際、この業界の人間の多くは、借金していることで縛られていると感じとるさかいな。
それができずに辞める場合でも、「その後の返済の話をしてみられたらどうですか」というのも、当たり前の話や。
そのユウイチにすれば、集金の金を給料の質に取っとるというつもりなのやろうが、これで、その名目が消えたことになる。
もっとも、その名目があったとしても、集金した金を渡さんというのは法に触れる行為になるがな。
当然やが、ユウイチが集金したという金は会社の金や。
これも、借金の返済を理由に強制的に給料を全額押さえられんというのと同じ理屈で、勝手に集金した金を給料として受け取ることはできんわけや。
それをすれば、立派な業務上横領罪が成立する。逮捕も十分あり得る犯罪になる。
「しばらく待ってみて、店にも来ずに集金した金を返さんようやったら、警察に被害届けを出すか」と、オイカワ。
「どうやろ。それには、持ち逃げしたと確定させてからの方がええと思うで」
このまま、警察に訴えても、ユウイチが「今から持っていくつもりだった」、「集金したのを持っていくのが遅れただけだ」と弁解したら、単なる民事で終わってしまう可能性が高くなる。
訴えるのなら、その確かな証拠がいる。
具体的には、その集金分の返還を内容証明などの証拠に残るもので通告することや。このケースやと1週間程度の期日を決めてというのがええやろうな。
それに従わない場合、警察へ被害届けを出すという手順でええのやないかと思う。
そうすれば、「今から持っていくつもりだった」、「集金したのを持っていくのが遅れただけだ」という弁解は通用せんようになる。
立派に業務上横領罪が成立すると考えられる。
そう、オイカワにアドバイスしたところ、そうするということやった。
実は、サイトへもこれに類似した相談が時折、寄せられることがある。
事が微妙な場合が多いから、サイトのQ&Aには掲載してないが、たいていは同じようにそうアドバイスしとる。
普通は、その内容証明郵便を出せば慌てて、その集金の返還に応じることが多いし、それでほとんどは終わる。
しかし、このオイカワの場合は、その内容証明郵便が不在ということで返ってきた。
状況的には、受け取り拒否したと考えられる。つまり、集金した金を返す意志がないと宣言したに等しい。
そのアパートに今も住んでいるのは間違いない。少なくとも引っ越しした形跡は何もない。
電気メーターもそこそこに回りっぱなしで、部屋の窓はいつも雨戸が閉まったままの状態や。
この雨戸が閉まりっぱなしというのが決定的で、アパートなどが空き室になったら、その雨戸をしたままというのはほとんどない。
特に、その辺りでは、空き室になれば、それとすぐ分かる専用のカーテンをかけ直すのが普通や。
まあ、それ以前に、新聞販売店の人間にその居住の有無の確認ができんということは、まず考えられんけどな。
それ以外にでも、その居住の有無を確かめる方法はいくらもあるさかいな。
ただ、いつ見に行っても駐車場に車が止まっていることはなく、毎日帰っているかどうかの見当はつかんということやった。
オイカワは、取り敢えず、その内容証明郵便と不在通知を持って警察署に行った。
その証拠を持っていったことにより、その警察署では、捕まえる方向で捜査を進めるとオイカワに約束したという。
もっとも、他の事件や捜査との関係でいつになるかは断言できんということやったがな。
ただ、それについて、オイカワには気がかりなことが一つあった。
ユウイチは、労働基準局に行く前に、新聞社にも通報していて、あの後、ワカマツという担当員から「どうなっているんですか」と問い合わせがあった。
オイカワは、正直に事の顛末を告げた。
「それでしたら問題ありませんが、なるべくなら警察沙汰にならない方がいいですね。今ですと、このことが他紙に知られた場合、記事にされかねませんから」と言うてた。
そのときには、オイカワもユウイチが折れてくるやろうと考えていたため、「そんなことにはならないと思いますよ」と答えていた。
しかし、このままやと逮捕され、ワカマツの危惧が現実のものにならんとも限らん。
そうなったら、新聞社に対して申し訳ないという気になる。
オイカワにとって新聞社は本当に有り難い存在や。
今日のオイカワがあるのは、間違いなく新聞社のバックアップのおかげやという思いが強い。恵まれていると。
特に、担当員のワカマツには何かと良くしてくれ貰い、助けてもくれた。感謝しても、し足りない。足を向けて眠れんといつも考えとるほどに。
そのワカマツを窮地に追い込むことにでもなったら辛い。
その思いから、「実は……」と、ワカマツだけには、警察とのやりとりを正直に伝えた。
「そうですか、そういうことなら仕方ありませんね」と、意外にもあっさりとそう言って、取り立てて責めるようなこともなかった。
もっとも、ワカマツというのは、そういう男やったがな。
ワシも、このワカマツことは良く知っとるが、ロクでもないと感じる担当員が多い中で唯一とも言えるほど、人間的にも度量の大きい信用の置ける男やと思うてた。
オイカワは、雇い出して2ヶ月にも満たん者が、こういうことをして、万が一にでも新聞ネタになってしまうことに対して、悔しいというか、やり切れん思いがしてならんかった。
おそらく、新聞記事になれば、「新聞販売店員が集金した金を持ち逃げして逮捕」となるはずや。
その人間の勤続経験やそれまでの経歴などに関係なく、現在、「新聞販売店員」をしてたという事実だけで世間から叩かれることになる。
オイカワ自身は、そんな人間を雇うた責任があると思うとるから、どんな責めも甘んじて受ける覚悟はあるが、この新聞業界に何年も携わって、頑張っている同業者が同じように見られるかも知れんというのは考えるだけでも辛いものがある。
また、公にして、評判を下げてしまうことについても申し訳ないと思う。
オレのやっていることは正しいのか?
そのことを思うとオイカワには自信がなくなる。
あのまま、あきらめといた方が良かったのやないかと考えることすらある。
しかし、集金した金を持ち逃げしたまま、嘘で固めた借金の返済すらしようとせず、あまつさえ、力になろうとしたオイカワを労働基準局に売るような人間は、どうしても許せんという思いの方が強かった。
自分勝手な正義をかざすような人間に屈するのは、いかにも口惜しい。
おそらく、それをしたら、一生の悔いを残す。
オイカワは、悩んだ末、こうすることを選んだ。
それに自身の悔いはないが、他の人間のことを考えると、どうしても気持ちが沈む。
しかし、事態は急転直下、解決した。
そのすべてが杞憂(きゆう)となった。
翌日、ユウイチが逮捕されたと警察から知らせが入った。
えらく早いなという印象やったが、話を良く聞くと、どうやらオイカワの店の集金を持ち逃げした件で捕まったのやないということが分かった。
ユウイチは、オイカワの店に来る1年ほど前に、ある会社の金を使い込み、詐欺罪で訴えられていた。
捕まったのは、その件でやった。
後で知ったのやが、ユウイチは過去に同じような前科が3つほどあったという。
詐欺の常習犯やったわけや。
結局、それだけでは数多い詐欺事件の一つという程度にしかならず、金額も莫大というほどでもなかったから新聞報道されることはなかった。
もっとも、例えその事件が新聞報道されていたとしても、オイカワの店でのことはあくまでも余罪の一つにしかすぎんから、新聞販売店の名前が出ることはほとんどないやろうがな。
本来なら、これにて一件落着、めでたし、めでたしとなるところやが、それをオイカワは素直に喜ぶことができんかった。
それは、今更ながらに人を雇うことの難しさというのを知ったからや。
新聞販売店は、人材がすべてやとオイカワは常に考えている。
今回は、たまたまユウイチのような人間を雇うてしもうたが、現在いとる他の従業員には何の不満もない。
良うやってくれとると感謝しとる。ええスタッフに恵まれたと。
しかし、たった一人の不心得者を雇ったことで、店の命運すら左右しかねんというのを、今回のことで痛感した。
保険などの福利厚生を含め、本気で、従業員のことを考えてみよう。働きやすい店にしよう。
それにより、いい人材が定着すれば、人手不足により誰でもええやから雇うということもなくなるはずや。
そうオイカワは考えた。
確かに、今回のことで金銭的な損失を含め嫌な思いはしたが、そのことがあったおかげで、いろいろと考えることができた。
今回の事件をただの出来事の一つと考えれば、それだけのことにしかならんが、それを収穫と捉えれば、それなりに意義のあるものになる。
ワシが普段から、「悪い出来事が必ずしも悪い結果になるわけやない」と言うとるのは、そういうことやさかいな。
参考ページ
注1.第189回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■新聞販売店員奮闘記 その1 集金秘話
第195回 新聞拡張員ゲンさんの裏話 ■店長はつらいよ Part4 恋と集金……そして、店舗荒らし
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